平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




源平墨俣川古戦場跡は、秀吉の墨俣一夜城の2Kほど南にあります。

現在、古戦場跡は義円公園として整備され、公園内には
墨俣合戦で討死した義円ゆかりの地蔵と供養塔が祀られ、
その西の田畑の中には義円の墓がひっそりと佇んでいます。



源平墨俣川古戦場は、大垣市指定史跡になっています。







若くして戦死した義円の霊を慰めるために祀られている義円地蔵

養和元年(1181)2月、平氏は源氏軍に備え、
官吏・検非違使を美濃国(現、岐阜県)に派遣して渡船を徴用し、
伊勢国からも船を墨俣へ出航させています。(『玉葉』同年2月8日・11日条)
同年3月、源行家(新宮十郎)は頼朝の弟義円(ぎえん)
とともに
六千余騎を率いて墨俣川の東岸に布陣し、西岸には平重衡(清盛の5男)を
総大将とする三万騎の平氏が陣を構えていました。行家は頼朝の麾下には入らず、
その行動は頼朝とは一線を画したものでした。

義円は明日の矢合せをまたずに無謀にも、小勢で夜襲をかけましたが失敗し
平盛綱(高橋左衛門尉)に討ち取られました。25歳であったという。
『源平盛衰記』は、その時の義円の心境を
「行家に先駆けされては、兄頼朝に合わす顔がない。」と語っています。

これに遅れまいと行家も手勢二千余騎を率いて川を渡り
平家軍に攻め入りましたが、たちまち大軍に包囲され命からがら
三河国(愛知県)矢作川辺まで落ち延びました。『吾妻鏡』は、
この合戦で源氏軍は690余人の死者を出し惨敗したと記しています。

両軍の兵力や平家方の大将については『平家物語』や『吾妻鏡』、
その他の史料によって異なりますが、軍勢において
平家方が優っていたことは確かです。



義円は義経の同母兄で、義朝と常盤との間に生まれた今若・乙若・牛若の
乙若にあたります。平治の乱後、この3人の子供は全員、
常盤と平清盛との約束で、僧籍に入ることになりました。
平治の乱当時5歳だった乙若は、園城寺に入って出家し、
園城寺の
円恵法親王(後白河院皇子)の坊官(帯刀妻帯が許される)などを務め、
卿の公(きょうのきみ)円成と名乗り、のち義円と改めました。
その後、寺を出て愛知郡(現、名古屋市)に現れ、郡司の娘と結婚し、
義成(愛智義成・愛智蔵人とも)が誕生しています。
頼朝と合流することなく、行家の率いる軍勢とともに
墨俣川で平家軍と対戦し、小勢で抜け駆けして討死しました。

義円は鎌倉に下向した形跡がないので義経は物心ついてから、
この兄と対面する機会はなかったことになる。(『源義経』)


長良川・木曽川・揖斐(いび)川の三つの河川と藪川などの河川が合流する
墨俣(岐阜県大垣市)の渡(わたし)は、
「洲の俣」の形状をもつ大湿地帯で、水陸両面の交通の要衝でした。

墨俣川の戦いはこの湿地帯を舞台に繰り広げられ、
湿地帯を背後にして戦った源氏軍は退却に手間取り被害を大きくしました。
地形の変遷は大きく、現在は長良川の異名となり、
長良川西岸に墨俣町があります。

墨俣は近世に木曽川が現在の流路に付替えられるまで、
美濃国と尾張国の国境にあり、古代から近世に至るまで
大海人皇子にかかわる伝承や源平・南北朝期の合戦、
熊谷直実ゆかりの満福寺熊谷堂、秀吉の墨俣一夜城、中世の鎌倉街道、
江戸時代には美濃路の宿場町であり、古くからの歴史が重なっています。
満福寺熊谷堂 
満福寺は寛和年間(985)天台宗の伽藍として創建されたのが始まりとされ、
熊谷直実の猶子・祐照法師が親鸞聖人に帰依し、寺地は嘉禎元年(1235)、
葉栗郡門間の庄足近に移転した後、
現在地に移されました。
境内にある熊谷堂では、熊谷蓮生房の木像をはじめ
太閤秀吉の書など多くの寺宝が拝観できます。

鎌倉街道
古くから東海道と東山道を結ぶ官道が、墨俣南部の上宿・二ツ木を通り、
鎌倉時代になると街道は鎌倉と京都を結ぶ道として整備され、
東西交通の重要な要衝でした。
街道はさまざまな文化の行き交う道として賑わい、西行法師の歌や
阿仏尼の十六夜日記など多くの和歌や紀行文に墨俣が記されています。



『アクセス』
「義円公園」大垣市墨俣下宿 JR大垣駅よりバス約25分
(バスは1時間に約2本)
バス停「墨俣」下車 南へ徒歩約20分
「満福寺熊谷堂」大垣市墨俣町寺町 墨俣バス停より北へ徒歩約7分
『参考資料』
「岐阜県の地名」平凡社 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 元木泰雄「源義経」吉川弘文館
上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂 
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館
「平家物語図典」小学館



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 妙順寺の境内には、安徳天皇が産湯を使ったと伝えられる井戸があります。
井戸には「釣殿井」と彫られています。
釣殿は清盛の継母池禅尼とその息子平頼盛が住んだ池殿の別名で、
池殿は平清盛の娘徳子が出産した際、七仏薬師壇所にあてられています。

『平家物語』には「御産所は六波羅池殿」とありますが、
これは誤りで『山塊記』が記す泉殿が正しいとされています。
嘉応元年(1169)、清盛は泉殿を嫡子重盛に譲り、福原に移っているので、
産所にあてられたのは重盛邸ということになります。

妙順寺は池殿の西隣の東山区大和大路五条上ル山崎町にあり、
泉殿の跡地とされる三盛町とは離れています。しかし頼盛の邸宅池殿(池殿町)とは
隣接しているので、池殿に関する井戸ではないかとも考えられています。

徳子懐妊の知らせを受けた清盛は、福原より上洛し10年ぶりに六波羅に入りました。
徳子が入内したのは16歳、高倉天皇はまだ12歳でした。
言仁親王(安徳天皇)の誕生はそれから七年後のことでした。

 徳子が高倉天皇の皇子を生み、その皇子が皇位につき
清盛の外祖父としての地位が確立すれば、清盛の立場はゆるぎないものになる。
清盛はどれほどこの日を待ち続けたでしょう。
  
かろうじて「釣殿井」と読みとれます。

 治承2年(117811月、徳子が産気づいたというので、
京中も六波羅も大騒ぎになった。
関白はじめ公卿・殿上人、また官位昇進を望む者は皆挨拶に訪れました。

安産を祈願して仁和寺の守覚法親王(高倉天皇の兄)は孔雀経の法、
天台座主の覚快法親王(高倉天皇の叔父)は七仏薬師の法、
その他様々な修法がとり行なわれました。

 後白河法皇も新熊野神社参詣のため精進中でしたが、
六波羅を訪れて祈祷を行なっています。法皇は園城寺の公顕から
真言の秘法を伝授され、修験者としての能力も備えていたといいます。

しかし徳子は難産であったようで中々お産が始まらず、清盛も時子も
胸に手をあてて「どうしようか」とただおろおろするばかりです。
周囲の者が何を言ってもうわのそらで「ともかくいいように」と言うばかり。

平重衡(清盛の五男)が御簾の中から出て「お産は無事でした。
皇子がお生まれですぞ。」と声高らかに告げると、法皇はじめ
そこに集まった全ての人々がいっせいに喜び合い、その声は門外まで響いて
しばらくは静まらず、清盛は感激のあまり声をあげて泣いたという。

法皇がお帰りになるので門前に車が寄せられ、
清盛はお布施として砂金一千両と富士の綿二千両を贈ったと伝えています。
『アクセス』
「妙順寺」市バス五条大和大路からすぐ 寺は非公開です。
檀家の方にお断りして撮影させていただきました。
『参考資料』
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 上杉和彦「平清盛」山川出版社 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 別冊太陽「平清盛」平凡社

 

 

 

 

 



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音戸瀬戸は呉市警護屋(けごや)と対岸の倉橋島(呉市音戸町)の間にある海峡で、
長さはおよそ800m、幅はわずか80m、
潮の流れの速さと行き交う船の多さで知
られています。
この瀬戸を開削したのが平清盛と伝えられています。

伝説によれば、西に沈みかけた太陽を清盛が扇で招き返し、
一日で開削工事を終わらせることができたという。



JR呉駅からバスで「音戸渡船口」へ

清盛塚  
音戸瀬戸渡し舟で倉橋島へ渡ると音戸大橋のすぐ下の海岸にあります。
清盛が音戸瀬戸開削の際、人命を尊んで、人柱の代わりに
一字一石の経石を海底に沈めて難工事を完成させたと伝えられ、
清盛の功績と供養のために宝筐印塔が建立されました。



橋の下を大型船が絶え間なく行き交っています。

清盛が厳島神社に参詣する航路にするために切り開いたという伝説は、
地形学上否定されていますが、江戸時代から、
ここを通る旅人たちは音戸の瀬戸と清盛の関係を見聞きし、
それを広めていったと考えられています。

休山(500㍍)の丘陵一帯は音戸瀬戸公園とよばれています。
吉川英治文学碑
  吉川英治が「新平家物語」の史跡取材のため、
音戸瀬戸を訪れたのを記念し、音戸瀬戸公園に建立されました。
三角石の吉川英治が瀬戸の絶景を見下ろしながら丸石の清盛に
「君よ 今昔の感 如何(いかが)」と問いかけています。

三角の石には「君よ 今昔の感 如何」と吉川英治の筆で刻まれています。
日招き像  
音戸瀬戸公園の高烏台(展望台)には、
清盛が沈む太陽を扇で招き返し、工事を急がせたという伝説により、
昭和42年(1967)に日招き像が建てられました。
日没の方向に扇を向けて立ち、太陽までも意のままに
操ったとされる往年の清盛をほうふつさせます。

日招岩 
日招像から200m程、山道を下ると清盛の足跡と杖の跡が残る岩があります。







音戸瀬戸渡し舟
音戸の瀬戸を片道3分で結ぶ定期航路です。
時刻表はなく、午前5時半から午後9時まで運航しています。
一人でもお客が乗ればすぐ出港し、対岸で手を挙げれば迎えに来てくれます。

『万葉集』巻十五には、天平八年(736)、遣新羅使人が
安芸国長門島に停泊した時の歌が五首詠まれています。

♪わが命を長門の島の小松原 幾夜を経てか神さびわたる (3621)

江戸時代後期、広島藩の儒者香川南浜(なんぴん)考証『秋長夜話』以来、
長門の島は倉橋島のことと考えられ、倉橋島にはいくつかの万葉歌碑が建っています。

長門の島が倉橋島であれば、奈良時代すでに音戸瀬戸は海峡であって
清盛が開削したのではなかったことになります。
瀬戸の水深が浅かったため大型船が航行できるよう清盛が
開削したという説話も、地質学・地形学上否定されています。

康応元年(1389)、足利義満の厳島参詣にお供して音戸瀬戸を通った
今川了俊は、『鹿苑院殿厳島詣記』に「音戸の瀬戸といふは
滝のごとくに潮はやく、せばき処なり。」と記していますが、
清盛の音戸瀬戸開削については一言もふれていません。

厳島神社神官棚守房顕が天正8年(1580)に書いた『房顕覚書』に
「清盛福原より月詣て在、音渡瀬戸其砌(みぎり)被掘」とあり、
戦国時代にはすでに清盛開削伝説があったことがみえます。

天正十六年(1588)、毛利輝元が豊臣秀吉の下へ上洛した際に書いた
『輝元公卿上洛日記』にも
「午の刻に瀬戸を御舟被出、此戸中に清盛の石塔有之」とあります。

毛利輝元が見たという清盛塚は室町時代の宝筐印塔といわれることから、
この伝説は遅くとも室町時代には成立していたと考えられています。

 清盛が日宋貿易の海路また厳島神社に参詣する航路を
整備したことは明らかであり、
平氏が航路整備上なんらかの手を加えた可能性は否定できませんが、
清盛が音戸瀬戸を開削したという確証はありません。

急流と渦潮で名高いこの瀬戸を、櫓をこいで行き来する船が
難儀した様子を民謡『音戸の舟歌』に
「ヤーレー船頭かわいや 音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺のヤーレノー  櫓がしわるヨー」と謡われ、
北広島の『壬生の花田植え歌』の歌詞には
「清盛公は 日の丸の扇で 御日を招き戻した」とあり、
この伝説は地元だけでなく中国山地にまで知られていました。

江戸時代、寄港地として瀬戸町(呉市音戸町)が形成され、
音戸瀬戸と清盛の開削伝説を見聞きして帰った旅人によって、
伝説がしだいに広まり定着していったものと思われます。

なお、「警護屋」は清盛音戸瀬戸を開削中、
警護の武士が駐屯したからついた地名だと語り継がれていますが、
『武士の成長と院政』には、「警護屋という地名は瀬戸内西部各地にみられ、
清盛は厳島参詣ルート・瀬戸内航路掌握のための
海域監視所として警護屋を置いたのではないだろうか。」とあります。
『アクセス』
「音戸の渡し船」
 JR呉駅からバス約20分(1時間に2、3本あり)「音戸渡船口」下車すぐ
(つつじのシーズンは道路が渋滞し、バスが延着します。ご注意ください)
「吉川英治文学碑」
音戸瀬戸公園 バス停音戸渡船口から徒歩15分
「日招き像」
音戸瀬戸公園高烏台  バス停音戸渡船口から徒歩約1時間
バス停音戸渡船口からタクシー12、3分
平成25年1月14日までの土・日・祝日限定無料シャトルバスがあります。
お問合せ 「平清盛音戸瀬戸ドラマ館」(☎0823-50-0041)
『参考資料』

 「広島県の地名」平凡社 「広島県の歴史散歩」山川出版社 
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 犬養孝「万葉の旅」(下)教養文庫  

 

 



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