平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
西行が四国へと旅立ったのは、崇徳上皇が崩御して四年後の仁安三年(1168)十月のことでした。
上賀茂神社に詣で旅の安全を祈願した後、讃岐に向かいました。松山の津に着いて、
雲井の御所、鼓ヶ岡の御所を訪ねた時には、上皇の遺跡はもはや跡形もなくなっていました。
そこで西行は「松山の波のけしきはかはらじを かたなく君はなりましにけり」
(松山の波の様子は昔と少しも変らぬというのに、上皇がおられた跡だけは
すっかり変わってしまい、なくなってしまいました。)
「松山の波に流れて浦舟の やがてむなしくなりにけるかな」
(松山の津の波に流されてきた上皇は、帰京の願いも空しくそのままこの地で
亡くなられたのですね。)と
詠み、運命の変転に悲嘆にくれながら、白峯の御陵へと先を急ぎます。
『撰集抄』には、
「白峯というところ尋ねまわり侍りしに、松の一むら茂れるほとりに杭まわしたり、
これなん御墓にやと掻き暮らされて物もおぼえず…」とあり、当時のお墓の荒廃ぶりを記しています。
西行が白峯御陵を訪れたときに通ったとされる青海(おうみ)神社から
白峯御陵までのおよそ1.34キロの参道が平成15年(2003)に整備され、
「西行法師の道」と名づけられています。道沿いには崇徳上皇と西行らの歌を
刻んだ八十八基の歌碑と石燈籠九十三基が設置されています。




西行法師のみち整備促進協議会の碑 最高顧問梅原猛 会長鎌田正隆
西行法師のみち整備事業寄進者芳名の碑

 悲運の上皇の魂(みたま)鎮めの「鎮魂の碑」

おもひきや身を浮雲となりはてて 嵐のかぜにまかすべしとは 崇徳院(保元物語)」
(自分は今、つよい風のまゝに流される浮雲のようです。
んな境遇になるとは思ってもいませんでした。)

「ほととぎす夜半に鳴くこそ哀れなれ 闇に惑ふはなれ独りかは 崇徳院(今撰集)」
(闇夜に鳴き惑うほととぎすの声は、本当に哀れで淋しいものです。
も、ほととぎすよ、それはお前一人ではありません。)

「憂きことのどろむ程は忘られて 覚めれば夢の心地こそすれ 崇徳院(保元物語)」
(うとうととする間はつらいことを忘れられますが、
ねむりから覚めると夢のように思われます。)


西行法師の道には、830段もの石段があります。宮廷歌壇の中心的存在であった上皇と
和歌で親交のあった西行は、青海神社からまだ道のない険しい山肌を御陵へと辿ったようです。


稚児ヶ岳下の展望台。



「思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを 崇徳院(風雅和歌集)」
(遥か遠く海を隔てたここ讃岐にいる私は大変心細く思っています。
この気持ちをどうぞ察してください。)
都から遠く離れた讃岐で
ひっそりと暮らす心細さが感じられます。


崇徳上皇が荼毘に付された稚児ヶ岳。白峯御陵の北方にあり、
三十㍍余の絶壁に滝がかかっています。





怨霊として恐れられていた崇徳上皇が西行の歌によって鎮魂されたという伝説は、
鎌倉中期にはあったようで、『保元物語』に記されています。これをもとに、
謡曲『松山天狗』、江戸時代には上田秋成が『雨月物語』の巻頭「白峯」で、
西行が上皇の霊と問答したと語っています。その怨霊の象徴となるのが、
海に投げ入れられた奥書に血書の誓状のある「五部大乗経」です。


『保元物語』によると、「崇徳上皇は弟の後白河天皇による
讃岐配流という厳しい措置を深く恨みながらも、この世の人生は失敗したが、
せめて後生菩提のためにと、配流地で指先を切った血を混ぜ、
五部大乗経の写経を行いました。完成した写本を都に送り、京に近い
八幡の石清水八幡宮か鳥羽の安楽寿院に納めてほしいと書いて、
仁和寺の弟覚性法親王のもとに送りました。この時、望郷の念をしたためた
「浜ちどり跡は都へかよへども身は松山に 音 ( ね ) をのみぞなく」の歌を
経典に添えたとされています。覚性は兄の悲痛な思いを理解し、
後白河天皇に経典奉納を願い出ましたが、後白河の側近藤原信西の指図で
この願いは聞き入られず写本は送り返されてきました。信西がこの経典には
不吉な願文が込められているかも知れないと忠告したため、叶わなかったのです。

これに激怒した上皇は髪の手入れもせず、爪も切らず、生きながら天狗の姿となり、
『日本国の大悪魔となり天皇家を民とし民を皇にする。』と呪いの言葉を書き、
自身の舌を噛み切った血で写本に署名し海底深く沈めた。」と記されています。
上皇の天狗化・怨霊化の背景には、このような事情があったのです。
世間で崇徳上皇の怨霊が取りざたされるようになるのは、上皇の死後十三年目、
西行の白峯参拝からは九年目にあたる安元三年(1177)の頃からです。

信西に受け取りを拒否され、上皇によって海底に沈められたと『保元物語』が
語る「
五部大乗経」は、実はひそかに仁和寺の元性(げんしょう)法印の
もとに届けられていたことが、吉田経房の日記『吉記』の記事で判明しました。
その寿永二年(1183)七月十六日条に、「崇徳院が讃岐で書写した五部大乗経は
崇徳院の第二皇子である元性法印のもとにある。その経典の奥書には
『天下を滅ぼすために書く』との文言が書きつけてある。」と記されています。
これが公表されたのは、平家一門が都落する頃で、当時の世情不安を
背景に人々を恐怖に陥れました。『保元物語』が成立したのは、
崇徳院が怨霊として世間に認識されて以降です。作者は『吉記』をもとにして、
血書経に関する記事を大幅に脚色して載せたと思われます。

五部大乗経が元性法印の手元にあったのだとすれば、元性と親しくしていた
西行は、早くから知っていたと思われます。西行がことのほか寒い日々を
高野山で過ごしていたころ、元性から寒さをしのぐ小袖を贈られ、
「今宵こそ あはれみ厚き 心地して 嵐の音を よそに聞きつれ」詠んだ歌が
『山家集916』に収められています。承安元年(1171)頃、元性が西行に倣って
高野山に移り、庵室を構えたことからも二人の関係の深さがうかがわれます。
「法印」とは僧侶の最高の位階を表し、法印大和尚を略して法印と言います。
山田雄司氏は『怨霊とは何か』の中で、「当時、『吉記』以外にこの経典について
記したものがないことから、この経は実在しなかったか、あるいは捏造されたもので、
『保元物語』は経を海中に沈めたことにして、経が現存しないことと整合性を
保とうとしたものと思われる。上皇は怨霊や血書の経とはまったく関係なく、
怒りに荒れ狂うこともなく、極楽浄土に導かれることを望みながら、
静かにあの世へ旅立たれた。」という見解を述べておられます。

西行は上皇が讃岐へ流されると深く悲しんで数多くの歌を送り、
仏道修行に専念することをしきりに勧めています。その中に、生前の上皇が
すさまじい怨念を抱き、それを西行が憂いていたことがうかがわれる歌があります。
「まぼろしの夢をうつつに見る人は 目もあわせでや世をあかすらん 山家集1233」

西行は上皇を心から敬慕し、上皇の不幸な運命や境遇に深い同情を寄せながらも、
この世で遂げられるかどうかわからないような幻の夢を見た人は、
後世安楽を願いつつも、眠られない夜を過ごすのでしょう。と
つき放したような冷淡とさえ思える歌を送り、配流されたことを契機に
現世の執着を捨て、仏道修行に打ち込んでほしいと説いています。

『保元物語』が語るところでは、崇徳上皇が配流先の讃岐へ出発した後、
後白河天皇方が上皇の烏丸御所の焼け残ったところを調べると、
上皇が日ごろ夢見た夢想の記が文庫に入れてあり、そこには
重祚(一度退位した君主が再び即位すること)のお告げが記されていた。」
こうして西行は生前の上皇に対しては、ひたすら仏道修行に励むことを願う
和歌を送り続け、死後にはその霊を慰めるため墓所を訪れることになります。
『アクセス』
「西行法師の道」青海神社から徒歩約50分。「青海神社」坂出市青海町759
 坂出駅からバスで約30分琴参バス王越線「青海」下車徒歩約15

歌碑とその解説が書いてある「西行法師の道」は、
JR坂出駅構内の坂出市観光協会でいただきました。
『参考資料』
佐藤和彦・樋口州男「西行」新人物文庫、2012年 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014 
吉本隆明「西行論」講談社文芸文庫、1990年 高橋英夫「西行」岩波新書、1993
「西行歌枕」(株)マガジン・マガジン、2008年 別冊太陽「西行 捨てて生きる」平凡社、2010年
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48






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JR四国坂出駅前。



坂出駅前から青海(おうみ)行きのバスに乗り、高家神社と青海神社をたずねます。

都からの指示で、崇徳上皇の遺骸は白峰山へ葬ることになり、
長寛2
年(1164)9月16日、葬送の列は八十場の清水を出発しました。途中、
高屋村まで来たとき、にわかに風雨雷鳴があり、しばらく棺を台石の上に置くと、
その石に棺から血が流れ出たため村人は畏れ、葬式を終えてから境内に石を納め、
上皇の神霊を合祀しました。以来、高屋村の氏神である高家神社は
血の宮ともよばれ、棺の台石はいまも境内に保存されています。
棺から血がこぼれでたということは、暗殺を示唆しているようにも思われます。

高屋バス停(青海バス停の3つ手前)から、新四国曼荼羅霊場第14番
観音寺の案内板を目印に進みます。高家神社は白峰山の上り口にあたり、
御陵は左手の道を辿った山上にあります。



高家神社の祭神は、天道根命(アメノミチネノミコト)
崇徳天皇 待賢門院の三柱です。





山門を入ると手水舎、拝殿があります。

台石は拝殿背後に安置されています。

高家神社からは、二つ並んだおむすび山、
雄山(おんやま)と雌山(めんやま)が間近に見えます。
かつてこの山の東麓には、四方を打ちつけた屋形船で
護送されてきた崇徳上皇が上陸した松山の津がありました。

9月18日戌の刻(午後8時ごろ)、遺体は白峰山の西、稚児ヶ嶽で荼毘に付されましたが、
魂は都に帰りたかったのか、火葬の煙は天にのぼらず、都の方になびき、
かたまりとなって動かなかったといいます。これを見た当時の春日神社神官
福家安明が煙の下りたところに社を建て、上皇とその生母待賢門院の霊を
祭祀したのが青海神社の始まりとされ、その後、この社は青海村の氏神として
村人に手厚く祀られています。社は稚児ヶ嶽の麓にあり、煙の宮ともよばれ、
西行法師の道のスタート地点にもなっています。遺骨は白峯寺の近くに
埋葬されましたが、御陵は石を積んだだけの粗末なものだったようです。


青海バス停から白峰山麓にある青海神社をめざします。

鳥居が遠くに見えます。











平成11年「西行白峯のみち」(遊歩道整備促進協議会)発足
平成16年1月竣工 会長鎌田正隆



青海神社拝殿。

うたたねは萩ふく風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき 崇徳院(新古今1804)
(うたたねは萩を吹く風の音にはっと目覚めたけれども、
長い夢のような迷いの世界からは覚めるときがないよ。)


崇徳天皇は悲劇の帝でした。白河上皇の意向により五歳で即位しましたが、
最大の後ろ盾であった上皇が崩御し、父鳥羽院が院政を始めると情勢は一変しました。
鳥羽院は美福門院との間に儲けた体仁(なりひと)親王を天皇にするため、
祖父(白河上皇)の子と噂のある崇徳天皇に強く譲位を迫りました。
その近衛天皇が若くして死去するや呪詛の疑いをかけられ、わが子重仁親王の
即位を望む崇徳上皇の願いは無視され、皇位は弟の後白河天皇に移り、
皇太子にはその皇子守仁親王(二条天皇)が立ちました。

崇徳上皇は今様に熱中し、即位の器とはほど遠い29歳にもなった弟の
雅仁(まさひと)親王がまさか天皇になるとは思ってもいませんでしたし、
鳥羽院の第4皇子として誕生した後白河天皇にしてみれば、
期待もしなかった天皇の座が転がり込んできたことになります。
28年にわたり院政を展開した鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇と
同母弟後白河天皇の決裂は決定的となり、追い詰められた上皇は
兵を挙げるも失敗し、讃岐配流という厳しい措置となり、
二度と都の土を踏むことなく不遇の生涯を閉じました。

わが子を天皇にしたいと弟と争って敗れた崇徳院。
荼毘に付され、長い悪夢から覚めることができたのでしょうか。
『アクセス』
「高家神社」坂出市高屋町878 坂出駅からバスで約20
琴参バス王越線「高屋」下車徒歩約8
「青海神社」坂出市青海町759 坂出駅からバスで約30
琴参バス王越線「青海」下車徒歩約15

平成28年3月、坂出駅前から「青海」行のバスに乗り、
青海神社から西行法師の道を辿り、御陵と白峯寺を参拝し、
帰りは白峯寺から高家神社まで下り、
バス停「高屋」から坂出駅行のバスに乗りました。
(バスの本数が少ないのでご注意ください。
坂出駅か観光センターで、バスの時刻表やレンタサイクル、
乗合タクシー情報などが満載の小冊子
「坂出市公共交通マップ」がいただけます。)
『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8 
 元木泰雄「保元平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、
2004
 
「香川県の地名」平凡社、1989年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998
 新潮日本古典集成「新古今和歌集」(下)新潮社 、昭和63年
 久保田淳「新古今和歌集 全注釈六」角川学芸出版、平成24





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崇徳上皇が長寛二年(1164)八月二十六日、京都よりつき従ってきた
重仁親王の母、兵衛佐(ひょうえのすけ)局たちに看とられながら、
46歳の生涯を終えると、国司は崩御の報告をし、遺体の処置を
どのようにするか都からの指示を待ちました。沙汰が下るまでの二十日間、
まだ暑さが厳しく遺体を冷水に浸し、腐敗を防いだといわれています。
その水は八十場(やそば)の清水とよばれ、今もこんこんと涌き続けています。
遺体をこの清水に浸しておいたところ、毎夜この辺りから神光が輝いたため、
二条天皇の命でその場所に社殿を建て、神霊を鎮めました。
これが白峰宮の起こりとされています。

JR予讃線八十場駅から、ゆるやかな坂道を上って金山麓の白峰宮へ。

途中に崇徳上皇が愛でたという岩根の桜があります。







やがて両側に袖鳥居を持つ「三つ鳥居」と呼ばれる珍しい様式の
どっしりとした風格ある構えの鳥居に迎えられます。
上皇が亡くなったとき、この辺は「天皇」と呼ばれていました。
地名が寺名「
天皇寺」の由来となっています。



二条天皇によって建てられた社は、
崇徳天皇社・崇徳天皇社明の宮などとよばれ、
摩尼珠院(まにしゅいん)が別当寺となりました。摩尼珠院は空海が
八十場の泉の辺りで、霊感を得て、本尊の十一面観音像と阿弥陀如来、
愛染明王像の三像を刻み、堂を建て安置したのが始まりとされています。
崇徳上皇が崩御した際、この寺に一時遺体を安置したという縁により、
崇徳天皇社の別当寺を長い間務めました。

明治の神仏分離令により崇徳天皇社は白峰宮となり、
摩尼珠院(まにしゅいん)は廃寺となり、四国八十八ヶ所の第79番札所は、
現在の金華山高照院(こうしょういん)天皇寺に引き継がれました。
境内は3300平方㍍あり、当時の神仏習合を象徴するように、
参道の奥に白峰宮、参道の両側に天皇寺という配置になっています。



白峰宮

上皇の遺体が荼毘に付されるまで、毎夜この辺りが
光で照らされていたため、明の宮(あかりのみや)とも呼ばれています。
歴代天皇の尊崇が篤く、高倉天皇は稲束千束を納め、
源頼朝は稲束を捧げ社地を安堵し下馬の碑を建てました。
後嵯峨天皇(在位1242~46)が社殿を修築し、
宸筆の御願文と社領250石を寄進したことが社伝に見えます。

白峯寺縁起には、白峰宮について「野沢の井辺りに社檀を構え、
天王の社と申侍り、正面門客人には、為義・為朝父子の像をつくりたり」と
記していますが、戦国期には堂塔伽藍が兵火にかかって焼失し、
この父子の武将像は現存していません。

参道を振り返ると、お遍路さんの姿が目に入りました。
御詠歌は「十楽の浮世の中をたずねべし天皇さえもさすらいぞある。」

天皇寺の本堂

大師堂

天皇寺から道路を隔てた
八十場の清水へ。

八十場の清水は天皇寺境内の西方にあります。

この泉には、次のような伝説があります。景行天皇の御代、瀬戸内海の大きな悪魚
(海賊だといわれています。)を征した日本武尊の皇子、讃留霊王(さるれおう)と
その88人の兵士が悪魚の毒にあたって倒れましたが、この泉の水を飲んで
全員甦ったといい、八十甦(やそば)の水、八十八場の水とよばれるようになりました。
別名野沢井ともいわれ、金山の地下水が豊富に湧き出し長い間飲み水として使われ、
現在、八十場水ほとりの茶店トコロテンの冷し水にも利用されています。
なお、讃留霊王は古代豪族綾氏の祖とされています

野澤井は崇徳上皇の遺体を棺に納めたまま
一時安置した殯斂(ひんれん)の地です。

崇徳上皇が没した時、朝廷は埋葬の場所を指示しただけで、葬儀は国司に任せ
一切関与しませんでした。そればかりか、後白河院は崇徳上皇を反逆者として扱い、
喪に服することさえしていません。後白河院が崇徳上皇を弔うようになった
最初のきっかけは、安元二年(1176)に次々と後白河院の近親者が亡くなったことです。

保元の乱は上皇と天皇の政権争いに武士が参戦し、これを契機に平治の乱が起こり、
源平争乱と続き、時代は武士の世の中へと移っていきました。折しもこの頃、
天変地異がうち続き、こうした世情不安の原因を貴族たちは崇徳上皇の
怨霊によるものとして恐れました。そこで怨霊を鎮めるため、
崇徳上皇の名誉回復が図られます。崩御の段階では、「讃岐院」という呼び名でしたが
安元三年(1177)八月、崇徳院と改め、引き続き成勝寺で法華八講を行います。
成勝寺は院政時代、天皇・上皇・女院たちが建てた六つの寺、六勝寺の一つで
崇徳天皇の御願によって建てられた寺院です。法華八講とは、法華経八巻を
八回に分けて講議する法会で、当時天皇の忌日に供養のため盛んに行われていました。
寿永三年(1184)四月には、保元の乱の古戦場であり、崇徳上皇の御所があった
春日河原に神祠・粟田宮(現京都大学医学部付属病院)が建てられるなど、
怨霊に対して立て続けに対応がとられていきました。
『アクセス』
「白峰宮」坂出市西庄町1712 八十場駅から徒歩で約5分
「八十場の清水」坂出市西庄町1635-4 八十場駅から徒歩で約7分

『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 
竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫、2012年 香川県の地名」平凡社、1989年
 元木泰雄「保元平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、2004年
 
 県史37「香川県の歴史」山川出版社、1997年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
週刊古寺をゆく「四国八十八ヶ所Ⅱ」小学館、2002年




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  鼓岡神社のすぐ北(30メートル)に崇徳上皇が使用された井戸跡があり、
今でも里人は内裏泉といって大切にしています。

鼓岡神社から北へ進みます。



内裏泉10㍍先左折、 菊塚75㍍先左、 椀塚110㍍先右折。







内裏泉からさらに県道を北に進むと、菊塚という石積があります。
菊塚は上皇と綾の局の間に生まれた皇子の墓で、
そのすぐ横にあるのが綾の局の墓と伝えられています。

皇子の名前は上皇の実名の顕仁 (あきひと)の顕の字をとり顕末(あきすえ)と
名づけられ、綾家の跡継ぎにさせたといわれています。
その際、菊の紋章、菓子ばち、御影なども賜ったという。
綾家では菊の紋章はおそれ多いと茎をつけ、一本菊の紋章としました。
見逃しましたが、いまも綾家の母屋の屋根に輝いているそうです。

里人が綾川から石を拾って来て積みあげた塚と綾の局の墓です。




盌塚(わんつか)は、崇徳上皇が使用された
食器などを埋めたところと伝えられています。











崇徳上皇が一生を終えたのは、長寛2年(1164)8月26日のことです。
その死因については病死、殺害など諸説あります。大正時代、崩御の地に
「柳田」という石碑が建てられ、現在JR予讃線沿いにこの碑が残っています。
江戸時代の地誌『讃州府誌(さんしゅうふし)』には、二条天皇が三木近安という
讃岐の武士に命じて殺害させたとあり、近安は栗毛馬に跨り、紫色の手綱を
とって鼓岡御所を襲いました。上皇は命からがら逃げ、道端の大きな
柳の木の根元にある穴に隠れましたが、見つけられ殺害されたとしています。
以来、この地では近安の手綱の紫色が嫌われ、紫の衣の者や三木姓の者は
白峯山に上れないという伝説が生まれました。
悲劇的な生涯を送った崇徳上皇にふさわしい最期ともいえます。

『保元物語』には、崇徳上皇の死因について「その後、九ヵ年を経て
御年四十六と申し長寛二年八月二十六日、終に隠れさせ給ひぬ。」と
記すだけで、詳しくは触れていません。

『今鏡』によると、崇徳院はあきれるほど辺鄙な所に、9年ほどお住まいになって、
あまりにもつらい世の中のためでしょうか、病気も年々重くなり、
長寛2年(1164)8月26日に亡くなられたとしています。
その序文に「今年は嘉二年庚寅(かのえとら)なので」とあることから、
『今鏡』が執筆されたのは、嘉応2年(1170)崇徳院が亡くなって6年目のことです。
作者は兄弟の寂念・寂然とともに「大原三寂」・「常盤三寂」とよばれた
寂超とされています。この兄弟は、和歌を好んだ父藤原為忠(ためただ)の
影響を強く受け、所々の歌合に出詠し、崇徳上皇が都におられたころから、
藤原俊成、西行らとともに和歌を通じて、極めて親しい関係にありました。
当時、歌道の中心的存在であった上皇が讃岐へ配流され、歌の道の衰微を
西行
いていたことが、寂然との贈答歌によって窺い知ることができます。

『今鏡』は、崇徳上皇の第1皇子の重仁親王が父に先立ってなくなったことや
第2皇子元性(がんしょう)法印が和歌に優れていたことなども記しています。
「重仁親王は、保元の乱後、仁和寺の花蔵院に入り、空性(くうしょう)という
法名で、寛暁(かんぎょう)大僧正のもとで真言などを学ばれていました。
聡明ですばらしい方でしたが、足の病が重くなり、
応保2年(1162)に僅か23歳でお亡くなりになりました。


上皇が配所で崩御された時、覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の
「喪服はいつから召されるか。」というお尋ねに対して、元性法印が
うきながらその松山のかたみには こよひぞ藤の衣をば着る

(つらいことですが、都へ戻ってこられるのを待ちわびていましたが、
帰られず松山で亡くなった父をしのぶものとして、今宵喪服を着ましょう。)と
お詠みになったのは、ほんとうにしみじみ悲しく思われました。

嵐が激しいある夜、滝の音もむせび泣くようで、
心細く聞こえました時に、お詠みになった
夜もすがら枕に落つる音聞けば 心をあらふ谷川の水

(一晩中、枕元におちてくる滝の音を聞いていると、
それは穢れを清める谷川の水音と思われる)の歌を載せ、
作者は和歌に堪能であった崇徳上皇の遺風を伝えてらっしゃるのは、
優美なことです。と感想を述べています。」
元性(1151-1184)の母は河内権守源師経の娘、左兵衛局です。
早くから仁和寺の叔父覚性法親王のもとに入り、初め元性と称し、
その後覚恵(かくえ)を名のります。

讃岐に残る伝承では、重仁親王は崇徳上皇が配流されてから3年後の
平治年間、行脚僧に身をやつし、両親を追って讃岐に来たとされています。
崇徳上皇は国府の役人をはばかって綾高遠に親王を託し、
高遠は薬王寺(高松市檀紙町)に親王を預けたといわれています。
江戸時代になって、初代高松藩主松平頼重は重仁親王の話を聞き、
多くの人が参拝するのに便利な場所に移そうと、城下に近い
現在の場所(高松市番町5丁目)に寺と重仁親王の墓を移築しました。
『アクセス』
「内裏泉」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩で約12分
菊塚」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約13分
「盌塚(わんつか)」讃岐府中駅から徒歩約14分
「柳田」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約12分
『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48

(保元物語下 新院経沈めの事付けたり崩御の事)
全訳註竹鼻績「今鏡」 (上) 講談社学術文庫、昭和59年(すべらぎの中第二 八重の潮路)
全訳註竹鼻績「今鏡」 (下) 講談社学術文庫、昭和59年(御子たち第八 腹々の御子)
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014
五味文彦「西行と清盛 時代を拓いた二人」新潮社、2011



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崇徳院は讃岐の配所で、重仁親王の母である兵衛佐局とその他の女房
1人2人だけでの寂しい暮らしをし、親しく召し使っていた人々も人目をはばかって
院を訪ねてくることはなかった。と『今鏡』に哀れ深く記されていますが、
寂然(じゃくせん・ じゃくねん)が配所に院を訪ねてしばらく滞在し、
京へ戻る際、院と詠み交わした歌が室町時代の勅撰集
『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)巻9・旅歌に収められています。

「讃岐より都へのぼるとて、道より崇徳院にたてまつりける」という
詞書(ことばがき)があり、
「なぐさめにみつゝもゆかん君が住む  そなたの山を雲なへだてそ」
これに対して、院からはこういう返しがありました。
「思ひやれ都はるかに沖つ波  立ちへだてたる心細さを」この歌からは、
都からはるかに隔たった見知らぬ土地で暮らす心細さが伝わってきます。

寂然(生没年不詳)は、兄の寂念(為業)・寂超(為経)とともに「大原三寂」とも、
「常盤三寂」ともよばれました。父藤原為忠は、白河院の乳母子知綱の孫であり、
妻は待賢門院の女房でした。為忠は三河守、安芸守、丹後守などを歴任して
富を築き、その財で造作した邸宅常盤は、和歌交流の場となっていました。

寂然の俗名は藤原頼業(よりなり)といい、康治2年(1143)壱岐の守となりましたが、
やがて辞任し、大原に隠棲しました。寂念・寂超も相前後して伊賀守、長門守を辞し
隠棲しています。寂然らは待賢門院の権勢が衰える中で出家したのです。
寂超(じゃくちょう)は歴史物語『今鏡』の著者と考えられ、
この物語は、当時の時代を知るうえで貴重な史料となっています。


崇徳天皇は鳥羽法皇の第1皇子、後白河天皇はその弟で第4皇子です。
どちらも母は待賢門院璋子です。崇徳天皇は5歳で皇位につきましたが、
保延7年(1141)、鳥羽上皇は出家して法皇となり、崇徳天皇23歳を位から
強引におろしました。これに代わって天皇の位についたのが、美福門院得子の子、
まだ3歳の近衛天皇でした。近衛天皇が即位すると、待賢門院は権勢を失い、
康治元年(1142)年に出家し、それから僅か3年後に亡くなりました。

寂然と同じように上皇の生前、讃岐の配所を訪ねた人物が『保元物語』、
『発心集』などに登場し、彼らが見た当時の木の丸殿の印象が記されています。
この説話を『保元物語』から、ご紹介させていただきます。
配所を訪ねたのは『保元物語』によると蓮誉(れんよ)、
『発心集』では蓮如となっています。
蓮如は『半井本保元物語』によると、俗名を淡路守是成といい、
楽人として上皇に召し使われていた人物です。

「鳥羽院の北面の武士であった紀伊守範道が、出家遁世して蓮誉と名乗り
諸国遍歴の聖となりました。
在俗の時は、賀茂や石清水、内侍所などで行われる
御神楽に従事する楽人でしたが、とりたてていうほどの身分ではないので、
崇徳新院にお目にかかることはありませんでした。しかし配流地での新院の
気の毒な暮らしぶりを聞き、悲しく慕わしく思いはるばると讃岐まで訪ねてきました。

着いてみれば、御所のありさまは目もあてられぬ嘆かわしいお住まいでした。
武士どもが御所を囲み、いばらが道を塞ぎ、花鳥風月の趣があるところでなく、
新院のお心をお慰めするものは何もありません。雪の朝、雨の夜の哀れを
訪ねてくるものは誰もいないであろうと思い、粗末な衣の袖を涙で濡らしました。
どうかして御所の中に入ろうとしましたが、厳しく周囲を警固しているので、
むなしく辺りをうろうろするだけです。 日も暮れ果てて夜に入り、
月が明るく照る中、笛を吹きながら、朗詠をして心を慰めました。

『幽思(ゆうし)窮(きわ)まらず  深巷(しんこう)に人なき処

愁腸(しゅうちょう)断えなむとす  閑窓(かんそう)に月のある時』

(草深い巷(ちまた)の家は訪ねる人もなく、独り住んでいると物思いは絶え間がない。
寂しい窓に月のさす時は、思いも増してはらわたもちぎれる思いだ。)
『和漢朗詠集・巻下・閑居』とあるように、浦吹く風とともに波の音や
棹さす音がどこからともなく聞こえてきて、心細さは例えようもありません。

夜も更け、月も傾き、風は冷たくなり、心寂しく立ち尽くして
悲しみの涙に濡れていると、水干をまとった人が御所から出てきました。
蓮誉は嬉しく思い事情を話すと、哀れがって御所に紛れ込ませてくれました。
新院に直接お会いすることはできませんが、
板の端に一首の和歌を書きつけて、さっきの人に渡しました。
 

「朝倉や木の丸殿にいりながら 君に知られでかへるかなしさ」
(あの朝倉にあったような木の丸殿を訪ねながら、
お会いすることもかなわず帰る事は、たいへん悲しいことです。)

「朝倉の木の丸殿」は、斉明天皇が新羅侵攻の時、福岡県朝倉郡朝倉村須川に
造ったという黒木造り(樹皮がついたままの丸太)の粗末な御殿です。
その御殿をふまえ、崇徳院の御所を詠んだものです。
院も哀れに思い近くに召しよせ都のことも聞きたく、
昔話もしたいと思いましたが、それもならず返
歌だけをことづけました。
「朝倉やただいたづらにかへすにも 釣りする海人のねをのみぞなく」
(せっかく来てくれたのに会うこともならず、朝倉にたとうべきこの御所から、
虚しく帰してしまうことになったが、そなたの好意は身にしみて嬉しく、
釣りをする漁夫のように声を立てて泣くばかりだ。)と書いてありました。
 たいへん恐れ多く思い、これを大事に笈の底深く入れ、泣く泣く都へ帰りました。」

寿永3年(1183)4月、保元の乱の古戦場であり、崇徳院の
御所跡でもある春日河原(聖護院河原町)に神祠が建てられ、
その鎮祭の際に範道(蓮誉)は兄範季とともに勅使を勤めています。
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
(保元物語下 新院経沈めの事付けたり崩御の事)
新潮日本古典集成 鴨長明「方丈記 発心集」新潮社、昭和51年 
(第六・九 宝日上人、和歌を詠じて行とする事 並 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事)
新潮日本古典集成「和漢朗詠集」新潮社、昭和58年 「西行のすべて」新人物往来社、1999年
五味文彦「西行と清盛 時代を拓いた二人」新潮社、2011年
 全訳註竹鼻績「今鏡」 (上) 講談社学術文庫、昭和59年(すべらぎの中第二 八重の潮路)
山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川廣文館、2007年
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 




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