平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR東海道線北側にある三白山連城寺(れんじょうじ)は、保元3年〈1158〉8月、
遠江(とおとうみ)守に任じられた平重盛の開いた寺です。

磐田市は平安時代、遠江国(現、静岡県西部)の
国府が置かれたところで、政治・文化・経済の中心として栄え、
その中央に位置する見付地区には、古くから京都と
鎌倉・東国を結ぶ東海道の宿場町、見付宿がありました。

また、平安時代後期から太田川下流右岸、現在の
磐田市南東部地域には
伊勢神宮所領の鎌田御厨(みくりや) がおかれ、
伊勢神宮の神官によって管理されていました。
『吾妻鏡』寿永元年(1182)5月16日条によると、
伊勢神宮外宮(げぐう)禰宜(ねぎ)為保が
鎌倉殿の御所に参上して鎌田御厨(現、磐田市鎌田付近)が
遠江国守護の安田義定(よしさだ)によって押領されたと訴えると、
源頼朝はただちに安堵の下文(くだしぶみ)を為保に与えたという。

鎌田政家(正清)の墓がある鎌田地区から連城寺まで
バスでの移動はちょっと不便なので歩きました。
距離は約2㎞、30分ほどです。



三白山連城寺
寺伝によれば、平重盛が遠江守の時に建立したと伝えられています。
墓地には、平清盛と平重盛の供養塔や中泉代官大草太郎左衛門の墓があり、
裏山には4世紀後半に造られた、葺石(ふきいし)を有する
秋葉山古墳(円墳、長軸50m、短軸46m)と葺石・埴輪を有する
稲荷山古墳(前方後円墳、全長46,5m)があります。

秋葉山古墳は、国指定史跡御厨古墳群を構成する古墳の1つです。
南には、明治時代に東海道線の工事で消滅した経塚古墳がありました。
経塚古墳から出土した三角縁四神四獣鏡(さんかくぶちししんしじゅうきょう)は、
県指定有形文化財(考古資料)として連城寺で保管されています。



 山門をくぐると正面に観音立像 

本堂前にたつ大黒天と恵比寿さま
本尊:聖観世音菩薩


頌徳碑  平成十五年五月吉日 袋井市国本 大草正人謹撰書

碑文には、三白山連城寺は平重盛が天台宗で
1179年に建立したと伝えられていると刻まれています。
1179年といえば重盛の没年にあたります。


平重盛(1138~1179)は、父清盛の悪行の報いを恐れ、
諸国に寺を造営したといわれ、遠江国においては、
蓮(連)覚寺(磐田市竜洋中島)・連福寺(磐田市二之宮)・
 連城寺(磐田市新貝)を開創しました。
寺名の「蓮」「連」は重盛の法名
「城連(浄蓮)」から付けられたものという。

平氏滅亡後、寺も衰退しましたが、これを再興したのが遠江代官の一人
大草太郎左衛門家祖三代政信です。天正年間(15731592)、 
政信は萬松山(ばんしょうざん)可睡斎(かすいさい)(現、静岡県袋井市)
第11世鳳山等膳(ほうざんとうぜん)を招き、
天台宗を曹洞宗に改め中興の開山としました。
大草氏の菩提寺で墓地には歴代の墓があります。


寺の裏手JR東海道線がすぐ傍を走る墓地への上り口

急坂を上って行くと墓地に出ます。





主に僧侶のお墓として使われる無縫塔(むほうとう)



平清盛重盛両公供養塔





平重盛の墓(小松寺1)  
アクセス』
「連城寺」静岡県磐田市新貝1556 JR磐田駅から4km
桶ヶ谷沼線
「新貝」バス停 から徒歩約5分 
「鎌田政家の墓」から東北へ約2㎞
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年 「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年



  



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静岡県磐田市に源義朝が尾張国知多郡野間(現、愛知県知多郡美浜町)で殺害された時、
ともに殺されたその家臣、鎌田兵衛政家(正清)の墓があります。





JR磐田駅北口前の観光案内所 ☎0538-133-1222




「いわたふるさと散歩東部編」より一部転載。

御厨交流センター近くの茶畑の一角に供養塔をおさめた祠があります。







中央が鎌田政家の供養塔
 



『平治物語』によると、北国で兵を集めよと命じられた
義平(義朝の長子)は、越前国足羽まで下っていきましたが、
信濃へといわれた朝長は、龍華越で比叡山の僧兵に射られた
太ももの傷が痛んで歩けなくなり青墓に舞い戻ってしまいます。
足手まといになるより父上の手でと願って首を差しのべ念仏を唱える朝長を
義朝は涙ながらに斬りました。そして義朝の噂を聞きつけ、
恩賞目あてに押しよせた土地の者らを、佐渡式部太夫(源)重成が
自ら義朝と名乗り、奮戦自害する間に義朝主従は青墓宿を出ました。

 僅か四人となった義朝一行は、鎌田政家の舅、尾張国野間
(現、愛知県知多郡美浜町)の領主、長田忠致(おさだただむね)の
許に身を寄せるため、その世話を大炊の弟で養老の滝近くの
鷲栖村(現、岐阜県養老郡養老町鷲栖)に住んでいた
鷲栖(わしず)玄光に頼みました。玄光は義朝主従を柴舟に乗せ、
杭瀬(くいせ)川から知多半島の先端野間まで運びました。
義朝と鎌田政家、平賀四郎義宣(よしのぶ)、金王丸の四人です。


青墓の東、かつて杭瀬川の渡し場があった
赤坂宿付近を流れる杭瀬川(岐阜県大垣市)

源氏の家人(けにん)でもある長田忠致・景致(かげむね)父子は、
義朝らをさまざまにもてなしましたが、恩賞目当てに裏切り、
入浴中の義朝を謀殺しました。舅と酒を飲んでいた政家は、
主の一大事を聞き走り出す所を義兄弟の景致に斬られました。
平治2年(1160)正月3日のことです。

慈円の歴史書『愚管抄』には、「義朝は馬にも乗らずかちはだしで
長田忠致の家にたどり着いた。忠致はもてなし入浴をさせた所、
鎌田政家(正清)は忠致の謀略に気づき、
義朝とともに自害して果てた。」と記されています。

源頼朝は父義朝の菩提を弔うため勝長寿院を建立し、
文治元年(1185)9月3日、義朝と鎌田正清(政家)の
遺骨を埋葬しています。(『吾妻鏡』)


『源平盛衰記』によると、鎌田正清の長男藤太盛政と弟の光政は、
佐藤継信(つぐのぶ)・忠信兄弟とともに源義経につかえ、
義経四天王とよばれましたが、
盛政は一ノ谷の戦いで寿永3年2月、次男藤次光政は、
屋島で元暦(げんりゃく)2年2月に討死したという。
ところがこの兄弟の名は、『吾妻鏡』などの
確実な史料にはみえず、その実態は謎に包まれています。

『吾妻鏡』建久5年(1194)10月25日条によると、
政家の娘は頼朝に厚遇され、勝長寿院で
父政家と義朝の追善供養を行っています。
政家に息子がいなかったため、頼朝はこの娘に
尾張国志濃幾(しのぎ・現、愛知県春日井市)・
丹波国田名部(現、京都府舞鶴市)両荘の
地頭職を与えて正家の旧功に報いています。
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)   
鎌田政家夫妻の墓は、義朝とともに愛知県知多郡美浜町の野間大坊にあります。
勝長寿院跡(源義朝を祀った大伽藍の跡)  
『アクセス』
「鎌田政家の墓」JR磐田駅前より遠鉄バス「鎌田」下車
または「東貝塚」下車 徒歩約20分
1時間に1本ほどしかない「鎌田」に停まるバスが
発車したばかりでしたので、次のバスを「東貝塚」で下り、
御厨(みくりや)交流センターへの道を尋ねながら歩きました。
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和58年
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館、2009年
「日本荘園史大辞典」吉川弘文館、2003年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 



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神亀元年(724)、流刑の制が定められ、罪科の軽重によって、
配流に遠流(おんる)中流(
ちゅうる)・近流(こんる)がしかれました。
伊豆、安房(あわ)、常陸(ひたち)、佐渡、隠岐(おき)とともに
土佐は遠流の国となり、応天門の変に連座した紀夏井、
保元の乱の藤原師長(もろなが)、平治の乱の
源希義(まれよし)、承久の乱の土御門上皇、元弘の乱の
尊良(たかよし)親王(後醍醐天皇の皇子)などが当国に流されました。

治承4年(1180)、土佐国は清盛の弟の教盛(のりもり)の知行国となり、
頼盛(清盛の弟)の子の仲盛が土佐守となり、
平家が土佐国を支配するようになりました。
土佐における源平の争乱は、介良(けら)荘に流された
源希義(頼朝の同母弟)が平重盛の家人に討たれたことに始まります。
介良荘は長岡郡南部にある荘園で走湯山(そうとうざん)密巌院の所領でした。
密巌院は、頼朝が挙兵前から帰依したとされる文養坊覚淵によって
創建された走湯山(伊豆山神社の古名)の別当寺です。
希義の遺骸を葬った介良の琳猷(りんゆう)も頼朝に報告に行く時、
密巌院の住僧良覚を介して事情を説明しています。
(『吾妻鏡』文治元年3月27日条)


その後、夜須(やす)行家(のち行宗)の先導する源有綱(頼政の孫)軍の
土佐入国があって、土佐の武士は源氏に荷担するものが多くなり、
壇ノ浦の戦いでは、夜須行宗のほか義経の軍に従っていた
安芸郡司の出自をもつ安芸時家・実光(さねみつ)兄弟は、
平教経(のりつね)と組討して海中に没したと伝えられています。

治承4年に頼朝が平家追討の挙兵ののち、寿永元年(1182)9月25日、
重盛の家臣で土佐国住人の蓮池家綱・平田俊遠らが平治の乱で
土佐国介良に流されていた希義の挙動を警戒して討伐に向かい、
希義は介良から同志の夜須七郎行家を頼って夜須荘へ向かう途中、
年越山(現、南国市鳶(えん)ヶ池中学校辺)で最期を遂げたと伝えられています。

行宗は希義が家綱らに包囲されたと聞き一族を率いて
希義の救援に向かいましたが、
野宮(現、香南市西野の野々宮神社)まで
きたとき、希義が討ち取られたと知り引き返しました。
家綱と俊遠が行宗を討つため兵を進めたので、
行宗は追手を避けて仏ヶ崎(現、夜須町手結)から
船を用意して一族で乗り込み海上を逃がれます。

家綱らは二人の使者を行宗の船に派遣し、偽りの甘言をもって
投降を促しますが、その意図を見抜いた行宗は使者の首を斬り、
紀伊(現、和歌山県)を経由して鎌倉の源頼朝の下に赴き、
事情を報告しそのもとで源平の戦いに参加します。
頼朝は早速、行宗を道案内に伊豆右衛門尉(源)有綱に
土佐の出兵を命じ、家綱らを討たせました。
家綱は行宗の弟小塚八郎に討たれたという。
以後、土佐では源氏の勢力が強くなります。

夜須七郎行宗は石清水八幡宮領夜須荘の荘官でした。
夜須荘は現在の香南市夜須町東南部の海岸から北に広がる荘園で、
石清水八幡宮は源氏の氏神であったため、行宗は源氏に心を寄せたといわれています。

夜須町(土佐国香美郡夜須荘、現・香南市夜須町)は高知県のほぼ中央に位置し、
三方を山に囲まれ町の中央を流れる夜須川の流域に広がっています。

夜須川下流東岸、出口(いでぐち)の城山に行宗の居城という下夜須城址があります。

夜須駅の南側から下夜須城址のある城山を望む。

駅の南側には、人工海水浴場が広がっています。
ここから東へのびる臨港道路を行くと手結(てい)港という港があります。





行宗が船出した場所と伝えられる仏ヶ崎(仏岬)は、手結港の入口に架けられている
可動橋(かどうきょう)端から海側に降りたところにあります。
この橋は港から海への出口に設置されていて、
決まった時間帯だけ道路になるという跳ね橋です。

文治3年(1187)3月10日、夜須行宗と梶原景時との間で論争が起こりました。
それは
壇ノ浦合戦の時、平氏の家人岩国兼秀・兼末兄弟を
生け捕りにし、行宗が恩賞を申しでましたが、
景時は「行宗は戦場にはいなかった。兼秀兄弟は
自ら投降してきたのである。」と横槍をいれました。
そこで行宗は壇ノ浦合戦の時は春日部兵衛尉と同じ船に乗っていたと
述べたので、頼朝は春日部を呼び出して尋問したところ、
行宗と同乗していたと証言したので、行宗の言い分が認められ、
景時は罰として鎌倉中の道路を整備するように命じられたという。

『吾妻鏡』文治4年(1187)3月15日条によると、
頼朝が鶴岡八幡宮の大般若供養に出席した際、有力御家人に続いて
隋従した隋兵30人の中に、行宗の名がみえます。
建久元年(1190)7月には、蓮池家綱・平田俊遠打倒や
たびたびの戦功によって頼朝から夜須荘の
本領安堵(頼朝の御家人となり荘園の領有権を認められる。)の
下文(くだしぶみ)を与えられました。
『アクセス』
「手結港」香南市夜須町手結
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線 「夜須駅」下車徒歩約10分
『参考資料』
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(4)吉川弘文館、2008年
梶原等「梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士」新人物往来社、2000年
「高知県の地名」平凡社、1983年
図説「高知県の歴史」河出書房新社、1991年
「高知県の歴史散歩」山川出版社、2006年
「国史大辞典」吉川弘文館、平成1年

 

 

 



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