那須与一が放った矢は扇の的に命中。
扇は夕日を受けながらひらひらと空を舞い波の上に散りました。
沖の平家は、敵ながらあまりの見事さに船端をたたいて感じ入り、
陸の源氏も、箙(矢を入れる道具)を叩いてどよめきました。
その直後、平家の中から老武者が現れ、感動のあまり
舟の上で与一の技を讃えて舞い始めました。
しかし、義経にはこの余興はまったく通じません。
伊勢三郎義盛が与一に近づき、「殿の命令だ。あの者を射とめよ。」と
言うと、すぐさま与一は2本目の矢を取ってつがえました。
今度は鏑矢でなく、殺傷能力のある尖った矢(征矢)です。
その矢が当たって平家の武者は船底に倒れこみました。
抒情的な風景そして感動のシーンが一気に凍りつき、
残虐な場面にもどった瞬間です。
平家方は何が起こったのか一瞬わからず、静まりかえります。
源氏は箙を叩いて囃したて、「やあ、よく射た!」という者もあれば
「情けない。なんと無慈悲なことを。」という者も多くいます。
これに腹を立てた平家方の三人の武者が波打ち際に押しよせ、
源氏を挑発し始めると、義経の命を受けた五騎の武者がわめきながら駆け寄ります。
真っ先に突き進んだ武蔵国の住人、美尾屋(みおや=水尾谷)十郎の
馬に矢が命中し、馬から落とされた十郎は徒立(かちだ)ちとなって戦っていました。
この時、波をけって平(藤原)景清が浜辺に上がり、
十郎の錣(兜の首まわりをおおって首を守るもの)をむんずとつかみました。
(説明板と少し異なります)
そうはさせじと逃げる十郎、しばらく引っぱりあいが続きましたが、
ついに錣(しころ)の糸が切れ、景清が兜から錣を引きちぎりました。
その錣を高くかかげ、割れるような声で「我こそは都で名高い悪七兵衛景清」と
名乗りをあげました。喜んだ平氏は歓声をあげてはやします。
世に名高いしころ引きです。平家は舟に乗り移り引き上げました。
この後、義経弓流しの名場面になります。
そして源氏の武者らは景清の首を取ろうと、夕闇せまる屋島の浜で、
再び死闘がくり広げられました。陸から馬で攻める源氏軍と、舟上で応戦する平家軍。
この時、義経はうっかり自分の弓を海に落としました。
義経の弓流しは、この合戦から生まれたエピソードです。
「悪七兵衛」の悪は、猛々しく強いという意味で、悪いという意味ではありません。
景清は巻4「橋合戦」で、宇治川での合戦に侍大将として登場して以降、
平家の主要な武将として数々の合戦に参戦しています。
錣引き跡は祈り岩の近くにあります。
駒立岩から相引川を渡り、北へ進みます。
弓流し跡から西へ行った屋島東小学校近くにも「義経の弓流し」の案内板がたっています。
屋島古戦場を歩く(義経弓流し)
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「景清錣引き跡」高松市牟礼町大字牟礼宮北 ことでん「八栗」駅より徒歩15分
県道36号線沿い、ことでん「祈り岩」バス停前南東。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソファ文庫、平成19年
歴史が根付いて今もそこかしこに生きている場所があるのだと思うと、とても素晴らしい事だと思います。
お遍路に廻られる人もこの話を読み聞いて、故郷への土産話にされるでしょうしね。
この地域は、今は埋め立てられほとんど宅地となっていますが、
至るところに源平の史跡や説明板がたっています。
日々それを目のあたりにしている人々には、
この合戦の逸話は、暮らしの中に溶け込んでいるお話でしょう。
また、牟礼の人々は「石と源平の町 牟礼」というサイトで、
源平の史跡を紹介されています。
現在、四国遍路の巡礼は、大半が観光バスで回るツァーなので、
遍路道を歩くお遍路さんは少ないと思いますが、屋島寺や洲崎寺には、
平家物語絵巻を模写したパネルや説明板が展示されていますから、
この物語でよく知られる逸話を思い起こされると思います。
ソメイヨシノが散り、次は八重桜ですね。
次の桜を探して、大原野まで行って参りました。
景清は、後鳥羽院の侍の話に出てくる景清の解説に、もう一人居るのは知っていましたが、錣を引きちぎるほどの怪力の者で平家物語に出てくるとは始めて知りました。坂東武者に比べ、平家方は舞う老武者のように貴族化されたイメージが強く、こう言う猛者も実際には多かったのかも知れません。
この屋島の合戦blogを読み、源平盛衰記の該当部分を読み勉強してみました。灌頂巻しか知りませんでしたので、どんどん知識が広まります。武具専門用語も。
拙句
舞ふ平家射る源氏にもはるのかぜ
大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ
お書き下さった「後鳥羽院の侍の話に出てくる」という景清は知りません。
機会があれば教えてください。
「源平盛衰記」には、なぜ平家が扇を立てたかとか、
この扇の謂れについても記していますね。
平家の景清は能で知り、鎌倉・名古屋・京都などと
その史跡をたずねたことがあります。
古い写真ばかりですが、また見てやってください。