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平等院の境内には、頼政が切腹した地と伝えられる扇の芝や
境内の塔頭、最勝院(さいしょういん)には頼政の墓所があります。
平等院は藤原頼通が父の関白道長の別荘を寺院にし、
極楽浄土をこの世に現したといわれます。
中世以来、度々戦火に見舞われ大半の伽藍が焼失しました。
境内図は平等院H・Pよりお借りしました。
表門
表門を入って左手、観音堂傍の大きな松の木の下に扇の芝があります。
頼政辞世の句 ♪埋もれ木の 花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ 哀れなりける
(埋れ木に花が咲かないように我が生涯は華やかな栄達もなく、
花も咲かず朽ちるような悲しい人生であった。)
自身の境遇を花も咲かない、実もならない土中の
埋れ木にたとえた歌は悲しみを誘います。
謡曲「頼政」によると、頼政は持っていた扇を広げて西に向かい切腹しました。
扇芝には、頼政の江戸時代の子孫太田氏が建てた
天保年間(1830~44)の歌碑があります。
♪花さきてみとなるならば後の世に もののふの名もいかで残らむ
(花が咲き実のなる生涯であったのであれば、
武士としての名は後の世に残らなかったでしょう。)
頼政の子孫、太田道灌七世の孫太田毎資(つねもと)が建てた
「鵺池碑」が京都市の二条公園内にあります。
源頼政鵺退治ぬえの行方(鵺池・東三条の森・神明神社・大阪市鵺塚)
『平家物語』によると、家来の渡辺長七唱(となう)が頼政の
首級に石のおもりをつけて宇治川深く沈めました。
また、亀岡市の頼政塚は、自刃した頼政の亡骸を家来の
猪早太(いのはやた)が持ち帰り葬ったと伝えられています。
頼政の嫡男仲綱が自害した観音堂、この堂は当時の釣殿の位置にあります。
鳳凰堂
平等院最勝院内に頼政の墓所があります。
毎年5月26日には頼政忌が行われます。
源三位頼政顕彰碑と頼政供養塔(平等院内の浄土院)
源頼政は平氏打倒を掲げ以仁王を奉じて挙兵し、宇治川で平氏軍を迎え撃ち、
宇治橋の橋桁をはずし宇治川を盾に平氏軍を防ごうと奮戦しました。
橋桁の上を三井寺の僧兵たちが長刀を振り回して暴れまわり
平家軍は攻めあぐねていました。
この時、平氏軍の中にいた足利又太郎忠綱という17歳の若武者が、
大将軍知盛に馬を横一列に並べる馬筏という手段を進言します。
忠綱を先頭に平氏軍は宇治川を次々と渡り、平等院へ攻め入ります。
しょせん多勢に無勢、頼政は息子らとともに平等院で命を落としました。
頼政は左の膝を射られ、自害しようとするところを敵に襲われ、次男兼綱が
父を助けようと身を犠牲にして戦いますが、結局兼綱は討死しました。
嫡男の仲綱は重傷を負い平等院の釣殿で自害します。
この隙に以仁王は平等院を脱出し南都へ向いますが、
間もなく平氏軍に追いつかれ流れ矢にあたって敗死しました。
◆源頼政祠堂(しどう)京都市中京区木屋町通二条下ル、 銀行会館内
頼政の祠堂は、かつて中京区高倉通蛸薬師下ル貝屋町の西側の
手形交換所の裏庭にありましたが、現在は角倉邸跡に建てられた
銀行会館の裏手、北西隅駐車場の一角に祀られています。
係りの方にお願いして、お参りさせていただきましたが、
ネット掲載目的での写真撮影はご遠慮ください。とのことでした。
源頼政の墓・鵺退治像(西脇市長明寺1) 頼政道(園城寺から宇治へ)
亀岡の頼政塚 (源頼政の子孫) 二代后多子の近衛河原大宮御所と頼政邸
頼政の家臣 通円(通圓の墓・通圓茶屋) 猪早太(いのはやた)供養碑
神蔵寺(頼政に呼応した僧兵)
『アクセス』
「平等院」宇治市宇治蓮華116
「JR宇治駅」下車徒歩10分または「京阪電車宇治駅」下車徒歩7~8分
『参考資料』
「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂 「平等院と宇治の名刹」小学館
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社