熊野三山が広く知られるようになるのは、平安時代から鎌倉時代にかけて
盛んに行われた熊野御幸によってです。
熊野は古くは自然信仰の神々を祀る社でしたが、その原始信仰に外来仏教が加わり
独自の展開を見せて神仏習合が広まると、本宮の祭神は阿弥陀仏、
速玉の祭神は薬師如来、那智の祭神は観音菩薩の化身だとされ、
熊野における浄土信仰が盛んになっていきました。
すると上皇や貴族たちは多くのお供を連れ、大規模な熊野詣を行いました。
その後、院政が途絶え武士の世になると、熊野詣での中心は武士や一般庶民へと移り、
熊野街道には切れ目なく旅人の行列が続いたのでした。
そんな熱狂的な信仰を集めたのは、熊野権現が浄不浄をとわず、
貴賤にかかわらず、全ての衆生を受け入れてくれる神だったからです。
上皇(法皇)の熊野詣を特に「熊野御幸(ごこう)」といいます。
ちなみに「御幸」とは、上皇・女院の外出をいい、
天皇が御所の外にでるのを「行幸(みゆき)」といいます。
天皇は一年中行事や儀式にしばられ勝手な旅行などはできませんから、
天皇の熊野詣は一度も行われませんでした。上皇にはそういう制限はなく、
富と暇を手にした上皇たちは競うように熊野御幸を行いました。
院政期において、当時の天皇は幼帝が多く上皇はその父であることがほとんどで、
上皇は皇位を退いても天皇以上の権力を握り、その行動を規制する人がなく、
自由に熊野を参詣することができたのです。
速玉大社社務所横に「熊野御幸」の大きな碑があります。
熊野へは紀伊路と伊勢路の二ルートがあり、
京からは紀伊路を辿り、熊野三山を詣でるのが一般的でした。
延喜7年(907)宇多上皇が初めて熊野に参詣し、弘安4年(1281)の亀山上皇まで
約400年もの間、熊野御幸は続けられました。
上皇たちは鳥羽から舟で淀川を下り、天満橋辺りの渡辺津で上陸したあと、
街道筋に点々とある王子社を巡拝しながら、紀伊半島を海岸沿いに南下し、
紀伊田辺から中辺路に入り本宮に到着しました。本宮より新宮へは舟で熊野川を下り、
新宮・那智を巡り、その背後にそびえる妙法山に上り、
大雲取・小雲取山を越えて再び本宮に出て都への帰路についたというのが、
当時最も多く利用された経路です。(約20日長くても1ヵ月)
後白河天皇が上皇になった翌年、平治元年(1159)12月、
平清盛が熊野詣に行った留守中、保元の乱の恩賞で清盛に水をあけられた源義朝が
藤原信頼と共謀して藤原信西を殺害し、後白河上皇を拉致しました。
平治の乱の勃発です。これを聞いた清盛は熊野詣から引きかえしこの乱に勝利します。
清盛と連携し平治の乱をのりきった後白河上皇は、永暦元年(1160)10月、
三井寺の法印覚讃(かくさん)を先達にして初めての熊野詣を行いました。出発早々、
上皇は「今様を熊野権現に手向けようと思うがどうか」と供の清盛に相談すると、
「お謡いになるべきです。」と清盛は返事し、ふとうとうとすると夢の中に
王子社の前に後白河上皇の今様を聞きに熊野権現が現れました。
この夢を上皇に語ったことにより、上皇は熊野参詣の折々に
社前で今様を謡うようになったと『梁塵秘抄口伝集』に記されています。
後白河上皇は上皇になってからの35年間、まるで憑かれたように熊野へ
足を運び、熊野詣は34回(33回とも)にも及んだと伝えられています。
それは平家一門台頭から源平争乱の相次いだ時期と一致しています。
後白河上皇だけでなく、後鳥羽上皇28回、鳥羽上皇23回など
皇族23人が延べ140回も熊野詣を行っています。
京から遠く道の険しい熊野への旅は、楽でなかったことが
『梁塵秘抄』からもうかがえます。『梁塵秘抄』は、今様の歌詞を集めて
後白河上皇によって編纂されたものです。
また今様の謡い方や名人の伝承などを自叙伝の体をとって
『梁塵秘抄口伝集』に記しています。
♪熊野へ参らんと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽賜(た)べ若王子
(熊野にお参りしようと思うけど歩いて参れば道が遠い。とりわけ山が険しい。
馬で参詣すれば苦行にならずあまりご利益がない。それでは空からお参りをしよう。
どうか私に羽を下さい。若王子の神よ。)
若王子(にゃくおうじ)とは、12所権現の1つに数えられる若宮のことです。
この頃、熊野詣は苦行と考えられ、苦労して参れば参るほど
功徳が大きいと考えられたことがこの今様からわかります。
参道にたつ梁塵秘抄の碑
♪熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず
(熊野へ参るには紀伊路と伊勢路のどちらが近いであろう。
どちらが遠いであろう。一切の衆生を救おうという広大な熊野権現の
慈悲のもとへ参る道であるから紀伊路も伊勢路も遠くはないよ。)
歌碑には後鳥羽上皇が熊野御幸の際に詠まれた和歌が刻まれています。
♪岩にむす 苔ふみならす み熊野の 山のかひある 行くすゑもがな
(岩に生えている苔を踏みならして 熊野の山を行く
それだけ甲斐のある行く末であってほしいことよ。)
熊野速玉大社 熊野御幸(深専寺)
熊野街道起点碑 熊野権現礼拝石(渡辺津~四天王寺)
『アクセス』
「熊野速玉大社」和歌山県新宮市新宮
JRきのくに線「新宮」駅より 熊野交通バス「権現前」下車すぐ、又は徒歩約20分
『参考資料』
五来重「熊野詣」講談社学術文庫 梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社
「梁塵秘抄」角川ソフィア文庫 別冊宝島「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館