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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平清盛の推薦によって念願の三位に昇進できた老齢の頼政
(75歳とも76とも)が
高倉宮以仁王と組んで謀反を起こした動機を
『平家物語』は、(巻4・競が事)で語っています。


頼政の嫡子伊豆守仲綱は木下(このした)という名馬を持っていました。
宗盛(清盛の三男)がこの馬に目をつけ、
評判の名馬を拝見したいとたびたび催促してきます。


仲綱は貸すのが惜しくて、乗り損じて傷めたので馬は田舎で
保養させているとうそをつきますが、密告する者がいて、
事実を知った宗盛は一日に何度も使いを出してきます。
頼政は「たとえ金で作った馬であろうとも人がそれほど
欲しがっているのだから、すぐに六波羅へ遣わせ。」と仲綱を諭しました。

♪恋しくは来てもみよかし身に添える かげをばいかが放ちやるべき
(この馬が欲しいのならば、こちらに来てご覧ください。
影のようにわが身に離れず寄り添っているこの鹿毛の馬を、
どうして手放すことができましょうか。)の歌とともに
仲綱は馬を宗盛のもとへ送り届けさせます。
「かげ」と「鹿毛」は、掛詞になっています。


この和歌を見た宗盛は馬を惜しんだのが憎いと、この馬に
「仲綱」という焼印を押し、この馬を見たいという客が来るたびに
「仲綱に鞭をあてろ。」と
なぶりものにしていました。

これを伝え聞いた仲綱は「大切な馬を奪われただけでなく、

笑いものにされてしまった。」と憤り、
頼政も平家打倒の決意を固めたというのです。


続いて以仁王謀反が平家方に知れたため、頼政が一族郎党を
引き連れ、以仁王のいる三井寺に入った時のことです。
頼政に長年仕えていた渡辺競(きおう)は、
連絡をもらえず同行できませんでした。
頼政は競の家が六波羅の宗盛の邸に近いので、
謀叛が洩れるのをおそれ招集するのを控えたのでした。
もともと源平両氏につかえる兼参者だった競は、

六波羅に呼び出されます。


一計を案じた競は、平家に服従するふりをし、
宗盛に三井寺攻撃に参加したいと申し出ます。
そして自分の馬が盗まれたと偽り、
宗盛の愛馬「煖廷(なんりょう)」を借り受けました。
日の暮れるのを待って自分の館に火をつけ、
宗盛秘蔵のこの馬に乗り一目散に三井寺へと駆けつけます。
頼政と競は強い主従の絆で結ばれ、頼政は競が
必ず三井寺に駆けつけてくれると信じていたといいます。

競から話を聞いた仲綱は喜び、馬の尾とたてがみを切り
「平宗盛入道」と焼印を押し六波羅へ追い返しました。
宗盛は
「いかにしても競めを生け捕りにせよ。鋸で頸切らん。」と激怒しますが、
いまさら馬の毛も生えず、焼印も消えません。


宗盛は兄重盛、父清盛の死後、平家のリーダーとなった人ですが、
人格者だった兄重盛とは対照的な人物だったことが、
こんな逸話からも浮かび上がってきます。


このように『平家物語』では馬一頭くらいのことで
頼政が一族郎党を巻き込んで謀反を起こしたと語っています。


この物語が史実かどうかは分かりませんが、
平治の乱を清盛とともに勝ち抜いた頼政は、
源氏として
政界に唯一生き残り、忍従の日々を送っていました。

平治の乱後、平清盛が政治の中心に出てきて、
「此一門にあらざらん人は皆なるべし」などと
豪語した平時忠のような人物もいた
平家一門との間に、
頼政が何か深い恨みをいだくような出来事でもあったのでしょうか。


この章段の主人公の渡辺競(きおう)は、渡辺党に属する
滝口の武士で源頼政の郎党です。
『源平盛衰記』によると、都第一の美男であったという。
渡辺党は渡辺綱の子孫がつくった武士団で、
摂津渡辺一帯にいたのでこの名でよばれていました。

治承4年(1180)5月、競は頼政の最期まで供をして奮戦し、
三井寺から奈良へ向かう途中、平等院辺で
平家の追討軍に追い詰められ切腹しています。

仲綱は歌人としても名高く『千載和歌集』に六首収められています。

 『参考資料』
「平家物語」(上巻)角川ソフィア文庫
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社

 

 






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京阪天満橋駅で電車を降り、土佐堀通に出ると、
永田屋昆布本店前に「八軒家船着場の跡」の石碑があります。


この地は江戸時代には八軒家と称し、淀川を上り下りの
三十石舟の発着場として、
 さらに古くは渡辺といい
紀州熊野詣の旅人の上陸地として栄えました。

大江山の鬼退治で知られる渡辺綱は、
この地を支配した摂津源氏一族の出身です。

また文覚上人(遠藤盛遠)が袈裟御前を見初めたのは、
渡辺橋(現在の天満橋辺)の橋供養の時のことと伝えています。
 

八軒家船着場跡の石碑を通り越し、土佐堀通を西に進むとすぐ御祓筋です。
御祓筋と土佐堀通との交差点に熊野街道起点碑が建っています。
ここが熊野街道のスタート地点です。

平安時代に盛んだった熊野詣、住吉社・四天王寺詣に
京から行く人々は、草津湊(下鳥羽)から淀川を船で下り、
この地で
上陸して陸路をとりました。

八軒家の名は、江戸時代に八軒の船宿や飛脚屋があったことから
つけられたといわれています。
現在はアクアライナー(水上バス)が
八軒浜船着場(京阪電車天満橋駅すぐ)に就航し、昔を偲ばせています。



「渡辺党」
嵯峨源氏・源融より出た渡辺(源)綱を先祖とし摂津国渡辺の津
(現在の大阪市東区の天満橋と天神橋の南側、八軒家辺)を
拠点とした武士団で、弓矢に優れ滝口の武士となって天皇に仕える人が多く、
保元の乱・平治の乱や宇治川合戦では源頼政に従って戦い活躍しています。
「渡辺一文字名輩」といわれ、代々一字の名をつけました。



渡辺綱が頼光に仕えた頃から摂津源氏と渡辺党の主従関係が生じ、
「省」(はぶく)「授」(さづく)「競」(きおう)
「唱」(となう)などが頼政に就いて活躍しました。
綱は養母が攝津渡辺の人だったので、「渡辺」をその氏にしたといわれています。
『平家物語』にも登場し源頼朝に挙兵を勧めた藤原氏系の文覚上人(遠藤盛遠)も
渡辺党の出身で、源氏姓の渡辺氏、遠藤姓渡辺氏を総称して渡辺党といいます。
「滝口の武士」とは、天皇の私的な護衛兵の性格が強い内裏警護の武士のことで、
清涼殿東庭にあった御溝水(みかわみず)が滝のように落ちる所に
詰所があったので「滝口」と呼ばれました。
御溝水とは、宮中の殿舎の軒下を流れる遣水。
『アクセス』
「八軒家船着場の跡の石碑」大阪市中央区天満橋京町2-10 
京阪電車天満橋駅下車 徒歩約3分
『参考資料』
「平安時代史事典」角川書店 「歴史を読みなおす」(武士とは何だろうか)朝日新聞社 

 




 

 
 



 

 

 






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祇園祭の浄妙山は『平家物語・巻4・橋合戦』の一節を描いています。
橋合戦で見せた僧兵独自の戦い方は、浄妙山の山車に再現され、
今もそのありさまを偲ぶことができます。

平家軍の大軍と宇治橋をはさんで奮戦する源頼政・以仁王(もちひとおう)軍の
中に
三井寺僧兵の姿がありました。筒井浄妙は、大奮戦をしましたが、
とうとう腰刀だけになってしまいました。
そこへ後ろに続いていた一来(いちらい)法師が助けに入り、
浄妙の頭上を飛び越え、
「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て
奮戦した様子を現し、
かつては「悪しゅう候山」とよばれていました。

人形(御神体)は宇治橋に見立てた屋台の上で、
一来法師が浄妙坊の頭上を越える迫力のある一瞬をとらえています。
この合戦がきっかけとなって、諸国の源氏が次々と蜂起して
平家を打倒、遂に源頼朝が鎌倉幕府を開きました。
これをもって「浄妙山」は、縁起の良い勝ち運の山といわれています。

祇園祭りは平安時代にはじまった悪霊や疫病祓いの祭りですが、
悪霊や疫病祓いには、一人で何人もの平家軍を相手にして戦った

屈強な浄妙坊のご神体はぴったりです。

浄妙坊の頭に片手をついて飛び越えているのが一来法師です。
浄妙山が着用する「黒韋威肩白銅丸(くろいとおどしかたしろどうまる)は、
室町時代作で楠木正成着用のものといわれ、昭和45年、
国の重要文化財に
指定されましたので、巡行当日は別の胴丸を着けています。

漆塗の宇治橋に多くの矢が刺さっている様子が現され、
戦いの凄まじさがうかがわれます。
宇治川の流れを現わす波の欄干を周囲に巡らし、
両側には柳を立て川岸の雰囲気を出しています。



前掛は長谷川久蔵筆の「桜図」からのものです。

たった1本の木で上のご神体を支えています。

胴掛は綴錦織「柳橋水車図」です。
浄妙山ゆかりの宇治川の流れを表した長谷川等伯筆屏風絵からの作品です。



会所飾り公開:14日午前11時~16日午後11
 浄妙山会所 京都市中京区六角通烏丸西入骨屋町
右は三井寺の僧兵浄妙坊と左が同じく一来法師の御神体

山鉾巡行は、平成26年に7月17日の前祭(さきまつり)と7月24日の後祭(あとまつり)の
2度の巡行が49年ぶりに復活し、前祭は23基、後祭は10基の山鉾が巡行します。
後祭の巡行マップは、KYOTOdesignよりお借りしました。 (2018年6月追記)

                                          宵山の期間中に行われる屏風祭で、屋島合戦と鵯越逆落しの屏風を見ることができます。
            (六角通の西角にある六角館にて 新町通六角下ル)祇園祭橋弁慶山  橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
 祇園祭保昌山(平井保昌と和泉式部)  
                          『参考資料』「浄妙山」財団法人浄妙山保存会、2009年
                                           「日本の祭り文化事典」東京書籍株式会社



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『平家物語』が語る宇治川合戦は二度あります。
最初の合戦は以仁王と頼政の謀反による橋合戦です。
この戦は宇治橋をめぐる攻防となったことから、
『平家物語』は橋合戦とよんでいます。
その4年後、木曽義仲と源義経が宇治川で戦っています。

治承4年(1180)4月、後白河法皇の第二皇子以仁王(高倉宮)は、
平家打倒の令旨を諸国に潜伏する源氏に下しました。源平合戦の始まりです。
この計画はすぐに平家に発覚し、宮は追われる身となり、
源氏寄りの園城寺(三井寺)に入りました。比叡山延暦寺と
南都の僧兵に援軍を求めましたが、
延暦寺の協力が得られず、
まじかに平家軍が迫ってきました。
5月25日、やむなく、三井寺に合流した頼政とともに
一千五百余の軍勢が寺を脱出し南都へ落ちて行きます。
乗円坊の阿闍梨慶秀は、高齢のために弟子の刑部(ぎょうぶ)坊俊秀を
宮の御供におつけし、自らは三井寺に残るのでした。

俊秀の父山内首藤刑部俊通(としみち)が平治の乱で、
義朝に従って討死したため、幼い俊秀を
引きとり懐に抱くようにして
育てたと慶秀は涙ながらに宮に申し上げました。
源頼朝の乳父、山内俊通の塚(都ホテル裏山)  

宮は乗馬に不慣れな上に疲れ切っていたため、三井寺から
宇治までの間に六度も馬から落ちました。それで宇治橋の橋板を取り外し、
平等院に入って宮をしばらく休息させることになりました。
当時、平等院は天台宗の末寺で執行(しゅぎょう)は
延暦寺・三井寺から交互に任命され、橋合戦の時は三井寺の覚尊僧正でした。


翌26日、これを追って平家の大将軍知盛、頭中将重衡、薩摩守忠度を先頭に、
侍大将には、上総守忠清・忠綱、飛騨守景家・景高など総勢二万八千余騎の大軍が
木幡山を越え、宇治橋の袂に一気に押し寄せ、
鬨(とき)をつくること三度、
頼政軍も閧の声を合わせます。と物語は語っています。しかしこの数には虚構があり、
『玉葉』5月26日条によると、平氏方は300余騎、宮方は僅か50余騎でした。


橋板を外したため、両軍は宇治川をはさんでの合戦となりました。



  平家方先陣の兵が、「橋板がないぞ、怪我をするぞ。」と大声を上げて
叫んだのですが、後陣(ごじん)の者の耳には入りません。
橋板がないのを知らぬ後陣に押され、
先陣二百余騎が人馬ともども橋桁の
すき間から転がり落ち、
五月雨で増水した宇治川の激流にのまれてしまいました。

そうこうしているうちに、橋の両端から矢が射られ戦いが始まりました。
この日、源三位頼政は、長絹の鎧直垂(よろいひたたれ)に、地味な鎧を身につけ
今日の日を最期と思ったのでしょうか、兜はわざと被っていません。
嫡子伊豆守仲綱は、大将が身につける赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧装束、
弓を強く引こうというので、仲綱もやはり兜は被っていません。

この合戦で華々しい活躍を見せるのが、三井寺の僧兵たちです。
橋桁を伝って平氏方に押し寄せ、戦いを繰り広げました。
三井寺きっての荒法師、筒井浄妙明秀という男は、濃紺の直垂に黒革縅の鎧、

五枚錣の兜をかぶり、黒い漆塗りの太刀をさし、矢二十四本さした黒の箙(えびら)を
背負い塗籠籘(ぬりごめどう)の弓に、好みの白い柄の大長刀と黒装束、
華やかな装束が多い戦場ではかえって目立ついでたちです。

まず、五智院(園城寺の僧院名)の但馬が大長刀を持って一人橋の上に進むと、
平家方は「射取れや、射取れ」とさんざん射かけてきますが、
少しも騒がず敵が射かける矢を次々とかわし、
正面から来る矢は
長刀で切り払ったりと鮮やかな技をみせます。
後に「矢切りの但馬」といわれるようになりました。


次に登場するのが浄妙坊、橋の上に進んでまず大声で名乗りをあげ、

24本背負った矢を射れば無駄な矢は一本もなく12人を射殺し、
11人に負傷させ残り一本となると、弓も箙も捨て毛皮の沓をぬいではだしになり、
長刀をもって狭い橋桁(はしげた)の上をさらさらと走り、
あたかも広い大路を渡るごとく
、かろやかに動きまわります。

長刀で向かってくる敵を5人なぎ倒したところで長刀が折れてしまい、太刀で8人
切り伏せましたが、太刀は川へおちてしまい、腰刀だけになってしまいました。
そこへ後に続いていた一来(いちらい)法師が浄妙を助けようとしますが、
橋桁は狭いし、
傍を通り抜けようにもかなわぬこと。
「御免候え」といって浄妙の兜の上に手を乗せ、
肩を飛び越して浄妙を救ったものの、
とうとう討死してしまいました。


平家方が宇治川を突破できず攻めあぐねていた時、
東国武士足利忠綱という17歳の若武者が郷里利根川での敵前渡河の例を語り、
みずから陣頭にたち、配下の三百余騎に馬筏(うまいかだ)を組ませ、
一気に川を渡ると、続いて平家の大軍が次々に対岸に渡り頼政勢に襲いかかりました。
強い馬を上流にたて、弱い馬を下流におき、
筏のように馬を横一列に並べて川を渡る方法を馬筏といいます。

馬筏の作戦で敵前渡河を成功させ、先陣を果たした足利忠綱


渡河に成功した平家の大軍は平等院に攻め込み、頼政軍はあっという間に敗れ、
頼政は平等院の境内で自害しました。


浄妙坊はほうほうの体で、平等院の門前に戻り、芝生の上で鎧、兜をぬぎ、
突き刺さった矢を数えてみると63本、そのうち鎧を貫いた矢は5本ありました。

その傷の手当をして、頭を布で包み浄衣に着替えて下駄を履き、
弓を折り杖にして、念仏を唱えながら奈良へ落ち延びて行きました。
木津川市高倉神社・以仁王の墓・筒井浄妙の塚  
祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  筒井浄妙の坊跡(三井寺)   
源頼政の史跡(平等院扇芝・頼政の墓)
『アクセス』
「平等院」宇治市宇治蓮華116
「JR宇治駅」下車徒歩10分または「京阪電車宇治駅」下車徒歩7~8分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂

「平家物語を知る事典」東京堂出版 「図説源平合戦人物伝」学研





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