平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




大輪田泊は古くから瀬戸内と畿内を結ぶ海上交通の要所として栄えていました。
この港は六甲山系によって北風がさえぎられ、南西からの風は和田岬が防ぐ
天然の良港でしたが、停泊中の船が南東からの強風を受け
しばしば難破するので、清盛は私財を投じて大改築を行ないました。
海に石を沈め人工島を築く工事は風雨に遮られて難航し、あまりの難工事に経文を
書いた石を廃船に積み、船ごと沈めて何層にも積み重ねてようやく完成しました。

このことから人工島は経ヶ島と呼ばれ、完成までに2年を要したといいます。
しかし完全には修復できず清盛は国家事業による改修を願い出て
許可されましたが、治承45月に以仁王が挙兵し源平の争乱が始まると、
改修計画は実行に移されることはありませんでした。鎌倉時代、東大寺再建で知られる
重源によって経ヶ島修築工事、その後も度々埋立整備が行われたため、
清盛が築いた経ヶ島も陸となり島の形を成してないといいます。


清盛が宋との貿易を行った大輪田泊は、現在の和田岬周辺だったとされています。


地下鉄海岸線「和田岬駅」「「中央市場駅」周辺に点在する
大輪田泊にまつわる史跡をご案内いたします。

古代大輪田泊の石椋(いわくら)
昭和27年(1952)の新川運河の拡張工事の際、この地から松丸太の
棒杭とともに発見された重さ4Tの巨石二十数個のうちの一つです。
発見された場所は当時、海中であったと考えられ、
石椋とよばれる石を積み上げた波よけの花崗岩の土台です。
防波堤や突堤に使われていたもので、港の入口に
このような巨石を3、4段積上げ松杭で補強していたと思われます。
大輪田泊は度々改修されているためいつの時代のものなのか
わかりませんが、大輪田泊の位置を示す資料の一つとなっています。

古代大輪田泊の石椋の近くには経ヶ島築造の際、松王丸が自ら進んで
人柱となったという悲しい伝説を伝える築島寺(来迎寺)があります。
築島寺(来迎寺)
清盛が大輪田泊修築工事にあたり、激しい雨風に工事が難航した際、
清盛の小姓松王丸が進んで人柱となり暴風雨を鎮めたという。
その霊を弔うために清盛が創建したと伝えています。

松王小児入海之碑
二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心はこの兵庫であるとの
確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは竜神の怒りである。30人の人柱と一切経を書写した
石を鎮めると成就するであろう」と言上した。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え
通行の旅人を捕えさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。
このとき、清盛の侍童で香川の城主田井民部氏の嫡男松王十七歳が
「人柱のことは罪が深い。わたしひとりを身代りに沈めて下さい」と申し出た。
応保元年(1161)七月十三日、千僧読経のうち松王は海底に沈み築島造営は完成した。
現在の神戸港の生い立ちである。天皇は大いに感動されて、
松王の菩提を永く弔うため当寺を建立し、念仏の道場とされた。(現地説明板)

しかし、平家物語は人柱説を否定しています。「阿波の民部重能を奉行として築かれ、
人柱を立てるべしとの公卿詮議がありましたが、それは罪深いことだと言って石の表に
一切経を書いて沈めさせました。それ故、経の島と名づけられました。」(巻6・経の島の事)
松王丸入水は、よくある人柱伝説のひとつなのでしょうか。


松王丸供養塔の傍には清盛の寵姫・祇王妓女の供養塔もあります。
祇王妓女の塔
祇王と妓女はともに京堀川の白拍子であった。清盛の寵愛を得て
優雅な日をおくっていたが、清盛の心が仏御前に傾くに及び
世の無常を嘆き、
嵯峨野に庵(いまの祇王寺)を結び仏門に入った。
その後、平家が壇ノ浦で破れたため、平家ゆかりの
兵庫の八棟寺(当寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。(現地説明板)
 金光寺(こんこうじ) 
兵庫のお薬師さんの名で知られる金光寺には次のような伝説があります。
経ヶ島築造の時、清盛の夢枕に立った童子のお告げに従って
大輪田の海に網を下ろし引上げたところ海中から黄金の薬師尊が
出現しました。このことから寺は金光寺と名づけられ、この時海中から
現われた黄金の薬師尊は本尊薬師如来像の胎内に納められています。

和田神社
神代の昔、蛭子大神が和田岬に上陸したといわれ、もとは和田岬を守る神社でした。
大輪田泊築造に際し、清盛が経ケ島の完成と大輪田泊の繁栄を願い
安芸の厳島神社より勧請した市杵嶋姫(弁才天)大神が祀られています。
明治時代、造船所の建設計画で現在地に遷されるまで、
社は和田岬先端の海岸にありました。

和田岬駅から地上に出ると、すぐに和田神社の鳥居が見えてきます。








安芸の厳島神社から勧請した弁財天
清盛七弁天のひとつ安全弁天

『アクセス』
「古代大輪田泊の石椋」神戸市兵庫区荒田町3-99 
JR神戸駅より地下鉄中央市場駅前下車徒歩6分
「築島寺(来迎寺)」兵庫区島上町2-1 地下鉄中央市場駅前下車駅下車5分
「金光寺」 兵庫区西仲町2-12 地下鉄中央市場駅前駅下車7、8分
「和田神社」 兵庫区和田宮通3-2-45 地下鉄和田岬駅下車徒歩2、3分
『参考資料』

歴史資料ネットワーク編「歴史のなかの神戸と平家」神戸新聞総合出版センター 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社 高橋昌明編「別冊太陽 平清盛」平凡社 
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 「兵庫県の地名」(1)平凡社
NHK神戸放送局編(新)「兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター 
「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社

 

 

 



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  権勢をきわめた清盛も亡くなると、「その遺骸は愛宕(おたぎ)で火葬にし、
遺骨を円実法眼が
首にかけて摂津国へ下り、経の島に納めた。」と
『巻6・入道死去』に書かれています。

清盛が荼毘にふされたという愛宕(おたぎ)は、平安時代に
愛宕寺とよばれた
六波羅の北にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)とも
六波羅の東方から南東方にかけてある
一大葬地、
鳥辺山・鳥辺野ともいわれています。

経の島は清盛が築いた大輪田泊にある人工島で、現在の兵庫港近辺にあたります。

神戸市兵庫区には、清盛塚と呼ばれる高さ8.5mの十三重の石塔があります。
この石塔の建つ付近一帯は能福寺領内の八棟寺があったところといわれ、
清盛の遺骨を持ち帰った円実法眼がこの寺に納めたと伝えられてきました。
しかし八棟寺は平家の滅亡とともに破壊され寺の伽藍は灰となりました。
その百余年後の弘安9年(1286)この地を訪れた九代執権北条貞時が
石塔を建てて清盛を弔ったと云われ、この伝承を受継いだ地元の人々は
「清盛講」という集まりをつくり供養してきました。



清盛塚とよばれる石塔

八棟寺に清盛の墓があったとされてきました。

「平相国菩提所八棟寺無縁如来塔」の文字が読み取れます。

大正12年(1923)、市電の軌道敷設にともなう道路拡張工事の際、
発掘調査が行われましたが、人々が語り伝えてきた清盛塚に関する伝承を
裏付けることはできませんでした。調査後、この石塔は元の場所から
10m程北東の現在地に移されました。その後、十三重石塔の基礎部分に
「弘安9年(1286)」の銘があることから西大寺の叡尊(えいそん)が弘安8年(1285)8月に
兵庫津で石塔供養に臨み法要を行ったという記録と結び付け、叡尊に関わる
供養塔であると推定されています。長い間、清盛の墓と思われていた清盛塚が
発掘調査の結果、遺骨が確認されず清盛納骨の地ではないことが明らかとなりました。

最近の研究では、清盛の墓は吾妻鏡が記す播磨国山田が有力視されています。
『吾妻鏡』養和元年(1181)閏二月四日条には、「遺言によって三日の後に葬儀を行い、
遺骨は播磨国山田の法華堂に納めた。」とあります。この山田は、後の平家没官領の
一つとなった明石郡垂水郷の山田、現在の神戸市垂水区西舞子町付近とされ、
明石海峡大橋西のつけ根、明石海峡を望む景勝の地です。
そこを流れる山田川が僅かに山田の名を留めているだけで、遺骨を納めた
法華堂がどこにあったかは詳らかではありません。

山田には山田御所と呼ばれる清盛の別荘があり、平氏にとって海陸の拠点の一つでした。
『高倉院厳島御幸記』には、「播磨国山田といふところに昼の御設けあり。心ことにつくりたり。
庭には黒き白き石にて、霰の方に石畳にし、松を葺き、さまざまの飾りどもをぞしわたしたる。」と
厳島詣に向かう高倉院一行が清盛の別荘で昼食をとったこと、庭に敷かれた
市松模様の石畳や屋根など見事に設えた別荘の様子が描かれています。


JR兵庫駅から南東へ10分ほど歩くと、最澄が自作の薬師如来像を安置し、
創建したと伝える能福寺(天台宗)があります。
この寺は清盛が剃髪出家して浄海となったことでも知られ、
平家一門の帰依により隆盛しましたが、源平合戦で全焼しました。

境内には日本三大大仏に数えられる兵庫大仏があります。

堂宇を再建した忠快は、能福寺中興の祖となり大いに栄えましたが、
寺運は次第に衰え南北朝期には再び兵火にかかり全焼、

明智光秀の家臣、長盛法印が慶長4年(1599)再建したと伝えています。

境内には、平清盛八百年忌を記念して作られた平相国(太政大臣の唐名)廟があります。

中央に清盛塚を模した十三重石塔が祀られ、向かって右側に円実法眼の宝筐印塔と
左側に忠快の九重石塔が合祀されています。



戦災で寺は焼け、今の本堂の月輪影殿は京都市東山の月輪御陵にあった
九条家の拝殿を昭和29年に移築したものです。

円実法眼(ほうげん)は左大臣をつとめた徳大寺実能の子で清盛の側近の一人です。
清盛臨終の日の朝、円実法眼は清盛の使者として後白河院を訪ね
「清盛が亡くなったら、万事を宗盛(清盛の三男)に仰せ付け、重用してほしい」と
要請しています。円実法眼に次いでこの寺の住職となったのが、
清盛の弟教盛の子・忠快法印です。仲快が住職となった寿永2年(1183)、
木曽義仲に追われ都落ちした平氏一門は、この地で管弦講を営んだという。
忠快は平家滅亡後、伊豆国に流されますが流罪中に頼朝をはじめとする
鎌倉の有力者達の帰依を得るようになり、後、都に戻り父が所有していた
東山の敷地を返却されてそこで住坊と持仏堂を営みました。
水薬師寺・延暦寺千手の井(清盛の最期)  
平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地  
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺)  
敗走の果てに平氏がたどり着いた彦島(清盛塚)  
 『アクセス』
「能福寺」神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39 JR兵庫駅徒歩10分
「清盛塚」神戸市兵庫区切戸町1
JR「兵庫」駅徒歩15分または地下鉄「中央市場前駅」徒歩10分くらい
『参考資料』

歴史資料ネットワーク編「歴史のなかの神戸と平家」神戸新聞総合出版センター 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社 高橋昌明編「別冊太陽 平清盛」平凡社 
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 角田文衛「平家後抄」(下)講談社学術文庫
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 「兵庫県の地名」(1)平凡社
NHK神戸放送局編(新)「兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社



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清盛が熱病の時に水薬師寺の「岩井の井」の水を浴びると、
たちまち病が治ったと伝えています。
水薬師寺は非公開寺院ですが、寺の許可を得て拝観させていただきました。
塩通山匡王院水薬師寺
もとは真言宗東寺派に属していましたが、今は単立寺院となっています。
水薬師寺略縁起によると、昔、この地に大池があって日に5回も干満するので、
若狭国の海水が奈良の二月堂の閼伽井(あかい)に通う潮の道筋にあたると考え、
この付近を塩小路と呼ぶようになったという。
理源大師聖宝がこの池の中から薬師如来を拾い上げ、
これを安置したのが起こりといわれ、京都十二薬師の一つに数えられました。
入道相国清盛が晩年重い熱病にかかった時、
体を冷やしたという湧き水は、かれて現在はありません。
かつて境内にあった弁財堂に祀られていた弁財天は、
清盛が安芸の宮島から勧請したと伝えられています。

寺は西八条殿跡近く(市バス七条御前下車7分)にあり、幼稚園を併設しています。





本堂の薬師如来堂。

東国で頼朝、信濃の木曽義仲が挙兵、頼朝は富士川の戦いで大勝利し、
やがて九州、四国、南海と叛乱は広がり、
平家はしだいに窮地に追いこまれていきました。そんな中、
清盛が発病しました。
体は火を焚くように熱くなり、寝所から4、5間(7~9m)以内には
熱くて近づけませんでした。ただ「あた、あた」と言うばかり。
比叡山より千手井の水を汲み石造りの水槽にたたえ、
その中に清盛をつけると水はぐらぐらと沸き上がって湯になってしまい、
筧の水を体に注ぎかけると、石や鉄が焼けるように飛び散ります。

清盛の北の方・二位殿(時子)の見た夢も恐ろしく、馬や牛のような
顔をした者たちが、猛火につつまれた車を引いてやってきました。
自分たちは閻魔庁から清盛を迎えにやってきた者だ。と言い、
東大寺の大仏殿を焼き滅ぼした罪により清盛は無間地獄に落ちるというのです。
夢から覚めた二位殿は霊験あらたかな都内外の寺社に宝物を献納して
病気平癒を祈りましたが何の効果もありません。
弱る息の中で清盛は「何も思い残すことはない。ただ一つ、
頼朝の首を見ないまま死んでいくことが心残りである。自分が死んだら
堂や塔を建てなくてよい。死後の供養もしないように。ただ頼朝の首を
墓前に供えてほしい。それが何よりの供養である。」と
何とも罪深い言葉を残し、発病して僅かに一週間余り、64歳の最期でした。

千手水(弁慶水)
東塔西谷にある山王院の本尊千手観音に供える水を汲む井戸を千手井といい、
冷水が湧いていました。この水を病に苦しむ清盛の熱をさますため、
この井戸の水を水槽にはって清盛に入らせたと『平家物語』にあります。


比叡山で修行していた弁慶が一千日夜にわたって
山王院の千手観音に剛力を祈り、この観音様にささげる水を汲んだ所ともいう。





平家物語が記す清盛が激しい熱病に苦しみながら死んだ事について、
誇張もあるのでしょうが、病名について都でいろいろな噂が
飛んだことや熱病で亡くなったことが他の記録類にも記されています。
突然異常な高熱が出て数日で死ぬことや親友の藤原邦綱が
同時に病み清盛のあとを追うように亡くなったことから、
二人の病名はマラリア、髄膜炎、インフルエンザからの肺炎などと推測されています。
清盛が亡くなったのは九条河原口の平盛国の家であったと
「吾妻鏡」養和元年(1181)閏二月四日条にみえます。

続々と上る謀反ののろしの中での突然の病に襲われた清盛、
とりわけ平治の乱の後、死罪にするはずの頼朝を池の禅尼に嘆願され、
伊豆に流しました。その頼朝が謀反を起こし、源氏の旗頭となって
兵を進めてくるという、清盛はさぞ無念だったことでしょう。

清盛には死去後の反乱軍鎮圧や政治の事など気がかりな事が多くあり、
最期を迎える日の朝、後白河院に使者を送り自分の死後のことは
万事宗盛に命じたので、天下のことは宗盛とはかってほしいと伝えましたが、
院は平氏を見限ったのか、足元をみたのか、返答は曖昧でした。
怒った清盛は「天下のことはすべて宗盛が指図する。異議は認めない。」と
苦しい息の中でいいながら無念の最期を迎えました。
清盛の葬儀の日、
後白河院のいた最勝光王院の御所から高らかに今様を歌う声が聞こえてきた
 という。

『アクセス』
「塩通山匡王院水薬師寺」京都市下京区七条御前下ル石井町54
 JR西大路駅下車徒歩約10分又は市バス七条御前下車7分
「比叡山延暦寺」
滋賀県大津市坂本本町4220

京都駅から京阪バスまたは京都バス約1時間10分
(本数が少ないのでご注意下さい)延暦寺バスセンター着

JR湖西線比叡山坂本駅下車、連絡バス7分でケーブル坂本駅からケーブルで延暦寺駅へ
 『参考資料』
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書
上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 高橋昌明編別冊太陽「平清盛」平凡社
上杉和彦「平清盛」山川出版社  竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 
現代語訳「吾妻鏡」(1)(2)吉川弘文館 「平家物語」(中)新潮日本古典集成
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫

 



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