平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR中央線木曽福島駅から木曽川を渡って進むと、萬松山興禅寺があります。
木曽家12代信道が木曽義仲の追善供養のため、荒廃していた旧寺を
永享六年(1434)に再建したものといわれています。
木曽家と木曽代官山村家代々の菩提寺で、境内の裏門を出ると墓所があります。

義仲は粟津の松原で鎌倉勢に敗れて31歳の短い生涯を終えました。

その時、巴がその遺髪を持ち帰って埋葬したと伝えられる
宝篋印塔が木曽義仲の墓所にあります。









代々の木曽代官であり、関守でもあった山村氏の屋敷跡



萬松山興禅寺



















看雲庭





義仲の墓前には、山頭火の句碑がたっています。



義仲の墓は大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)にもあります。
 義仲寺1(木曽義仲と芭蕉)  
『アクセス』
「興禅寺」木曽郡木曽町福島5659
JR中央線木曽福島駅下車徒歩約25分
「山村代官屋敷」木曽郡木曽町福島5808-1
JR中央線木曽福島駅下車徒歩10分位
 『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 「朝日将軍 木曽義仲」日義村
「長野県の歴史散歩」山川出版社 「長野県の地名」平凡社

 



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木曽義仲の里をあとにJR「宮ノ越」駅から中津川へ向かう電車で一駅、
原野」駅で下りると義仲を養育した中原兼遠の菩提寺林昌寺や
中原兼遠館跡、手習天神など、遠い昔を偲ばせる史跡が点在しています。

中原兼遠は『林昌寺古文書』によれば、但馬国城崎出身とされ、
掃部頭中原広秀三男と記されていますが、
一説には木曽庄司中原兼経の三男ともいわれています。

また東山道を中心とする交通輸送業者として
富裕な財をなした人物であるとか、また木曽北部一帯は当時
宗像氏の大吉祖(おおぎそ)荘の荘園であったことから、
この荘園の荘官であったとも推測されていますが、詳細は不明です。

『吾妻鏡』には、兼遠は義仲の乳母の夫であり、
中三(ちゅうさん)権守と号すと記されています。

中三とは中原家の三男の通称で、権守に任命された木曽地方に
勢力をもつ人物だったようです。兼遠の子には、
木曽義仲四天王で知られる樋口次郎兼光・今井四郎兼平があり、
また義仲の愛妾として知られている巴も兼遠の娘とされています。

中原兼遠を頼って木曽に逃れて来た駒王丸(義仲)は、
「力は人に優れて強く、心も並びなく剛の者」に成長しました。
文武両道を教え、義仲の旗挙を楽しみに育てた兼遠は
佐久の根井行親の一族など信濃国中の豪族と組んで地盤を固め、
我が子を従者につけ義仲のうしろ楯となりました。
兼遠の子らは、義仲と乳母子の間柄で幼いころから一緒に生活し、
義仲の挙兵とともに忠実な郎党として
様々な合戦に参加して目ざましい働きをしています。

JR原野駅から林昌寺へ

国道19号線沿いに法泉山林昌寺が建っています。

法泉山林昌寺
義仲の挙兵を見とどけると兼遠は、根井行親に義仲の後見を頼み、
出家して円光と名乗り、翌年に亡くなったと伝えられています。
中原兼遠開基の林昌寺の山門を入ると、
境内右手の山の中腹に兼遠の墓所があります。

その墓碑の側面には寄進者の名前とともに
昭和57年「800年遠忌記念」寄進と刻まれています。
『朝日将軍木曽義仲』によると、山吹姫が義仲の妻だったという
言い伝えが林昌寺にはあると記されています。





中原兼遠の墓所

墓所から林昌寺、木曽谷を望む

旧中山道沿いに建つ手習い天神

狭くて急な石段です

手習天神 木曽郡木曽福島町新開上田

林昌寺を出て国道19号線を木曽福島方面に進み、
正沢川を渡った栗本信号から旧中山道に入り天神橋を
渡ると手習天神の
赤い鳥居が見えてきます。
兼遠が義仲の学問のために勧請、義仲がここで
手習いをしたことから手習天神と呼ばれています。

中原兼遠屋敷跡 木曽郡木曽福島町新開上田
手習天神手前、栗本信号から旧中山道に入った辺のカーブから
木曽福島へ向かって右(JR中央線方向)へ坂道を下ります。
線路を越えた河岸段丘の畑一帯が駒王丸を匿い13歳で
元服するまで養育した中原兼遠の館跡です。
畑の中に説明板とともに「義仲元服の松」と呼ばれる一本の松があり、
左手の竹林の中に「兼遠塚」と呼ばれる小さな碑があります。

説明板には屋敷跡は「木曽川と正沢川・天神川に囲まれた
上田の地、南北150m、東西約600mに及ぶ河岸段丘上の
自然の城塞をなす要害の地である。」と書かれています。

JR中央線の線路沿いに建つ邸跡の駒札

畑一帯が兼遠の邸跡です
駒王丸はこの邸で樋口兼光や今井兼平、巴とともに成長していきました

屋敷跡の説明板と義仲元服の松



元服の松の背後から

屋敷跡左手、田んぼの中の竹林の中に中原兼遠の塚があります

「木曽中三権守殿塚」と彫られています

原野駅への途中、木立の合間から木曽駒ヶ岳が見え隠れします

『源平盛衰記・木曽謀反附兼遠起請の事』によると、
木曽義仲の謀反はやがて平家の知るところとなり、驚いた平家は
中原兼遠を都に呼出し、「義仲をからめ捕って差しださなければ、
汝の首をはねる。」と平宗盛は兼遠に厳命した。「義仲謀反の
ことはゆめゆめ虚言です。人の讒言でありましょう。但しご命令を
受けた上は暇をいただいて国に戻り義仲を捕らえて参りましょう。」と
返答すると宗盛は重ねて「暇がほしければ義仲を捕らえるとの
起請文を書いて提出するか、子息や家人に申しつけて義仲を
捕らえて来れば国に帰してやる。」というのでやむなく兼遠は義仲を
捕らえて連れてくる。という偽りの起請文を書いて木曽に戻り、
義仲を根井行親に託した。行親は信濃国、隣国に策略を廻らして
軍兵を木曽の山下に集めたところ、義仲の父義賢のよしみで
馳せ参じた上野国の武士や足利の一族以下、皆木曽義仲に
従って平家を滅ぼそうと騒ぎ立てた。とあります。
 『アクセス』
「林昌寺」長野県木曾郡木曽町日義原野 
JR中央線「原野」駅から約400m国道19号線に面して建っています。
『参考資料』

「長野県の歴史散歩」山川出版社 細川涼一「平家物語の女たち」講談社
現代語訳「吾妻鏡」吉川弘文館 「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社 
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「朝日将軍木曽義仲」日義村役場
田屋久雄「木曽義仲」アルファーゼネレーション

 

 

 



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 JR中央線木曽福島駅から普通電車に乗り換えて2つ目の駅が「宮ノ越」、木曽町日義です。
中央アルプスの山々が連なり木曽川が水しぶきをあげるこの村に山野を駆けめぐり、
武芸に励んだ若き日の木曽義仲を尋ねました。

宮ノ越駅は無人駅

駅前のゆるやかな坂を下ると木曽川、義仲橋を渡ると正面に徳音寺、
その手前、右手には義仲館があります。

義仲橋からの木曽川の流れ

源義仲は久寿元年(1154)に源義賢の次男として、武蔵国(埼玉県)大蔵で
生まれたといわれています。
幼名を駒王丸といい母は小枝(さえ)御前という
遊女でした。父義賢は、帯刀先生(たてわきせんじょう)といい、
近衛天皇が皇太子の時に剣を帯びて護衛長官をつとめましたが、
久寿二年(1155)、一族内の勢力争いが原因となって起きた大蔵合戦で兄義朝の
長男悪源汰義平に討たれました。
義仲の兄仲家は義賢が都にいた時の子で、
残された仲家を源頼政がひきとり猶子として育てましたが、
宇治川の合戦で頼政とともに討死しています。

『源平盛衰記(巻26)木曽謀反附兼遠起請の事』によると、
義賢を討った義平は後難を恐れ、畠山重能に駒王丸を捜し出して
殺すよう命じたが、重能は僅か二歳の子を殺すにはしのびず、
ちょうど武蔵に下向してきた斉藤別当実盛に預けた。実盛は、
東国に駒王丸をおくのは危険であると判断し、小枝御前に
抱かせて木曽の中原兼遠のもとに送り届けた。」と記され、

『吾妻鏡』治承4年9月7日条には、義賢が討ち滅ぼされた時、
乳母の夫である
中三権守中原兼遠は、三歳の幼児であった
義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れた。と記載されています。
また『平家物語・廻文の事』では、二歳の駒王丸を
小枝御前が抱いて木曽の中原兼遠のもとに行った。とあります。

これらの史料のいずれが正しいのかは明らかでありませんが、
駒王丸が木曽の中原兼遠のもとに逃れた点では一致します。
木曽での駒王丸の生活については殆んど知ることができません。
十三歳で石清水八幡宮において元服、京へも上ったことが
平家物語に書かれていますが、義仲が京へ上ったかどうかは
定かではありませんが、都の情報は様々な形で得ていたものと
思われます。治承四年(1180)8月に挙兵した頼朝に20日遅れて、
義仲が平家打倒の兵を挙げたのは27歳の時でした。

義仲館
宮ノ越駅から義仲橋を渡ると右手に武家屋敷風の館があります。
源氏の家紋、笹りんどうの紋の幕をくぐると義仲・巴御前の
銅像が迎えてくれます。館内には義仲に関する資料を展示、
義仲の生涯を絵画や人形で解説しています。



巴御前と木曽義仲

木曽義仲四天王

人形や写真パネル等の展示物は係の方の承諾を得て撮影しました



木曽へ逃れた駒王丸を中原兼遠匿う 田屋幸男画 

駒王丸元服して木曽次郎義仲と名乗る  田屋幸男画 



日照山徳音寺(義仲の菩提寺)
寺の前身は母小枝御前を葬った柏原寺です。寺伝によると義仲討死後、
義仲の右筆であり、参謀でもあった大夫房覚明が山吹山の麓にあった
柏原寺を現在地に移し寺号を徳音寺と改め義仲を弔ったという。

山号の「日照山」は朝日将軍木曽義仲に因んだ号です。

鐘楼門は18C尾張藩犬山城主成瀬正幸の母堂により
寄進されたもので楼上の鐘の音は「徳音寺の晩鐘」と呼ばれ
木曽八景の一つに数えられています。





徳音寺本堂前、少女時代の巴御前の騎馬像



徳音寺本堂の左手の義仲廟所
には武将姿の義仲像と位牌が安置され、
裏手の墓所には義仲を中心にして樋口次郎兼光、巴御前、
小枝御前、今井四郎兼平の墓が並んでいます。

本堂裏手の廟所

木曽義仲の墓

義仲の母小枝御前(実性院殿貞節良俊大姉)とその右側に今井四郎兼平(浄室信戒)の墓

巴御前(龍神院殿)の墓とその左側に樋口次郎兼光(心院殿)の墓

徳音寺から木曽川沿いに北へ進みます



徳音寺集落より山吹山を望む
 巴 淵
山吹山の麓を流れる木曽川の深い淵をいい、義仲と巴が水遊びを
した所と伝えられています。またこの淵に住む竜神が巴に化身して
義仲を守り続けたという伝説の地です。山吹山とともにこの周辺の
木曽川に架かる橋には、葵橋・巴橋・山吹橋と義仲に
かかわりのある女性名がつけられています。
義仲が都へ攻め上る時、倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて
平家の大軍を破ったという故事に因んで8月14日の夜、
山吹山に火文字で「木」の字が描かれ松明を持って山を下る
らっぽしょ祭りが行われます。



巴淵はエメラルドグリーンの水をたたえています。
巴はこの淵の龍神の生まれ変わりであったという





巴橋の傍にたつ碑
♪山吹も 巴もいでて 田植かな 許六

巴淵から宮の越駅に戻るように歩きます。
宮ノ越宿
木曽川沿いに平地が広がるこの地は、古くは木曽義仲の拠点となった地で、
義仲にまつわる史跡が多く残っています。
中世末に設けられた宮ノ越宿の「宮ノ越」という地名は、
南宮神社の宮の腰(中腹)から生まれたといわれています。


南宮神社
JRの陸橋をくぐり国道沿いに見える神社は、村の産土神として
祀ったものでしたが、のち美濃国一ノ宮の南宮神社を勧請し、
義仲の戦勝祈願所となった社です。

旗挙八幡宮
南宮神社を進むと、義仲挙兵の地となったことから旗挙八幡宮と呼ばれる社があり、
義仲の元服を祝って植えられたというけやきが拝殿脇にたっています。
落雷によって傷ついていますが、傍には二代目が植えられています。

この神社の辺りから宮ノ越方面一帯は義仲、根井行親、樋口兼光、
今井兼平らの屋敷があったといわれています。
境内には「木曽義仲公館址」と刻まれた碑が建てられ、義仲は元服後、
中原兼遠のもとを離れてここに住んだと伝えられています。



旗揚げ八幡宮と左手に傷ついた大ケヤキ

「木曽義仲公館趾」の碑から山吹山を望む

義仲の居館は東西約200㍍、南北約300㍍の規模と伝えられています。

旗挙八幡宮境内には、義仲の子孫という
千村泰雄作の「木曽義仲公出陣之地」の詩碑があります


橋を渡ると徳音寺集落
中原兼遠館跡・林昌寺・手習天神     興禅寺(木曽義仲の墓)  
『アクセス』  
「義仲館」木曽町日義(旧木曾郡日義村)

「日義」という地名は、朝日将軍の「日」と義仲の「義」に由来します。
JR中央線木曽福島駅から普通電車(日中は2時間に1本、朝夕は1時間に1本)に

乗換え宮ノ越駅下車徒歩5分

義仲館のパンフレットに次のように書かれています。散策の際に参考にしてください。

義仲館⇒100m徳音寺⇒1.3km旗挙八幡宮⇒0.5km南宮神社⇒0.6km巴淵
『参考資料』
「朝日将軍木曽義仲」日義村 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社  現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 「長野県の地名」平凡社
「長野県の歴史」河出書房新社



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