環状線福島駅から300mほど南に「逆櫓(さかろ)の松址」の碑があります。
『平家物語』に記されている義経と梶原景時の「逆櫓の争い」は、
かつてここにあった松の木の下で起こったという。
「逆櫓の松址」の碑は、マンションドミール堂島前にたっています。
逆櫓(さかろ)の松跡
『平家物語』の逆櫓の段によれば、一一八五年二月、源義経は、平氏を討つため
京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、
参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、
船尾の櫓 (オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。
船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。結局逆櫓をつけることをせず、
夜に入って出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、
梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは
二百数艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所がこの辺といわれている。
この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、
幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。
この松を逆櫓の松と呼んだ。逆櫓の松は、近代に入るころには、
既に枯れてしまっていたらしい。大阪市教育委員会(現地説明板)
一ノ谷の戦いで勝利した義経は、後白河法皇から左衛門尉(じょう)、
検非違使尉に任ぜられ、「九郎判官義経」とよばれます。
しかし頼朝の推挙を待たずに官位を受け取ったため頼朝の勘気にふれ、
平家追討軍から外され京都に留め置かれていました。
頼朝は部下をすべて自分の管理下において統制する方針でしたが、
義経は頼朝に無断で官位を受けてしまったのです。
範頼は平家追討のために西国に派遣され、藤戸の渡で
勝利をおさめて長門(下関辺)まで進みましたが、
長門彦島に陣取った平知盛率いる水軍に行く手を阻まれ、
思ったほどの成果を出せないでいる事態に頼朝はしびれをきらし、
仕方なく義経を再び平家追討使に起用しました。
寿永4年(1184)2月3日、義経は京都を出発し摂津
渡辺の津(大阪市)から屋島に渡ろうとしたところ、
にわかに暴風雨が起こり、
多くの兵船が破損しやむなく出航は延期されました。
『平家物語』は、「渡航延期中に開かれた評定(会議)の席で、義経と
梶原景時とが逆櫓をつけるか否かで口論となり、あわや同士討ちとなりかけたが、
その場はひとまず何事もなくおさまった。」と語っています。
有名な逆櫓の場面です。
景時はこのときのことを根にもち、以来頼朝に義経の中傷をくりかえし、
義経失脚のきっかけを作ったとされています。
しかし元木泰雄氏は、「景時は範頼と同道していた可能性が高く、
逆櫓の争いの信憑性には疑問がもたれる。屋島合戦が、義経やその配下によって
簡単に決着し、排除される形となった東国武士との間に軋轢が存在したことを
象徴する挿話ではないだろうか。」と述べておられます。(『源義経』)
また近藤好和氏は、「逆櫓論争は史実ではない。壇ノ浦合戦後に
景時は義経のことを頼朝に讒言し、それが頼朝と義経が
不和になる要因のひとつと一般的に考えられているが、そうした後世の
事実に基づき創作された話のようである。」(『源義経』)と記され、
両氏ともこの逸話には疑問があるとされています。
梶原景時は頼朝が石橋山合戦で敗れた時、平家方として捜索にあたり、
洞窟に隠れ潜む頼朝を発見しながら見逃したことにより、
その後、頼朝に重用され、その長男景季(かげすえ)は宇治川合戦の際、
頼朝から賜った名馬磨墨に乗り、佐々木高綱と先陣を争っています。
渡辺の津(義経屋島へ出撃)
『アクセス』
「逆櫓の松址の碑」
大阪市福島区福島2-2-4 マンションドミール堂島敷地内
JR大阪環状線 「福島駅」 徒歩7分 JR 東西線「新福島駅」 徒歩5分
阪神本線 「福島駅 」徒歩5分 京阪中之島線 「中之島駅」徒歩5分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年
奥富敬之「義経の悲劇」角川選書、平成16年 梶原等「梶原景時」新人物往来社、2000年