平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




宇佐神宮は全国に約4万社あるとされる八幡宮の総本宮です。
御許山(おもとさん)を奥宮とし、その麓に上宮と下宮が鎮座しています。

宇佐神宮の起こりについては諸説ありますが、宇佐氏や大神氏などの
宇佐国造(くにのみやっこ)に関係することに疑いはないとされています。
宇佐氏は菟狭津彦(うさつひこ)を祖とし、大神(おおが)氏は
大和大三輪系とも九州土着の豪族ともいわれています。
これらの氏族の信仰に辛島氏の外来の信仰が結びつき、
八幡神という一つの神格が形づくられたと見られています。
いずれも八幡神の創祀(そうし)や中央進出に力を尽した氏族です。
奈良時代には、弓削道鏡事件で宇佐神宮の存在が大きくクローズアップされ、
急速に勢力を拡大していきました。

社伝によると、欽明天皇32年(571)に応神天皇の神霊が八幡大神として
現れたことを起こりとし、御許山(大元山)647㍍は
八幡神が舞い降りた地としています。
神亀2年(725)に現在地に社殿が建てられたのち、
分霊の勧請によって石清水(いわしみず)八幡宮や鶴岡八幡宮はじめ
全国各地に分社が祀られ、多くの人々に親しまれてきました。
神道では神霊は無限に分けることができ、
分霊しても神霊は衰えることがないとされています。

八幡神の武神としての性格は、源氏が氏神としたところに由来します。
源頼義は石清水八幡宮を元八幡・由比若宮(鶴岡八幡宮)に勧請し、
源義家は石清水八幡宮で元服し「八幡太郎義家」と名のりました。

JR宇佐駅



表参道入口  左手は八幡有料駐車場 右手は土産店が連なる仲見世
初詣時期には、参道に露店や土産店がたち並び賑わいます。



宇佐神宮仲見世





寄藻川(よりもがわ)に架かる神橋
御許山から流れ出た寄藻川は、神宮の神域を流れ周防灘に注いでいます。 

神橋を渡ると、約60 ha(60万平方メートル)もの境内が広がっています。
広大な敷地には数多くのお社が祀られ、国の史跡に指定されている所だけでも約25haあります。


大鳥居

大鳥居から下宮まで200㍍ほどの表参道の左手には、
霊水の湧く菱形池や能楽殿など、右手は宝物殿や神宮庁、勅使斎館などとなっています。

宝物館前の初澤(はつさわ)池の畔には、鴨の親子の遊ぶ姿がありました。

八幡大神が現れたという神池・菱形池の水面には、能楽殿が優美な姿を写しています。

能舞台


左手が手水舎、右手は勅使斎館と神宮庁

右は応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祀る春宮(とうぐう)神社
 左は外宮(げぐう)への参道 手前は上宮への参道 



二つの鳥居は左が「上宮」へ、右が「下宮」への鳥居です。下宮へ向かいます。





下宮の祭神は上宮と同じで、第一殿には八幡大神(応神天皇)、
第二殿に比売大神(ひめおおかみ)、第三殿に神功皇后 (じんぐうこうごう)を祀り、
「下宮参らにゃ片参り」といわれています。
古くは御炊殿(みけでん)といい、神前に供える食事を司るとともに、
農業や一般産業の発展の神として崇められ、
古くから日常の祭祀には、国民一般の祈願が行われてきました。
宇佐神宮と平家物語  
宇佐神宮写真集(2)  
『アクセス』
「宇佐神宮」〒872-0102 大分県宇佐市大字南宇佐2859 TEL:0978-37-0001
JR日豊本線「宇佐駅」下車(小倉駅から特急で約50分 大分駅からは特急で約40分)
宇佐駅からバスをご利用の場合は、大分北部バス「四日市方面」行き
「宇佐八幡バス停」下車 宇佐参道入口へすぐ
バス・タクシーで約10分。


宇佐八幡からJR宇佐駅行きの時刻表です。
宇佐駅からはバスが発車したところだったので、タクシーを利用しました。
時刻表は大分交通で最新のものをご確認ください。

「参拝時間」4月~9月(5時30分~21時) 10月~3月(6時~21時)
 参拝自由 
「宝物館」300円
「駐車場利用料金」 普通車  400円 二輪車   100円
『参考資料』
「大分県の地名」平凡社、1995年 「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年

 



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宇佐神宮は全国八幡宮の総本社です。当初は宇佐地方の
地域神であったと思われますが、朝廷が大隅・日向の隼人を討伐した際、
宇佐八幡の神軍も出陣して乱を鎮め、中央に知られるようになりました。
奈良時代になると、東大寺の大仏建立、道鏡の皇位継承事件に託宣を下し
徐々に朝廷の信頼を獲得し、国家神としての地位を確立していきました。

平安時代始めには、当宮の分霊を勧請して都付近に
石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)が造営され、
八幡信仰は広がりを見せます。特に源氏との関りが深くそ
の氏神となり、
武士たちによって各地に勧請され八幡信仰は普及しました。

神領は徐々に荘園化し、平安時代末期には、九州最大の荘園を有していました。
宇佐大宮司公通自らも平田井堰(せき)を築き、宇佐領の開発に努めています。
これは現存する中では、大分県で最古の堰で、宇佐宮の西麓に位置する
駅館川(やっかんがわ)西側の33の村、654町歩の平野をうるおすものでした。
この地域は降雨量が少なく水に恵まれない土地でしたが、公通は土木技術が
低い当時でも比較的簡単に水を引くことができた平野部の開発を進めたのです。

このころ、公通(きんみち)は大宰府を掌握した清盛と密接な関係を保ち、
仁安元年(1166)に大宰権少弐、安元2年(1176)対馬守、
治承4年(1180)には、豊前守に任じられるなど宇佐宮の全盛期を築きました。
宇佐宮は近衛家を本家としていましたが、本家が平家勢力下に入ったため、
公通は積極的に平家と結んで宇佐宮の発展をはかろうとしたのです。
このように、この頃までの豊前の歴史は宇佐宮を中心にして発展してきました。

17歳の時、平経正は宇佐八幡宮の奉幣の勅使を仰せつかって九州へ下る際、
青山(せいざん)の琵琶を賜り参詣しました。
古くから宇佐八幡への勅使は即位の報告には、和気清麻呂の子孫である
和気氏が派遣され、それ以後、3年ごとに奉幣使が立てられましたが、
石清水八幡宮が成立して以降は
天皇即位の報告に一代に一度だけ差し遣わされました。
経正が遣わされたのは、高倉天皇即位の仁安3年(1168)5月、
和気相貞(すけさだ)が正使の時と思われます。

経正は経盛(清盛の弟)の嫡子で経俊・敦盛の兄にあたり、幼少より詩歌管弦、
特に琵琶に優れ、元服するまで仁和寺に童として仕えていました。
青山というのは、平安時代の初め頃、唐から朝廷に献上された琵琶の名器です。
その後、帝から仁和寺に与えられ、琵琶の才能を見出され
覚性法親王(ほっしんのう)
から経正に下されたものでした。

「義仲追討のため副将軍として経正は北陸道へ下る途中、
竹生島に参詣し弁才天の前で琵琶の秘曲を弾いたところ、弁才天がそれに応え
白竜の姿となって経正の袖に姿を現した。」というエピソードを
『巻7・経正竹生島参詣』は伝えています。

ところが、経正が宇佐八幡宮へ勅使として派遣され、八幡の神殿に向かい、
青海波(せいがいは)の秘曲を弾いたところ、琵琶の音色に居並ぶ神官たちは
みな涙で衣の袖を絞りましたが、宇佐の神は何も反応しませんでした。
宇佐の神が反応したのは、九州へ落ち延びた平家一門が宇佐に入った時のことです。
公通や宇佐一族の館、寺院などを宿所にし、頼みにしていた宇佐八幡宮に
参籠して平家再興の祈願を執り行いました。その7日目の明け方、
宗盛は夢の中でお告げをうけました。
宝殿の扉が開き、気高い声で、

「世の中の うさには神も なきものを 何祈るらむ 心づくしに」

(憂き世には 神も力が及ばぬものを、心を尽くして
いったい何を宇佐の神に祈っているのか。)と
平家一門を見放したような冷たい神託が下されました。

一の谷合戦に敗れた平氏が屋島に退いて態勢を立て直そうとしていた頃の
元暦元年(1184)7月、宇佐宮と緒方荘の上分米(上納される年貢米)で
対立関係にあった緒方惟栄(これよし)・臼杵惟隆兄弟らが宇佐宮を
焼討ちするという大事件が起きました。緒方惟栄らは神殿に乱入し
御験(みしるし)や御正体(みしょうたい)・神宝を奪いとり、
宇佐神人を殺害するなどの狼藉を働き宇佐宮の権威は失墜しました。
この暴挙は大問題となり、いったん惟栄らは配流されますが、
平家追討の功績により非常の恩赦を得ています。

平家滅亡によって、平家方であった公通は窮地に立たされますが、
源氏の氏神である「八幡神」を大切にしていた頼朝は、
宇佐八幡宮に対して寛大な措置をとり、社殿復興に協力し、
大宮司職を公通(公通の子公房とも)に安堵しています。

こうして宇佐宮は鎌倉幕府成立後も頼朝の保護によって急激な
勢力失墜はまぬがれましたが、ペナルティとして、頼朝は大宮司体制の弱体化を進め、
建久3年(1192)には、焼失した弥勒寺金堂の造営を公通に命じています。
鎌倉時代になると、平安末期から顕著となっていた
神官層の武士化はいっそう進んでいきます。
宇佐神宮写真集(1)  
宇佐神宮写真集(2)  
参考資料』
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年 渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
 現代語訳「吾妻鑑」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

 



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清経の墓を参拝した帰り道、この五輪塔がもとあったという若八幡神社を訪ねました。
駅館川(やっかんがわ)畔の駒札には、清経の墓は若宮八幡神社境内に
あったと書かれていましたが、この社の
社号は若八幡神社のようです。

若八幡神社は柳ヶ浦小学校グラウンドの西側に鎮座しています。

若八幡神社は、宇佐八幡宮の若宮神社・岩崎の岩崎神社・
豊後高田の若宮八幡神社と並んで四所若宮社の一つとされています。
社伝では、宇佐八幡宮の若宮造営の年と同年の仁寿2年(852)創建としていますが、
『柳ヶ浦町史』には、宇佐大宮司公通(きんみち)が江島別符開発に合わせ、
別符の鎮守として12C末に勧請したものかと記されています。

清経の五輪塔は若八幡神社の東側の田の中に(現柳ヶ浦小学校)ありましたが、
昭和13年(1938)に小松橋の畔に移されました。(『大分県の地名』)



拝殿

拝殿背後の本殿
 
境内末社

清盛の家柄は地下平氏ですが、後妻の時子は官僚貴族として仕えていた公家平氏平時信の娘です。
重盛の死後、清盛の跡を継いだのは時子の生んだ宗盛(重盛の異母弟)でした。
重盛の系譜は主流からはずされるのですが、
『平家物語』は一貫して重盛の嫡男維盛・その子六代を平家の嫡流として描いています。

重盛の長男維盛は官女の生んだ子、二男資盛(すけもり)の母は、
下総守藤原親盛の娘で二条院の内侍(二条天皇に仕えていた女官)です。
三男清経は重盛の正妻経子との間に生まれた長子で、経子の父は中納言・藤原家成です。
後白河院近臣筆頭の成親は経子の同母兄です。
当時は母の出自や家柄の実力がその子の嫡子・庶子を決定しましたから、
どうみても重盛の嫡子は清経でした。

重盛と藤原成親の妹、維盛と成親の娘との結婚は、後白河院と清盛の蜜月時代のことです。
しかし院と清盛の蜜月は長く続かず、院の寵妃建春門院滋子(時子の妹)が亡くなると、
この関係に終止符が打たれ、両者の対立が深まります。
平家打倒計画が発覚し、その中心人物の一人であった成親が殺害されると、
母の実家の後ろ盾を失った清経は後退していきました。

壇ノ浦で戦死した有盛、一の谷で戦死した師盛(もろもり)、忠房は清経の同母弟です。
忠房は屋島合戦の戦場を逃れ、紀伊の湯浅宗重を頼り湯浅城に籠りましたが、
頼朝に言葉巧みに騙され、近江の瀬田辺りで斬られたと
『巻11・断絶平家』は語っています。

さて都落ちした平家は九州大宰府に拠点を定めようとしましたが、
頼みとした豊後の豪族緒方三郎惟栄(これよし)の協力が得られないばかりか、
敵対した緒方三郎によって九州から追い落とされることになりました。
緒方三郎はもと小松家の家人であったことから、資盛が緒方との交渉にあたりましたが、
交渉は不調に終わり、傍流小松家の人々の立場は辛いものとなったと思われます。
清経が海に身をなげたという話も小松家公達の心情が推察できる事件です。

運行回数が少ない電車の出発時間が迫り、立ち寄ることができませんでしたが、
江須賀(江島村)の仏光山日輪寺(曹洞宗)は、平清経が柳ヶ浦沖で入水した後、
清経の妻が淡津三郎とともに下向し、庵を建てたのが始まりとしています。
寛文元年(1661)星岸によって再建され、境内には
清経八百回忌に建立された九重の塔があります。
淡津三郎は『謡曲清経』に清経の家臣として登場する人物です。

また清経には熊本県五家荘に逃れたという伝説もあります。
『肥後国誌』によると、清経は入水とみせかけて四国に渡り、
今治・阿波国祖谷を経て、九州に戻り、豊後竹田に逃れました。
竹田の領主緒方氏を頼り、緒方実国の娘を妻として緒方姓を名のり、
その子孫は源氏の追及を逃れ、熊本県八代郡泉村の五家荘に住んだというものです。
現在、五家荘椎原(しいばら)には、緒方家が平家屋敷として残っています。
平師盛の墓(石水寺)  
平忠房(湯浅城跡)  
『アクセス』
「若八幡神社」宇佐市大字江須賀2307の1 JR「柳ヶ浦」駅徒歩約8分
バス停「柳ヶ浦小松橋」徒歩1分
『参考資料』
「大分県の地名」平凡社、1995年 高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年
 冨倉徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、1994年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年



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宇佐市駅館川(やっかんがわ)に架かる小松橋の袂には、
平清経の墓と伝える小さな五輪塔があります。
五輪塔は昭和13年(1938)に
宇佐市江須賀より移され、のちに記念碑なども建立されています。

『平家物語』に見える豊前国柳ヶ浦には二ヵ所あります。
ひとつは北九州市門司区大里、もうひとつは宇佐市柳ヶ浦です。
この二ヵ所は直線距離でも70キロほど離れています。通説では、門司区大里の
海岸とされ、柳の御所跡などが残っていますが、清経入水の伝承はありません。
一方、宇佐八幡宮にほど近い柳ヶ浦には、御所云々の伝承はありませんが、
清経入水の伝承が残っています。ちなみに豊前国は、現在の北九州市東側、
筑豊地方の東側、大分県の北部(中津市・宇佐市)を含む広い地域です。
宇佐市に柳ヶ浦という地名が現れるのは、明治22年の「柳ヶ村」で、
近代になってからです。その名は今もJRの駅名などに使われています。

宇佐市の柳ヶ浦伝承の背景には、平家と親密な関係にあった
宇佐大宮司公通(きんみち)の存在があると考えられます。
公通は自ら駅館川(やっかんがわ)西側地域の開発を行っています。



JR日豊本線柳ヶ浦駅 





「柳浦史蹟」記念碑

冬枯れの柳の木と清経の墓

「清経終焉之地
宇佐氏に援助を求めて太宰府よりこヽ柳ヶ浦につく 謡曲清経に豊前の国柳といふところに着く
げにや所も名を得たる浦は並木の柳陰 世の中のうさにはかみのなきものをなに祈るらん 
心づくしの御宣託があり前途を悲観したものか 船板に立ち上がり腰より横笛を抜き出し
音もすみやかに吹き鳴らし今様を朗詠し入水 清経は重盛の三男で横笛の名手だったとか
 この歩道橋をつくるにあたり歴史を語り風情を残した柳の老木が
枯死したので植えついで後世に残さん為に之植
九十九年四月吉日 宇佐ロータリークラブ建之」

明治18年に架けられた小松橋、その歩道橋

周防灘に注ぐ駅館川に架かる小松橋



  『平家物語』を題材とした能には、武将が死後修羅道の苦しみを訴える修羅能があり、
その多くが世阿弥の作品とされています。
シテ(主人公)の武将の霊が現れ、能舞台の上で自身の最期の場面や死後の
修羅の苦しみを見せ、
やがて修羅地獄から救われ成仏を約束されて終わります。

平家の公達とはいえ、戦場で戦わずに入水による死を選んだ清経は、
念仏を唱え修羅の地獄から簡単に救われます。
それだけ修羅の苦しみが少なかったのだと思われます。

『源平盛衰記』が記す清経が遺した形見の髪を
♪見るたびに心づくしの髪なれば うさにぞ返すもとの社に
(見るたびに心を苦しめる髪だから、つらさに堪えず
筑紫の神の宇佐八幡の社にお返しします。)の歌とともに、清経の妻が
西国の清経のもとに送り返したことや西海を漂う流浪の末、筑紫に落ちのびた
平家一門が宇佐八幡宮に参詣し、思いがけない不吉な神託を受けたということ、
清経が入水死したというだけのわずかな『平家物語』の
記事を手がかりにして、世阿弥は曲を構成し、
形見の髪は清経の死後、
北の方に届けられたと物語を脚色しています。

宇佐八幡の託宣によって、平家一門の絶望的な運命が告げられ、清経は
来し方行く末をつくづくと考え、ある月の夜、船端に出て心静かに横笛を吹き、
今様を謡い朗詠を吟じました。心おきなく笛を楽しむと意を決して、
南無阿弥陀仏の声もろとも柳ヶ浦の沖に身を投げました。
そこには別の苦しみ、死後の修羅道が待っていました。

清経の家臣である淡津三郎は、形見の黒髪を清経の妻に届けるために都に
戻ってきました。入水の話を聞いた妻は、せめて討死にするか病死ならばともかく、
自分を残して死ぬとはあんまりだと嘆き、涙ながらに床につきました。
妻の夢の中に現れた清経の霊は、次々と押し寄せる敵を相手に刀を抜いて
立ち向かう修羅の有様を見せた後、最後の念仏によって修羅の地獄から救われ
往生できたことを喜び、姿を消していきます。(『謡曲清経』)
平清経の墓(福岡県京都郡苅田町)  
平清経(宇佐市江須賀の若八幡神社)  
『アクセス』
「清経の墓」 JR柳ヶ浦駅下車徒歩約10分
『参考資料』
「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「大分県の地名」平凡社、1995年
新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社、昭和61年 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
新定「源平盛衰記」(4)新人物往来社、1994年 白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 

 




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