平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 



八坂神社西楼門

八坂神社拝殿。


八坂神社拝殿の東側に鎌倉時代中期作の忠盛灯篭があります。
灯篭には清盛の出生の秘密と清盛の父忠盛の武勇伝が残されています。

五月下旬の雨の夜、白河法皇は、殿上人2人と忠盛らをお供にして東山の麓、
祇園社(八坂神社)近くに住む祇園女御のもとにお忍びで出かけました。
ある御堂辺りで、法皇は灯篭に火を入れようとする蓑を着た社僧の姿を
鬼と見間違い、忠盛に斬り殺すよう命じました。
しかし忠盛は「狐か狸が化けているのであろう。よし生け捕りにしよう。」と
取り押さえて見ると、それは鬼ではなく老僧でした。法皇は忠盛の冷静沈着な
行動を褒め、弓矢とる者はこうでなければならないと、褒美として寵愛する
祇園女御を与えました。この時、すでに法皇の子を女御は身ごもっていたので、
「生まれた子が女子なら朕が子に、男子ならそちの子とせよ。」と仰せになりました。
そして生まれた子は男子で、忠盛が子の夜泣きに困っていると聞くと、法皇は
♪夜泣きすと ただもりたてよ 末の世に 清く盛りふる こともこそあれ
(夜泣きしても忠盛よ、大事に育ててくれ。末の世にはきっと清く盛えることもあるよ)
という歌を贈ったので、忠盛は子供の名前を清盛と名づけました。
清盛の急速な昇進はそのためである。という話を『平家物語』は載せています。

祇園女御の塚は八坂神社の南、円山音楽堂の西側にあります。
『昭和京都名所図会』によると、ここはもと双林寺境内の西北隅にあたり、
字名を「女御田」といい、古くから白河法皇の寵妃祇園女御の邸跡
または女御建立の仏堂跡といわれ、この地を耕すものは
必ず祟りがあるといって恐れられていました。
また、付近は道長の娘で三条天皇の中宮となった女御研子や
一条天皇中宮影子の火葬地だったともいわれ、
『中古京師内外地図』には、研子の塚があったように記しています。

以前はこの辺りの雑草が生い茂る空き地に祇園女御の塚がありましたが、
古い塚は撤去され京都祇園堂の傍に真新しい祇園女御の宝篋印塔 がたっています。

祇園女御が史上に初めて登場するのは、長治2年(1105)の祇園堂を供養した時です。

白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御は大変な権勢の主だったようで、
女御が邸内に祇園堂を建てて供養したときは、多数の公卿殿上人が参列、
その贅沢なことは人々の耳目を驚かせるばかりだったと藤原宗忠の日記
『中右記』に記されています。祇園堂の内部には約4,85mの阿弥陀仏が置かれ、
金銀珠玉で飾りたてられた華麗なお堂でしたが、後に女御が仁和寺の
境内に建てた威徳堂の荘厳さもまた比類のないものであったという。


『胡宮(このみや)神社』所蔵の「仏舎利相承系図」には、祇園女御は妹とともに
白河法皇の寵愛を受け、忠盛に嫁いで清盛を生んだのは妹とし、清盛が3歳の時に
妹が亡くなったため、祇園女御が清盛を猶子として育てたと伝えています。
祇園女御の推定年齢(忠盛より10歳以上年長)などからも
現在、清盛が祇園女御の子であることは否定されています。
祇園女御 (京都御苑内の厳島神社)  
『アクセス』
「八坂神社」
京都市東山区祇園町北側625 市バス祇園下車すぐ
「祇園女御の塚」京都市東山区祇園町南側 八坂神社南楼門から南へすぐ
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店

 













 


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平家物語にうたわれた沙羅双樹の花で名高い妙心寺の塔頭東林院は、
享禄4年(1531)、細川氏綱が建立した三友院を、
後に山名豊国が再興し、名を東林院と改め山名家の菩提寺としたものです。

平家物語の冒頭の一節「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。」で知られる
沙羅双樹(さらそうじゅ)の若木が本堂前の庭園にあり、
毎年6月中旬になると美しい花を咲かせます。

「沙羅双樹の
花の色」は、お釈迦様が入滅した時に
庭の四辺に植わっていた沙羅という木が、悲しみのあまり枯れて
白くなったという言い伝えに基づいています。
普段は非公開ですが、「沙羅の花を愛でる会」で特別公開されます。
(6月15日から30日まで)9:30~16:00(お抹茶付1600円)
希望者には、精進料理(有料)が出されます。

妙心寺三門

仏殿

大方丈

「沙羅の花を愛でる会」入口

東林院

沙羅双樹の古木

「紗羅双樹」とは、インド原産の樹木のことで、高さが30m余にもなります。
お寺でよく見かける紗羅の木と呼ばれているのは夏椿か白雲木のことで、
樹容や花のかたちが似ているためにそう呼ばれています。

梅雨の時期に、本堂前庭の十数本の若木が5弁の白い花をつけます。

花の大きさは直径5cm程度で、早朝に咲き夕べには散ってしまう一日花です。
花びらを散らさず椿の花のように潔い散り方をします。

青い苔の上に白い花が命を惜しむかのように横たわっています。



紗羅双樹の若木





祇園精舎  
『アクセス』
「東林院」京都市右京区花園妙心寺町59
市バス「妙心寺前」下車徒歩6分 JR山陰線「花園駅」下車徒歩約8分
『参考資料』竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂

 

 

 

 



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「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」
有名な平家物語の冒頭の一節です。
祇園精舎とは、昔、お釈迦様が25年いて布教活動をしたという古代インドの僧院で、
お釈迦様に深く帰依したインドのスダッタ長者が建てて釈迦に寄進しました。
そこには多くの僧侶が修行する沢山の院や坊があり、この精舎には
無常堂という堂がありました。修行僧が病にかかり、助からないとわかった時、
自らこの堂に入り静かに最期を向かえたというお堂です。
臨終の時になると、堂の四隅の梁に架けられた鐘がひとりでに
「諸行無常、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅己(しょうめつめつい)、
寂滅為楽(じゃくめついらく)」(この世の全てのものには永遠不滅ではなく、
生あるものは必ず死ぬ。死んで楽となす。)と鳴りました。
これは仏の教えを詩の形で表したもので、この鐘の音を聞いた病僧たちは、
それまでの苦悩が取り払われ、極楽浄土にいったといわれています。

「沙羅双樹の花の色」は、
お釈迦様が弟子を伴いクシナガラのはずれの河のほとり、
沙羅の木の下で最後の説法を終えて亡くなった時、辺りの沙羅双樹の花が悲しみのあまり
枯れて真っ白になったという故事にもとづいて語られ、お釈迦様のような偉大な方でも、
いつかは死を向かえなくてはならないという道理を現しています。

次に、盛んな者はいつか必ず衰え、おごれる者も長続きはしない。
それはまるで春の夜の夢、
風の前の塵のようだと述べ、それを身をもって
あらわした異朝・本朝の人物を登場させます。
中国秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁(りょう)の
朱异(しゅい)、
唐の禄山(ろくさん)の四人の名をあげています。
禄山は玄宗皇帝・楊貴妃に叛き、
反乱を起こした安禄山です。

日本の例では、東国で承平の乱を起こした平将門、

同じ頃、瀬戸内で海賊として暴れまわった藤原純友(すみとも)、
それから八幡太郎義家の子の義親(よしちか)は、九州で乱行し
流罪となりましたが、
罪に服さなかったので平正盛に討たれました。
そして源義朝を語らって平治の乱を
起こした藤原信頼。

つい最近の例ではと平清盛を紹介しています。

六波羅の入道、前太政大臣、平朝臣清盛公という人のありさまは、
想像を絶し話に聞くだけでもその傲慢さと横暴は、
筆にもことばにも表せないほどである。と語っています。
沙羅双樹の花をご覧ください。東林院の沙羅の花を愛でる会  
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語・上」新潮社 水原一「平家物語の世界・上」日本放送出版協会

 



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JR篠原駅の南方の八号線沿い、道の駅の向い側に義経ゆかりの鏡神社があります。

鞍馬寺を抜け出した遮那王(義経)は、奥州へ向かう途中の「鏡の宿」で、
手ずから髻(もとどり)を結い、烏帽子を着けて元服し、
「源九郎義経」と名のりました。元服には烏帽子親が必要ですが、
遮那王は鏡池の水で前髪を落とし、元服の儀式を1人で行ったという。

お供をしていたのは、『義経記』では吉次ですが、『平治物語』では、
下総国深栖の三郎光重の子、陵(みささぎ)の源重頼となっています。




今もこの地には池の水を用いて前髪を落とした鏡池や
鏡神社の参道には烏帽子を掛けたとされる烏帽子掛松などが残っています。


かつて京をたった旅人の最初の宿泊地として栄えた鏡宿、その鎮守である鏡神社。
拝殿

本殿(国重文)祭神・天日槍(あめのひぼこ)
三間社流造・杮(こけら)葺きで室町時代中期の建造とされています。

社殿の背後に祀られている八幡神社。 
祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)・
源九郎義経

烏帽子掛けの松

鏡神社から50mほど西、八号線沿いにある鏡池(源義経元服之池)

ところが『義経記・遮那王の元服』では、元服は義朝(義経の父)の舅の熱田大宮司家です。
稚児姿のままではこの先具合が悪いという事から、熱田大明神の神前で、
大宮司を烏帽子親として源九郎義経と名乗ったと記されています。
元服は武士にとって重要な儀式であるので、烏帽子親のいない元服は
正式なものとして認められないことから、元服の場が熱田に移されたと思われます。

『平治物語』では、義経元服の場であった鏡の宿は、
『義経記』では、鏡の宿に泊まった時、義経が宿に押し入った
強盗を退治する場として描かれています。

鏡神社の東にたつ源義経宿泊の館跡の碑。(白木屋跡)
 絵図は竜王町HPよりお借りしたものに一部文字入れしました。
首途(かどで)八幡宮(義経奥州旅立ちの地)  
『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 現代語訳「義経記」河出文庫
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」(古活字本平治物語・牛若奥州下りの事)岩波書店 
「滋賀県の歴史散歩」(下)山川出版社 五味文彦「物語の舞台を歩く義経記」山川出版社

『アクセス』
「鏡神社」蒲生郡竜王町鏡 JR近江八幡駅西口からバスで30分 鏡バス停下車5分
    又はJR篠原駅下車 南へ徒歩30分






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京都市東山区の平家ゆかりの三嶋神社には、牛若丸の揺向石があります。
寺伝によると、この社に牛若丸が参籠し源氏再興を祈願中、
奥州に下るべしとの神託を受け、この石の前から奥州へ旅立ったと伝えます。





揺向石(ようこうせき)は高さ2m余、赤みをおびた岩石で、祭神の一人
コノハヤサクヤ姫が影向(ようごう)した石とつたえ、
古くは安産石とも誕生石ともよばれ、安産を祈る信仰がありました。


江戸後期に編纂された『花洛名所図会』にも、三嶋神社の「遥向石」が描かれていて、
当時から信仰の対象として祀られていたことが伺えます。
赤線部分が遥向石です。当時は「相生の松」とよばれる樹木の間に祀られていました。

義経(牛若丸)は平泉の藤原秀衡のもとに旅立つ16歳まで鞍馬寺で過ごしました。
源氏再興の宿願のため、夜な夜な山中で剣術の稽古に励み、
森を駆け巡って早業を身につけました。
天狗が相手になったともいい、鬼一法眼から兵法を学んだとも伝えられます。

しかし剣術や早業だけでは真の武将にはなれません。弓と馬、馬の上から弓を射る
騎射の技術が必要ですが、鞍馬ではその訓練はできそうにありません。


鞍馬山毘沙門天の信者で参詣に訪れる金売り吉次から広大な牧野を駆けめぐる
駿馬の話を聞いた牛若丸は馬も弓も思い切り稽古できると迷わず平泉をめざしました。

奥州は名馬の産地です。特に岩手県北から青森県にかけての
糠部産の駿馬の名声は鳴り響いていました。

『アクセス』
「三嶋神社」 京都市東山区渋谷通東大路東入上馬町
市バス 東山線「馬町」下車、東へ200m 京都女子大の近くです。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
05年4月号「くらま」 (平泉郷土館館長大矢邦宣・平泉なぜ) 鞍馬寺発行






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京都市山科区御陵血洗町には、「義経の腰掛石」があります。
今は埋め立てられ住宅地や公園になってしまいましたが、
付近には「血洗池」、「義経刀洗池」、
「与市首洗い池」と呼ばれた池もあったそうです。

義経(牛若丸・遮那王)が奥州に向かう途中、この付近で
強盗に襲われ、血洗池で強盗を斬った刀を洗った後、
この石に腰かけてしばし休んだという伝承があります。
また、蹴上(けあげ)で平家の侍、
関原与市一党を斬り倒した刀を洗ったという説もあります。

京都薬科大学のグラウンド南端にある「義経の腰掛石」

グラウンドを出た所に公園があり、その傍に地蔵尊が祀られています。
昔、地蔵尊の背後には池があったそうです



鏡山小学校前

中世の東海道は江戸時代よりも南寄りで
腰掛石付近を通っていたという説もあり、
竹村俊則氏は「昔、東海道を往来した旅人が、牛若丸を偲んで
話し合ったことから生まれた伝説であろう。」とされています。
『アクセス』
「京都薬科大学グラウンド」地下鉄東西線御陵駅下車徒歩約12分。
グラウンドへは、駐車場から入らせていただきました。
『参考資料』
竹村俊則「京都伝説の旅」駿々堂 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター








 


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金売吉次とともに奥州へ下る義経(牛若丸・遮那王)一行は、
日ノ岡峠を越えて山科に向かいました。
当時、粟田口から山科へ抜ける日ノ岡峠の西の街道沿いは、
松並木になっていたため松坂と呼ばれていました。
現在の
ウエスティン都ホテルから蹴上浄水場かけての三条通辺りです。

遮那王(義経)が松坂にさしかかった時、この坂を下りてきた
平家の侍、関原与市重治はじめ一党九人がすれ違いざま、
水たまりの泥水を蹴りあげ義経の衣装を汚してしまったという。
怒った義経は金売吉次が止めるのも聞かず、九人を斬り殺しました。
蹴上という地名は、この故事に由来するという伝承があります。

日ノ岡峠の東の山科寄り(現・左京区蹴上の一部)は、
もと九体(くたい)町と呼ばれていました。
斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を
安置したのが町名の由来といわれています。

九体の石仏のうち六体はなくなりましたが、三体は街道付近に残っています。

地下鉄東西線「蹴上」から三条通り沿いに東へ行くと、
日向(ひむかい)大神宮の鳥居が建っています。
鳥居をくぐり参道を上ると、左手にインクライン疎水公園が見えます。
①公園内の祠には、大きな地蔵尊が祀られています。

花入れには「義経大日如来」と刻まれた文字が読みとれます。

②日向大神宮の鳥居から山科方向へ4、5分進むと
(2007年現在クリーニング店の東隣)
「天道大日如来」と書いた提灯を架けたお堂があり、
地蔵尊と小石仏が安置されています。

③残る一体は、国道沿いの九条山バス停付近の地蔵堂に安置されています。
足元にはやはり沢山の小石仏が置かれています。



錫杖を持つ地蔵尊

かつて日ノ岡峠付近には粟田口刑場があったので、
これらの石仏は実際には、
処刑された人の菩提を弔うために
作られたものではないかともいわれています。
また、
遮那王が奥州下向の際、源家再興と旅の安全を祈願したという
出世恵比寿神社が粟田神社境内にあります。

この社はもとは三条蹴上の粟田山夷谷にありましたが、
明治2年に移されました。
粟田神社出世恵比寿神社(義経が旅の無事を祈願した社)   
義経の腰掛石・血洗池(義経強盗に襲われる)  
『アクセス』
「日向大神宮 」京都市 山科区日ノ岡一切経谷町29
地下鉄東西線「蹴上」下車徒歩12分
『参考資料』

竹村俊則「京都伝説の旅」駿々堂 「京都市の地名」平凡社 
京都新聞社編「京都伝説の旅」河出書房
 
 


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