渋谷重国は、桓武平氏の流れをくむ武蔵きっての大豪族秩父氏の一族です。
この秩父平氏からは、河越、畠山、小山田、稲毛、江戸、葛西、豊島など、
鎌倉幕府の下で活躍する豪族を輩出しています。
『畠山系図』などによると、渋谷重国の祖父基家は、多摩川河口の
武蔵国荏原郡(えばらぐん)を領有し、同郡河崎を拠点として
河崎冠者(六位の無冠の者)とよばれました。
多摩川はかつては暴れ多摩川と称され、度々水害を繰り返していたので、
基家は用水土木事業による堤防や土手を構築するなど
よほど大規模な治水工事を行ったものと考えられています。
その孫の重国は武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘
(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)までを領して渋谷荘司となり、
「相模国の大名の内」と称される威勢を築きました。
佐々木秀義は源為義(頼朝の祖父)の娘を妻とし、平治の乱では義朝方として戦い
平家全盛の時代になってもそれに従わなかったため、相伝の土地である
佐々木荘(現、滋賀県安土町南部一帯)を没収されてしまいました。
仕方なく子供たちを連れて藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる途中、
相模国まで来たところを重国に引き止められ、
勧められるままそこに身を寄せ20年を過ごしました。
秀衡の妻と秀義の母は姉妹で、彼女たちは安倍宗任(むねとう)の娘だったのです。
重国は平治の乱では、源義朝軍に属して戦いましたが、
平家の世になるとそれに従っていました。(『相模武士団』)
平家の郎党であった重国が佐々木父子を自分の手もとに留めたのは、
秀義の勇敢な行動に感心したためといいます。
20年渋谷荘に滞在する間に秀義は重国の娘を娶って五男義清をもうけました。
息子たち(太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱)も逞しく成長し、
渋谷重国など東国の豪族の娘と結婚し、伊豆で流人生活を
送っている頼朝のもとに出入りしていました。
『吾妻鏡』治承4年8月9日条によると、京都から帰国した
大庭景親(かげちか)は佐々木秀義を招いて頼朝討伐の密事を話し、
秀義の息子たちが頼朝の味方にならないよう説得しました。
秀義の息佐々木五郎義清の妻が景親の娘(『源平盛衰記』では妹)だったので、
景親はこの情報を教えたようです。
驚いた秀義はそれを定綱に伝え伊豆の頼朝に知らせました。
都の状況の第一報を受けて頼朝は挙兵を急ぎ、佐々木兄弟は
伊豆国目代山木兼隆攻めの主力となって戦い、緒戦に勝利しました。
頼朝挙兵当時、相模国において最大の勢力をもっていたのは、
平氏権力と結んだ大庭景親でした。平治の乱後、大庭景義は伊豆の頼朝と通じ、
一方弟の景親は坂東八ヵ国一の名馬を献上するなどして
清盛に積極的に接近し、東国の後見を務めます。
景親だけでなく、保元の乱・平治の乱で源義朝に従った
相模国の武士の多くが、平治の乱後は平家に仕えていました。
大庭兄弟の仲たがいの原因は、長男でありながら
嫡子になれなかった平太景義の恨みや所領をめぐる
争いにあったのではないかと推測されています。(『相模武士団』)
頼朝からの誘いが来た時、大庭一族は集まり、大庭三郎景親と俣野(またの)景久が
平家方につき、平太景義(能)・景俊(かげとし)兄弟が源氏に味方し、
勝負は時の運であるから、どちらが勝利しても勝った方が負けた方を助けて
生きのびようと話し合ったという説話が『源平盛衰記』に記載されています。
(巻20・佐殿・大場勢汰への事)
また『同記』には、景親が平家に従属した理由として、昔囚人として捕えられ
斬刑となるところを平家に助けられ、東国の後見として引きたててもらった
恩義があるから平氏に与したと記されていますが、詳細は不明で
事実かどうかもわからないようです。(『鎌倉武士の実像』)
治承4年(1180)8月、山木兼隆を討ちとり相模国に進んだ頼朝軍は、
大庭景親の率いる平家軍に石橋山合戦で惨敗し、箱根山中を逃げまわりました。
合戦後に景親は渋谷重国のもとを訪れ、「佐々木兄弟を探し出すまでの間、
彼らの妻子を罪人として人質にせよ。」と命じました。
「定綱らは旧恩があるので源氏に味方したが、自分は孫の義清を連れて石橋山に
駆けつけ平家方に味方した。その功を考えてほしい。」ときっぱり断りました。
その夜、箱根山中に潜んでいた定綱・盛綱・高綱は
阿野全成(頼朝の異母弟・今若丸)を連れて重国の館へ帰ってきました。
醍醐寺に預けられ僧になっていた全成は、頼朝の挙兵を伝え聞き、
諸国修行の僧を装って都から駆けつけ箱根山で佐々木兄弟と行き会ったという。
重国は喜んで彼らを倉庫に匿ってもてなしました。
経高の姿が見えないので「経高は討死したのか」と重国が尋ねると、
「思うところがあるといって来ませんでした。」と答えます。
「頼朝側に加わるのを止めたことがあるが、その忠告を振り切って
参戦し敗れたので、恥じて帰ってこれないのではないかと思い、心配して
郎従らにあなたたちの行方を探しに行かせていたのだ。」と言うと、
重国の情けに皆々が感じ入ったということです。
箱根山から土肥杉山(湯河原町)に逃げ込み洞窟に潜む頼朝主従
(『源頼朝』山川出版社より転載)
平家の総帥大庭景親にしたがっていた梶原景時(景親のいとこ)は、
戦いに敗れ山中の洞窟に身を隠していた頼朝を知りながら見逃しています。
相模国の豪族中村氏の一族で、土肥郷(現、神奈川県湯河原町 )を
本拠としていた「湯河原駅前の土肥実平館跡 」
頼朝はこの地域の地理に明るい実平に助けられ、
平家軍の追及をかわし安房に向かうことができました。
頼朝が安房へ船出した浜 真鶴岩海岸
石橋山で敗れて箱根山中にひそんでいた頼朝は、土肥実平(さねひら)に導かれ
真鶴岬から海上を安房に逃れました。そこで待っていた三浦一族と合流し、
勢力を拡大しながら破竹の勢いで房総半島を北上し鎌倉をめざしました。
頼朝上陸地鋸南町竜島
石橋山合戦の2ヶ月後、富士川の一戦で戦わずに勝利した頼朝は論功行賞を行い、
大庭景親はじめ降伏してきた平氏方の武士らの処分を決定しました。
大庭景親は藤沢市の南東部を流れる固瀬川(現、片瀬川)
あたりで討たれ、首をさらされましたが、
渋谷重国は罪に問われることはありませんでした。
『源平盛衰記』は、頼朝が景義に景親の斬首を命じたと語っています。
(巻23・頼朝鎌倉入り、勧賞附平家方人罪科の事)
その後、重国は頼朝に臣従して所領を安堵され、
息子の高重と共に御家人となっています。
平治の乱後、奥州に落ちのびる佐々木秀義を引き止めて保護し、
石橋山合戦の際も佐々木兄弟や阿野全成を匿うなど、平氏に仕える身の
重国が一貫して源氏に尽くしたことを頼朝が評価したものと思われます。
石橋山古戦場(1)早川駅から石橋山古戦場を歩く
『参考資料』
関幸彦編「相模武士団」吉川弘文館、2017年
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
湯山学「相模武士(1)鎌倉党」戎光祥出版、2010年
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社、1989年
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館、2007年
石井進「鎌倉武士の実像」平凡社、2002年
高橋典幸「源頼朝」山川出版社、2010年