平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




福岡県の北東部、周防灘に面した苅田(かんだ)町に清経の墓と伝えられる五輪塔があります。
柳ヶ浦で入水した清経の遺体は苅田の浜に流れ着き、
土地の人達がこれを火葬しこの地に葬ったといわれています。
清経が入水したのは寿永2年(1183)神無月のころ、21歳の時でした。

左中将清経は小松殿、重盛(清盛嫡男)の三男で、母は藤原成親の妹経子です。
後白河院の近臣だった成親は鹿ケ谷謀議の中心人物、
謀議発覚後、備前の国に配流され、清盛の命で惨殺されました。
成親と極めて縁が深かった清経は、この事件以後、後退していきます。

都落ちした平家一門は大宰府に内裏を構え、再起をかけようとしましたが、
かつて重盛の郎党であった豊後国の豪族緒方惟栄(義)に追われ、
豊前柳ヶ浦に至りました。しかし敵来襲の知らせを聞き、
やむなく一門は、海士の小舟に乗って海上に漕ぎだしました。

清経は何事も深く思いつめる人でしたが、ある月の夜、
舷(ふなばた)に出て横笛を吹き朗詠した後、平家の行く末を悲観し、
「都を源氏に追い落とされ、鎮西を惟栄に攻め落とされて、
まるで網にかかった魚のようだ。どこへ行こうと
しょせん逃がれることができぬ。ながらえ果つべき身でもない。」と言って、
静かに経を読み念仏を唱えながら
ほの暗い海に身を投げました。『巻8・柳ヶ浦落ち』

対等の立場の源氏に都を追われたのは仕方がないとしても、
平家の人々にとって身分が下のしかも、
もと家人に追われ九州を落ち行くのはさぞ悔しかったことでしょう。



JR苅田駅



清経の墓は雑木の茂みの中にあります。道路を挟んだ向かい側の西恩寺から撮影しました。



北条時頼(最明寺入道)には、執権を退いた晩年に諸国を巡ったという伝説が各地に残っています。


説明板の傍にたつ碑に刻まれている文字は、風化していて読み取れません。





西山浄土宗西恩寺は、東伝寺(京都郡苅田町神田町1)の末寺です。
『福岡県の地名』に「西恩寺境内には、
平清経の墓と伝える五輪塔がある。」と記されています。

平清経の墓(宇佐市小松橋袂)  
平清経(宇佐市江須賀の若八幡神社)  
『アクセス』
「清経の墓」福岡県京都郡苅田町馬場村
JR門司駅からJR苅田駅まで普通電車で約30分(小倉駅で中津行に乗り換え)
苅田駅から徒歩約15分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 「福岡県の地名」平凡社、2004年
高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年


 



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御所神社を参拝したその足で、「風呂の井戸」の説明板に書かれていた大専寺を訪ねました。
壇ノ浦で敗れた平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺は、昔、柳村にありましたが、
慶長年間(1596~1615年)浄土真宗に改宗し、大里(だいり)宿に移りました。

大専寺は大里宿の長崎街道沿いにあり、海岸線は埋め立てが進んでいますが、
宿場内の道路は当時の面影を残し、門司往還に沿った直線の町並みになっています。





大専寺の街道を挟んだ向かいには、柳浦山西生寺が伽藍を構えています。
この寺はキリシタン取締りの踏絵寺でした。




山門

お寺が幼稚園や保育園を経営している風景は、清盛の熱病を治した水薬師寺、
重盛の阿弥陀経石を安置する正林寺でも目にしましたが、
この寺も境内には西光保育園が併設され、非公開となっています。

本堂

大専寺近くの民家の車庫横には、「大里村庄屋石原宗祐屋敷趾」の石碑が建っています。
大専寺のすぐ北側は関門海峡の波打ち際です。

古くは「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていたこの地は、平安時代末期に
安徳天皇を奉じた平家一行が「柳の御所」を構えた歴史により
「内裏=大里」と呼ばれるようになりました。
 戦国時代、大宰府へ旅行した連歌師宗祇は「安徳天皇行宮跡をあわれみ、
柳が浦を過、菊の高浜を眺む」と『筑紫海道記』に記しています。

その後、江戸時代に参勤交代が行われるようになると、大里は本州渡海の宿場として、
九州の諸大名をはじめ人々の往来で賑わいました。
風呂の井戸・風呂の地蔵・不老通  
アクセス』
「西光山大専寺」 福岡県北九州市門司区大里本町1−6−13
JR門司駅徒歩約15分 JR小森江駅から0.6km
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年

 



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大里(だいり)の中心街にある御所神社は、平家ゆかりの柳の御所跡と伝えられ、
屋島に渡る前の一時期、安徳天皇の仮御所があったところとされています。
昔は付近一帯を柳の内裏といい、のちに内裏村となり、
大里という現在の地名が生まれたといわれています。

風呂の井戸から柳の御所へ向かいます。


バス停柳御所



境内に入ると左手に「柳の御所」にちなんだ柳の木が植えられています。



 柳 の 御 所
 寿永二年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、
安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。しかし、ここでも、
豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、
豊前国柳が浦にたどりついた。この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に
「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと
伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
  境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。
都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ
                       薩摩守 忠度
   君住まは ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり 
                        大納言 時忠
      参考文献 平家物語(応永書写延慶本) 北九州市 北九州市教育委員会

境内には、清盛の弟忠度・時子の弟時忠・清盛の甥経正の歌碑があります。

平忠度 ♪都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ

分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな 経正卿

君住めは こヽも雲井の 月なるを なお恋しきは 都なりけり    時忠卿



    


鳥居の近くに「安徳帝柳御所舊趾」の碑が建っています。

鳥居を潜った左側、大里郷土資料室の前に石室があります。
ここには安徳天皇、平宗盛の木像が祀られていましたが、
現在二体の木像は、戸ノ上(とのうえ)神社に安置され、ご神体となっています。

大里郷土資料室に入ろうと戸に手をかけてみましたが、あいにく閉まっていました。





明治天皇が熊本に来られた時、大里に造られた休憩所の建物がここに移され、
御所神社の拝殿として遺されました。
拝殿の右横には、御所丸稲荷が祀られています。


普段は閉じられている拝殿の扉がお正月に参拝すると、開けられていました。

明治天皇玉座の間
明治三十五年(1902)十一月十日(復路仝月十五日)明治天皇は熊本で行われた
  陸軍特別大演習を御統覧のため大里に上陸なさいました。
   このとき明治天皇は大里停車場構内に新築された休憩所にて熊本への往復とも
  しばらく御休憩になりました。この休憩所の建物を安徳帝旧蹟の
柳の御所拝殿として遺し、永く御聖徳を偲ぼうとの声が起り当時の村長、
村会議員の人達は九州鉄道株式会社と折衝を重ねた結果、
 遂に寄贈が決り、翌年ここに移築造営されたものであります。
 この拝殿には正面の屋根には「菊の御紋章」があがり内部左側には、
「玉座の間」があって当時の歴史を偲ぶことができます。

『源平盛衰記・巻33』には、平家一門が太宰府を追われ、
山鹿城から小舟に乗って柳ヶ浦に上陸したときの情況を次のように記しています。
「沢辺の虫の声弱りて、磯打つ波に袖濡らす柳という所に着かせ給いけり。
楊梅桃李を引き植えて、九重の都に少し似たりければ、
薩摩守忠度、都なる九重の内恋しくば柳の御所に立ち寄りてみよと詠める。」
京都の御所になぞらえて、周囲に柳・梅・桃・李(すもも)を植え、
内裏を造営しようとしましたが、土地が狭い上に資金を調達できず、
敵が攻め寄せるとの情報に再び
海上へ漕ぎ出しました。

「柳の御所には、七箇日渡らせ給ひける程に、又惟栄(義)寄すると
聞えければ云々」と『盛衰記』にあり、僅か一週間の滞在であったことが知れます。

 
緒方軍が攻め寄せたため、夜通し舟を漕いで一門が上陸した
「柳ヶ浦」には、二つの説があります。一つは北九州市門司区大里、
もう一つは大分県宇佐市柳ヶ浦です。
宇佐の柳ヶ浦は、芦屋の山鹿城から関門海峡を通って100㎞以上もあり、
一晩でそんなに遠くまで逃げるのは、とても無理のように思われます。
風呂の井戸・風呂の地蔵・不老通  
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
『アクセス』
「御所神社」北九州市門司区大里戸ノ上1-11-25
JR門司駅 から徒歩6分、「柳御所」バス停から徒歩1分。
『参考資料』
「郷土資料事典 福岡県」ゼンリン、1998年 新定「源平盛衰記」(第4巻)新人物往来社、1994年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年



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安徳天皇を擁して都落ちした平家一門は、寿永2年(1183)8月、
九州に逃れ太宰府に拠点を定めようとしましたが、
豊後の豪族緒方惟栄(義)に追われ、山鹿城(遠賀郡芦屋町)より海路、
夜通しかかって柳ヶ浦(現在の門司区大里)に渡りました。

一行は旅の疲れをいやすために泉から水を汲んで風呂水に用いたことから、
この辺一帯を「風呂」と呼ぶようになり、「風呂」が「不老(フロウ)」となり、
現在では、「不老通り」にその名を残しています。

JR門司駅南口と「不老の由来」説明石碑。







柳町3丁目の交差点付近の陸橋から「風呂の井戸」辺を撮影。

「高田二丁目」バス停。

「風呂の井戸」は、仏壇店の隣にあります。





風呂の地蔵堂。

大里(だいり)は、現在の門司区柳町の海岸沿いの地帯にあたります。
この地に平家一門が柳の御所を構えたことにより内裏(だいり)と呼ばれました。
江戸時代には、内裏浦で異国の海賊が頻発し、朝廷から賊船平定の命を受けたため、
時の藩主が内裏の海に血を流すのは畏れ多いとして大里に変更しました。

室町時代の武将・今川了俊(りょうしゅん)も、京都から赤間関までの紀行文
『道ゆきぶり』に「此島のむかひは柳の浦とて、むかし里内裏のたちける所なるべし、
今はそこをだいりのはまともいふなり。」と記し、柳の浦がのちに「だいり」と
いわれるようになったのは、安徳天皇の「内裏」に由来するとしています。
柳の御所・御所神社 
『アクセス』
「風呂の井戸」福岡県北九州市門司区柳町2丁目10番
西鉄バス「高田2丁目」下車すぐ
または門司駅南口から徒歩約10分 
『参考資料』

「福岡県の地名」平凡社、2004年

 



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