耳塚の北、正面通りを挟んだ向かい側にある熊谷山専定寺には、
熊谷直実にまつわる伝承があります。
専定寺(烏寺)現地駒札より
熊谷山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。寺伝によれば、昔、
専定(せんじょう)法師という旅僧がこの辺りの松の木の木陰で休んでいると、
二羽の烏が梢にとまり、「今日は、蓮生(れんしょう)坊(熊谷直実)の
極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか。」と語り合い、
南の空へ飛び立った。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、
烏が話していた同日(承元二年(1208)九月十四日)同刻に亡くなっていた。
このことから、ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが
当寺の起りといわれている。かつては、この故事を伝えるため、
境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、
大仏七不思議(方広寺周辺に伝わる七不思議)の一つに数えられていた。
本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、
金箔による像内化粧がほどこされているなど貴重なもので、
京都市の有形文化財に指定されている。 京都市
専定寺は老舗の和菓子屋の並びにあります。
専定寺は非公開寺院です。
石碑には、「烏」の絵と「寺」という文字が刻まれています。
法然の弟子となった蓮生は師によく仕え、一途に修行に励む一方、
時々人々を驚かすような行動をとり、数多くの逸話を残しています。
法然は純粋で素朴なこの弟子を可愛がりましたが、彼の振舞いに辟易する所も
あったと思われ、ある時は厳しく叱り、時には優しく教え諭しています。
都で法然教団への批判が強まっていた頃、蓮生は自分の死期を予告します。
浄土教では、極楽浄土に生まれ変わるとき、
上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょ)に至る
九種類のランクがあると考えられています。
蓮生は上品上生に往生し、この世に帰ってきて全ての人々に
救いの手をさしのべ、人々を極楽に導きたい。
そのためには絶対に上品上生に往生しなくてはならないと思い、
最高ランクの往生をすると宣言します。
この噂に法然は立腹し、強く諌めますが、蓮生の決心は固かったようです。
彼は常陸の佐竹討伐や一ノ谷の戦いで、一番に敵陣に斬りこんで
先陣を遂げ喝采をあびた武者です。
この時、人々に称賛されたことが忘れられなかったのか、
浄土の教えで先駆けにあたる上品上生の往生を目指します。
一度目は失敗し、そこに詰めかけた群衆に嘘つきといわれ
評判を落としましたが、二度目は、人々が大勢集まっている中で、
高らかに念仏を称えながら息をひきとりました。
その瞬間、口から光が放たれ、音楽が聞こえ、紫色の雲がたなびき、
人々は「上品上生の往生間違いなし」と語りあったといいます。
蓮生68歳、終焉地は京都黒谷とも、武蔵国熊谷ともいわれています。
ここで蓮生の出家から往生へ至るまでの過程を見ていきましょう。
蓮生は出家後まもなく、法然上人の命を受け
上人の故郷(岡山県久米郡久米南町)に誕生寺を建立しています。
この寺の法然像は蓮生が京都から担いで行ったという説があり、
剛の者蓮生にふさわしい伝承です。
蓮生はこの他にも数多くの寺院を開基したことで知られています。
源平合戦後、上洛する機会が増えた鎌倉武士らは、蓮生の話を聞きたいと、
その庵を訪ねます。合戦にあけくれ多くの人をあやめてきた彼らに、
心の安らぎを与えたのが法然の仏教でした。
難しい教えと思い込んでいた仏教が、念仏さえ称えれば極楽往生できる。
それはこれまで功徳とされてきた多額の布施や寄進、困難な仏道修行、
教学の研鑽、金持ちや僧侶にしかできないような行を全て排除し、
念仏のみで救われるというのが法然の教えでした。その教えに魅かれ
鎌倉武士の中にも信者となる者が少なくなく、鎌倉では
「彼らは仏教に無知だから、念仏だけ称えれば極楽に行ける。と教えられたのであろう。
信じられるものではない。」という悪い噂が広まります。
それで北条政子は法然に使いを遣わして質問します。法然は念仏の功徳を述べ、
その噂が間違いである。と細やかに書き記した書状を使いの者に持たせます。
その回答に政子は感じるところがあったのでしょうか。
その後、三代将軍実朝が公暁に鶴岡八幡宮で暗殺された時、
政子はわが子の菩提を弔ってくれるようにと津戸三郎為守に遺骨を渡し、
津戸はこれを機に尊願という法名を法然からもらい出家しました。
津戸三郎は頼朝が挙兵した際、18歳で石橋山に武蔵国から馳せ参じ、
各地の合戦に活躍した御家人で、東大寺参詣の折には、
頼朝に従って上洛し、その時に法然の教えを受けています。
建久六年(1195)八月、関東に下向した蓮生は、東大寺落慶供養から戻った
頼朝の前に現れて、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)を説くとともに
兵法・武道についても語り、居並ぶ御家人たちを感歎させます。
この世に対する執着を捨て去り、ひたすら「南無阿弥陀仏」と称えて
極楽浄土に生まれ変わることを願うという「厭離穢土欣求浄土」を
娑婆世界の覇者頼朝は、どのように聞いたのでしょうか。
頼朝は鎌倉にとどまるよう引きとめますが、蓮生は他日を約束して
故郷の熊谷に帰ります。そこで専修念仏の布教者となり、
東国の念仏信仰の輪を広めます。やがて京に戻り、ついで高野山に上り、
仏法の話の合間に合戦談を語る念仏上人となり、念仏の普及に努めますが、
法然が流罪になったことを聞き、山を下り京都の草庵に籠ります。
『アクセス』
専定寺(せんじょうじ)京都市東山区正面通り本町東入
市バス「三十三間堂・京都国立博物館前」下車徒歩約8分
『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書 梅原猛「法然の哀しみ」(上)(下)小学館文庫
梅原猛「京都発見」(法然と障壁画)新潮社 別冊太陽「法然」平凡社
水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書