平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




瀬戸内海の芸予海峡に浮かぶ大三島には、伊予国一宮の
大山祇(おおやまづみ)神社が鎮座しています。
大山積大神を祭神とし、神武天皇東征の際に祭神の子孫・小千命(おちのみこと)が
先駆として四国に渡り、瀬戸内海の治安を願って大三島に勧請したのが始まりとされています。

南海・山陽・西海道の海上交通の要衝にあたり、古くから山の神、海の神として崇拝され、
信仰・観光の地として全国各地から参拝者が多く訪れます。

大山祇神社は伊予の豪族越智氏の氏神となり、伊予三島水軍の根拠地として
発展していきます。越智氏の流れをくむ河野氏は、祖神として深い信仰を寄せ、県下の
大山精神を祀る神社には、河野一族によって、寄進建立の由緒が多く伝えられています。
大山積大神の本地仏「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」の通の字をいただいて
河野親経の子を通清と名づけ、通清以後、通信・通久・通継・通有と
河野家の嫡子は「通」の字を名乗りました。

通信(みちのぶ)は屋島合戦・壇ノ浦合戦に水軍を率いて源氏軍に味方し、
河野氏発展の基礎を築きました。蒙古襲来には通有が当社に参籠祈願して戦功をたて、
所領を与えられるとともに以後も伊予の海賊の鎮圧にあたっています。

紫陽殿及び国宝館には源頼朝はじめ歴代の武将たちが武運長久を祈り奉納した刀剣、甲冑、
美術品などが展示され、中でも武具類は全国の国宝・重要文化財の約八割です。(『大山祇神社』)





社頭

社号石 二の鳥居

斎田(さいでん) 大山祇神社伝統神事の御田植祭(旧暦5月5日)と抜穂祭(旧暦9月9日)は、
この神田に於いて行われます。この時、御淺敷殿と斎田の間に設けられた土俵で
稲の精霊と力士が取り組み年々の豊凶を占う「一人角力(ひとりずもう)」が行われます。

総ヒノキ造りで高さが約12mもある総門(平成22年再建)を潜ると
正面にご神木である楠の巨木が聳えています。

小千命手植えの楠と伝えられており、樹齢2600年といわれています。

境内には約200本の楠があり、能因法師雨乞いの楠や河野通有兜掛けの楠などが茂り、
一括国指定の天然記念物となっています。

能因法師雨乞いの楠
♪天の川苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神
(天の川から水をせきとめて苗を植える地に落として 下さい。
天から降臨して、雨を降らせる 神様なら)

現在は枯れていますが、一部残っています。

蒙古襲来出陣の際、河野通有が兜を掛けたという楠。
朽ちて倒れています。


大楠の奥の石段を上ると神門・南北の回廊があります。

回廊には伊藤博文をはじめ、山本五十六などの参拝時の写真が飾られています。
近代から現代までの政治、
軍事、財政界の第一人者の方々の写真も見ることができます。



拝殿その奥に本殿があります。拝殿・本殿ともに国の重要文化財になっています。
本殿は元亨2年(1322)の兵火で焼失し、室町時代に再建され、三間社流造り檜皮葺、
外部は丹塗り、神社建築史上、流造りの代表作といわれています。


拝殿は切妻造り檜皮葺。

拝殿内陣

この神社の神紋は傍折敷(そばおしき)三文字といい、折敷の形に
「三」の字をかたどったものです。これは家紋としても使用され、
越智氏・河野氏・来島村上氏などがこのデザインを用いています。『予陽河野家譜』によると、
河野氏家紋の由来は、頼朝の前で第三席につらなったからと伝えられています。



宝物館に向かう途中に三基の宝篋印塔があります。
河野通信の孫の一遍上人寄進の河野一族の供養塔(国重文)です。
中央の塔は約4mあります。一遍の生涯を描いた『一遍聖絵』には
遊行の途中に立ち寄った大山祇神社の場面が描かれています。
大山祇神社2(河野通信)

『アクセス』
「大山祇神社」愛媛県今治市大三島町宮浦3327  0897-82-0032
山陽本線「福山駅」から今治行高速バス「大三島BSで乗換」~「大山祇神社前」下車。

または予讃線「今治駅」から大三島行高速バス「大山祇神社前」下車
『参考資料』
「大山祇神社」大三島宮 大山祇神社発行、平成22年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年
「検証日本史の舞台」」東京堂出版、2010年 「愛媛県百科大事典」(上)愛媛新聞社、1985年

 



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元暦2年(1185)2月3日、九郎判官義経は京都を出発し、摂津渡辺で
舟揃えの支度を整え屋島にいる平家軍を攻撃しようとしましたが、
出発の日、にわかに暴風雨が吹き荒れて船が破損し、
その修理のため出航は一時延期となりました。

その間に開かれた軍議の席上、慎重な梶原景時が船尾にある櫓だけでなく、
戦況が不利になった時には、船が迂回せずにすぐ後退できるように
船首にも櫓(逆櫓)をつけようと提案しましたが、義経は
「はじめから逃げ支度とは縁起でもない。」と即座に却下します。

景時は「進むところは進み、退くべきところは退くのが、良き
大将軍というものだ。ただ闇雲に進むのは猪武者だ。」と罵倒したので、
「戦いというものは、ひたすら攻めに攻めて勝つものだ。」と
両者は言い争いとなりました。この景時とのいさかいが
この後、義経の運命を狂わせてしまいます。


逆櫓(さかろ)についての口論が本当にあったのかどうかは
わかりませんが、景時と義経が意思の疎通を
欠いていたことは確かなようです。
また船戦に経験の少ない源氏軍が海上での平氏との戦いが
容易でないことを認識していたという内情がうかがわれます。
逆櫓(艪)の松跡 義経と梶原景時の争い  

そして17日の夜半、激しい風雨の中、怯える船頭たちを義経は
「追い風の好機に船を出さぬというなら、射殺す」とおどしながら
150騎ばかりの兵をわずか五艘の船に乗せて渡辺津を出ました。
この船は渡辺・神崎にて揃えたもので、
その陰には渡辺党の協力があったとされています。
全軍二百艘余のうち義経の腹心奥州の佐藤嗣信・忠信兄弟、
武蔵坊弁慶など五艘での出航でした。
この時、義経に従った武士として、『源平盛衰記』には、
渡辺胒(むつる)の名が見え、義経が渡辺党に助けられて
兵力を整えたことが窺えます。胒は壇ノ浦合戦では、
浪間に漂う建礼門院を熊手で引き上げ救出した人物です。

義経軍は追い風に乗り、3日かかる航路を6時間ほどで渡りきり、
17日の朝方に阿波に到着したというのです。

船頭の「この風は追い風ですが、あまりに強すぎます。
沖はさぞ荒れていましょう。」という言葉も聞きいれず、
5艘で強引に出発する義経軍。先頭の船の陣頭に座る義経、
弁慶以下が従います。つづく船は4艘だけです。
右下の3艘は碇をあげようとしていますが、先陣には間に合いません。

 いま天満橋と天神橋が架かる大川(旧淀川)の辺は、
平安時代には渡辺とも窪津ともよばれていました。
窪津は「国府津(こうづ)」の訛りで、
平安時代中頃には、ここに摂津国の国府がありました。
渡辺津は淀川河口に位置し国府の湊として、
また交通の要衝、商業上の重要な港でした。

平安時代後期、渡辺津を本拠地として台頭した武士団に
渡辺党があります。この党は水軍・騎馬軍を兼ね備え、
淀川・大和川・大阪湾の水上警察に携わった武士団で、
渡辺氏(嵯峨源氏系)と遠藤氏(藤原氏系)の2つの家系がありました。
渡辺氏は、渡辺番(つがう)、渡辺緩(ゆるう)などの一字の名を用い
「渡辺一文字之輩(ともがら)」と称されます。
この一族は源頼光の四天王の一人渡辺綱を祖とし、
摂津源氏源頼政の兵力の主力として、保元・平治の乱を戦い、
宇治川合戦の際にも平氏の大軍に対して頼政以下、
省(はぶく)・授(さずく)・競(きおう)らが勇猛果敢に戦いました。


一方、頼朝に挙兵を勧めたとされる文覚は、遠藤氏の出身で出家する前は
遠藤盛遠という名でした。
『源平盛衰記』には、遠藤盛遠が渡辺橋の渡り初めの時、
橋奉行を務め、渡辺党の渡辺渡(わたる)の妻袈裟御前を見そめたと記されています。
渡辺橋は渡辺津に架けられた橋で、天満橋付近にあったとされ、
現在の中之島付近にある渡辺橋は直接の関係はありません。

都から四天王寺、住吉大社、高野山へ参詣する貴族たちは
淀川を舟で下り、渡辺津で舟を降り陸路を辿りました。
12Cになると、当地は熊野詣での玄関口として栄え、江戸時代には、
旅籠などが八軒連なっていたことから「八軒家」の名がつき、
京の伏見と大坂を結ぶ「三十石船」のターミナルとなり賑わいました。
昔を偲ばせる三十石船は、いまでは水上バスとして就航し、
四季折々の風情ある大川を周遊しています。









永田屋昆布本店(中央区天満橋京町2−10)の店先に
「八軒家船着場の跡」の石碑が立ち、
「八軒屋の今昔」という無料の小冊子が置いてあります。

義経阿波から屋島へ進軍1  義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
  義経阿波から屋島へ進軍3(旗山) 義経阿波から屋島へ進軍4(義経ドリームロード)  
坐摩神社・坐摩神社行宮(渡辺党)  
『アクセス』
「八軒屋浜船着き場」大阪市中央区天満橋京町1−1
京阪電車本線「天満橋駅」、谷町線「天満橋駅」下車すぐ
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
 河音能平「大阪の中世前期」清文堂、2002年 「大阪府の地名」平凡社
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版、2010年 加地宏江・中原俊章「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年 
「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社、1989年 「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年 
「平家物語絵巻」林原美術館、1998年 本渡章「大阪名所むかし案内 絵とき摂津名所図会」創元社、2006年

 

 



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環状線福島駅から300mほど南に「逆櫓(さかろ)の松址」の碑があります。
『平家物語』に記されている義経と梶原景時の「逆櫓の争い」は、
かつてここにあった松の木の下で起こったという。



「逆櫓の松址」の碑は、マンションドミール堂島前にたっています。



逆櫓(さかろ)の松跡
 『平家物語』の逆櫓の段によれば、一一八五年二月、源義経は、平氏を討つため
京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。

 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、
参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、
船尾の櫓 (オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。
船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。結局逆櫓をつけることをせず、
夜に入って出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、
梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは
二百数艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所がこの辺といわれている。
この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、
幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。
この松を逆櫓の松と呼んだ。逆櫓の松は、近代に入るころには、
既に枯れてしまっていたらしい。大阪市教育委員会(現地説明板)

一ノ谷の戦いで勝利した義経は、後白河法皇から左衛門尉(じょう)、
検非違使尉に任ぜられ、「九郎判官義経」とよばれます。
しかし頼朝の推挙を待たずに官位を受け取ったため頼朝の勘気にふれ、
平家追討軍から外され京都に留め置かれていました。
頼朝は部下をすべて自分の管理下において統制する方針でしたが、
義経は頼朝に無断で官位を受けてしまったのです。

範頼は平家追討のために西国に派遣され、藤戸の渡で
勝利をおさめて長門(下関辺)まで進みましたが、
長門彦島に陣取った平知盛率いる水軍に行く手を阻まれ、
思ったほどの成果を出せないでいる事態に頼朝はしびれをきらし、
仕方なく義経を再び平家追討使に起用しました。

寿永4年(1184)2月3日、義経は京都を出発し摂津
渡辺の津(大阪市)から屋島に渡ろうとしたところ、
にわかに暴風雨が起こり、
多くの兵船が破損しやむなく出航は延期されました。

『平家物語』は、「渡航延期中に開かれた評定(会議)の席で、義経と
梶原景時とが逆櫓をつけるか否かで口論となり、あわや同士討ちとなりかけたが、
その場はひとまず何事もなくおさまった。」と語っています。
有名な逆櫓の場面です。

景時はこのときのことを根にもち、以来頼朝に義経の中傷をくりかえし、
義経失脚のきっかけを作ったとされています。


しかし元木泰雄氏は、「景時は範頼と同道していた可能性が高く、
逆櫓の争いの信憑性には疑問がもたれる。屋島合戦が、義経やその配下によって
簡単に決着し、排除される形となった東国武士との間に軋轢が存在したことを
象徴する挿話ではないだろうか。」と述べておられます。(『源義経』)

また近藤好和氏は、「逆櫓論争は史実ではない。壇ノ浦合戦後に
景時は義経のことを頼朝に讒言し、それが頼朝と義経が
不和になる要因のひとつと一般的に考えられているが、そうした後世の
事実に基づき創作された話のようである。」(『源義経』)と記され、
両氏ともこの逸話には疑問があるとされています。

梶原景時は頼朝が石橋山合戦で敗れた時、平家方として捜索にあたり、
洞窟に隠れ潜む頼朝を発見しながら見逃したことにより、
その後、頼朝に重用され、その長男景季(かげすえ)は宇治川合戦の際、
頼朝から賜った名馬磨墨に乗り、佐々木高綱と先陣を争っています。
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  
『アクセス』

「逆櫓の松址の碑」
大阪市福島区福島2-2-4 マンション
ドミール堂島敷地内
JR大阪環状線 「福島駅」 徒歩7分 JR 東西線「新福島駅」 徒歩5分
阪神本線 「福島駅 」徒歩5分 京阪中之島線 「中之島駅」徒歩5分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年  近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年 
奥富敬之「義経の悲劇」角川選書、平成16年  梶原等「梶原景時」新人物往来社、2000年

 



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