妙順寺の境内には、安徳天皇が産湯を使ったと伝えられる井戸があります。
井戸には「釣殿井」と彫られています。
釣殿は清盛の継母池禅尼とその息子平頼盛が住んだ池殿の別名で、
池殿は平清盛の娘徳子が出産した際、七仏薬師壇所にあてられています。
『平家物語』には「御産所は六波羅池殿」とありますが、
これは誤りで『山塊記』が記す泉殿が正しいとされています。
嘉応元年(1169)、清盛は泉殿を嫡子重盛に譲り、福原に移っているので、
産所にあてられたのは重盛邸ということになります。
妙順寺は池殿の西隣の東山区大和大路五条上ル山崎町にあり、
泉殿の跡地とされる三盛町とは離れています。しかし頼盛の邸宅池殿(池殿町)とは
隣接しているので、池殿に関する井戸ではないかとも考えられています。
徳子懐妊の知らせを受けた清盛は、福原より上洛し10年ぶりに六波羅に入りました。
徳子が入内したのは16歳、高倉天皇はまだ12歳でした。
言仁親王(安徳天皇)の誕生はそれから七年後のことでした。
徳子が高倉天皇の皇子を生み、その皇子が皇位につき
清盛の外祖父としての地位が確立すれば、清盛の立場はゆるぎないものになる。
清盛はどれほどこの日を待ち続けたでしょう。
かろうじて「釣殿井」と読みとれます。
治承2年(1178)11月、徳子が産気づいたというので、
京中も六波羅も大騒ぎになった。
関白はじめ公卿・殿上人、また官位昇進を望む者は皆挨拶に訪れました。
安産を祈願して仁和寺の守覚法親王(高倉天皇の兄)は孔雀経の法、
天台座主の覚快法親王(高倉天皇の叔父)は七仏薬師の法、
その他様々な修法がとり行なわれました。
後白河法皇も新熊野神社参詣のため精進中でしたが、
六波羅を訪れて祈祷を行なっています。法皇は園城寺の公顕から
真言の秘法を伝授され、修験者としての能力も備えていたといいます。
しかし徳子は難産であったようで中々お産が始まらず、清盛も時子も
胸に手をあてて「どうしようか」とただおろおろするばかりです。
周囲の者が何を言ってもうわのそらで「ともかくいいように」と言うばかり。
平重衡(清盛の五男)が御簾の中から出て「お産は無事でした。
皇子がお生まれですぞ。」と声高らかに告げると、法皇はじめ
そこに集まった全ての人々がいっせいに喜び合い、その声は門外まで響いて
しばらくは静まらず、清盛は感激のあまり声をあげて泣いたという。
法皇がお帰りになるので門前に車が寄せられ、
清盛はお布施として砂金一千両と富士の綿二千両を贈ったと伝えています。
『アクセス』
「妙順寺」市バス五条大和大路からすぐ 寺は非公開です。
檀家の方にお断りして撮影させていただきました。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 上杉和彦「平清盛」山川出版社
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 別冊太陽「平清盛」平凡社