平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



倶利伽羅古戦場は、富山県小矢部市埴生(はにゅう)より、
砺波(となみ)山を越えて石川県津幡町竹橋に至る約10kmの道のり、
富山県と石川県の県境に位置する標高277mほどの峠です。

砺波山は倶利伽羅峠ともいい、倶利伽羅の名はこの峠に倶利伽羅不動明王を祀る
不動堂(現・倶利伽羅不動寺)があったことによるものです。
寿永2年(1183)5月、平維盛を総大将とする平家軍は越中、加賀へと進軍し、
砺波山で義仲軍と戦いを繰り広げ、義仲軍が平家軍を撃破しました。

 2009年11月9日、津幡町観光協会主催の「倶利伽羅源平古戦場めぐり」に参加、
町のバスで移動しながら、観光ボランティアガイド
「つばたふるさと探偵団」に案内していただき、埴生護国八幡宮、
矢立、地獄谷、猿ヶ馬場、倶利伽羅不動寺などを辿りました。






挙兵した義仲は、平家方の越後の城一族を横田河原の合戦で破り、
北陸道における支配力を着実に広げていきました。
一方、平氏は大軍を動員して北陸道を下り、火打城(燧ケ城)
待ち構えていた義仲方の軍勢を打ち破り、破竹の勢いで軍を進めます。
この知らせを受け、越後国府(新潟県上越市か)にいた義仲は
5万余騎を7手に分けて出陣し、平氏軍と衝突したのが倶利伽羅合戦です。

義仲が倶利伽羅合戦の直前、あたりを見回すと峰の緑の木の間より
千木をつけた八幡宮の社が見えます。源氏にゆかりの深い神社だけに
右筆(書記係)の覚明に戦勝祈願の願文を書かせ奉納すると、
八幡大菩薩はこれに感応したのか、
雲の中から山鳩2羽飛来し源氏の白旗の上を旋回しました。
義仲は喜び馬から下りて冑を脱ぎ地に頭をつけて礼拝しました。
ちなみに鳩は八幡神の使いとされています。
埴生護国八幡宮
倶利伽羅峠の富山県側の丘陵には、埴生護国八幡宮の
2万坪の広い境内があり、倶利伽羅合戦の際に
木曽義仲が戦勝祈願した社として知られ、義仲の願文が残されています。
以後、武田信玄・佐々成政など多くの武将や大名の信仰を集め、
江戸時代には加賀藩の手厚い尊崇・保護を受けました。

鳥居をくぐると、倶利伽羅合戦八百年祭に造られた我国最大の義仲騎馬像が建ち、
103段の長い石段を上ると拝殿及び幣殿が現れ、釣殿、本殿が続いて建っています。
現在の社殿は江戸時代初期、加賀藩前田家によって造営されもので
国の重要文化財に指定されています。


昭和58年(1983)、源平倶利伽羅合戦800年祭に造られた源義仲騎馬像

迫力ある義仲騎馬像に圧倒されます

 鳩清水 
八幡宮より2K半山手にある鳩清水の滝を水源にしている清水で
「とやまの名水」に選ばれています。
倶利伽羅合戦の折、義仲が平維盛の本陣に迫る途中、
鳩の導きによってこの滝の清水を得、源氏軍が渇きをいやしたという。




石段を上ると、拝殿及び幣殿・釣殿・本殿が続いています。







社殿の向かって左側にある宝物殿には、室町時代末期から江戸時代にかけての
古文書や義仲・秀吉ゆかりの武具類などが保存されています。

大夫房覚明(かくみょう)
覚明は藤原氏の子弟が学ぶ学問所の勧学院で儒学を学んだ学者で、
同院に蔵人道弘の名で出仕していました。ほどなく比叡山で出家し、
信救(しんきゅう)と名乗り興福寺に入りました。

治承4年(1180)、挙兵が未然に発覚し、平氏に追われる身となった
以仁王は園城寺に逃れました。以仁王を支持する園城寺(三井寺)から
興福寺に決起を促す手紙が届いた時、承諾の返書を書き、さ
らに興福寺から南都諸寺へ呼びかける書状を記したのが信救でした。

文中で激しく平氏を罵倒し、「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたため、
「信救法師めが、清盛を平氏のぬかかす、武家のちりあくたとはいかに。
すぐにからめとって首をはねよ。」と清盛は激怒しました。
顔に漆をあびて人相を変え南都を逃れた信救は、源行家とともに
鎌倉に行きますが、
頼朝に冷たくあしらわれたため、義仲の軍勢に加わり大夫房覚明と名を変えました。
文筆の才に恵まれ、義仲のために埴生護国八幡宮の願書や
白山神社に納める願書を書き、のち京都に入る前、
比叡山延暦寺の協力を取り付ける牒状を記しています。

頼朝には朝廷の官人を経て鎌倉に下った大江広元をはじめ政治上の
ブレーンとなった人々が多数いましたが、義仲には覚明が唯一の参謀でした。
  倶利伽羅古戦場(2)猿ヶ馬場  
倶利伽羅古戦場(3)倶利伽羅不動寺  
『アクセス』
「埴生護国八幡宮」富山県小矢部市埴生2992
JR北陸本線石動駅下車徒歩25分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「埴生護国八幡宮略記」埴生護国八幡宮社務所
「源平倶利伽羅合戦記」埴生護国八幡宮社務所「富山県の地名」「石川県の地名」平凡社
「富山県の歴史散歩」山川出版社



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琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島は周囲およそ2kmの小さな島です。
常緑樹に覆われ、全島が花崗岩の一枚岩からなる島の周囲は
船着き場を除いてほとんどが絶壁で、
その美しさから「深緑竹生島の沈影」として
琵琶湖八景の一つに数えられ、国の史跡・名勝に指定されています。

『巻7・竹生島詣の事』には、経正が木曽義仲追討の副将軍として
北陸道へ下る途中、竹生島の都久夫須麻神社の拝殿で、
琵琶を奏でたという逸話が戦乱の中のつかの間の
優美な出来事として語られています。

源頼朝が木曽義仲討伐の兵を信濃に進めた時、義仲は一族同士の

争いを避けるため、嫡子清水冠者義高を頼朝のもとに差し出して和睦し、
後顧の憂いを取り除いて全力で北陸道から京を目指しました。
この報を受け、寿永2年(1183)4月17日、
平維盛(重盛の嫡男)を総大将に平家軍十万余騎が都を発ちました。
飢饉によって物資の調達が不充分だったために、軍勢は琵琶湖の西岸を
志賀・唐崎・高島と物資を略奪しながら北上していきます。

先陣はすでに北国に進んでいましたが、経正はいまだに近江の
塩津・海津辺りでした。
湖岸からはるか沖に浮かぶ島を見て、
供に「あれは何という島か」と尋ね
「あれが名高い竹生島です」と教えられると、
経正は風流心をいだき侍5、6人を連れ小船で渡ります。

ころは卯月半ば、緑に見える木々の梢には春の風情がまだ残っているようで、
谷間に鳴く鶯の声はおとろえていますが、ほととぎすが初夏の訪れを告げ、
言葉に尽くせないほどに美しい景色です。

竹生島明神(弁才天)の前で戦勝祈願するうちに日も暮れ、

十八夜の月が出て湖面に照り渡り、この上ない風情です。
詩歌管弦に秀で、ことに琵琶の名手である経正の噂は竹生島にまで届いていました。
僧たちに請われるまま、上玄石上(じょうげんせきじょう)という
琵琶の秘曲を奏で奉納し、
澄んだ音色が社殿のしじまに響き渡ると、
弁才天も感極まったのか、
経正の袖の上に、白い竜となって姿を現しました。
経正は神に我が願いが聞き届けられたのであろうかと、
 
♪ちはやふる 神にいのりの かなへばや しるくも色の 表れにける

(竹生島明神に我が祈りが聞き届けられたのであろうか。
神の使いの竜が現れ、霊験を示して下さったことだ。)と喜びの和歌を詠み、
勝利を確信しながら月下の島をあとにしたのでした。

平経正は平清盛の弟平経盛の嫡男で、のち一の谷合戦で熊谷直実に討たれた
敦盛の兄にあたります。幼少の頃、仁和寺の覚性法親王に仕え、藤原俊成の
もとで和歌を学び、武将というより優雅な公達として育っていました。


 宝厳寺 竹生島神社(都久夫須麻神社)
神仏習合時代、「弁天堂」「観音堂」「都久夫須麻神社」などの塔頭を総称して
宝厳寺といわれてきましたが、明治初年の神仏分離令により、
宝厳寺と竹生島神社に分かれました。島内は傾斜地のため、
床下に長い柱を立てて支える懸造(かけづくり)となっています。





船着場から続く土産店の間を通りぬけ、正面169段の石段を
上りつめたところにある建物が日本三大弁天の一つ宝厳寺の本堂弁天堂です。





本尊の弁才天は、厳島(広島県)・江ノ島(神奈川県)両社の
弁才天と並ぶ日本三大弁才天の一つですが、非公開です。
宝厳寺の本堂近くの樹齢400年のモチは、片桐且元手植えの木という。



石段を下り、唐門(国宝)をくぐると西国三十三所観音霊場30番札所として
信仰を集めている宝厳寺の観音堂があります。

宝厳寺唐門

唐門は豊国廟の唐門を移したと考えられていましたが、最近の研究で
秀吉時代の大阪城の極楽橋を移築したことが判明しました。観音堂、唐門ともに
豊臣秀頼の命を受け普請奉行の片桐且元が移築したと云われています。



観音堂は渡り廊下によって竹生島神社の本殿と結ばれています。
この廊下は秀吉の御座舟を利用したといわれ、舟廊下ともよばれています。

観音堂は渡り廊下とともに急斜面に建つため、床下は高い
足代(あししろ)が組まれ、舞台造(懸造)をなしています。






本殿は伏見城の遺構とされ、飾り金具や装飾彫刻、天井画など
絢爛豪華に装飾され桃山文化の一端を伝え、国宝に指定されています。





本殿から石段を下りると平経正が琵琶を弾じたという拝殿にでます。
竜神拝所からは「かわらけ」に願い事を書き、
湖面に突き出た岩場に建つ鳥居に向かって投げる風習があります。

平安時代末に祀られた弁才天は琵琶を手にし、芸能をつかさどる神とされ、
竜神との関係が深く都久夫須麻神社は竹生島弁才天社ともいわれます。

平経正の参詣にちなむとされる6月10日の三社祭は
厳島神社・江ノ島神社と合同で行なわれます。
経正都落ち(仁和寺)  
明石市源平合戦の史跡馬塚(経正最期)  
清盛塚・琵琶塚  
『アクセス』
「竹生島」 長浜市早崎町1164
JR今津駅より徒歩5分 → 今津港 今津港から25分
 JR長浜駅より徒歩10分 → 長浜港 長浜港から30分 
詳細は琵琶湖汽船にお問い合わせください。
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
「滋賀県の地名」平凡社 「滋賀県の歴史散歩」(下)山川出版社

 



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鎌倉市扇ガ谷の横須賀線のガード近く、
T字路のところに六角形の建物の
岩船地蔵堂があります。
堂内には源頼朝の長女大姫の守り本尊とされる地蔵菩薩が祀られ、
地蔵尊は舟形の後背を持っていることから、岩船地蔵とよばれています。

この地蔵堂は平成13年(2001)に再建され、昔の石造地蔵菩薩像を堂奥に、
その前に、江戸時代に造られた木造地蔵菩薩像を前立像として安置しているという。

元暦元年(11844月に許嫁の木曽義高が入間河原で討たれた後、
大姫は哀傷のあまり、病がちとなり、建久8年(1197)7月、
20歳という若さで薄幸の生涯を終えました。

その死を悼んだ北条、三浦、梶原などの多くの御家人が、
この谷に野辺送りをしたと伝えられています。


現在、このお堂は海蔵寺が管理しています。

木曽義仲は源頼朝との関係が悪化すると、当時11歳(12歳とも)の
嫡男の清水冠者義高を人質として頼朝のもとに送って和睦、
義高は大姫の許婚として迎えられ、両家は結ばれたかのようにみえました。

ところが『吾妻鏡』元暦元年(1184)4月21日条、同年同月26日条は
義高と大姫の悲劇を記しています。

義仲は北陸道を快進撃して都に入りましたが、まもなく後白河法皇と対立し、
法皇の命を受けた頼朝は範頼・義経らを派遣し義仲を討ちとりました。
仇討ちを恐れた頼朝は、義高を殺害するよう配下の者に命じ、
これを漏れ聞いた大姫の女房は大姫に告げ、女装した義高を女房数人が
取り囲み、義高は6人の従者とともに馬に飛び乗り鎌倉を脱出しました。
蹄(ひずめ)は、
音がでないように綿で包んであったという。

その頃、御殿では大姫と女房たちが、義高がうまく逃げおおせることを祈り、

義高とともに鎌倉に同行してきた同い年の海野(うんの)小太郎幸氏が
義高の身代わりになって寝床に入り、夜が明けると普段通りに
一人で双六の音をさせあたかも義高がいるように振舞います。
義高は双六が好きで幸氏はいつもその相手していたからです。

ついにことは発覚しました。
激怒した頼朝は幸氏を一室に閉じ込め義高追討の軍勢を派遣、
大姫は心を乱し、魂は消え入るばかりでした。その5日後、
堀親家の郎党藤内光澄が武蔵入間河原(現、狭山市入間川)で

義高を見つけ、その場で討ち果たしたと報告してきました。

幼い大姫には秘密にされましたが、どこからか聞きつけて
幾日も嘆き悲しみ食事もとらず、病床に臥し日を追って憔悴していきます。
政子は娘の心中を察して哀しみ、御殿の者たちもみな愁いに沈みました。

そして同年6月27日、義高を討った藤内光澄が斬首され、
首は木に架けてさらされました。「たとえ御所様の命であっても、
大姫が義高を慕っていたのは知っていたであろうに、なぜ内々に事情を
私に知らせなかったのか。何か助ける手立てもあったであろうに。
大姫の病は藤内光澄の不始末からである。」と政子は頼朝に強く迫り、
その怒りがあまりに凄まじかったので、
頼朝は処刑したといいますが、藤内光澄には理不尽すぎる結末です。

政子は大姫の回復を願って寺社詣や義高の盛大な追善供養をしましたが、
心の傷は大きく病状は好くなることはありませんでした。
大姫が178歳の頃、頼朝の甥にあたる一条高能(たかよし)が
京都から鎌倉へ来ていました。高能は頼朝の同母姉(妹とも)が、
一条能保に嫁ぎ、もうけた子で18歳の青年貴族でした。
多少病気も良くなったので、結婚すれば気分も変わり
義高を忘れるであろうと、政子は高能との結婚を勧めましたが、
大姫はこの話を進めるなら死んでしまうと頼朝と政子を困らせます。

建久6年(1195)、頼朝は東大寺大仏落慶供養のために、
政子と大姫を伴い上洛し、大姫を後鳥羽天皇に入内させようと、
土御門(源)通親や丹後局に近づき、入内工作を行ないましたが、
大姫はそれも断り、病から回復することなく早世してしまいました。

海野小太郎幸氏(ゆきうじ)は、その後許されて頼朝に近仕し、
頼家・実朝続いて頼経・頼嗣までの五代の将軍に仕え
弓の名手として鎌倉幕府の主要行事に参列しています。
頼朝は大姫の哀しみに追いうちをかけるような厳重な処罰はさけ、
寛大な処置をとったものと思われます。
幸氏は弓馬の名手として活躍し、頼朝らに高く評価されこれに答えました。

『吾妻鏡』建長2年(1250)3月1日条、造閑院殿雑掌の事において、
海野左衛門入道として記載されたのが最後、78歳で記録から姿を消し、
ほどなく故郷佐久に戻り余生を送ったという。
清水冠者義高の墓(常楽寺)  
『アクセス』
「岩船地蔵堂」鎌倉市扇ガ谷3 
JR鎌倉駅から横須賀線に沿って英勝寺・阿仏尼の墓と北へ進み、
踏切を渡り横須賀線のガード近く、亀ヶ谷坂に向う三叉路に建っています。
鎌倉駅より徒歩約25分 
『参考資料』
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「源頼朝のすべて」新人物往来社 
「源頼朝七つの謎」新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社 渡辺保「北条政子」吉川弘文館
「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社

 



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木曽義仲の子、清水冠者義高の塚を鎌倉市大船の常楽寺に訪ねました。
「大船駅」東口からバスに乗り「常楽寺」で下車、もと来たバス道を
少し戻った右側の小道の先に山門があります。
山門をくぐると、仏殿裏に北条泰時の墓所、裏山の中腹には
泰時の娘の姫宮塚(大姫墓とも)があり、山頂には木曽塚が祀られています。

義高は義仲の嫡子として生まれ、寿永2年(1183)頼朝のもとに、
大姫の許嫁として人質同然に送られてきました。
しかし頼朝が後白河法皇の命をうけ義仲を滅ぼすと、
頼朝は将来の憂いがないようにと、義高の殺害を命じました。

山門

山門左手から常楽寺の裏山へ





姫宮の墓(姫宮塚)は、北条泰時の娘の墓とも大姫の墓ともいわれています。

姫宮塚

清水冠者義高の墓所は、標高約70㍍、100㎡ほどの広さの場所にあります。

 大正十五年一月 鎌倉同人会によって建てられた「木曽冠者義高之塚」

『鎌倉志』によれば、義高の墓は常楽寺西南100mの「木曽免」という
田の中にあったとし、その場所から延宝8年(1680)に
移す際に人骨の入った青磁瓶が見つかったといいます。
「木曽冠者義高之塚」には、移転に関する碑文が刻まれています。

 義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ
兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス、
義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル、
 爾来頼朝ノ養フトコロトナリ其ノ女ヲ得テ妻トナス
後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ
遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル
 塚ハ此ノ地ノ西南約二丁木曾免トイフ由間ニ在リシヲ
延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ
豪快ナル短キ生涯ノ余韻を傅へテ数奇ノ運命ニ弄バレシ
彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
大正十五年一月 鎌倉同人會建」


「木曽清水冠者義高公之墓」と彫られています。

もうすぐ子供の日、ご住職のご配慮なのでしょう。
墓碑の上にはこいのぼりが元気に泳いでいました。



粟船山(ぞくせんやま)常楽寺
第3代執権北条泰時が妻の母の追福のために粟船(あわふね)御堂を
建立したのが常楽寺の前身で、仁治3年(1242)、泰時が亡くなった時
ここに葬られ、その法名をとって常楽寺と称します。

一説には、頼朝の娘大姫の死後、母の政子が義高・大姫のために
仏殿を建立し常楽寺を創建したともいわれています。

仏殿内部







ここで清水冠者義高が幼くして頼朝に殺害されるに至った
経緯をご紹介させていただきます。

木曽義仲の挙兵を知った清盛は越後国の豪族
城資永(すけなが)に義仲追討を命じました。
養和元年(1181)6月、城資永は4万騎を率いて信濃に進入、
筑摩川の横田河原に陣を布き、対する義仲軍は三千騎あまり、
義仲は大軍を討ち取るために策略を用いて
大勝利をおさめ、
一躍その名をとどろかせます。(横田河原合戦)

『平家物語(巻7)北国下向の事』の冒頭に「寿永2年(1183)3月上旬に
木曽冠者義仲、兵衛佐頼朝、不快の事ありと聞こえけり」と記し、
頼朝が十万余の兵で木曽追討のために信濃に下向し
善光寺あたりまで攻め込んだと述べています。

この時、義仲は乳母子今井兼平を使者として頼朝のもとに遣わし、
和解交渉をさせますが失敗し、頼朝は今にも義仲を攻めるという様子でした。
義仲は二心なき由の起請文を書き、両者共通の叔父源行家も頼朝に対して
申し開きをした上、当時、まだ11、12歳であった嫡子義高を
人質として差し出すことで一応和睦が成立しました。
頼朝は義高を長女大姫の許婚として鎌倉に迎え、といっても大姫は6、7歳。
幼い二人は、仲のよい兄妹のように睦まじく暮らしていました。

やがて義仲は倶利伽羅合戦、篠原合戦と次々と平氏を破り
北陸路から都に入りましたが、後白河院や朝廷勢力と対立し、
都の嫌われ者になってしまいました。
義仲を見限った院が頼朝に義仲追討を命じ、鎌倉勢によって
義仲は討たれ、後難を恐れた頼朝は義高の殺害を命じました。
これを聞きつけた大姫の女房たちは、政子や大姫に知らせ、
政子の指示で義高を女装させ、鎌倉から逃がしてやりましたが、
義高は追手に捕らえられ元暦元年(1184)4月、
武蔵入間川(現、狭山市)のほとりで斬られました。
まだ12歳だったという。

真相は明らかではありませんが、
頼朝と義仲の不和の原因は、
平家物語』諸本や『吾妻鏡』によって次のように伝えられています。

「頼朝の叔父にあたる源行家は、諸国の源氏に以仁王の令旨を
伝達しましたが、甥の義円とともに
墨俣合戦で平氏に惨敗し、
義円は討死しました。
行家は鎌倉に赴き頼朝を頼りますが、
受け入れられず義仲のもとに身を寄せます。
さらに頼朝と対立する志田義広(頼朝の叔父)は、郎党をを率いて
鎌倉に向かいましたが失敗し、義仲のもとに逃げ込んでいました。
頼朝にうとんじられていた行家、頼朝に刃向った志田義広を
庇護したことは頼朝の義仲攻撃の格好の口実となりました。

また甲斐源氏武田信光は清水冠者を婿にと申入れたが断られたことを
根にもち、義仲が行家と図って頼朝を討とうとしていると讒言し、
頼朝の猜疑心に油を注ぐことになりました。

義仲の父義賢(よしかた)は、頼朝の異母兄義平に攻められ、
大蔵合戦で殺されたといういきさつがあり、従兄弟同士といっても
頼朝、義仲の間には最初から微妙な対立や対抗意識があったように思われます。
特に頼朝は野心満々で、人一倍うたぐり深い性格ですから、
横田河原で大勝利した義仲を放って置けなかったのでしょう。

冠者(かじゃ・かんじゃ)とは無位無官の若者をいい、
北条泰時は御成敗式目を制定した人物として知られています。
清水冠者義高の悲劇を伝える清水八幡宮  
影隠地蔵(清水冠者義高) 
 大姫を野辺送りした地に建つ岩船地蔵堂  
『アクセス』
「常楽寺」 鎌倉市大船5-8-29 バス停「常楽寺」下車徒歩3分
「清水冠者義高の塚」への案内板はありません。
常楽寺山門左側の道を上ってください。
『参考資料』

「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館 
奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館 武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社 
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「源義経流浪の勇者」文英堂 「神奈川県の地名」平凡社 
「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 「鎌倉事典」東京堂出版

 



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