西行が四国へと旅立ったのは、崇徳上皇が崩御して四年後の仁安三年(1168)十月のことでした。
上賀茂神社に詣で旅の安全を祈願した後、讃岐に向かいました。松山の津に着いて、
雲井の御所、鼓ヶ岡の御所を訪ねた時には、上皇の遺跡はもはや跡形もなくなっていました。
そこで西行は「松山の波のけしきはかはらじを かたなく君はなりましにけり」
(松山の波の様子は昔と少しも変らぬというのに、上皇がおられた跡だけは
すっかり変わってしまい、なくなってしまいました。)
「松山の波に流れて浦舟の やがてむなしくなりにけるかな」
(松山の津の波に流されてきた上皇は、帰京の願いも空しくそのままこの地で
亡くなられたのですね。)と詠み、運命の変転に悲嘆にくれながら、白峯の御陵へと先を急ぎます。
『撰集抄』には、「白峯というところ尋ねまわり侍りしに、松の一むら茂れるほとりに杭まわしたり、
これなん御墓にやと掻き暮らされて物もおぼえず…」とあり、当時のお墓の荒廃ぶりを記しています。
西行が白峯御陵を訪れたときに通ったとされる青海(おうみ)神社から
白峯御陵までのおよそ1.34キロの参道が平成15年(2003)に整備され、
「西行法師の道」と名づけられています。道沿いには崇徳上皇と西行らの歌を
刻んだ八十八基の歌碑と石燈籠九十三基が設置されています。
西行法師のみち整備促進協議会の碑 最高顧問梅原猛 会長鎌田正隆
西行法師のみち整備事業寄進者芳名の碑
悲運の上皇の魂(みたま)鎮めの「鎮魂の碑」
「おもひきや身を浮雲となりはてて 嵐のかぜにまかすべしとは 崇徳院(保元物語)」
(自分は今、つよい風のまゝに流される浮雲のようです。
こんな境遇になるとは思ってもいませんでした。)
「ほととぎす夜半に鳴くこそ哀れなれ 闇に惑ふはなれ独りかは 崇徳院(今撰集)」
(闇夜に鳴き惑うほととぎすの声は、本当に哀れで淋しいものです。
でも、ほととぎすよ、それはお前一人ではありません。)
「憂きことのどろむ程は忘られて 覚めれば夢の心地こそすれ 崇徳院(保元物語)」
(うとうととする間はつらいことを忘れられますが、
ねむりから覚めると夢のように思われます。)
西行法師の道には、830段もの石段があります。宮廷歌壇の中心的存在であった上皇と
和歌で親交のあった西行は、青海神社からまだ道のない険しい山肌を御陵へと辿ったようです。
稚児ヶ岳下の展望台。
「思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを 崇徳院(風雅和歌集)」
(遥か遠く海を隔てたここ讃岐にいる私は大変心細く思っています。
この気持ちをどうぞ察してください。)
都から遠く離れた讃岐でひっそりと暮らす心細さが感じられます。
崇徳上皇が荼毘に付された稚児ヶ岳。白峯御陵の北方にあり、
三十㍍余の絶壁に滝がかかっています。
怨霊として恐れられていた崇徳上皇が西行の歌によって鎮魂されたという伝説は、
鎌倉中期にはあったようで、『保元物語』に記されています。これをもとに、
謡曲『松山天狗』、江戸時代には上田秋成が『雨月物語』の巻頭「白峯」で、
西行が上皇の霊と問答したと語っています。その怨霊の象徴となるのが、
海に投げ入れられた奥書に血書の誓状のある「五部大乗経」です。
『保元物語』によると、「崇徳上皇は弟の後白河天皇による
讃岐配流という厳しい措置を深く恨みながらも、この世の人生は失敗したが、
せめて後生菩提のためにと、配流地で指先を切った血を混ぜ、
五部大乗経の写経を行いました。完成した写本を都に送り、京に近い
八幡の石清水八幡宮か鳥羽の安楽寿院に納めてほしいと書いて、
仁和寺の弟覚性法親王のもとに送りました。この時、望郷の念をしたためた
「浜ちどり跡は都へかよへども身は松山に 音 ( ね ) をのみぞなく」の歌を
経典に添えたとされています。覚性は兄の悲痛な思いを理解し、
後白河天皇に経典奉納を願い出ましたが、後白河の側近藤原信西の指図で
この願いは聞き入られず写本は送り返されてきました。信西がこの経典には
不吉な願文が込められているかも知れないと忠告したため、叶わなかったのです。
これに激怒した上皇は髪の手入れもせず、爪も切らず、生きながら天狗の姿となり、
『日本国の大悪魔となり天皇家を民とし民を皇にする。』と呪いの言葉を書き、
自身の舌を噛み切った血で写本に署名し海底深く沈めた。」と記されています。
上皇の天狗化・怨霊化の背景には、このような事情があったのです。
世間で崇徳上皇の怨霊が取りざたされるようになるのは、上皇の死後十三年目、
西行の白峯参拝からは九年目にあたる安元三年(1177)の頃からです。
信西に受け取りを拒否され、上皇によって海底に沈められたと『保元物語』が
語る「五部大乗経」は、実はひそかに仁和寺の元性(げんしょう)法印の
もとに届けられていたことが、吉田経房の日記『吉記』の記事で判明しました。
その寿永二年(1183)七月十六日条に、「崇徳院が讃岐で書写した五部大乗経は
崇徳院の第二皇子である元性法印のもとにある。その経典の奥書には
『天下を滅ぼすために書く』との文言が書きつけてある。」と記されています。
これが公表されたのは、平家一門が都落する頃で、当時の世情不安を
背景に人々を恐怖に陥れました。『保元物語』が成立したのは、
崇徳院が怨霊として世間に認識されて以降です。作者は『吉記』をもとにして、
血書経に関する記事を大幅に脚色して載せたと思われます。
五部大乗経が元性法印の手元にあったのだとすれば、元性と親しくしていた
西行は、早くから知っていたと思われます。西行がことのほか寒い日々を
高野山で過ごしていたころ、元性から寒さをしのぐ小袖を贈られ、
「今宵こそ あはれみ厚き 心地して 嵐の音を よそに聞きつれ」詠んだ歌が
『山家集916』に収められています。承安元年(1171)頃、元性が西行に倣って
高野山に移り、庵室を構えたことからも二人の関係の深さがうかがわれます。
「法印」とは僧侶の最高の位階を表し、法印大和尚を略して法印と言います。
山田雄司氏は『怨霊とは何か』の中で、「当時、『吉記』以外にこの経典について
記したものがないことから、この経は実在しなかったか、あるいは捏造されたもので、
『保元物語』は経を海中に沈めたことにして、経が現存しないことと整合性を
保とうとしたものと思われる。上皇は怨霊や血書の経とはまったく関係なく、
怒りに荒れ狂うこともなく、極楽浄土に導かれることを望みながら、
静かにあの世へ旅立たれた。」という見解を述べておられます。
西行は上皇が讃岐へ流されると深く悲しんで数多くの歌を送り、
仏道修行に専念することをしきりに勧めています。その中に、生前の上皇が
すさまじい怨念を抱き、それを西行が憂いていたことがうかがわれる歌があります。
「まぼろしの夢をうつつに見る人は 目もあわせでや世をあかすらん 山家集1233」
西行は上皇を心から敬慕し、上皇の不幸な運命や境遇に深い同情を寄せながらも、
この世で遂げられるかどうかわからないような幻の夢を見た人は、
後世安楽を願いつつも、眠られない夜を過ごすのでしょう。と
つき放したような冷淡とさえ思える歌を送り、配流されたことを契機に
現世の執着を捨て、仏道修行に打ち込んでほしいと説いています。
『保元物語』が語るところでは、崇徳上皇が配流先の讃岐へ出発した後、
後白河天皇方が上皇の烏丸御所の焼け残ったところを調べると、
上皇が日ごろ夢見た夢想の記が文庫に入れてあり、そこには
重祚(一度退位した君主が再び即位すること)のお告げが記されていた。」
こうして西行は生前の上皇に対しては、ひたすら仏道修行に励むことを願う
和歌を送り続け、死後にはその霊を慰めるため墓所を訪れることになります。
『アクセス』
「西行法師の道」青海神社から徒歩約50分。「青海神社」坂出市青海町759
坂出駅からバスで約30分琴参バス王越線「青海」下車徒歩約15分
歌碑とその解説が書いてある「西行法師の道」は、
JR坂出駅構内の坂出市観光協会でいただきました。
『参考資料』
佐藤和彦・樋口州男「西行」新人物文庫、2012年
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年
吉本隆明「西行論」講談社文芸文庫、1990年 高橋英夫「西行」岩波新書、1993年
「西行歌枕」(株)マガジン・マガジン、2008年 別冊太陽「西行 捨てて生きる」平凡社、2010年
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年