上西門院統子(むねこ)内親王は、後白河天皇の姉で、平治の乱後、
母待賢門院璋子が晩年を過ごした法金剛院に入り、この寺で出家しました。
法金剛院
母・待賢門院璋子時代からの家臣・女房たちが仕えた上西門院の御所は、
優れた歌人を輩出し、西行らが集う文芸サロンでした。
若き日の頼朝は母が上西門院の女房であったため、上西門院の蔵人となり、
上西門院の殿上始(でんじょうはじめ)に初出仕し、
殿上人筆頭の清盛と宴の席で顔を合わせています。
しかしこの十ヶ月後には、両者は敵味方となって戦うことになります。(平治の乱)
上西門院に仕えていた女房には清盛の妻の異母妹平滋子(建春門院)がいます。
美しく聡明な彼女の評判が後白河天皇のお耳に達し、天皇の寵愛を受けた
滋子が、憲仁(高倉天皇)を生み平氏と後白河を結びつけます。
建春門院が安元二年(1176)に亡くなると後白河院と平氏の関係は終り
院の近臣と平氏の争いが激化していきます。
平家物語巻九『小宰相の事』には、教盛(清盛の弟)の嫡男・越前三位通盛は、
法勝寺の花見で、上西門院に仕える小宰相(こざいしょう)局を見初め
文を渡しましたが、三年たっても返事がもらえません。
通盛の最後の思いを綴った文を女院が拾い、
自ら通盛への返事を書いて二人の仲をとりもったというエピソードが見えます。
平家物語巻五『月見の事』でふるき都の月を思い福原から京に戻り、
今様を詠い人々の涙を誘った徳大寺実定の妻・備後もやはり上西門院の女房でした。
備後は実定との間に、従一位左大臣にまで昇った徳大寺公継をもうけています。
待賢門院堀河の妹兵衛の局は、はじめ待賢門院に仕えていましたが、
待賢門院が亡くなると上西門院に仕え多くの秀歌を詠んでいます。
のちに頼朝に謀反をそそのかす遠藤盛遠(文覚)や
その弟子千葉胤頼と女院に仕えていた人々の顔ぶれは多彩です。
法金剛院の背後、東側に「統子内親王花園東陵」があります。
文治5年(1189)7月、上西門院は64歳で亡くなりここに葬られました。
『アクセス』
「法金剛院」京都市右京区花園扇野町 JR花園駅下車 徒歩5分
「統子内親王花園東陵」京都市右京区花園寺ノ内町 今宮神社前道路を隔てた西側
JR花園駅下車 徒歩5、6分
『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
「昭和京都名所図会」(洛西)竹村俊則