平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




新宮十郎行家(源義盛)の屋敷跡が新宮市熊野地にあります。
行家の屋敷は市田川の左岸、古熊野街道の東側にあったといわれていますが、
現在屋敷跡の推定地は駐車場や民家となり、そこには説明板があるだけです。

「このあたり1丁(約百m)四方に渡って、源平時代の武将新宮十郎行家の
屋敷があったと伝えられている。現在遺跡らしい物は見出せないが、
江戸時代初期の「新宮古図」に記されている。
行家は別の名を源義盛といい、
源為義の十男で新宮の神官鈴木重忠の娘(熊野別当の娘との説もあり)との間に
生まれたと言われている。保元・平治の乱で兄弟を早く失ったが、
ただ一人生き残った。
 兄義朝の子である源頼朝や義経、木曽義仲の叔父にあたる。
 また、丹鶴姫(鳥居禅尼)は行家の実姉であり、紀宝町鮒田の地で
生まれたと言われる弁慶も義経を通して行家とのかかわりが深い。
行家は新宮に居住し、平家追討の令旨を諸国の源氏に伝え、
蜂起を促したことで有名である。源平の合戦が続く中、頼朝や義仲と戦ったり、
平家打倒に大きな役割を果たし、多くの人物と関わった珍しい武将である。
平家滅亡後は頼朝と対立する義経と行動をともにしていたが文治2年(1186)5月、
和泉の国で捉えられ最期を遂げた。
平成16年3月 新宮市」 (現地説明板)

行家の屋敷跡はJR新宮駅の東方に位置しています。

屋敷跡周辺の路地は狭く、分かりにくい場所にあります。

10月も半ば近く日の暮れるのは早く、辺りは急に薄暗くなってきました。



行家の屋敷跡付近を流れる市田川

行家は保元の乱で敗れた源為義の末子で、以仁王(後白河上皇の皇子)の
平家追討の令旨を諸国の源氏に伝えたことで知られています。平治の乱後、
姉で熊野新宮別当家の行範の妻である鳥居禅尼に庇護され新宮に隠れ住んでいましたが、
以仁王の挙兵を機に都に呼び寄せられました。義盛という名を行家と改め、
八条院子(しょうし)内親王の蔵人に任命されて東国へと旅立ちました。
子内親王(後白河上皇の異母妹)は鳥羽天皇と美福門院得子の間に生まれた皇女で、
両親から数百ヶ所に及ぶ荘園を譲られ、莫大な富を背景に大きな権力を持っていました。
以仁王が八条院子の猶子(養子)であることや王が八条院に仕えていた
三位局との間に若宮と姫君を儲け、子らが女院に養育されていたことなどから、
以仁王謀反の時には八条院の御所も厳しく詮索されました。

行家は源氏一族に以仁王の令旨を配るという重要な役割を果たしたものの、
その後の合戦では連戦連敗を続けて頼朝に疎まれ、
やがて甥の木曽義仲のもとに身をよせます。義仲は平家の軍勢を
倶利伽羅峠・北陸路で破り行家と共に都に入りますが、
恩賞をめぐって次第に両者は不仲となりました。
壇ノ浦合戦後、行家は今度は義経の前に現れ、頼朝と対立する両者は、
京を出て摂津の大物浦から出航します。しかし暴風雨のため遭難、
行家は和泉国に漂着し、同地に潜伏しているのを北条時政の甥の時貞に探し出され、
奮戦の後に息子光家とともに捕えられて斬首、首は都大路を渡されました。
下記の記事もクリックしてご覧ください。
新宮十郎行家と義仲(行家の墓)  
『アクセス』
「新宮十郎行家屋敷跡」和歌山県新宮市熊野地2丁目 JR新宮駅徒歩14、5分
新宮駅からまず徐福公園を目ざします。
公園の前を通りオークワ新宮駅前店(スーパー)を過ぎると

レンタカー店が見えてきます。そのすぐ先の漢方の森本薬店の四辻を南に進み、
さらに次の辻も南方向に進みます。

『参考資料』
「和歌山県の地名」平凡社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書 
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館

 

 

 

 



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熊野三山が広く知られるようになるのは、平安時代から鎌倉時代にかけて
盛んに行われた熊野御幸によってです。
熊野は古くは自然信仰の神々を祀る社でしたが、その原始信仰に外来仏教が加わり
独自の展開を見せて神仏習合が広まると、本宮の祭神は阿弥陀仏、
速玉の祭神は薬師如来、那智の祭神は観音菩薩の化身だとされ、
熊野における浄土信仰が盛んになっていきました。

すると上皇や貴族たちは多くのお供を連れ、大規模な熊野詣を行いました。
その後、院政が途絶え武士の世になると、熊野詣での中心は武士や一般庶民へと移り、
熊野街道には切れ目なく旅人の行列が続いたのでした。
そんな熱狂的な信仰を集めたのは、熊野権現が浄不浄をとわず、
貴賤にかかわらず、全ての衆生を受け入れてくれる神だったからです。
上皇(法皇)の熊野詣を特に「熊野御幸(ごこう)」といいます。

ちなみに「御幸」とは、上皇・女院の外出をいい、
天皇が御所の外にでるのを「行幸(みゆき)」といいます。
天皇は一年中行事や儀式にしばられ勝手な旅行などはできませんから、
天皇の熊野詣は一度も行われませんでした。上皇にはそういう制限はなく、
富と暇を手にした上皇たちは競うように熊野御幸を行いました。
院政期において、当時の天皇は幼帝が多く上皇はその父であることがほとんどで、
上皇は皇位を退いても天皇以上の権力を握り、その行動を規制する人がなく、
自由に熊野を参詣することができたのです。


速玉大社社務所横に「熊野御幸」の大きな碑があります。

熊野へは紀伊路と伊勢路の二ルートがあり、
京からは紀伊路を辿り、熊野三山を詣でるのが一般的でした。

延喜7年(907)宇多上皇が初めて熊野に参詣し、弘安4年(1281)の亀山上皇まで
約400年もの間、熊野御幸は続けられました。 
上皇たちは鳥羽から舟で淀川を下り、天満橋辺りの渡辺津で上陸したあと、
街道筋に点々とある王子社を巡拝しながら、紀伊半島を海岸沿いに南下し、
紀伊田辺から中辺路に入り本宮に到着しました。本宮より新宮へは舟で熊野川を下り、
新宮・那智を巡り、その背後にそびえる妙法山に上り、
大雲取・小雲取山を越えて再び本宮に出て都への帰路についたというのが、
当時最も多く利用された経路です。(約20日長くても1ヵ月)

後白河天皇が上皇になった翌年、平治元年(1159)12月、
平清盛が熊野詣に行った留守中、保元の乱の恩賞で清盛に水をあけられた源義朝が
藤原信頼と共謀して藤原信西を殺害し、後白河上皇を拉致しました。
平治の乱の勃発です。これを聞いた清盛は熊野詣から引きかえしこの乱に勝利します。
清盛と連携し平治の乱をのりきった後白河上皇は、永暦元年(1160)10月、
三井寺の法印覚讃(かくさん)を先達にして初めての熊野詣を行いました。出発早々、
上皇は「今様を熊野権現に手向けようと思うがどうか」と供の清盛に相談すると、
「お謡いになるべきです。」と清盛は返事し、ふとうとうとすると
夢の中に
王子社の前に後白河上皇の今様を聞きに熊野権現が現れました。
この夢を上皇に語ったことにより、上皇は熊野参詣の折々に
社前で今様を謡うようになったと『梁塵秘抄口伝集』に記されています。

後白河上皇は上皇になってからの35年間、まるで憑かれたように熊野へ
足を運び、熊野詣は34回(33回とも)にも及んだと伝えられています。
それは平家一門台頭から源平争乱の相次いだ時期と一致しています。
後白河上皇だけでなく、後鳥羽上皇28回、鳥羽上皇23回など
皇族23人が延べ140回も熊野詣を行っています。

京から遠く道の険しい熊野への旅は、楽でなかったことが
『梁塵秘抄』からもうかがえます。『梁塵秘抄』は、今様の歌詞を集めて
後白河上皇によって編纂されたものです。
また今様の謡い方や名人の伝承などを自叙伝の体をとって
『梁塵秘抄口伝集』に記しています。


♪熊野へ参らんと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし 
馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽賜(た)べ若王子

(熊野にお参りしようと思うけど歩いて参れば道が遠い。とりわけ山が険しい。
馬で参詣すれば苦行にならずあまりご利益がない。それでは空からお参りをしよう。
どうか私に羽を下さい。若王子の神よ。)
若王子(にゃくおうじ)とは、12所権現の1つに数えられる若宮のことです。
この頃、熊野詣は苦行と考えられ、苦労して参れば参るほど
功徳が大きいと考えられたことがこの今様からわかります。


参道にたつ梁塵秘抄の碑

♪熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 
広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず

(熊野へ参るには紀伊路と伊勢路のどちらが近いであろう。
どちらが遠いであろう。一切の衆生を救おうという広大な熊野権現の
慈悲のもとへ参る道であるから紀伊路も伊勢路も遠くはないよ。) 


歌碑には後鳥羽上皇が熊野御幸の際に詠まれた和歌が刻まれています。
♪岩にむす 苔ふみならす み熊野の 山のかひある 行くすゑもがな
(岩に生えている苔を踏みならして 熊野の山を行く
それだけ甲斐のある行く末であってほしいことよ。)

熊野速玉大社   熊野御幸(深専寺) 
熊野街道起点碑 熊野権現礼拝石(渡辺津~四天王寺)  
『アクセス』
「熊野速玉大社」和歌山県新宮市新宮
JRきのくに線「新宮」駅より 熊野交通バス「権現前」下車すぐ、又は徒歩約20分
『参考資料』

五来重「熊野詣」講談社学術文庫  梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社
 「梁塵秘抄」角川ソフィア文庫 別冊宝島「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館

 



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熊野川河口に鎮座する熊野速玉大社は、本宮・那智とともに熊野三山の一つに数えられています。
この社は神倉山の巨石ゴトビキ岩をご神体とする自然崇拝を源とし、この岩に降臨した
熊野神を現在地に遷したことから、神倉山の元宮に対して新宮ともよばれるようになりました。
創建は景行天皇の時といわれますが、明らかではありません。


新宮駅から商店街を通り抜けるとやがて熊野速玉大社の鳥居が見えてきます。

朱塗も鮮やかな大鳥居をくぐるとすぐ右手に八咫烏(やたがらす)神社と手力男神社、
さらに参道を進むと神宝館があります。


鳥居の神額には「熊野権現」の文字が見えます。



八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場し、神武東征の際に活躍した烏です。
九州から東をめざした神武天皇は、大軍とともに大阪湾に上陸し大和に
向かおうとしましたが、生駒越えで失敗し、紀伊半島を南に迂回して
那智海岸に上陸、熊野神を従えて大和を目指します。

この時、天照大神が
八咫烏を派遣し、神武天皇はこの烏の案内で吉野川を下り、
宇陀から大和へ入り、やがて日本初代の天皇として即位しました。
熊野三山には、それぞれに意匠の異なる八咫烏の故事に由来する
「熊野牛王符(くまのごおうふ)」があります。烏文字と宝珠をデザインし、
そこに「日本一」の文字を入れたお守り札です。


 

国宝300余点を含む1千点あまりの文化財を保管管理している熊野神宝館。

熊野神宝殿の前にたつ武蔵坊弁慶の像。

参道左手には、高さ20mを超えるナギの大樹(国天然記念物)があります。
樹齢八百年のこの巨木は、社殿落成記念の際、平重盛手植えと伝えられています。

神門神額には「全国熊野神社総本宮」の文字。

社務所と鈴門

杉と楠の緑を背にした社殿。
 

神門を入ると12柱の神々を祀る丹塗りの豪華な社殿が並んでいます。
向かって左に拝殿がありその後方に那智の主神「夫須美大神」を祀る第一殿、
新宮の主神「速玉大神」を祀る第二殿、
正面には本宮の「家津御子大神(けつみこのおおかみ)」を祀る第三殿、
「天照皇大神」を祀る第四殿があります。以上を「上四社」といいます。
第四殿の右側には「中四社」(5殿から8殿までの相殿)
「下四社」(9殿から12殿までの相殿)が並んでいます。
自然崇拝の上に神々が祀られた熊野が神仏習合にともなって
仏や菩薩が衆生を救うために、仮(権)に神として姿を現したという権現信仰が展開し、
熊野三山では、それぞれの主祭神三所に九所の祭神が合祀され
熊野十二所権現として信仰されました。
ちなみに、三山ではほぼ共通する12の祭神を合祀する独特の祭祀形態をとっています。

当時の人々は、夫須美大神、速玉大神、家津御子大神としてよりも、親しみやすい本地仏の
千手観音(那智)、薬師如来(新宮)、阿弥陀如来(本宮)として拝んだと思われます。
 
大しめ縄のかかる拝殿。

拝殿内部。神額には「日本第一大霊験所根本熊野権現拝殿」の文字。

この他境内に祀られている摂社末社。

社殿右手に熊野恵比寿神社

恵比寿神社の横には新宮神社。

神門の外の参道右手に祀られている熊野稲荷神社
熊野御幸(熊野速玉大社)  
『アクセス』
「熊野速玉大社」和歌山県新宮市新宮
JRきのくに線「新宮」駅より 熊野交通バス「権現前」下車すぐ、又は徒歩約20分
『参考資料』 
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 

別冊太陽「熊野異界への旅」平凡社 五来重「熊野詣」講談社学術文庫
 佐藤高「古事記を歩く」知恵の森文庫 加藤隆久「熊野大神」戒光祥出版



 



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