木曽義仲の子、清水冠者義高の塚を鎌倉市大船の常楽寺に訪ねました。
「大船駅」東口からバスに乗り「常楽寺」で下車、もと来たバス道を
少し戻った右側の小道の先に山門があります。
山門をくぐると、仏殿裏に北条泰時の墓所、裏山の中腹には
泰時の娘の姫宮塚(大姫墓とも)があり、山頂には木曽塚が祀られています。
義高は義仲の嫡子として生まれ、寿永2年(1183)頼朝のもとに、
大姫の許嫁として人質同然に送られてきました。
しかし頼朝が後白河法皇の命をうけ義仲を滅ぼすと、
頼朝は将来の憂いがないようにと、義高の殺害を命じました。
山門
山門左手から常楽寺の裏山へ
姫宮の墓(姫宮塚)は、北条泰時の娘の墓とも大姫の墓ともいわれています。
姫宮塚
清水冠者義高の墓所は、標高約70㍍、100㎡ほどの広さの場所にあります。
大正十五年一月 鎌倉同人会によって建てられた「木曽冠者義高之塚」
『鎌倉志』によれば、義高の墓は常楽寺西南100mの「木曽免」という
田の中にあったとし、その場所から延宝8年(1680)に
移す際に人骨の入った青磁瓶が見つかったといいます。
「木曽冠者義高之塚」には、移転に関する碑文が刻まれています。
「義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ
兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス、
義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル、
爾来頼朝ノ養フトコロトナリ其ノ女ヲ得テ妻トナス
後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ
遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル
塚ハ此ノ地ノ西南約二丁木曾免トイフ由間ニ在リシヲ
延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ
豪快ナル短キ生涯ノ余韻を傅へテ数奇ノ運命ニ弄バレシ
彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
大正十五年一月 鎌倉同人會建」
「木曽清水冠者義高公之墓」と彫られています。
もうすぐ子供の日、ご住職のご配慮なのでしょう。
墓碑の上にはこいのぼりが元気に泳いでいました。
粟船山(ぞくせんやま)常楽寺
第3代執権北条泰時が妻の母の追福のために粟船(あわふね)御堂を
建立したのが常楽寺の前身で、仁治3年(1242)、泰時が亡くなった時
ここに葬られ、その法名をとって常楽寺と称します。
一説には、頼朝の娘大姫の死後、母の政子が義高・大姫のために
仏殿を建立し常楽寺を創建したともいわれています。
仏殿内部
ここで清水冠者義高が幼くして頼朝に殺害されるに至った
経緯をご紹介させていただきます。
木曽義仲の挙兵を知った清盛は越後国の豪族
城資永(すけなが)に義仲追討を命じました。
養和元年(1181)6月、城資永は4万騎を率いて信濃に進入、
筑摩川の横田河原に陣を布き、対する義仲軍は三千騎あまり、
義仲は大軍を討ち取るために策略を用いて大勝利をおさめ、
一躍その名をとどろかせます。(横田河原合戦)
『平家物語(巻7)北国下向の事』の冒頭に「寿永2年(1183)3月上旬に
木曽冠者義仲、兵衛佐頼朝、不快の事ありと聞こえけり」と記し、
頼朝が十万余の兵で木曽追討のために信濃に下向し
善光寺あたりまで攻め込んだと述べています。
この時、義仲は乳母子今井兼平を使者として頼朝のもとに遣わし、
和解交渉をさせますが失敗し、頼朝は今にも義仲を攻めるという様子でした。
義仲は二心なき由の起請文を書き、両者共通の叔父源行家も頼朝に対して
申し開きをした上、当時、まだ11、12歳であった嫡子義高を
人質として差し出すことで一応和睦が成立しました。
頼朝は義高を長女大姫の許婚として鎌倉に迎え、といっても大姫は6、7歳。
幼い二人は、仲のよい兄妹のように睦まじく暮らしていました。
やがて義仲は倶利伽羅合戦、篠原合戦と次々と平氏を破り
北陸路から都に入りましたが、後白河院や朝廷勢力と対立し、
都の嫌われ者になってしまいました。
義仲を見限った院が頼朝に義仲追討を命じ、鎌倉勢によって
義仲は討たれ、後難を恐れた頼朝は義高の殺害を命じました。
これを聞きつけた大姫の女房たちは、政子や大姫に知らせ、
政子の指示で義高を女装させ、鎌倉から逃がしてやりましたが、
義高は追手に捕らえられ元暦元年(1184)4月、
武蔵入間川(現、狭山市)のほとりで斬られました。
まだ12歳だったという。
真相は明らかではありませんが、頼朝と義仲の不和の原因は、
『平家物語』諸本や『吾妻鏡』によって次のように伝えられています。
「頼朝の叔父にあたる源行家は、諸国の源氏に以仁王の令旨を
伝達しましたが、甥の義円とともに墨俣合戦で平氏に惨敗し、
義円は討死しました。行家は鎌倉に赴き頼朝を頼りますが、
受け入れられず義仲のもとに身を寄せます。
さらに頼朝と対立する志田義広(頼朝の叔父)は、郎党をを率いて
鎌倉に向かいましたが失敗し、義仲のもとに逃げ込んでいました。
頼朝にうとんじられていた行家、頼朝に刃向った志田義広を
庇護したことは頼朝の義仲攻撃の格好の口実となりました。
また甲斐源氏武田信光は清水冠者を婿にと申入れたが断られたことを
根にもち、義仲が行家と図って頼朝を討とうとしていると讒言し、
頼朝の猜疑心に油を注ぐことになりました。
義仲の父義賢(よしかた)は、頼朝の異母兄義平に攻められ、
大蔵合戦で殺されたといういきさつがあり、従兄弟同士といっても
頼朝、義仲の間には最初から微妙な対立や対抗意識があったように思われます。
特に頼朝は野心満々で、人一倍うたぐり深い性格ですから、
横田河原で大勝利した義仲を放って置けなかったのでしょう。
冠者(かじゃ・かんじゃ)とは無位無官の若者をいい、
北条泰時は御成敗式目を制定した人物として知られています。
清水冠者義高の悲劇を伝える清水八幡宮
影隠地蔵(清水冠者義高)
大姫を野辺送りした地に建つ岩船地蔵堂
『アクセス』
「常楽寺」 鎌倉市大船5-8-29 バス停「常楽寺」下車徒歩3分
「清水冠者義高の塚」への案内板はありません。
常楽寺山門左側の道を上ってください。
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館
奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館 武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「源義経流浪の勇者」文英堂 「神奈川県の地名」平凡社
「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 「鎌倉事典」東京堂出版