平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



仁王門から参道を進み、石段を上って唐門をくぐると、
緑に包まれた境内の中に本堂が建っています。



本堂は豊臣秀頼が再建したもので本尊の聖観音菩薩像が祀られています。
内陣の宮殿は、応安元年(1368)の建造で重要文化財です。


大師堂傍らの池は「敦盛首洗い池」、その背後には、合戦終了後、義経が池の前に
腰を掛けて平家武将らの首実検をした名残という「義経腰掛の松」があります。
それから五年のちには、首になった義経を藤原泰衡の使者が
鎌倉の浜辺に持参、和田義盛・梶原景時が検分しています。


大師堂には弘法大師が祀られていて毎月の縁日には、多くの参拝客で賑わいます。

大正末期、大師堂には ♪咳をしてもひとり の自由律の俳人、尾崎放哉(ほうさい)が
堂守として9ヵ月余住んでいたことがあり、
池の傍らには、
♪こんなよい月をひとりで見て寝る の放哉の句碑がたっています。


三重の塔の手前には、出世稲荷の赤い鳥居が見えます。
出世稲荷の由来
「往昔福原遷都のみぎり平相国清盛公 都の守護神として
この稲荷明神を湊川の畔に奉安したるところ
出世稲荷と呼ばれ
立身出世事業成功の神として広く庶民の信仰を集め
港都最大の稲荷社として栄えてまいりましたが 明治中期湊川改修に際し
平家に最もゆかりの深い当山へ遷座し奉ったものであります。
祭神は尾玉・荒熊・末広の三神です。」(現地説明板)


文禄大地震の際に倒壊した三重の塔は、昭和59年に再建されました。

 三重の塔からさらに進むと首実検のあと敦盛の首を葬ったという「敦盛首塚」があります。

享保十八年(1733)の敦盛五百五十回忌の開帳には、
境内に十軒近い芝居小屋が建ち、
門前には多くの料理屋が店を並べ、
多額の場銭が入り、寺ではそれを護摩堂の再建費に当てています。
また各地で青葉の笛の出開帳を行い、
拝観料をとりましたが、
いつも大盛況だったそうです。


本坊・書院前の庭園入口にある「青葉の笛」のモニュメントからは、
須磨琴による青葉の笛の調べが流れ、笛の名手敦盛が偲ばれます。



本坊・書院は、本堂と共に須磨寺一山の中心で、書院には本尊の
阿弥陀如来が祀られ、
本坊には「須磨琴保存会の本部」があります。

須磨琴は、一絃琴(いちげんきん)ともよばれ、須磨に流された
在原行平(在原業平の兄)が、一枚の板に一本の弦を張っただけの
簡単な琴を作り退屈しのぎに弾いたのが始まりと言われています。
行平は平城天皇の孫に当たりますが、献歌した一首が
光孝天皇の怒りにふれ蟄居させられたという平安時代前期の歌人です。

須磨寺(源平ゆかりの地)  
書院前の芭蕉の句碑をご覧ください。
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇
『参考資料』
「兵庫県の地名」(1)平凡社 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社 
上横手雅敬源義経 流浪の勇者」文英堂

 



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須磨寺は平安時代初期に創建されたと伝えられている真言宗の寺で、
正式な寺名は、上野山(じょうやさん)福祥寺(ふくしょうじ)ですが、
古くから須磨寺とよばれて親しまれてきました。

寺伝によれば、平安時代の初めに和田岬の沖で漁師が聖観音像を引き上げ、
会下山(えげやま)の北峰の一寺に安置していたのを
聞鏡上人が現在地に移したのが始まりとされています。
「須磨のお大師さん」としても知られ、境内には弘法大師を祀る大師堂や
奥の院があり、毎月の縁日には、参道に屋台が並び賑わいます。

平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など
多数の寺宝や史跡があり、「源平ゆかりの寺」として全国的に知られています。

南北朝期から江戸時代にかけて歴代の住職が書き残した
『当山歴代』によると、敦盛の笛は、応永34年(1427)細川軍に盗まれましたが、
奇跡的に戻り法要を営んだことや、本尊の聖観音は摂津源氏相伝の念持仏で、
平安末期、源頼政が安置、寺領三ヵ所を寄進したと記されています。
数度の天災や人災で寺は荒廃し、かつての七堂十二坊も失われ、
幕末には本堂、大師堂、仁王門を残すだけとなりましたが、
明治中期以後、堂塔があいついで再建され現在に至っています。

戦国時代には講堂供養を行い、本尊とともに敦盛御影や笛を公開したところ
多くの人々が集まり、敦盛ゆかりの寺として広く知られるようになり、
いつの頃からか、寺では笛を公開して笛見料を徴収するようになり、
見物に群衆が押し寄せ寺の大きな収入源となりました。
文明18年(1486)から五年がかりで建立された三重塔の柱には、
わざわざ源平合戦にゆかりの深い生田の森の木材が使われ、
平家伝承との関係を深めていきます。


須磨寺前商店街を通って須磨寺へ




中門から放生池にかかる橋を渡ると、源三位頼政再建の仁王門が現れます。

仁王門から参道を進むと弘法岩五鈷水、右手には、熊谷直実の法名にちなんだ
蓮生院、左手には、一の谷合戦の一場面を再現した「源平の庭」がつくられ、
浜辺から扇で招く直実と振り返る敦盛の像がたっています。


五鈷水 大きな弘法岩に五鈷を置いた手水処


出家した熊谷直実(蓮生坊)が敦盛の菩提を弔ったのが始まりという蓮生院。
 塔頭三院の一つで本尊は不動明王です。


波寄せる浜辺から扇で招く熊谷直実と振り返る敦盛の像。
今まさに一騎打ちが始まろうとする瞬間を再現した源平の庭

源平の庭の傍には与謝蕪村が♪笛の音に波もよりくる 須磨の秋 と
敦盛の青葉の笛を偲んで詠んだ句碑の他
広い境内には、数多くの句碑や歌碑が点在しています。
また歌舞伎「一谷嫩(ふたば)軍記・熊谷陣屋」の若木の桜もあります。

宝物館には、敦盛の首が当寺に埋葬されたということから、青葉の笛や敦盛像、
絵画などの敦盛関係の遺品が多く展示されています。


弁慶の鐘
一の谷合戦の時、弁慶が安養寺からこの鐘を
長刀の先に掛けて担いできて、陣鐘の代用にしたという




須磨寺に伝わる青葉の笛

敦盛愛用の笛は、「小枝(さえだ)」といい、鳥羽院から祖父の忠盛が賜り、
祖父から父経盛を経て敦盛に伝わったものです。
『平家物語』には、青葉の笛という名称は登場せず、
須磨寺でも「小枝」とよんでいましたが、この笛が「青葉の笛」に変わるのは、
世阿弥の能『敦盛』の影響といわれています。
ここでその一節をご紹介します。
「敦盛の菩提を弔うため出家した熊谷直実が、蓮生と名乗り一の谷を訪れると、
笛を吹く草刈男たちが現れて『小枝・蝉折さまざまに笛の名は多けれども、
草刈の吹く笛ならば青葉の笛とおぼしめせ。』と語ります。
一人残った男は自分が敦盛のゆかりの者であるといい、南無阿弥陀仏と
十回唱えて欲しいと言うので蓮生が経をあげると、
男は敦盛の化身であることを明かして姿を消します。」

江戸時代に入り名所記が出版物として普及し、現地を訪れる人が
多くなりますが、『兵庫名所記』には、この笛は弘法大師が
中国に留学していた時に作ったと記され、『播磨巡覧記』や
『摂津名所図会』などにも、弘法大師作の説が受けつがれていき、
伝承は新たな伝承を生んでいきました。

須磨寺(敦盛首塚・首洗い池・義経腰掛の松)  
 敦盛最期(敦盛塚)  
 『アクセス』
「須磨寺」神戸市須磨区須磨寺町4-6-8
山陽電鉄 「須磨寺駅前」 徒歩約5分 JR 「須磨駅」 徒歩約12分
宝物館開館時間. 9:00~16:00 料金100円 休館日 無休
『参考資料』
「兵庫県の地名」(1)平凡社 歴史資料ネットワーク「神戸と平家」神戸新聞総合出版センター
 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社 「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター
白洲正子「謡曲 平家物語」講談社文芸文庫



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京都市寺町にある鳩居(きゅうきょ)堂は、和文具・香製造の老舗です。
初代は熊谷直実から数えて20代目の熊谷直心(じきしん)で、
彼が京都で医学や薬学を学び、寛文3年(1663)に
本能寺の門前で薬種商「鳩居堂」を創業したのが始まりです。

熊谷直実は、『平家物語』や文楽・歌舞伎の演目『一谷嫩(ふたば)軍記』で
知られる源氏方の武将です。
源平一ノ谷合戦では、涙ながらに平敦盛を討ち取り、
その後出家して法然の弟子となり蓮生と名のり、
やがてすさましいばかりの念仏行者となりました。





一対の鳩が向かい合う商標は、たびたび合戦で手柄を立てた熊谷直実が
源頼朝からおくられた旗印を図案化したもので、
屋号は直心が教えをうけた儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)が、
中国の「詩経」の一節からとって名づけました。

現在の営業形態を固めたのが、四代目の熊谷直恭(なおやす)で、
漢方薬原料のビャクダン、沈香、丁子などを使って
お香の製造を始めると同時に、薬種原料とあわせて
中国より輸入した筆や墨、唐紙なども販売するようになります。
以来、代々文人墨客や有力者などと親交を結ぶようになり、
直恭と交流のあった儒学者頼山陽に筆や墨色の改良を指導してもらい、
筆や墨の製造も始めます。

事業で成功した直恭は、社会奉仕にも力を注ぐようになりました。
天保の大飢饉では、三条大橋の河原に数棟の小屋を建て人々を救い、
そして長崎に医師を派遣して種痘を持ち帰らせ
天然痘の種痘接種所「有信堂」を開設します。
明治に入ると、直恭の意志を受けついだ息子の直孝が
「有信堂」を教育塾に改めます。この塾は日本初の小学校として開校した
柳池(りゅうち)小学校の母体となり、
直孝はこの小学校建築資金の大半を負担しました。また幕末には
勤王の志士を匿い資金を援助した勤皇家としても知られています。

こうした長年の社会貢献や明治政府への協力が認められ、
八代目の熊谷直行は太政大臣三条実美から三条家に900年来
伝承されてきた宮中御用の「合せ香」の配合をすべて伝授され、
宮中の御用を勤めるため東京に進出していきました。
現在、東京銀座の一等地にも本店があり、
東京では本店の他に四つの店舗を運営しています。
『アクセス』
「鳩居堂」
京都市中京区寺町姉小路上ル下本能寺前町520 
市バス「京都市役所前」下車 徒歩約2
 
『参考資料』
「日本経済新聞・200年企業」(平成22915日朝刊)
「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社 「京都大事典」淡交社

 



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耳塚の北、正面通りを挟んだ向かい側にある熊谷山専定寺には、
熊谷直実にまつわる伝承があります。
専定寺(烏寺)現地駒札より

熊谷山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。寺伝によれば、昔、
専定(せんじょう)法師という旅僧がこの辺りの松の木の木陰で休んでいると、
二羽の烏が梢にとまり、「今日は、蓮生(れんしょう)坊(熊谷直実)の
極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか。」と語り合い、
南の空へ飛び立った。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、
烏が話していた同日(承元二年(1208)九月十四日)同刻に亡くなっていた。
このことから、ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが
当寺の起りといわれている。かつては、この故事を伝えるため、
境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、
大仏七不思議(方広寺周辺に伝わる七不思議)の一つに数えられていた。

本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、
金箔による像内化粧がほどこされているなど貴重なもので、
京都市の有形文化財に指定されている。  京都市  

 


専定寺は老舗の和菓子屋の並びにあります。



専定寺は非公開寺院です。

石碑には、「烏」の絵と「寺」という文字が刻まれています。

法然の弟子となった蓮生は師によく仕え、一途に修行に励む一方、
時々人々を驚かすような行動をとり、数多くの逸話を残しています。
法然は純粋で素朴なこの弟子を可愛がりましたが、彼の振舞いに辟易する所も
あったと思われ、ある時は厳しく叱り、時には優しく教え諭しています。

都で法然教団への批判が強まっていた頃、蓮生は自分の死期を予告します。
浄土教では、極楽浄土に生まれ変わるとき、
上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょ)に至る
九種類のランクがあると考えられています。
蓮生は上品上生に往生し、この世に帰ってきて全ての人々に
救いの手をさしのべ、人々を極楽に導きたい。
そのためには絶対に上品上生に往生しなくてはならないと思い、
最高ランクの往生をすると宣言します。
この噂に法然は立腹し、強く諌めますが、蓮生の決心は固かったようです。
彼は常陸の佐竹討伐や一ノ谷の戦いで、一番に敵陣に斬りこんで
先陣を遂げ喝采をあびた武者です。
この時、人々に称賛されたことが忘れられなかったのか、
浄土の教えで先駆けにあたる上品上生の往生を目指します。

一度目は失敗し、そこに詰めかけた群衆に嘘つきといわれ
評判を落としましたが、二度目は、人々が大勢集まっている中で、
高らかに念仏を称えながら息をひきとりました。
その瞬間、口から光が放たれ、音楽が聞こえ、紫色の雲がたなびき、
人々は「上品上生の往生間違いなし」と語りあったといいます。
蓮生68歳、終焉地は京都黒谷とも、武蔵国熊谷ともいわれています。


ここで蓮生の出家から往生へ至るまでの過程を見ていきましょう。
蓮生は出家後まもなく、法然上人の命を受け
上人の故郷(岡山県久米郡久米南町)に誕生寺を建立しています。
この寺の法然像は蓮生が京都から担いで行ったという説があり、
剛の者蓮生にふさわしい伝承です。
蓮生はこの他にも数多くの寺院を開基したことで知られています。

源平合戦後、上洛する機会が増えた鎌倉武士らは、蓮生の話を聞きたいと、
その庵を訪ねます。合戦にあけくれ多くの人をあやめてきた彼らに、
心の安らぎを与えたのが法然の仏教でした。
難しい教えと思い込んでいた仏教が、念仏さえ称えれば極楽往生できる。
それはこれまで功徳とされてきた多額の布施や寄進、困難な仏道修行、
教学の研鑽、金持ちや僧侶にしかできないような行を全て排除し、
念仏のみで救われるというのが法然の教えでした。その教えに魅かれ
鎌倉武士の中にも信者となる者が少なくなく、鎌倉では
「彼らは仏教に無知だから、念仏だけ称えれば極楽に行ける。と教えられたのであろう。
信じられるものではない。」という悪い噂が広まります。

それで北条政子は法然に使いを遣わして質問します。法然は念仏の功徳を述べ、
その噂が間違いである。と細やかに書き記した書状を使いの者に持たせます。
その回答に政子は感じるところがあったのでしょうか。
その後、三代将軍実朝が公暁に鶴岡八幡宮で暗殺された時、
政子はわが子の菩提を弔ってくれるようにと津戸三郎為守に遺骨を渡し、
津戸はこれを機に尊願という法名を法然からもらい出家しました。

津戸三郎は頼朝が挙兵した際、18歳で石橋山に武蔵国から馳せ参じ、
各地の合戦に活躍した御家人で、
東大寺参詣の折には、
頼朝に従って上洛し、その時に法然の教えを受けています。


建久六年(1195)八月、関東に下向した蓮生は、東大寺落慶供養から戻った
頼朝の前に現れて、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)を説くとともに
兵法・武道についても語り、居並ぶ御家人たちを感歎させます。
この世に対する執着を捨て去り、ひたすら「南無阿弥陀仏」と称えて
極楽浄土に生まれ変わることを願うという「厭離穢土欣求浄土」を
娑婆世界の覇者頼朝は、どのように聞いたのでしょうか。
頼朝は鎌倉にとどまるよう引きとめますが、蓮生は他日を約束して
故郷の熊谷に帰ります。そこで専修念仏の布教者となり、
東国の念仏信仰の輪を広めます。やがて京に戻り、ついで高野山に上り、
仏法の話の合間に合戦談を語る念仏上人となり、念仏の普及に努めますが、
法然が流罪になったことを聞き、山を下り京都の草庵に籠ります。
『アクセス』
専定寺(せんじょうじ)京都市東山区正面通り本町東入
市バス「三十三間堂・京都国立博物館前」下車徒歩約8分
『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書 梅原猛「法然の哀しみ」(上)(下)小学館文庫
梅原猛「京都発見」(法然と障壁画)新潮社 別冊太陽「法然」平凡社 
水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書

 





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平家が壇ノ浦で滅んだ翌年の文治二年(1186)、比叡山の顕真(けんしん)が
大原の勝林院に法然を招いて、浄土念仏の教理を論議・問答しました。

比叡山の俊才や東大寺の重源とその弟子達、さらに大原の上人たちも
参加して行われた論戦は、一日一夜に及びましたが、
法然は、どのような難問にも経典の根拠を挙げて理路整然と論破しました。
これが有名な大原問答です。貧しい、学がない、難しい修行もしない
一般の民衆に法然のまなざしは向けられ、
いかなる人間、
例え罪人であっても一心に南無阿弥陀仏(阿弥陀仏におすがりします。)を
称えれば必ず極楽往生できる。と説く教えは多くの人々の心をとらえました。

これによって法然の名は広く知れ渡り、庶民だけでなく、
大原問答後まもなく、後白河法皇の姉の
上西門院(じょうさいもんいん)が、法然に説戒を依頼します。
その縁で後白河法皇やその皇女式子内親王、それに摂政九条兼実らも
熱烈な信者となり、のちに兼実は法然を戒師として出家します。

討論の会場となった魚山(ぎょざん)勝林院は、慈覚大師円仁が中国で学び
比叡山に伝承されていた声明を広めるために、長和二年(1013)に
左大臣源雅信の子、寂源によって創建された天台宗延暦寺の別院です。

大原問答で知られる勝林院の本堂



法然上人が大原問答の際に法華堂の前、来迎橋の袂にある
この石に腰かけて休息したといわれています。


三千院の近く、律川に架かる橋の畔に
熊谷直実腰掛石と鉈捨藪跡があります。


鉈捨藪(なたすてやぶ)跡 
文治2年(1186年)の大原寺勝林院での法然上人の大原問答の折に、
その弟子の熊谷直実(蓮生坊)は、
「師の法然上人が論議にもし敗れたならば法敵を討たん。」との
目的で袖に鉈を隠し持っておりましたが、
上人に諭されて鉈を藪に投げ捨てたと伝えられています。
なお、勝林院は橋を渡り50メートル先です。京都大原里づくり協会
(現地説明板より)

熊谷直実が法然の門を叩いたのは、所領争いの御前裁判が行われた
建久三年(1192)以後のことですから、
大原問答の時、
直実が法然上人のお供をしたというのは、史実とは異なります。
大原問答にまつわる直実の史跡は、直実の武勇や激しい気性、
法然によく仕えて信仰に一途な僧となったことが結びつけられて、
生まれた伝説の史跡と考えられます。

『アクセス』
「勝林院」京都市左京区大原勝林院187 京都バス、市バス「大原」下車徒歩15分
『参考資料』
梅原猛「法然の哀しみ」(上)小学館文庫 梅原猛「京都発見」(3)新潮社 
別冊太陽「法然」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛北)駿々堂


 





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