平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



かつて昭和大典記念(昭和天皇即位)に建てられた
「伝静なごりの橋」の石碑が大物川の畔にありました。
現在、この石碑はもとの場所から少し離れた
辰巳八幡神社(尼崎市東本町1丁目)の境内に移されています。



『摂津名所図会』によると、大物川にかかる大物橋のたもとに
義経の旅宿があったとしています。また尼崎市東本町1丁目には、
静が化粧の水を使ったと伝えられる静化粧の井があったいわれ、
現、東本町1丁目には旧小字「静ノ井」がありました。

辰巳八幡神社の境内に建つ「傳静なごりの橋」の石碑。
謡曲『船弁慶』では、義経と静は大物(だいもつ)で
別れる筋立てになっているのに因んで建てられた石碑です。

義経公東下り絵巻「都落ち」中尊寺蔵

謡曲『船弁慶』 作者観世小次郎信光 
あらすじ
源義経は兄頼朝と不和になり、船で西国へ落ちのびようと
大物浦に到着しました。人目を忍ぶ旅なのだから
愛妾を伴うのは世間に憚るという弁慶の助言で、
義経はそれまで従ってきた静御前に帰京を命じます。
静は悲しみますがどうしようもありません。
義経の前途を祈って別れの舞を舞います。

舞い描くのは四季の京都の名所を綴る歌詞に乗った「都名所」、
静、最高の見せ場です。船頭が一行に乗船を勧め、
いよいよ別れの時がきました。静は名残りを惜しみ、
憂いの思いで花道を引っ込んで行きます。

一行が慌ただしく出航すると、突然暴風雨に襲われ、
次第に波が高くなるので、船頭は必死に船を操ります。
この時、海上に平家一門の亡霊が現れ、「早笛」にのって
壇ノ浦で入水した平知盛の怨霊が登場し「そもそもこれは、
桓武天皇九代の後胤、平知盛、幽霊なり」と名乗ります。
知盛は平家一門の恨みを晴らそうと現れたのです。

髪を振り乱し凄まじい形相で義経を海に
引きずり込もうと長刀を持って襲いかかりますが、
義経は少しも騒がず刀をとって戦います。
弁慶は刀では適うまいとそれを押しへだて、
陀羅尼を読んで怨霊を調伏します。
それでもなお追いかけてくる知盛を数珠を激しく揉んで
必死に祈ると、知盛の霊は花道へ押し戻され、
次第に遠く去っていき幕切れとなります。

義経は本来は大人の役ですが、静との情愛を
露骨に表現しないよう子方(こかた)が演じます。
相(あい)狂言(狂言方がつとめる役)の船頭は荒波に揉まれ、
木の葉のように船が翻弄されるさまをおもしろおかしく表現します。
謡曲『船弁慶』の見ものの一つです。

船頭  右手前は義経






辰巳八幡神社
 鎮座地 尼崎市東本町1丁目四十二番の二 祭神 応神天皇

旧社伝に宇佐八幡宮よりの勧請であるとされ、応永二十六年(1419)
日隆上人が日蓮宗本興寺を当社地内に開基されたと寺伝にあり、
境内に現存する青面金剛童子碑台石の
文保三年(1319)の年号も当社創建の古さを物語るものであろう。

昭和二十年第二次世界大戦の戦火に罹り焼失し、
現在の社殿は昭和三十二年に復興されたものであり、
旧氏子町は辰巳町と稱え東大道町・西大道町・北浜地・
西渚町・南浜町・末広町の七町で構成されていた。 
大祭日 十月十五日 末社 金子稲荷大神
 大祭日 五月十二日 (駒札より)

昭和大典記念に建てられた「辰巳渡仇討址」碑。
左門殿川(さもんどがわ)に架かる辰巳橋近辺 、
辰巳の渡し場で
慶長8年(1603) 9月、仇討ちがあったと伝えています。
藤堂高虎の家臣高畑寿教の妻槇が、家来端四郎の助太刀により
亡夫の仇佐和新九郎を討ち取り自刃しました。
『アクセス』
「辰巳(たつみ)八幡神社」兵庫県尼崎市東本町1丁目42
大物駅南出口から徒歩約15分 
国道43号線の左門殿川手前、
川沿いを南へ下って、松島ポンプ場の西隣りにあります。

『参考資料』
「摂津名所図会」(下巻)古典籍刊行会、昭和50年
金子直樹「能鑑賞二百一番」淡交社、2008年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年 
「謡曲集(2)」小学館、昭和54年
「京から奥州へ 義経伝説をゆく」京都新聞出版センター、2004年
「平清盛と源平合戦関連文化財群の調査研究」 兵庫県教育委員会

 

 



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