平家物語の圧巻「木曽の最期の事」は、
義仲と乳母子今井四郎兼平の深い心の絆を感動をこめて語っています。
今回は木曽義仲が東国軍の包囲網を逃れ、瀬田から敗走してきた
乳母子の今井兼平と出会った打出の浜をご紹介します。
児玉輝彦筆「再会」今井四郎兼平(部分。新潟県川西町歴史民俗資料館蔵)
範頼・義経の東国勢に勢多を破られた兼平は義仲を探し求めました。
(『図説・源平合戦人物伝』より転載。)
源頼朝は義仲追討の院宣を受けて義経と範頼を総大将として、
寿永2年(1183)年の瀬に軍勢を京都に向かわせました。
範頼は勢多を通って西へ、義経は宇治から北上して都に進みます。
宇治川・瀬田川で敗れた義仲は、長坂峠から丹波街道へ落ちて行くとも、
大原から龍華越を北国へ抜けるとも噂されました。
しかし義仲はその道筋を取らず瀬田に向かいます。
瀬田川を守っていた今井兼平の行方が気にかかり、範頼軍が
都へ進軍してくる道を逆方角に、追撃する敵を振り払いながら
三条河原から粟田口、松坂(粟田口から山科に抜ける日ノ岡峠の西側)、
山科から瀬田へと進んで行きます。
日頃から「死ぬときは一所」と幼いころから約束していたのです。
去年、信濃を出た時には、五万余騎と言われた軍勢も、
今日、四宮河原(山科四宮)を過ぎる頃には、僅か七騎となっていました。
義仲は信濃から巴と山吹を連れていましたが、
山吹は病気のために都に留まり、巴はその七騎のうちにいました。
一方、八百余騎の手勢が五十騎となった兼平も、義仲の身を案じて旗を巻いて
都へ引き返す途中、主従は打出の浜で偶然に行き逢います。互いに遠くから
それと分かり、駒を早めて駆け寄り、手を取り合って再会を喜びます。
「兼平よ。義仲は、六条河原で討死するところであったが、そなたの身が恋しゅうて、
ここまで探しに来たのだ。」と言えば、「お言葉かたじけのうございます。
兼平とて同じでございます。殿の行方を案じてここまで参りました。」と答えます。
「味方の兵がまだこのあたりにいるかも知れぬ。ここで最後の戦を仕掛けようぞ。
そなたが持っている旗を今一度揚げてみよ。」兼平が旗を高く掲げると、
あちこちから残兵が駆け集まり、いつしか三百余騎となります。
こうしてここを死に場所と決め、最後の戦いを挑みます。
相手は甲斐(山梨県)の一条次郎忠頼率いる六千余騎です。
木曽左馬頭(さまのかみ)、その日の装束は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に
唐綾威(からあやおどし)の鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる兜の緒を締め、
いかものづくりの大太刀をはき、
射残した矢を高々と背負い、名高い木曽の鬼葦毛(おにあしげ)という馬に
金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗り、鐙(あぶみ)ふんばり大音声をあげ
「日頃も聞きけん木曽の冠者を今こそ見よ。朝日将軍源義仲であるぞ。
それなるは甲斐の一条次郎と聞く。みごと義仲を討ちとって頼朝に見せるがよい。」と
散々に駆けめぐるうちに残ったのは五十騎、さらに続く土肥次郎実平の二千余騎を
駆け破り、駆け破り行くほどに手勢は討たれて五騎ばかりになってしまいました。
その五騎の中にも巴は生き残っていました。
ここで義仲が「お前は女であるから何処へでも落ち延びよ。
義仲が最後の戦に女を伴っていたといわれるのは恥だ。」と言っても
聞きません。しかし繰り返し諭され、やむなく戦場を落ちて行きました。
その後、五騎のうち篠原合戦で斎藤実盛を討取った手塚太郎は討死し、
その叔父の手塚別当も去りました。
最後に兼平とただ二騎となった義仲が「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、
今日は重うなったるぞや。」とふと弱音を吐くと
「それは味方に続く勢がいないので、そのように臆病なことをおっしゃるのです。
一領の鎧が急に重くなるわけがありません。兼平一人を武者千騎とお思いになって下さい。
射残した矢でそれがしが敵を防いでいる間にあの松原の中で静かにご自害なされませ。」と
兼平は主を大将軍らしく立派に死なせてやりたくて精一杯励まします。
「そなたと一所で死のうと京からここまで落ちてきたのだ。共に死のうぞ。」と答えると
兼平は馬から飛び降り、主の馬の口に取り付いて、涙をはらはらと流し
「武士は日頃いかに功名をなすとも、最後に名もなき郎党の手にかかって
果てるのは末代までの恥です。御身はすでに疲れています。馬も弱っています。
味方に続く勢もありません。急ぎあの松原へ」と説得されてただ一騎、
粟津の松原目指して馬を急がせます。
ころは春まだ浅い正月二十一日のたそがれ時、厳しい寒さの中、
湖岸の田には一面に薄氷が張りつめ、そこに深田があることに気づかずに踏込み、
馬は脚を深く取られ、腹を蹴っても鞭で打っても動きません。
その後方では兼平が寄せ来る敵をただ一騎で防いでいます。
「兼平はどうしているか」とふと振り向いた瞬間、迫りくる石田次郎為久の
矢に内甲を射られ、深手を負い馬の首にうつ伏します。
内甲(顔面)というのは鎧武者にとって最大の弱点です。
それを守るため甲は目深にかぶり、顔は伏せるようにして前傾姿勢で
敵の攻撃から防御しますが、義仲は兼平の身を案じて振向き、
矢が顔面を貫いて結局、雑兵に討ち取られてしまいました。
「木曽殿を相模国の住人、三浦の石田次郎為久が討ち申したぞ。」
この名乗りを聞いた今井四郎兼平は、もはや戦う意味がないと
「これ見給え。東国の殿方たち。日本一の剛の者が自害する手本よ。」と
叫ぶや太刀の先を口に含んで、馬から真っ逆さまに飛び落ち、
壮絶な最期を遂げました。時に義仲三十一歳、兼平は三十三歳でした。
義仲を射とめた三浦氏一族の石田次郎為久は、
この功により近江国室保(滋賀県長浜市石田町)を安堵されています。
瀬田を攻撃した範頼軍の中心勢力は一条忠頼が率いる武田源氏でした。
『源平盛衰記・頼朝義仲、仲悪しき事』によると
「一条次郎忠頼の弟武田五郎信光が義仲の嫡子清水冠者義高を
婿にと申し入れて断られ、それを根にもって、義仲が平氏と組んで
当家を滅ぼそうと企んでいると頼朝に讒言した。」とあります。
義仲は武田源氏の自分自身に対する私恨を十分承知し
最後の覚悟をしていた筈です。
最期の戦いに奮戦する兼平。
歌川国芳筆「粟津ヶ原大合戦の四天王今井兼平力戦して寿永三年正月三十三歳にて
英名をとぐむる」穂刈甲子男蔵 (『図説・源平合戦人物伝』より転載。)
打出浜
義仲寺のすぐ近く、京阪膳所(ぜぜ)駅と石場駅の間に
打出浜という地名があります。
京から逢坂越えの道は、古くは東に直進して琵琶湖に向かっていたと推定され、
義仲と兼平が再会した打出浜は、打出た浜の意味で名づけられたようです。
市街地を広めるために実施された昭和の埋め立て事業が
行われるまで、湖岸は県道18号線の内側付近でした。
県道18号線の交差点「打出浜」の地名が往時を伝えています。
県道18号線沿いの打出浜の標識
現在の打出浜には、近代的な公共施設が建ち並び、
その一画に建つ琵琶湖ホールは、埋め立て地の上にあります。
琵琶湖ホールから湖岸沿いに続くなぎさのプロムナードを歩きながら、
義仲・兼平が生きた遠い過去の時代に思いを巡らせました。
義仲最期の地(粟津の松原・粟津の番所跡)
木曽義仲の里 (徳音寺・南宮神社・旗挙八幡宮)
『アクセス』
「大津湖岸なぎさ公園打出の森」大津市打出浜「琵琶湖ホール」大津市打出浜
京阪電車「石場駅」下車徒歩5分
JR「膳所駅」下車徒歩15分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「源頼朝七つの顔」新人物往来社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「滋賀県の地名」平凡社
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
水原一考定「源平盛衰記」(巻四)新人物往来社 「図説・源平合戦人物伝」学習研究社