平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平宗盛(1147~1185=清盛の三男)は、清盛の正妻時子の長子で、
平重盛や平基盛とは腹違いの兄弟です。
清盛の威光で出世し、
兄の重盛が右大将から左大将に昇進した際には、
重盛の後任の右大将におさまりました。『平家物語・巻1・吾身栄華』は、
平家の繁栄を語る中、兄弟が左右の大将として並ぶ例は稀だと語っています。
将来を嘱望された重盛が亡くなり、治承5年(1181)に清盛が没すると、
宗盛が平家の家督を継ぎ、寿永元年(1182)に内大臣に昇進しました。

『平家物語』は、前半は異母兄重盛、
後半は弟の知盛と比較し、凡庸で無能な人物としています。
老齢の源頼政が挙兵にふみきった原因は、
評判の名馬「木の下(このした)」を頼政の嫡男伊豆守仲綱が
貸し渋った腹いせに宗盛は、その馬を取りあげ「仲綱」という
焼印まで押して散々いたぶりました。これが頼政の耳に入り恥辱に
耐えかねて謀叛を起こしたという。(『平家物語・巻4・競(きおう)』)

源義仲が倶利伽羅峠の戦いで平家の追討軍を破り都に迫った時、
宗盛は知盛の反対を押し切り、一門を引連れて
一矢もむくいず都を落ちて行きました。
十分な準備もないまま都落ちした上、宗盛には一門を
統率する能力がなく、叔父の頼盛は同調しませんでした。
宗盛は、一族に裏切や脱落者がでたことも
人力では抗えない運命と受け入れ、脱落する頼盛を追おうとした
越中次郎盛嗣(平盛俊の次男)を止めました。

一時、九州太宰府まで落ちのびましたが、
徐々に勢力を盛り返し要害の地「一ノ谷」に城郭を構え、
源氏との決戦に備えました。しかし、この
一ノ谷合戦で敗れ、
平忠度はじめ重要な武将たちを多く失いました。
その中には、まだ少年の平敦盛の姿もありました。
そして屋島の陣に移りましたが、そこでも源義経に敗れ
遂に壇ノ浦の戦いを迎えます。

特に宗盛の評判が悪いのは、壇ノ浦合戦以後です。
壇ノ浦合戦で阿波民部重能の裏切りを知った知盛が
重能を斬ろうとしましたが、宗盛はこれを押し止めて、
重能の命を助けたため、一門は滅亡しました。

一門が次々入水して死んでいく中、平家を最後まで支えた
重鎮平経盛も弟教盛とともに鎧の上に碇を背負い、
手を組んで入水しました。
鎧の上に錨を背負うのは、能の『碇潜(いかりかづき)』や、
歌舞伎の『碇知盛』で知られる『義経千本桜』で、
平知盛が海に飛び込む最期の場面です。
その原型がこの兄弟の入水時の装いにあったということです。

門脇中納言教盛(平通盛、平教経、業盛、僧忠快の父)、
修理大夫経盛(しゅりだゆうつねもり=平経正・経俊・敦盛の父)
兄弟は清盛の異母弟たちです。
すでに六十歳ほどの年齢であった二人は、
互いに一ノ谷合戦で息子たちを失っていましたが、
都落ちに同行した教盛の息子僧の忠快(ちゅうかい)は、
後に許され承久の乱後も活躍します。

次に、中将資盛(重盛の次男)、少将有盛(重盛の四男)の兄弟、
いとこの
左馬頭行盛(清盛の次男・平基盛の長男)、
この三人もともに手を組んで、一緒に海に沈みました。
一門の主だった人々は、こうして潔く最期を遂げていきますが、
総大将の宗盛、清宗(きよむね)父子はそうもせずに、
船端に出て辺りを見まわし途方にくれていました。

この親子の様子があまりにも情けなくて、家来が傍を通るふりをして
宗盛を海にドンと突き落とすと、清宗もすぐに飛び込みました。
入水した人々は、重い鎧を着こんだり、碇を背負ったので沈みましたが、
この父子は重石の用意もせず軽装、それに二人とも
水泳が達者だったので、
沈むこともできず浮き上がってしまいます。
宗盛は「息子が沈んだら自分も沈もう」清宗は「父が沈んだら自分も沈もう」と
思い互いに目と目を見交わして泳ぎ回るうちに伊勢三郎義盛の
熊手に引っ掛けられ、やすやすと生け捕られてしまいました。

それを見た宗盛の乳母子、
飛騨三郎左衛門景経(伊藤景経とも=藤原景家の子)は、
小舟に乗って義盛の船に乗り移り、主君を救おうと太刀を抜いて、
斬りかかったので義盛は隙をつかれて危くなりました。
そこへ景経と義盛の間に義盛の童が割って入り
主を討たせまいと立ちはだかります。
景経はその頸をとり必死に戦いましたが、なんせ大勢に無勢、
剛の者として知られていた景経もついに宗盛の目の前で斬られてしまいました。

宗盛父子はお互いを気遣って泳ぎ回っているうちに生け捕られました。
右下では、教盛・経盛兄弟が碇を背負って入水しようとしています。
『平家物語絵巻・巻11』岡山・林原美術館蔵。
『平家物語図典』より転載。

京の大路を渡される一門の人々。前の牛車には宗盛父子が乗っています。
一門の惨めなさまに涙を流す群衆。
『平家物語・巻11』東京・永青文庫蔵。『平家物語図典』より転載。
競が事(渡辺競)   平家終焉の地(平宗盛胴塚・清宗胴塚)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、平成13年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
「平家物語図典」小学館、2010年

 



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『平家物語』には、魅力的な人物が登場します。
そのひとりが物語の後半部分に脚光を浴びる平知盛です。

平知盛(1152~1185)は、清盛の四男で、母は二位尼時子です。
清盛の息子だけあって、知盛の官歴は見事なものでした。

平治元年(1159)正月、わずか8歳で官位につき従五位下となり、
同年12月の平治の乱で清盛が源義朝を倒して、都の軍事力を
掌握すると、平家一門の人々の官位は急激に上昇し、
知盛の昇進にも拍車がかけられました。
乱直後の永暦元年(1160)2月大国・武蔵守に任じられ、その後も
官位は上がり続けて従二位の権(ごん)中納言となって
新中納言と称されました。知盛の青年期は、
平家全盛の時代で彼はこの上げ潮に乗じて栄進したのでした。

九条兼実の日記『玉葉』安元2年(1176)12月5日条によれば、
知盛は入道相国(清盛)最愛の息子で、最も期待をかけていたという。
『平家物語』では、凡庸な兄宗盛に比べて人間を鋭く見据え、
洞察する先見性のある人物として描き出されています。

清盛の死後、平家の棟梁となったのは、知盛と同じ時子を母とする
すぐ上の兄の宗盛で、宗盛の下に平時忠が政治的な面を担当し、
知盛が軍事的指揮権を掌握しました。
知盛の真価が発揮されたのは、源平争乱期に入ってからです。

知盛は、作戦上の最高責任者としての立場から幾度も宗盛に
進言しました。
都落ちに反対し、都での決戦を宗盛に
申し入れましたが、受け入れられませんでした。

西国に落ち、屋島に落ち着いた平家は急速に勢力を盛り返して
福原に舞い戻り、一ノ谷に城郭を築き、源氏との決戦に備えました。
一ノ谷の合戦で、生田の森の大将軍であった知盛は、
義経の奇襲攻撃によって総崩れとなり、嫡男知章(ともあきら)と
郎党との三騎で沖の軍船に乗ろうと海岸に逃げる途中、
敵に囲まれました。知章は父を守ろうと敵の中に割って入り討たれ、
知盛はそのすきに追いすがる敵をかわして馬で逃げのび
船に辿りつくことができました。しかし、海上の船は
人であふれかえり、幾多の戦いをともにしてきた
愛馬を乗せる余地がなく、知盛は馬を岸の方へ返させます。

この時、阿波民部重能は、名馬を敵に取られるのを惜しんで
波打ち際に取り残された馬を射殺そうと弓を構えますが、
知盛は「たとえ誰のものになろうとも、今わが命を助けてくれたものを
殺すなどとんでもない。」とこれを制止しました。
馬は主人との別れを惜しむように沖の方へと泳いできましたが、
船がしだいに遠ざかっていくので、やがて渚に泳ぎ帰り
脚が立つようになると、なおも船を振り返り、二三度いななきました。

そのあと知盛は宗盛の前で、我が子を身代わりにして
逃げたことを恥じ涙を流したという。
「いったいどこに父を助ける子を
見殺しにして逃げる親がありましょうか。よくよく命は惜しいものと
思い知りました。」と軍事の最高指揮官としての責任上、最愛の息子を
見殺しにしても敢えて生きのびねばならない自分の
苦しい心のうちを訴え、感情的に取り乱す姿が描かれています。

一ノ谷合戦後、屋島に撤退した宗盛に、後白河法皇から再び
和平交渉が打診されたのは、敗戦からわずか3週間後のことでした。
三種の神器を返還すれば、一ノ谷合戦で捕虜となった重衡の
身柄を釈放しよう、これは重衡も同意しているというものでした。
毅然とこの要求を拒否したのが知盛でした。

一ノ谷合戦では、直前に法皇から宗盛に連絡があり、
「和平の使者を送るので、2月8日まで戦闘を行わぬよう
関東武士に命じてある。」というものでした。
しかし、その前日の7日に源氏軍の攻撃があり、油断していた平家は
大打撃を受けたばかりでした。知盛は老獪でしたたかな後白河の
策謀を見抜き、「たとえ三種の神器を都に返還したとしても、
重衡が返されることはないであろう。」と主張したのでした。

やがて平家は屋島での合戦にも敗北し、壇ノ浦で最終決戦に
挑みました。
『平家物語』によると、知盛は、壇ノ浦合戦を前にして
阿波民部重能の裏切りを見抜き、そ
の首を刎ねるよう
宗盛に求めましたが、宗盛はそれを許しませんでした。

知盛は惣領である宗盛が自分の意見を退けても
恨んだりすることなく兄の決定に従い、サポート役に徹し
一門の結束を乱すことはありませんでした。

平家はこの合戦で後々まで人々の心に鮮烈に残る滅亡を遂げたのでした。
平家一門の総大将の宗盛と嫡子清宗が捕虜となり、主だった人々の
入水と戦死を見届けた知盛が海に沈む前に口にしたのが
「見るべきほどの事をば見つ。今は何をか期(ご)すべき」という言葉です。

(自分はやるべきことはすべてやった。見届けねばならぬことはすべて見た。
いまはもう気がかりなことは何もない。)乳母子の伊賀平内左衛門家長ともに
それぞれ鎧を2領着こんで、手を取り合って入水すると、
知盛に近侍する侍たち20余人があとを追って海に沈みました。
あとにはかなぐり捨てられた平家の赤旗が
海上を薄くれないに染めていました。

乳母子の伊賀平内左衛門家長について、
筑後守平家貞の息子ともいわれ、伊賀国服部の出身で、
伊賀服部氏の祖と伝えられています。
平内は平氏で内舎人を勤めた武士の称です。

『官職難儀』には、「内舎人に成りたるを平氏は平内・藤内・善内と申候。
平内左衛門などと申すは、内舎人より左衛門尉になりたるを、
もとの官をつけてよぶ也」とあります。(『平家物語全注釈(中巻)』)

そうした中、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総守藤原忠清の子・伊勢を本拠とする
藤原氏南家伊藤氏流)、悪七兵衛景清(忠清の子)、
飛騨四郎兵衛(飛騨守景家の子・伊藤景俊)のように
戦場を逃れ、生き延びていくしたたかな勇者たちもいました。

伊藤(藤原)忠光・景清兄弟は、紀伊国湯浅にいた
平忠房(重盛の六男)のもとに馳せ参じて
湯浅城に籠って挙兵しましたが敗れ、再び逃亡して
源氏追討に奔走し、平家武士の意地を貫く道を辿りましたが、
結局、平氏滅亡という歴史的事件をどうすることもできませんでした。
平忠房の最期(湯浅城跡)  
彼らの頼朝への復讐劇は、後世、歌舞伎に
謡曲にさまざまな文芸作品の題材になっています。

壇ノ浦合戦の平家の陣の大将として、「見るべきものはすべて見た」と
言い残して
潔く海に身を投じた知盛の姿は人々の胸を打ち、
『平家物語』の名場面として歌舞伎や能にも脚色されました。
歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」及び「大物浦」の場の登場人物が点出され、
矢傷を負った死相の知盛が大綱を体に巻き、大碇を海中に投げ入れて
入水するという「大物浦」における(碇知盛)の見得を主題としています。
画面上方に、船団や八艘飛びする義経が影絵のように描かれています。
一勇斎国芳筆「壇浦戦之図」部分 高松市歴史資料館蔵
 『源平合戦人物伝』より転載。

歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。
(
みもすそ川公園にて撮影)
平知盛碇潜(いかりかづき)   
平知盛の墓・甲宗八幡神社   
平知章の墓(明泉寺)   
『参考資料』
上杉和彦 『源平の争乱』 吉川弘文館、2007年 
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
高橋昌明 『平家の群像』岩波新書、2009年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年 
 図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
  富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
高橋昌明『平家の群像』岩波新書、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 



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平教経(のりつね=1160~1185)は、平清盛の異母弟・
教盛(のりもり)の次男で、清盛の甥にあたります。
治承3年(1179)、
兄通盛(みちもり)のあとをつぎ能登守となり、能登殿とも呼ばれます。

『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月7日条に一ノ谷合戦で甲斐源氏の
安田義定が教経を討取ったと記されていますが、戦後義経が討取った首を
掲げて都大路を行進した時、その首は本物でないという声があがりました。

『玉葉』2月19日条は、屋島に帰住した平氏の動向を伝える中で、
「渡さるるの首の中、教経においては一定(いちじょう)現存云々」と
記しています。「現存」は通常、生きている意味に使います。

教経の一ノ谷合戦における生死は謎とされてきましたが、
『平家物語を知る事典』によると、
「吾妻鏡は論功行賞の最初の段階で、
安田義定による教経殺害が事実と認定されたため、

軋轢を生む後日の変更などはしなかったことを示している。」とあります。

安田義定は八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の曾孫です。
頼朝の挙兵に甲斐で呼応して立ち上がり、富士川の合戦を勝利に導き、
木曽義仲に続いて都に入り、遠江守に任じられています。
当時、出自・勢力とも一目置かざるを得ない存在で、
自己主張の強い武将でした。

壇ノ浦合戦の結果を記した同時代の史料
『醍醐寺雑事(ぞうじ)記・巻10』には、壇ノ浦での自害者の項に
「能登守教経」の名があり、その時まで生きていたと思われます。

一ノ谷合戦の際、義経軍が三草の陣を陥落したという報に、
鵯越の麓にあった山の手の陣の守備固めが急がれましたが、
義経との激戦が予想される場所への出陣を誰もが嫌がりました。
しかし、「手ごわい方面には、この教経が出陣しましょう。」と
教経だけは平家の棟梁宗盛の要請を引き受けました

一ノ谷合戦後、平教経は、水島の戦い・六ヶ度合戦・屋島の戦いと、
各地を転戦し、そのつど奮戦し源氏を苦しめ続けました。
義経の急襲を受けた屋島合戦では、「王城一の強弓精兵」と謳われた
教経は、船の上から陸地の敵に矢を射かけて
源氏武者を次々に射倒し、義経を狙って放った矢を
身代わりとなって受けた佐藤嗣信をも射殺しました。
壇ノ浦合戦でも、大勢が決しても戦い続け、
義経を窮地に追いつめています。

 壇ノ浦合戦で敗北が決定的となり、安徳天皇の入水を知った
平家一門の人々は次々と海中に身を投げました。
そんな中で最後まで戦いぬこうとする能登守教経の奮戦はすさまじいものでした。
弓矢の名人ですが、ありったけの矢を射つくしてしまったので、
今日が最後と、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧、いかものづくりの(立派な)
太刀と大長刀を両手に持って、船から船へ飛び移って斬りまわっていました。
暴れまわる教経に総司令官の知盛は使者を立て「そんなに罪をつくりなさるな。
それほどの相手でもありますまいに」とたしなめると、教経は
敵の大将軍に組めということだと気づき、闘志を燃え滾らせて
船を次々に乗り移り、義経を捜しついにめぐりあいました。

一勇斎国芳筆「八嶋大合戦」部分 高松市歴史資料館蔵 (「
源平合戦人物伝」より転載)
壇ノ浦で血眼になって追いかける教経を尻目に義経は「八艘飛び」で難を逃れました。

「義経八艘飛びの像」みもすそ川公園にて撮影。



義経は組んではかなわぬと、6mほど離れた味方の船にひらりと飛び移りました。
その身の軽いこと、鞍馬時代の牛若丸を彷彿とさせます。
「義経の八艘飛び」というのがこれです。さすがの教経も、真似はできません。

教経は目ざす義経を取り逃がしたので、もうこれまでと覚悟を決め、
太刀、大長刀を海に投げ入れ、兜を投げ捨てざんばら髪となって、
鎧の袖、草摺りをかなぐり捨て、胴ばかり残して軽々としたいでたちで
「われと思わんものは、この教経を生捕にして、鎌倉へ連れてゆけ。
頼朝に物申さん」」と大音声をあげます。その鬼神のような姿に、
さすがの源氏の武者たちもたじろいて近づくことができません。

ここに、怪力の持ち主で知られた土佐国(高知県)の住人、
安芸郷(土佐国東南端の一角)を知行する安芸大領(郡の長官)の子、
安芸太郎実光(さねみつ)・次郎兄弟と自分と同様に怪力の郎党の3人が、
能登殿の船に押し並べ、乗り移りそれとばかりに挑みかかりました。
教経はまず郎党を蹴倒して、海に投げ込み、安芸兄弟を左右の脇に
しっかりと抱え込んで「いざ参れ、おのれら死出の山の供をせよ」と
叫ぶがはやいか海中に身をおどらせます。
教経はこのとき26歳。豪傑らしい壮絶な最期でした。

読み本系に属する平家物語(百二十句本)にこんな一節があります。
「ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、
大領太郎実光とて、三十人が力あり。弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。
主におとらぬ郎等一人。兄の太郎、判官(義経)の御前に
すすみ出でて申しけるは、『能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、
組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ
幼き者不便にあづかるべし』と申せば、判官、『神妙に申したり。
子孫においては疑ひあるまじき』とのたまへば、安芸の太郎主従三人、
小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。」

源氏方にとって闘志の原動力は所領の獲得にありました。
安芸兄弟は手柄をたてて、土地を獲得して帰りたいのですが、
教経にはとても太刀打ちできません。とうていかなわない敵に対しては、
手柄というのは、命を捨てることでしかありません。
「能登殿に寄りつく者がいないので、我らが組みつこうと思います。
それについては、土佐に残した2歳の子に目をかけていただきたい」と
義経に言うと、「殊勝によくぞ申した。子孫のことは気づかい無用」
こうして義経から安芸郡の支配権相続についての保障を得ると、
安芸兄弟と郎党は、小舟に乗って能登殿の船にうつり、3人1度に
兜を少し前に俯せて、教経に討ちかかって行ったのでした。
義経の八艘飛び  
能登守教経の山手の陣(神戸の氷室神社)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年 

別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

 

 



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義経には有名なエピソードがあります。中でも代表的なのは、
屋島合戦での「弓流し」と壇ノ浦合戦での「八艘飛び」です。
「弓流し」は、那須与一が扇の的を見事に射抜いた後に起きたできごとです。
義経の身体は小柄で弓も立派なものではありません。
自分の弓が敵に拾われた時、なんと貧弱な弓よと笑われるのが
嫌さに危険を顧みず流される弓を拾いにいったのでした。

「義経八艘飛びの像」みもすそ川公園にて撮影。

義経の八艘跳びの図

繪本武者鞋上巻 北尾重政(1739-1820)画   耕書堂
画像は「新古今和歌集の部屋」管理人様のご厚意により拝借いたしました。

壇ノ浦の戦いで、平家の敗北が濃厚となり、死を覚悟した
平教経(のりつね=清盛の弟・教盛の子)は、源氏方の大将である
源義経を討ち取ろうと、必死に探し出して挑みかかろうとしましたが、
義経は叶わないと思ったのでしょうか、薙刀を脇に抱えて二丈(約6m)ばかり
離れた場所にいた味方の船にひらりと飛び移って逃げたという。
さすがの教経も「あの早業にはかなわぬ」と続いて
飛び移らず義経の首をあきらめました。

安定の悪い船の上から、満足な助走もなしで大鎧と
甲冑を着用して、いわば立ち幅跳びをしたのですから、
義経はたいへんな運動能力の持ち主ということになります。

源平時代の頃の大鎧と甲冑の総重量は30、40キロです。
義経は小柄ですからこれよりも軽い甲冑を
身に着けていたとしても、6m余りを船から船へ飛び移ったという
早業は、
誇張があるにしてもおそろしい跳躍力です。

この物語は形を変えて語り継がれ、義経はこの後も次々と船を
八艘まで飛び移って逃げ、教経もこれに続いて追いまわしたとされ、
「義経の八艘飛び」と呼ばれるようになりました。

伝義経奉納 赤絲威(あかいとおどし)鎧・大袖付(国宝) 
大山祇(おおやまつみ)神社蔵
『大山祇神社』より転載。
若武者らしい華やかな茜染の赤糸で威した鎧です。
源平合戦後、佐藤忠信を使者として奉納したもので
「八艘飛びの鎧」とよばれています。

平治の乱で平清盛に敗れた父義朝が非業の死を遂げ、
義経(牛若丸)は母の常盤とも別れて鞍馬寺に入り、
奥州の藤原秀衡のもとに旅立つ16歳まで鞍馬で過ごしました。

源氏再興の宿願のため、夜ごと老杉に覆われた鞍馬山
僧正ヶ谷(そうじょうがたに)で兵法修行に励んだといわれ、
鞍馬には、牛若丸にまつわる伝説が数多く残っています。
「義経背比べ石」、「大杉権現」から無数の杉の根が絡まって
盛り上がる道(木の根道)を経て、魔王殿までが
義経が武芸を磨いたという僧正ヶ谷です。ここで人知れず
早足・飛越・刀術などの稽古に励んだと伝わっています。

さらに平家を討つ宿願をいだいて、険しい山道を越え、
夜な夜な貴船社に詣でたといいますから、
運動神経は当然、研ぎ澄まされたでしょう。
義経に備わった敏捷な身のこなしは、天性のものと
鞍馬での武芸の稽古で培われたものと考えられます。
鞍馬寺1(牛若丸)  
義経を追いつめた平家の猛将平教経の最期   
屋島古戦場を歩く(義経弓流し)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
近藤好和「後代の佳名を胎す者か 源義経」ミネルヴァ書房、2006年
五味文彦「物語の舞台を歩く 義経記」山川出版社2005年
「大山祇神社」大山祇神社発行、平成22年

 

 

 



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寿永4年(1185)3月24日、壇ノ浦合戦で平家が滅亡しました。
平家一門が次々入水し、安徳天皇とともに
海の藻屑と消えた壇ノ浦は関門橋の下あたりです。

橋のたもとには、「みもすそ川公園」があり、「壇の浦古戦場址」、
「安徳帝御入水之処」などの碑や「源義経・平知盛」の像が建っています。




もはやこれまでと悟った知盛は、小舟に乗って安徳天皇のいる
御座船に移ると、敵に見られて恥となるようなものは、すべて海中に
捨てるようにと、女官達に命じ、自らも船の中を掃除してまわります。
女官たちが戦の状況を尋ねると、「すぐに珍しいあずま男たちを
ご覧になれます。」と言ってカラカラと笑ったという。

この様子を見ていた二位尼は、たじろぐ気配も見せず、
かねて用意していた鼠色(喪服)の二枚重ねの衣をまとい、
長袴の脇をたくし上げて、袴の裾が邪魔にならぬよう結びの紐にはさみ、
神璽(しんじ=八尺瓊曲玉=やさかにのまがたま)を脇に、
宝剣(草薙剣=くさなぎのつるぎ)を腰に差して安徳天皇を抱き「わが身は
女ではあるけれども、敵の手にはかかりませぬ。帝のお供をいたします。
志のある者は私に続きなされ。」と船端に立ちました。
帝はその時八歳。その顔だちはとても美しく、
黒髪がゆらゆらと背中まで伸びていたといいます。

安徳天皇画像部分 泉涌寺所蔵
『源平合戦人物伝』より転載。

安徳天皇御入水(みもすそ川公園にて撮影)
寿永四年三月二十四日、源氏平家の最後の戦が描かれ、
画面中央が安徳天皇御座舟です。


「波の下にも都の侍ふぞ」二位尼は幼い主上を抱き、
波高い壇ノ浦に身を投じました。『平家物語絵巻』より転載。

びんずらに結った安徳天皇
林雲鳳筆「海の浄土」岐阜県美術館蔵 
『図説・源平合戦人物伝』より転載。

幼い天皇にはことのなりゆきはまだ理解できず、茫然とした様子で
「尼ぜ、われをどこへ連れてゆくのか」と問われ二位尼は
「君は前世で十善戒行を修めた功徳によって、こうしてこの世で
天子の位にお生まれになりましたが、悪縁にひかれて
御運はすでに尽きてしまいました。
まず東に向かって、伊勢大神宮にお別れを申し上げ、
それから西に向かって西方浄土へお迎え下さるよう
念仏をおあげなされませ。この国は心憂き所にあるので、
極楽浄土というすばらしい所へ、お連れ申しあげます。」というと、
山鳩色の御衣を召し、びんずら(少年の髪型)に結い、
泣きながら小さな手をあわせ、
まず東に向かって、伊勢大神宮にお暇乞いをなされ、
西に向かって念仏を唱えられました。
二位尼は帝を抱き「波の下にも都がござりますぞ。」と
言い聞かせて深い海の底に消えてしまいました。

安徳天皇入水について『吾妻鏡』文治元年4月11日条には、
二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察局(あぜちのつぼね)が
安徳天皇を抱きともに入水したと記されています。
按察局は建春門院の女房で女院が亡くなった後、平清盛の娘
徳子に転じた最上臈の女房と思われる。(『王朝の明暗』)

また、入水時の二位尼の姿については、安徳天皇との会話に
多少違いがあり、『長門本』、
『延慶本』、『源平盛衰記』では、
「今ぞ知るみもすそ川の御ながれ 波の下にもみやこありとは」と
和歌を詠んでいるなど諸本で描き方に違いが見られます。

三種の神器のうち神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)は、唐櫃におさめ
重衡の妻大納言典侍局(すけのつぼね=安徳天皇の乳母)が
持って入水しようとしましたが、袴の裾を射られ、
つまずき倒れたところを源氏の武士に取り押さえられました。

二位尼が身につけて沈んだ神璽(しんじ)と宝剣は、
神璽を入れた箱が浮かび上がったところを常陸国の
片岡経(常)春に拾われたものの、宝剣だけはその後の度々の
捜索にも関わらず、ついに発見されることはありませんでした。

平家は都落ちの際して三種の神器をたずさえ、
西国目ざして落ちていったので、
後白河法皇は、三種の神器がないまま、
安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を即位させました。
皇位の象徴である三種の神器なしで位につかせた法皇にとって、
神器奪回は重大な問題でした。それは平氏追討を命じられた
頼朝にとっても重要なことでした。

一ノ谷合戦の直前まで、後白河法皇は平家と三種の神器の
返還をめぐる交渉をしましたが、不調に終わりました。
この合戦で平家に大打撃を与えたものの、神器奪還には失敗し、
法皇は屋島に逃れた平宗盛に一ノ谷で捕えた
重衡の身柄と、三種の神器の交換を交渉しました。
しかし、都にいるのは偽の天皇であり、安徳天皇こそ
三種の神器をもつ正当な天皇であるとする平家は
それを拒否し、朝廷では法皇らが、
三種の神器の無事帰還に憂慮していました。

平家は滅びましたが、朝廷や源頼朝が最後まで執着した
安徳天皇と三種の神器の完全な返還は叶いませんでした。
後白河法皇や鎌倉の頼朝の望みを絶ったのが二位尼でした。

二位尼時子は、清盛の妻であり、安徳天皇の祖母です。
宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子の母であり、
後白河院が寵愛した建春門院滋子(しげこ)の姉です。

後白河院と建春門院の間に生まれた高倉天皇に、今をときめく
太政大臣清盛の娘徳子が入内し、安徳天皇を生んだことで
平家一門の栄華は頂点に達しました。そして、
平家一門とともに都を去った安徳天皇は、西海をさまよったあげく、
壇ノ浦の海底に沈み平家と運命をともにしました。
まさに安徳天皇は、平家一門の栄華と没落を象徴する存在でした。

『延慶本』によれば、源範頼が長門で平氏を待ち構え、
豊後の緒方惟栄(これよし)が九州の軍勢を率いて
中国大陸への航路をふさいだという。
平家は渡海可能の宋船(物語では唐船=からぶね)を
数隻持っています。
長年の貿易で平家と宋とは、深い友好関係にあり、
平家繁栄の背後にあったのが日宋貿易
よって得た豊富な財力の存在でした。
大陸方面へ脱出すれば、三種の神器を携えた
安徳朝廷による亡命政権の可能性も想定されます。

安徳天皇入水像の碑   壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)  
安徳天皇産湯の井(妙順寺)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
佐伯真一「建礼門院という悲劇」角川選書、平成21年 
近藤好和「後代の佳名を胎す者か 源義経」ミネルヴァ書房、2006年
角田文衛「王朝の明暗(安徳天皇の入水)」東京堂出版、平成4年
佐伯真一「物語の舞台を歩く 平家物語」山川出版社、2005年
水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会、昭和51年
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
 図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年

 

 

 



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壇ノ浦は九州と本州とを隔てる海峡です。
源平合戦当時も、対岸は手に取るように見えたはずです。

一門の命運をかけた最後の戦いで、平氏軍は当初、潮の流れに乗って
矢を一斉に射かけ、源氏軍を満珠島・干珠島のあたりにまで追いやりました。
ところが、潮目が変わったことにより、今度は源氏が潮に乗って平家を打ち破ったといい、
かつては関門海峡の潮流の変化が壇ノ浦合戦の勝敗を決したとされました。
この潮流勝因説はドラマチックですが、現代科学に基づく推定では、
さほど大きな影響はなかったと見られています。

今までの合戦にはない戦法を駆使した義経に敗れたとする説もあります。
当時は、兵船といっても、軍事用の特別な船はなく、年貢などを運ぶ
輸送船を代用し、
船底部は木を刳(く)って造った刳船(くりぶね)でした。
船体の幅が狭いため、その両側にセガイと呼ぶ張り出しを設けて、
櫓を漕ぐ水手(かこ)や梶取(かんどり)は、その上に座って櫓を漕いでいたのです。
兵船であれば囲いでセガイを保護してありますが、彼らは完全に無防備な状態です。

そこで義経は非戦闘員の水手や梶取を射殺して操船不能にし、
平家の船団を大混乱に陥れるという戦術にでたというのです。
当時の合戦では、水手や梶取を攻撃しないことが
暗黙のルールでしたが、義経はそれを無視したのです。

確かに『平家物語・巻11・先帝身投』には、源氏軍が平氏の
水手・梶取を殺したことが記されています。しかし、義経が
水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、非戦闘員ともいえる彼らを攻撃したのは、
阿波重能の裏切りによって合戦の大勢が決したあとの話です。

平安末期の様式を示す大型船
セガイと呼ぶ枠組みの上に櫓棚(黒い部分)を設け、5人の水手が
櫓を漕いでいます。主屋形と櫓屋形(ともやかた)の間には、
上半身裸の梶取が見え、水手や梶取が無防備であったことがわかります。
(『北野天神縁起絵巻』京都北野天満宮蔵 平家物語図典より転載)

『平家物語・巻11・先帝身投』は、「阿波民部重能が平家を見捨てたのは、
屋島で子息・田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)

義経の策略によって源氏の捕虜となり、 もう一度息子に逢いたいとの
想いから、たちまち心変わりして知盛の作戦を義経に通報した。」とあり、
平家の
敗因をこれまで平家を支えてきた阿波重能が
合戦の途中、源氏に寝返ったからだとしています。

「唐船には高貴な人は乗り給わず。兵船に召したるぞや。
兵船を攻めよ。」と教えたので、源氏は唐船には目もくれず、
身分ある人々を乗せた兵船に襲いかかりました。
源氏の兵たちは
平家の兵船に漕ぎ寄せて乱入し、逃げ惑う
水手・梶取を射殺し斬りふせ、
平家軍は大混乱に陥りました。
平家軍の劣勢を見た他の武士も次々と寝返り、
平氏の敗北は決定的になったのです。

この説がもっとも説得力がありますが、『吾妻鏡』文治元年
4月11日条によれば、阿波重能は合戦後、源氏の捕虜となっています。
近藤好和氏は「重能に源氏勝利の功があるならば、捕虜には
ならないとする向きもあるが、長年平氏に仕えながら、
最後に裏切った重能が捕虜になるのはむしろ当然であり、
なんら疑問はないと考える。」(『源義経』)と述べておられます。

延慶本(巻12)によると、長年信頼されていた家臣が主を裏切ったとして、
鎌倉に送られた重能の評判は悪く、斬るべきか許すべきかが
議論されますが、御家人たちは口々に斬刑を主張します。
これを聞いた重能は罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐いたので、
ついに籠に入れられ火あぶりにされたという。

唐船と兵船(みもすそ川公園にて撮影)
長門の国壇之浦の舟いくさが全面に描かれています。
唐船を中心に船隊を組む平家軍と襲いかかる源氏軍を描き、
上部に干珠島と満珠島を描いています。
源氏をあざむく為の大きな唐船には、帝はお乗りにならず
多くの兵士がまちかまえています。

屋島から壇ノ浦までの約1ヶ月、義経の足取りはつかめませんが、
平家との最終決戦に向け、瀬戸内海沿岸、島々で活動し
周到な根回しをしていたと思われます。
西国は平家の地盤ですが、一ノ谷、屋島と源氏が大勝している上、
都落ち以来の拠点であった屋島を奪われ、瀬戸内海を
西へとさまよう平家の衰運は明白です。

義経は屋島の戦いの前後、もともと源氏に心を寄せていた
伊予の河野水軍、屋島で捕虜にした田内教能の勢力を吸収、
熊野別当湛増の率いる熊野水軍やそれまでどうにか
平家に従っていた武士たちも雪崩を打って平家を離れ、
源氏についてしまいました。兵力に開きがある上に合戦途中、
阿波民部重能の離反により平家の軍勢はさらに減少しました。

また、平家が安徳幼帝、公卿、女官など多くの非戦闘員を
戦場に同行していましたが、安徳天皇はともかくとして、
足手まといになる公卿、女官などは彦島に残して出撃するべきでした。

壇ノ浦の合戦で、イルカの群れが泳いで行くのを見た陰陽師の安倍晴信は、
平氏の敗北を予言したと平家物語は語っています。
(画像は『平家物語絵巻』より転載)

潮流に乗った平家軍が初めは優勢でしたが異変が次々と起こります。
戦いの最中、源氏方に一流れの白旗が大空から舞い降り、
義経はこれを八幡大菩薩の出現と喜び、兜を脱ぎ手水うがいをして、
旗を拝むと源氏の兵たちもそれに倣いました。つづいて沖から
平家の船の方に向かってイルカが千尾、2千尾と泳いできました。
イルカの大群に驚いた宗盛が占い師に占わせたところ
「イルカが引き返せば源氏が滅び、このまま通り過ぎれば味方が危のうございます。」と
言い終わらないうちにイルカの群れは平家の船の下を泳いでいきました。(巻11・遠矢)
志度合戦(田内教能降伏)  
『参考資料』
近藤好和「後代の佳名を胎す者か 源義経」ミネルヴァ書房、2006年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年 
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年 
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
柘植久慶「源平合戦戦場の教訓」PHP文庫、2004年
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年 
五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』小学館、2010年 

 

 



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壇ノ浦というのは、関門海峡の下関側の名です。潮の流れが速く、
その変化が激しいことで知られ、早鞆瀬戸(はやとものせと)ともいわれています。

屋島の戦いに勝利した源義経は軍船840艘を率いて関門海峡の東口、
奥津(満珠島・干珠島)まで進みました。これを聞いた平家軍も
軍船500余艘を率いて彦島を出撃し、田ノ浦
(現、北九州市門司区・関門橋の東側)まで船を進め、
奥津の義経軍とは30余町(約3270m)隔てていました。両者はそこで
元暦2年(1185)3月24日午の刻(正午)に戦闘を開始しました。

合戦の開始については『平家物語』には「卯刻(朝七時)に矢合」と
書かれていますが、正しくは義経の報告によって、
九条兼実の日記『玉葉』元暦2年(1185)4月4日条に
「去る3月24日長門壇ノ浦において合戦、午の刻より
申の刻(午後4時)に至る。多数を討取り、生け捕りにした。」とあり、
正午に始まり16時頃まで行われたことが確認できます。

『玉葉』のこの記事は、追討の大将軍義経から合戦報告を
受け取った後白河院の使者が右大臣九条兼実邸を訪問し、
義経からの飛脚の内容を伝え、それを書きとめたものです。

戦いの前半の様子を『平家物語』(巻11・壇浦合戦)は、
「門司、赤間、壇ノ浦は、潮が逆巻いて流れ落ちるような
急流であったから、平家は潮の流れに乗って有利に戦かったが、
潮に向かった源氏の船は押し返された」とあるように、ここでは
潮流が合戦に大きな影響を与えたように記されています。しかし、
戦いの途中で潮流が反転し、状況を変えたとまではいっていません。
『吾妻鏡』(元暦2年3月24日条)には、合戦に関しても
簡潔にしか記してなく、潮流についてはまったく触れていません。

合戦への潮流の影響は、古くは黒板(くろいた)勝美
東京帝国大学教授が提唱した潮流勝因説です。
黒板教授は旧海軍の潮流資料に基づき、
その著書『義経伝』において、壇ノ浦合戦当日の
潮流の変化を推定し、関門海峡の潮流が正午ごろは、
内海に向って東流していた潮が、午後3時ごろから
外洋に向って西流に変化すると指摘しました。

義経は味方に引き入れた地元の串崎船に乗りこみ、早くから
老船頭に潮流の変化を聞き、午後3時頃より西流という
潮流を予測して作戦を立てた。これが功を奏して序盤こそ
苦戦したものの、潮が逆流してからは一気に反撃に出て
最大8ノットという激しい潮流を利用して勝利をおさめたのだとし、
戦いの勝敗を決したのは、関門海峡の潮の流れの
変化であるというのです。この説は広く支持され、
壇ノ浦の強い潮流が勝敗の最大要因とされました。

ところが、近年のコンピューター技術の発展により、
これに異論を唱える人がでてきました。
金指(かなさし)正三海上保安大学教授は、潮流のコンピュータ解析を行い、
合戦の行われた日は小潮流の時期で、黒板説の根拠となっている
8ノットという速い潮流は無く、
また大正時代に旧海軍が潮流を
調査した場所は最も狭い早鞆瀬戸の話であり、
主戦場の壇ノ浦は、それより東北、潮流の影響の少ない
満珠島・干珠島に至る広い海域で、
この海域の当日の潮流は1ノット以下であり
合戦に影響を与えるものではないとしました。

当時の船を復元した船舶史の石井謙治氏は、同じ潮流に
乗っていた源平両軍の船が海面を進む速力は同じであるといい、
従来の説は、人々が陸地から見た船の動きが
海上でも同様に作用すると錯誤しているとし、
合戦には潮流はまったく影響しないと述べておられます。

中本静暁氏は、合戦のあった旧暦3月24日(新暦5月2日)と
月と太陽位置関係がよく似ているのは、
昭和23年(1948)5月2日であるとし、そのデーターを提示されています。
『地域文化研究』(元暦2年3月24日の壇ノ浦の潮流について)

ちなみに潮の干満(かんまん)は、月と太陽の引力によって起き、
月と太陽位置の影響が最も大きく影響しています。

義経が後白河院に報告したという『玉葉』の記述によって
この表を見ると、12時から午後4時までは、
潮流が最も静まっている時間帯であることがわかります。

豊富な海戦の経験をもつ平氏は、壇ノ浦が時間帯によって
潮の流れが目まぐるしく変わることを熟知しています。
海に精通していた地元の小水軍を味方にした義経も
この海域の複雑な潮流や操船のコツを聞いたと推測できます。
このことから、源平双方は潮の流れが緩やかな
時間帯を選んで合戦を行ったと思われます。

『平家物語』は、沖は潮の流れが速いので、
梶原景時父子は、
水際に船をつけて潮の流れに乗って進んでくる
敵の船を熊手にかけて引き寄せ、親子主従14、5人が次々と
敵の船に乗り移って討取り、大成果をあげたと記しています。
海戦が狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の
向きも変わるという壇ノ浦で行われたということは、
潮流の影響を全く無視できなかったことを物語っています。

梶原景時に扮する片岡市蔵の役者絵
(東京大学大学院情報学蔵)源平合戦人物伝より転載。

梶原源太景季



関門海峡は、1日平均500隻を超える船舶が行き交い、
外国船や大型船もかなりあります。
船舶の安全航行のために、
関門海峡には潮流信号表示機が3か所設置されています。

下関側では火の山の下、国道9号線沿いの高台に潮流信号の
電光表示機があり、
関門海峡・早鞆瀬戸の潮流の状況
(流向・流速・流速の傾向)を電光板で知ることができます。

電光表示は、東流(玄界灘から周防灘の方へ流れる潮流)が「E」、
西流(周防灘から玄海灘の方へ流れる潮流)は「W」で表されます。

また矢印の上向き「↑」は急潮に向かう、
下向き「↓」は緩潮に向かうことを表します。
0~13までの「数字」は、潮流の速さをノットで示し、
これまでに最高の急潮は12ノットとされています。



『アクセス』
「火の山下潮流信号所」 下関市みもすそ川町3-1 
「御裳川バス停」下車徒歩約6分
『参考資料』
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年
 河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
朝日カルチャーシリーズ「名将の決断 斎藤道三・平知盛」朝日新聞出版、2009年

 

 



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一ノ谷合戦から約1年、屋島の戦いから1ヶ月余が経ちました。
屋島合戦で義経軍の奇襲攻撃受け、瀬戸内海を西に逃れた平家軍は、
平知盛が拠点とする長門国彦島(引島)に着き、
いよいよ最終決戦に臨むことになりました。

一方、屋島をおさえた義経には、伊予の河野水軍や阿波・讃岐の
豪族たちが兵船を率いて帰属し、散々迷った末に
平家方から寝返った熊野別当湛増の水軍も加わりました。

義経軍は、周防国(山口県東南部)まで進出し、源範頼配下の
三浦義澄の軍勢と合流しました。範頼が豊後に渡海する時、
門司の関(北九州市)を見た者として、周防に留まり
守備を命じられていた義澄は、当地の地理に詳しかったため、
義経に先頭を進むよう命じられたという。三浦半島を
本拠地とする三浦氏は、海運にも長けていたと思われます。

鈴木かほる氏は、「義澄が、すでに門司の関を見ていたということは、
平安末期、三浦氏の相伝所領が門司周辺にあった可能性は
大である。」と述べておられます。(『相模三浦一族とその周辺史』)

そこへ周防国の在庁官人の
船所(ふなどころ)五郎政利が、
数十艘の船を献上したので、義経は政利に鎌倉殿の
御家人たることを保証する書状を与えています。(『吾妻鏡』)

また関門海峡の複雑な潮の流れに詳しい長門国串崎の水軍を
味方につけることに成功し、源氏軍は串崎船12艘に先導され
長府沖の満珠(まんじゅ)島・干珠(かんじゅ)島周辺に集結しました。

この時の功により、串崎の船頭たちは平氏追討後、日本国中の
津泊(つどまり)の公役を免除するという義経自筆の
下文を与えられています。(南北朝時代の歴史書『梅松論(下)』)

源氏の動きを見守っていた平家軍は、全軍を三手に分けて
山鹿秀遠(ひでとお)を第一陣、松浦(まつら)党の水軍を第二陣、
そして平氏の軍を第三陣として総勢500余艘を以て彦島を出撃し、戦いの前日、
急潮の早鞆瀬戸を抜け、流れのゆるやかな門司の田ノ浦に陣を布きます。

屋島合戦の前、渡辺津で逆櫓をつけるつけないで義経と
対立した梶原景時が、決戦当日、また義経と衝突しました。
屋島合戦の時、遅れをとって、景時が到着した時には、
すでに合戦は終結していました。この汚名を挽回するため、
義経をさしおいて景時が「先陣は景時に」と言い張りました。
しかし義経が許さなかったため、あわや同士討ちというところで、
義経には三浦義澄が景時には土肥実平が取り付いて
事なきを得ましたが、これ以降景時は、頼朝に義経を
讒言するようになり、後の義経の悲劇へと繋がっていきます。

元暦2年(寿永4年、1185)3月24日午の刻(正午)
開戦の鏑矢が鳴り響き、両軍の鬨の声は、梵天まで轟き、
堅牢地神(けんろうじしん=大地を司る神)もさぞ驚いたに違いない。
こうして関門海峡を舞台に源平最後の戦いが幕を開けました。

 源氏軍 壇ノ浦赤間が関(山口県下関市)

 
源氏軍の先陣にいた義経は、(右上、日の丸の扇を持っています。)
楯も鎧も防ぎきれず散々に射られて退却します。
義経は屋島合戦の「義経弓流し」に見られるように、
背が低く小柄であったため、その弓は弱く、
立派なものではありませんでした。

平家軍 田ノ浦門司の関(北九州市)
 平家軍の三手に分けた第一陣。田ノ浦から発進した山鹿党は、
九州一の強弓を引く山鹿秀遠を先陣とし、源氏方へまっしぐらに進み、
精兵五百人を舟ばたに立て、一斉に矢を放ちます。

鬨の声が鎮まると、平家の総指揮官知盛は、舟の屋形に立ちあがり、
「いくさは今日が最後であるぞ。者ども、一歩たりとも退くな。
天竺(インド)震旦(中国)にも、わが朝にもならびなき
いかなる名将、勇士といへども、運命が尽きては力及ばず、
されども武士としての名誉は惜しめ。東国の者どもに弱気を見せるな。」と
大音声をあげ、武士たちに下知をとばします。

戦いのために用意した船は『平家物語』は、「源氏の船は三千余艘、
平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。」としていますが、
この数にはかなり誇張があり、『吾妻鏡』によると、
平氏の五百余艘に対して源氏は八百四十艘としています。

平氏側の唐船(からぶね=中国風の大型船)には、安徳天皇はじめ、
総大将の平宗盛や二位尼、一門の女房達が乗っている御座船と思われます。
ところが、総指揮官の平知盛(清盛の4男)は、この唐船をおとりに使い、
実際には安徳天皇や宗盛、二位尼らを粗末な船に乗せ、
唐船には身分の低い兵を乗せて御座船めがけて襲撃する源氏を
一気に討取ろうという作戦を立てました。
『平家物語』は、阿波民部重能(しげよし)の裏切りによって
この計略は敵方に通報された。と記しています。

阿波の豪族・阿波民部重能(成良とも)は、清盛が福原に
経島を建設する際、その奉行を務めるなど有力家人として平氏を支え、
平家都落ち後も忠誠を尽くし、屋島に内裏を建て一門を迎え入れるなど
貢献度は抜群でした。その重能に裏切りの心がめばえたのは、
時世の動きと嫡男の田内(でんない)左衛門教能(のりよし)が屋島で、
義経の家臣伊勢三郎義盛に騙され捕虜となってからでした。

知盛は子息のために、重能が裏切ることを危惧し、
決戦を前に斬り捨てようと、惣領である宗盛に進言しますが、
凡庸な宗盛はこれを見抜くことができず許さなかったため、
知盛は歯ぎしりをして悔しがったという。
これが平家にとって決定的なあやまちとなります。
知盛の不安は的中し、平家側の作戦はすべて源氏方に漏れ、
しだいに敗色が濃くなるとそれまで平家に
つき従っていた者たちまでが次々と寝返りました。

壇ノ浦合戦では、源範頼の功績も大きかったのです。
壇ノ浦海戦に先だって、源氏本隊の範頼軍は、九州一の
反平家勢力の緒方三郎惟義(これよし)・臼杵二郎兄弟から
船の提供を受け、周防国を発ち豊後国(大分県)に上陸し、
再度渡海して葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町)に上陸しました。

元暦2年(1185)2月、原田種直一族を葦屋浦(あしやうら)合戦で破り、
平氏の九州上陸を阻止する態勢を整えていたので、
平家の逃げ場はどこにもありませんでした。
平氏の九州支配、とりわけ大宰府を中心とした九州支配が
範頼によって根絶やしにされていたことになります。

原田種直の肖像画(岩門城跡にて撮影)
原田種直は、大宰府府官を歴代継承してきた
大蔵姓原田一族の惣領で、平家に取り立てられて
大宰権少弐(しょうに)となるなど平家が最も頼りとする存在でした。
妻は平重盛の養女(平頼盛の娘とも)といわれています。

一門都落ちの時、平家はすぐに原田種直を頼り、種直は自分の館
(福岡県筑紫郡那珂川町安徳)を安徳天皇の行宮にしています。
壇ノ浦合戦では、平氏側の水軍に原田種直の名が見えませんが、
『源平盛衰記(巻43)』(源平侍遠矢、附けたり成良返忠の事)には、
種直の名があり、平氏水軍として参加したことは間違いないようです。
源氏軍が結集した満珠島・干珠島 
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  

龍国寺(原田種直赦免)   闘鶏神社(熊野水軍本拠地)  
『参考資料』
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年 
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
朝日カルチャーシリーズ「名将の決断 斎藤道三・平知盛」朝日新聞出版、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年 
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
菱沼一憲編著「中世関東武士の研究 源範頼」戎光祥出版、2015年
鈴木かほる
相模三浦一族とその周辺史(門司の関と三浦氏)」新人物往来社、2007年
完訳「源平盛衰記(8)」勉誠出版、2005年

 

 

 



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料亭旅館「みもすそ川別館」の敷地内に安徳天皇入水像の碑があります。
受付の方にお願いして拝観させていただきました。



最寄りの御裳川バス停








備前焼で作られている安徳天皇像。



二位尼が念仏を唱える安徳天皇を抱きかかえ
入水しようとしている姿を表わしたものです。
この悲劇の像は、備前焼作家・
浦上善次氏の作品です。



台座には、「今は昔七百八十年前を偲び感慨一入深きもの〇〇
昭和四十年一月建之」と記されています。 〇読めない文字

都を落ちて2年、寿永4年(1185)3月24日、敗北を悟った平知盛は、
その旨を一門に伝えます。
覚悟をしていた二位尼(時子)は、
「われをどこに連れていく」と8歳の安徳天皇に無邪気に尋ねられ
「波の下にも都がございますよ。」と慰めて千尋の底に沈みました。

治承2年(1178)11月、高倉天皇と平清盛の娘・建礼門院徳子との間に
第1皇子として生まれた安徳天皇は、清盛の意向を受けて
僅か3歳で即位しましたが、平家一門の没落とともに状況は一変します。
寿永2年(1183)には、何も分からぬまま6歳で一門とともに都落ちし、
西海をさまよったあげく入水させられました。
まさに激しい時代の渦の中に巻き込まれた天皇です。

一条戻り橋(建礼門院の難産にあたり時子橋占い)  
『源平盛衰記』によると、建礼門院のお産の時、
時子が一条戻橋で橋占を行うと、
「八重の塩路の波の寄榻(よせしじ)」と
不吉な予言をされて生まれたのが安徳天皇でした。
壇ノ浦合戦(安徳天皇入水)  
『アクセス』
「みもすそ川別館」〒751-0813 山口県下関市みもすそ川町23−15
JR下関駅からバス12分「みもすそ川」バス停すぐ
『参考資料』
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課



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筆立山の麓に鎮まる甲宗(こうそう)八幡神社は、
貞観2年(860)、大宰大弐清原峯成(きよはらみねなり)により創建。
社号は、神功(じんぐう)皇后が着用した甲(かぶと)を
ご神体とすることに由来するという。

中世以来、門司六ヶ郷の総鎮守であり、源平ゆかりの地としても
知られる社で、社務所裏
には、平知盛の墓があります。
社伝によると、壇ノ浦の合戦後、知盛の遺体は門司関へ漂着し、
これを憐れんだ里人によって壇ノ浦を見渡せる
筆立山に葬られたとされています。
その後数百年の間、筆立山にありましたが、
昭和28年の大水害でこの山が崩落し、現在地に移されました。

元暦2年(1185)3月、壇ノ浦合戦前に鎌倉方の大将であった
源範頼(1150~1193)と副将の源義経(1159~1189)が参詣し、
重藤弓と鏑矢を奉納して必勝を祈願し、その戦勝後には、
社殿を新たに造営したとの記録が社伝に残っています。

第一殿に応神(おうじん)天皇、第二殿に神功皇后、
第三殿に宗像三女神(むなかたさんじょしん)の
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
多紀津比売命(たぎつひめのみこと)を祀っています。

源範頼・義経兄弟が揃って参詣したという甲宗八幡神社拝殿。

「義経・平家伝説ゆかりの地
甲宗八幡神社 平知盛の墓
源平の戦いの後、源範頼・義経兄弟が戦いで荒れた社殿を再建した。
また、拝殿裏には平知盛の墓と伝えられる石塔があり、
昭和28年の大水害の時に筆立山から流れて来たと伝えられる。北九州市」

みもすそ川公園内に建つ碇を振り上げる平知盛像。

源平最後の合戦に臨んだ新中納言知盛は、
総大将宗盛に代わって全軍を指揮し激を飛ばしました。
しかし安徳天皇が祖母の二位尼とともに入水、
宗盛父子は生け捕られ、教経が海に飛びこむのを見届けると
「見るべきものは全て見た。今は自害せん」と言い残し、
決して浮かんでくることがないように乳母子の
伊賀平内左衛門家長(いがへいざえないもんいえなが)と共に
重い鎧を二領着こんで、手を取り合い海に沈んでいきました。

伊賀平内左衛門家長は、筑後守平家貞の息子ともいわれ、
伊賀国服部の出身で、伊賀服部氏の祖と伝えられています。

平知盛の墓(左)と供養塔(右)

伝 平知盛の墓  
この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として
甲宗八幡神社に伝わるものです。
知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として
能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。
父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、
平家一門の統率的存在となり、寿永三年(1184年)、
所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、
翌年の壇の浦の戦い(1185年3月24日)では
田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、
義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の
最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と
潔く入水してその一生を終えました。
墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、
昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの
状態にありましたので、ここに再祀しております。  

平知盛・乳母子の伊賀平内左衛門家長の墓は赤間神宮にもあります。
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
知勇を兼ね備えた平知盛の最期   

アクセス』
「甲宗八幡宮」福岡県北九州市門司区旧門司1-7-18  
社務所受付時間9時〜17時 電話番号 093-321-0944
JR門司港駅から徒歩約15分
JR門司港駅から西鉄バス5分「甲宗八幡宮前」停下車徒歩すぐ。
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年

 



 

 



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平家の一杯水は、和布刈(めかり)神社から
「めかり観潮遊歩道」をノーフォーク広場へ向かう途中にあります。


関門海峡に面した遊歩道は、開放感にあふれ
対岸の
下関を眺めながら散策することができます。

「産湯井平家の一杯水」北九州市門司区大字門司



産湯井(うぶゆのい)について
ここには、以前湧き水があったと伝えられ、
古くは「産湯井」、壇ノ浦合戦後は「平家の一杯水」と呼ばれ、
郷土史等を基に再現したものです。   北九州市

和布刈神社の南のところに 産湯井というあり 
うがやふきあえずの尊(初代神武天皇の父君)の
御産湯の井戸なりと伝えられる  
海浜の波打ちぎわにあって 井水は海水より低く 時には
藻屑さえ入ることがあるが辛味は少しもないと云われていた

これを 普通に平家の一杯水と云い 源平合戦のとき
平家の武士たちは 戦の最中にも この井戸水を汲み 
のどを潤したと云われたところから「平家の一杯水」とも云われた
参考「門司郷土叢書」第八巻 門司の傳説(門司郷土史会 1960)P.588より

義経・平家伝説ゆかりの地
平家の一杯水
壇之浦の合戦で肩と足に矢を受けた平家武将が海に落ち、
命がけでこの岸にたどり着き、湧き水を見つけた。
武将はその水を飲んで喉の乾きを潤した。
夢中で2杯目を口にしたところ、
真水が塩水に変わっていたという伝説が残されている。
下関側にもあります。      北九州市
下関市前田海岸の平家の一杯水 

 

 



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和布刈(めかり)神社は、古城山の麓、
関門海峡に面して鎮座する小さなお社です。

早鞆(はやとも)の瀬戸は、下関市壇ノ浦と和布刈神社(早鞆明神とも)との
間の瀬戸で、その最も狭くなった岬の先に和布刈神社があります。

眼前には、早鞆の瀬戸と呼ばれる潮流の変化が激しい海峡があり、
ここで源平最後の合戦が繰り広げられ、平家一門をはじめ、
多くの人々が海の藻屑と消えていきました。

海中に戦国大名の宗氏が寄進した灯籠が立っています。
かなり風化が進んでいます。
真上に門司と下関を結ぶ関門橋が通り、
約700m向こうには下関市街が見えます。正面は火の山です。

下関市壇ノ浦から門司の古城山(標高175m)を望む。

『歴代鎮西要略』『豊前志』などによれば、古城山には、
元暦2年(1185)、平知盛が源氏との最後の合戦に備えて
家臣の紀井通資に命じて築かせたと伝えられる門司城がありました。
この城の遺構は残っておらず、現在、
城跡一帯は和布刈公園として整備されています。

壇ノ浦合戦前に平氏一門が勝利を祈願したという伝説が残っています。
「義経・平家伝説ゆかりの地 和布刈神社
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦200年)に創建。
新平家物語では 合戦前夜神宮橘魚彦による祝詞と新酒で
平家の戦勝を祈願したとされる。
毎年旧暦元旦の和布刈神事は有名。 北九州市」



拝殿 神紋は八重桜です。

社殿裏手に高浜虚子の句碑が海峡を眺めるように建っています。
♪夏潮の 今退く 平家滅ぶ時も
昭和16年(1941)6月に虚子がこの地を訪れた時に詠んだ句です。

和布刈神社
九州最北端に位置するするこの神社は、社記によると、仲哀天皇九年に
比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、
鵜茅葺不合命(うかやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命(とよたまひめのみこと)、
阿曇磯良神(あずみいそらのかみ)の五柱の神を祭神として創建され、
江戸時代までは、速人(はやと)社とか隼人(はやと)社と呼ばれていました。
近世末までは、時の領主である大内氏、毛利氏、細川氏、
小笠原氏の崇敬庇護暑く、神殿前には細川忠興公が寄進した灯籠があります。
この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、
和銅三年(710年)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、
奈良時代から行われていたものです。
神事は、毎年旧暦大晦日の
深夜から元旦にかけても干潮時に行われます。三人の神職がそれぞれ松明、
手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。
わかめは、万物に先んじて、芽を出し自然に繁茂するため、
幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。
神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形民族文化財に、
また、当神社に伝存する中世文書九通は、市の有形文化財に指定されています。
北 九 州 市  北九州教育委員会 」

神官が鎌と松明を持ち、引き潮の海へ下り立ち
ワカメを刈って神前に供える神事は、
謡曲『和布刈(めかり)』にも取り入れられてよく知られています。

「謡曲「和布刈」と和布神事
ここ和布刈神社では、毎年十二月晦日寅の刻(午前四時)に
神官が海中に入って水底の和布を刈り、神前に供える神事がある。
今日はその当日なので、神職の者がその用意をしていると、
魚翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に参り「海底の波風の荒い時でも、
和布刈の御神事の時には竜神が平坦な海路をお作りなさるから
出来たのである」と神徳をたたえて立ち去った。やがて竜女が現れて舞い、
沖から竜神も現れて波を退け、海底は平穏になった。
神主が海に入って和布を刈り終わると波は元の如くになり、
竜神は竜宮に飛んで入る。神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ奉じられた。
史実に現れたのが元明天皇和銅三年ですので、それ以前
神社創建時より御供えとして用うる為神事が行われていたと思われます。
謡曲史跡保存会」

『アクセス』
「和布刈神社」〒801-0855福岡県北九州市門司区門司3492番地
TEL(093)321-0749
JR鹿児島本線「門司港」駅より西鉄バス「和布刈」行き→「和布刈神社前」下車すぐ
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年 「角川日本地名大辞典」角川書店、平成3年
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年

 

 

 



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屋島合戦後、源義経は阿波や讃岐の武士たちを
味方につけ、逃げる平氏を追って西へ向かい、
「奥津(追津=おいつ)」辺りに結集しました。
義経の水軍が近づいてくると聞いて、
彦島(引島)に集結していた平氏軍は出撃することになり、
全軍を三手に分け、第一陣に山鹿秀遠(ひでとお)軍、
松浦(まつら)党の水軍が第二陣、第三陣として平氏一門の軍船が出発し、
田ノ浦(文字関の港・現、北九州市門司区)に陣取りました。
両陣営を隔てる距離は4㎞ほどです。

田ノ浦は、潮流の影響を受けないため、
船の潮待ちするのに適した場所とされています。

『平家物語』(巻11・壇浦合戦)に「平家は
長門国(山口県)引島(ひくしま)にぞ着きにける。
平家引島に着くと聞こえしかば、源氏は同国
追津(おいつ)につくこそ不思議なれ。」とあり、
追い迫る源氏を「追津」、平家が陣を布く彦島のことを
「引島(引き退く)」とよんで、語呂あわせをし
壇ノ浦合戦の勝敗を暗示しています。

奥津(追津)とは、長府の沖合にある満珠(まんじゅ)島・
干珠(かんじゅ)島の古称で、下関市の
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛地境内です。
原生林に覆われた島は、国の天然記念物に
指定され、立ち入り禁止になっています。

伝承によれば、神功皇后が朝鮮出兵の際、龍神から
潮の干満を操ることのできる潮満珠(しおみつるたま)と
潮干珠(しおひるたま)を授かり、凱旋の後、
海に沈めると満珠島・干珠島になったという。
二島のうちどちらが満珠・干珠かについては両説あり、
はっきりしていないようです。
忌宮神社は、仲哀天皇が熊襲征伐のために
設けた豊浦宮(とよらのみや)跡といわれています。

晴れた日には、火の山公園展望台からも
これらの島は遠望できますが、近くに見える
豊功(とよとこ)神社と御船手(おふなて)海岸に向かいました。

国道9号線沿いのサンデン交通「松原」バス停

バス停近くに建つ「城下町長府観光案内図」





松原バス停を下車すると、国道9号線沿いに豊浦高校があります。
同校のグラウンド横を海に向かうと、戦国時代ここにあった
串崎城(大内氏の家臣内藤隆春築城)跡の石垣が見えます。

壇ノ浦合戦の時、義経は串崎(現、下関市長府宮崎町)の漁師から
12艘の串崎船を取立て、関門海峡の潮流に詳しい
漁師とも海賊ともいわれる人たちを味方につけています。
このことからも早くからこの地には、
地の利を生かした海上勢力の拠点があったと考えられています。






拝殿
豊功神社は明治元年(1868)旧藩主毛利家の霊屋として創建されました。

豊功神社は、満珠島・干珠島が寄り添うように望める絶景スポットです。

七福神像
この像の背方向の満珠・干珠神の二島の浮かぶ豊浦湾は古来龍宮世界に
つながる聖なる海としていろいろな神話や伝説に富んでいます。
当神社の境内にも太古より龍神が祭られ今に龍神社として崇められております。
この像はまさしく壽・福・富をもたらす七福神が宝船ならぬ龍神船に同乗して
龍宮の神都に向かうめでたい瑞祥と形象して七福神に献納されました。
崇敬の皆様方に七福の瑞祥あらたかならんことを祈念致します。(碑文より)

高台にある境内からは満珠・干珠を眼下に眺められ、
初日の出の名所としても有名です。



見はるかす 二つの島の あはひより 宝船入り 福神祀る 秋月





豊功神社から御船手海岸に向かいます。

長府宮崎町6



下関市の大歳神社(源義経戦勝祈願の地)  

『アクセス』
「豊功神社」下関市長府宮崎町4-1
JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩7分
JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩7分
「御船手海岸」下関市長府宮崎町7-18
JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩10分
JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩10分
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年 「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 

 



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壇ノ浦合戦の際、源義経は有明山(JR下関駅北方)に
小松を植えて大歳神を祀りました。
そして桑の木で弓矢を作り神前に捧げ、
その矢で平知盛の率いる平家軍に開戦の矢文を射込みました。
平家軍は驚き壇ノ浦に軍船を進め、
激しい戦いになりましたが、敢えなく全滅したという。

翌年の文治2年(1186)、竹崎の漁民がこの戦勝の神を
祠に祀ったのが大歳神社の始まりとされています。
以来、武運長久の神として崇められ、高杉晋作が大歳神社の
氏子であった白石正一郎宅にて奇兵隊を結成した時、
旗揚げの軍旗を大歳神社に奉納しました。

境内には七卿落ちの画碑、維新回天の石碑、白石邸で若くして
亡くなった七卿落ちの公卿錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)の
病気平癒を祈願して合祀された蛭子八坂神社(八坂神社)など、
明治維新の史蹟が数多くあります。

大歳神社の旧社地は、JR下関駅のすぐ北方にありましたが、
同駅開設のため、
昭和15年、現在の小山に遷座しています。

JR下関駅



正面の大鳥居は文久2年(1862)に豪商白石正一郎が
攘夷成就を祈念して奉納したものです。

この長い石段は115段あります。昔は123段あり
「一二三(ひふみ)の階段」と呼ばれていました。

源義経と大歳神社
源義経は文治元年、有明山(現JR下関駅辺りの線路敷)にて
大歳御祖神のご神霊を祀り、平家追討の戦捷の祈願を捧げました。
現社殿は昭和十五年に当地に遷座されました。
当時の階段は一二三(ひふみ)段築きお祓い坂としての祈りを込めました。
(現在はその数を留めていません) 社殿の左面には
黒御影石に源義経が弓矢を引く姿を画碑に留めています。
その雄姿をお守りに印し「勝守(かちまもり)」として授与いたしております。

維新の史跡(大鳥居)
明治維新の原動力となった奇兵隊の果たした役割は周知の通りであるが、
創設者高杉晋作を信奉して尊皇討幕の推進に全資産を投入し、
これを援助した豪商志士白石正一郎の功績は計り知れないものがある。
この正一郎は敬神の念厚く文久二年、氏神大歳神社に大鳥居を奉納して
攘夷必勝を祈念した。参道(石段)の下の鳥居がそれであるが、
終始表に出ることなく陰の力に徹した正一郎の足跡を残す数少ない史跡である。
また京都における文久三年八月の政変によって
三条実美ら勤王の公卿七人が西下し、下関巡視の際には白石邸にも宿泊した。
その七卿落ちの有様を画碑として境内に建立している。下関市





拝殿

義経戦捷(せんしょう=かちいくさ)の弓

「平家追討のため西下した義経は、平家の本陣彦島と対峙する
有明山(竹崎町)に大歳神を祭り、桑の木で弓矢を作り、
神前に供えたのちその矢を彦島に向けて射込み、戦勝を祈願したことから、
のち地元の人たちがその地に大歳神社を創建したという。」

摂社五社稲荷神社
 祭神 正一位稲荷五社大明神・上丸三社明神・
静姫明神(しずひめみょうじん)・徳姫明神(とくひめみょうじん)
大歳神社は義経戦勝祈願の足跡をもって創建されたことから、
静姫明神は(静御前)、徳姫明神は(建礼門院=徳子)を思わせます。

大歳(おおとし)神社
御祭神 木花咲耶姫神(コノハナノサクヤヒメノカミ)
大歳神(オオトシノカミ)・御歳神(ミトシノカミ)・若歳神(ワカトシノカミ)
祭日  歳旦祭 一月一日  節分祭 二月三日
例大祭 四月十三日  夏越祭 七月二十四日・二十五日
 秋祭  十月十七日 (御斎祭 旧正月十三日・十四日)
 月次祭 毎月一日・十五日 
御由来
寿永四年(一一八五年)、平家追討の任務を受けた源義経 は、
壇ノ浦の合戦 に
望んで武運の守護神と仰ぐ富士浅間の
大神の御神助を請い、平家 が布陣を整
る彦島を望む
有明山(JR下関駅東口付近)に小松を植え、篝火を焚き、
七日七夜の斎戒沐浴をして戦捷祈願をこめた。
 その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛 率いる
平家軍に開戦の矢文
射込んだ。
 驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦 に軍船を進め一戦を挑んだが、
待機していた
源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、
敢え無く滅亡したと云う。
 翌年の文治二年(一一八六年)、
四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬し
て、
神祠を祀ったことが大歳神社の起源とされる。
 爾来、武運長久の神としての御神威は光輝を益し、
文久三年(一八六三年)、
馬関攘夷戦に際しては、
高杉晋作 の唱導により奇兵隊が氏子・白石正一郎宅
にて結成され、
維新回天の大業に勇名を馳せた。その時の奇兵隊旗揚げの
軍旗
は大歳神社に奉納された。
翌元治元年(一八六四年)折しも四国連合艦隊との
交戦となったが、
正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納した。
(鳥居横
詳細文有)その後下関の発展とともに
昭和一五年(一九四〇年)関門鉄道トン
ネル工事の際、
社地が鉄道線路敷地に接収され現在の高台に遷座されたが、
神威はいよいよ高く本州最西端の鎮護の神と仰がれている。
 殊に、下関において源氏 と縁のある唯一のお社であることから、
古来より勝
運の神として崇められ、現在は心願成就の
お社としても広く知られている。

摂末社 五社稲荷神社  祭日 春秋の午の日
    蛭子・八坂神社 祭日 十月十日
顕彰祭 七卿顕彰祭   祭日 三月二十七日
祈願各種
奉祭 必勝祈願 厄除開運 交通安全 厄除開運 子授 安産 
初宮詣 
社業隆昌 商売繁盛 地鎮祭 家祓 方位除 他
 各種相談承ります  
受付 083-223-0104

源氏軍が結集した満珠島・干珠島  
赤間宮宮司白石正一郎宅跡・奇兵隊結成の地  
『アクセス』
「大歳神社」〒750-0025 山口県下関市竹崎町1丁目13−284
JR下関駅東口から徒歩約8分
『参考資料』
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 



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下関市竹崎の西部、海岸沿いにある白石正一郎の家は、
高杉晋作が奇兵隊を結成した地です。
当時白石邸の前はすぐ海だったので、
海に向って立派な門が建っていました。

正一郎は回船業で富を築いた豪商で、幼い頃より和歌や
国学に興味をもち、43歳の頃、下関を訪れていた国学者
鈴木重胤(しげたね)の門人となり尊王思想に心酔していき、
明治維新の実現へ裏面で活躍しました。

白石家に出入りした維新の志士は400人にのぼるといわれ、
高杉晋作をはじめとする志士の多くが白石家を宿とするなど、
志士たちを物心両面から支援しました。
奇兵隊は文久3年(1863)6月8日、白石邸で結成され、
正一郎は弟の廉作(れんさく)とともに隊士として参加しました。
結成後、奇兵隊は数日で100人を数え、白石邸では手狭となったため、
阿弥陀寺(現、赤間神宮)に本陣を移しています。

廉作は過激な直接行動に身を投じ、生野の変に参加し、
敗れて自害しましたが、正一郎自身は
決して表面に出ることなく、高杉晋作が亡くなった
慶応3年(1867)以後は志士としての活動から遠ざかりました。
明治維新後、中央への招聘を断って赤間宮の初代宮司となり、
世俗とは距離をおいた生活を送り、
明治13年、69歳でその生涯を終えました。

赤間神宮は、江戸時代までは阿弥陀寺と称していましたが、
明治維新の神仏分離令により「安徳天皇社」となりました。
その後、
明治天皇の勅定で「赤間宮」と改められ
社殿の造営が始まり、安徳天皇695年祭の明治13年、
御廟所から安徳天皇の尊像が遷されました。
正一郎は社殿の改築に尽力したのち、同年8月亡くなっています。

赤間神宮の海辺の灯篭には、
「白石資風(正一郎の名)」の文字が刻まれているそうです。

ちなみに、赤間宮は昭和15年(1940)には、
官幣大社となって赤間神宮と改称されました。
現在は阿弥陀寺町という地名が、往時の名残をとどめています。

中国電力 下関営業所前に白石正一郎邸跡・奇兵隊結成の地の石碑があります。
白石正一郎邸内にあった浜門は、白石邸が取り壊される時、
下関市長府町松小田に移築され、今も保存されています。

白石正一郎
文化九年(1812)三月七日、この地に生れ、明治十三年(1880)八月三十一日、
六十九歳で世を去った。
正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として
家業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持 ち、四十三歳の頃
国学者鈴木重胤の門下に入って、尊皇攘夷論の熱心な信奉者となった。
また「橘園」の号をもつ歌人でもある。

彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれる。
その中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎) の
いわゆる維新の三傑をはじめ、坂本龍馬、
梅田雲浜など志士四百人余の名を数えることができる。
また、明治天皇の叔父 中山忠光卿、
三条実美卿ら七卿も白石家に滞在している。

文久三年(1863)六月、白石家で奇兵隊 が結成されたことは、
あまりにも有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、
また商人として高杉晋作と親交を深めるとともに奇兵隊を援助した。

このあたりに白石家の浜門があって、海へ通じており、
志士たちはここから出入した。 白石家の海へ降りる門は
新しい時代へ向う黎明の門だったといえる。 中国電力株式会社

高杉晋作 奇兵隊結成の地
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが
 さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるともいわれている
奇兵隊は文久三年六月 この地の回船問屋白石正一郎家で結成された
 正一郎は結成と同時に入隊し 高杉晋作を援けた
年齢も身分も
まったく違う二人のかたい結びつきが奇兵隊をささえたということができる
題字 山根寛作書
『アクセス』
山口県下関市竹崎町3-8-13 JR下関駅から徒歩5分
下関市竹崎町 中国電力下関営業所敷地内にあります。
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
古川薫「長州歴史散歩 維新のあしあと」創元社、昭和47年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 

 

 

 

 



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