平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




旗山の麓、東北角に天馬石(小松島市芝生町)があります。
源平合戦で名を馳せた池月(いけずき)が天から舞いおりて石に化けたという
伝説の石で、馬の形をしたこの石にまたがると腹痛を起こすといわれています。




出陣に先立って、頼朝から梶原景季(かげすえ)は名馬磨墨(するすみ)を、
佐々木高綱は名馬池月(生食)を賜わり、川霧たちこめる宇治川に到着しました。
ここで有名な宇治川の先陣争いが両者の間で展開され、池月に乗った
佐々木高綱の計略により、梶原景季が遅れた隙に佐々木が川を渡り先陣を切りました。

天馬石から300mほど進むと、弁慶の岩屋(小松島市芝生町)と呼ばれる古墳があります。
6C後半につくられた土地の豪族の横穴式の古墳ですが、弁慶ほどの怪力でなければ、
こんな大きな岩を積み上げられないだろうということで名づけられました。

『義経記』によると、義経は兄頼朝と対立し、追われる身となった後、
ようやく辿りついた平泉で藤原泰衡に攻められ命を落としました。
その時、弁慶は自害する義経が籠る堂の前に立って薙刀を振るって戦い、
雨のような敵の矢を受け仁王立ちのまま息絶えたとされ、
「弁慶の立往生」として後世に伝えられています。



弁慶の岩屋は墓地の奥にあります。









弁慶の岩屋からさらに1.3kほど進むと、新居見城趾(小松島市新居見町)があります。
阿波に上陸した義経勢を屋島まで道案内をした近藤六親家の居城で、
当時、百騎余りの兵を養っていた山城趾です。
親家は兵を集めると二百余の軍勢は招集できたという地元の有力武士です。
鹿ケ谷事件により、西光(藤原師光)一族に対する清盛の追撃の難を逃れた
六男の親家は一時、阿波国板野郡に身を隠していました。

石碑がなければ城趾と気づきません。



くらかけの岩(小松島市新居見町山路・新居見城址から1k)
熊山城攻めのため進軍する義経が、戦いの前に春日神社の境内裏にある
大岩に馬の鞍を置いて休憩したといわれています。






新居見町の山麓を通って田浦に出ます。





くらかけの岩から2Kほど進むと、中王子(小松島市田浦町中西)の説明板があります。
義経はここから一気に勝浦川を渡り、勝利をつかんだとされています。

現在、その跡地は中王子神社になっています。

平氏政権下の阿波では田口成良(重能)が勢力を持ち、その活動範囲は阿波だけでなく
讃岐や伊予、畿内にまで及んでいました。成良の本拠地は桜間郷(石井町)ですが、
勢力拡大とともに、弟の桜間(庭)良遠が勝浦川下流の徳島市丈六町に
熊山城(一説には桜間城とも)を構えていました。
この城を屋島に行軍する途上の
義経軍に攻められ、良遠は城を捨てて逃げ、成良は阿波の本拠を奪われることになります。
良遠は簡単に敗れたことを恥じて屋島に逃げこまず行方不明となりました。
これにより義経勢が屋島に迫りつつあるということを平家軍に悟られることなく、
義経は屋島合戦の足場を固めることができました。
義経阿波から屋島へ進軍1  義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
  義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)     義経屋島へ進軍大坂峠越(板西城跡) 
『アクセス』
「中王子神社」勢合の碑から約10k。JR牟田線中田駅まで2.2km 徒歩約40分
中王子神社からドリームロードを400m余戻ると「田浦バス停」があります。
 ここからバスに乗り徳島駅まで約30分  徳島バス 088-622-1811

『参考資料』
「徳島県の地名」平凡社、2000年 「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994
奥富敬之「義経の悲劇」角川選書、平成16年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年
 現代語訳「義経記」河出文庫、
2004年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



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「源義経上陸の地」の碑から、のどかな田園風景を眺めながらドリームロードを進むと
八幡神社の扁額が架かる鳥居が見えてきます。



その先にある小高い丘が旗山で、頂上には6.7mの騎馬像としては
日本一の高さを誇る義経像があり、夜はライトアップされています。
上陸した義経勢が勢揃いし、士気を高めるために源氏の白旗を
掲げたことからこの丘を旗山とよぶと伝えられています。



義経の上陸した勝浦は、地形の変化により
今は海岸線が大きく変わっているようです。
小松島市田野・芝生町付近は、現在は陸地ですが、
当時は入海で、旗山(標高約20m)
は海に浮かぶ小島でした。

この辺は砂洲が発達していて船の接岸が容易であるため、
古くから義経上陸地の有力候補とされています。
田野町には勢合(せいごう)の碑や
源義経上陸地の碑が建ち、芝生町には旗山があります。



義経阿讃を征く
 新しい世の光をうけ、一一八五年天の時来る。嵐のなか、摂津渡辺の津から
海路二十五里、義経軍勢、中ノ湊の多奈に上陸、軍船勢合に集ふ。
芝生旗山に清淨と正々の白旗ひるがへる。

 渚にひかへし新居見城主近藤六親家、義経「ここは何処ぞ」親家「勝浦に候」と応へ
天神山の手勢を率ゐて先陣を承る。堂々の陣 田口良遠の熊山城を撃破して、
北山の東海寺から、あつり越へして国府に至る。
白鷺に導かれて 佳吉の吉野川を渡河し、金泉寺から阿讃の国境、松明を焚いて越ゆ。
 東讃引田の要津、馬宿の海蔵院に仮宿白鳥から朝霧ふかき田面峠、粛々と二隊に分かれる。
 熊野別当湛増率ゐる。水軍播磨灘に入る。志度 古高松 相引川 源氏が丘に
 戦機熟せり
白旗と赤旗入り交ふ天下分け目の屋島合戦
 三日にして 平家宗盛政権の本営落城
今 旗山 山頂 英雄義経の銅像威光 四方に耀る(碑文より)

 二00五年二月二十日 田村直一 撰文
平成十七年二月吉日  義経夢想祭の日 設置
  芝生 旗山  八幡神社 氏子一同  「義経」小松島PR協議会 
  寄贈 直永 田村直一  徳島市国府町西高輪一ニ九
 青山石材店 青山義明 (石碑背面より)



八幡神社の急な石段を上り右手に回り込むと、
凛々しい騎馬姿の義経像が目に飛び込んできます。

この像は義経が旗山に兵を集めたときの勇姿を描いたものです。
周囲には源氏の白旗が翻っています。





源義経公之像
この像は、源義経が元歴二年二月(一一八五年)一の谷の合戦の後、
屋島に本陣を構えた平家を討つため摂津国渡辺(現在の大阪市北区)を
嵐の中五隻の船に分乗して船出、ふだんであれば三日かかるところを
わずかな時間で阿波の勝浦に着いた。
そして、この地に源氏の白旗を標旗として掲げ軍勢を立て直した後、
地元新居見城を居城にしていた近藤六親家の兵を
先導役に屋島へ向かい、わずかの軍勢で背後より攻めた。
あわてた平家軍は海に逃れた。この奇襲戦により、戦況を有利に導いた源氏が
屋島の戦いで平家を破った。こうした史実を通して市民の郷土史への
理解を深めるとともに、これらを後世に伝えるため、 愛馬(大夫黒)に乗った
義経の銅像を製作し、ゆかりの地(旗山)に建立するものである。
銅像は尾崎俊二氏の寄贈によるもので、足元から頭までが五.三五.m、
弓の先までが六.七0mあり、現存する騎馬像のなかで日本一のものである。
この「源義経公之像」が永くふるさと小松島市の歴史を伝え、
市民の心に生き続ける事を願うものである。
平成三年七月吉日 小松島市長 (義経像説明文より)



八幡神社参道を上った右側にも、尾崎俊二氏奉納の神馬像があります。
義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
義経阿波から屋島へ進軍4(義経ドリームロード)  
『アクセス』
「旗山」小松島市芝生町宮ノ前 勢合の碑から5,3km 
徳島バス「芝生バス停」下車徒歩約7分 徳島駅まで約40分 徳島バス 088-622-1811

『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、2004年




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義経が阿波勝浦に上陸し、屋島に逃れた平家を追って小松島市内を
駆け抜けた道は、義経ドリームロードとして整備され、
勢合(せいごう)を起点として勝浦川沿いに佇む
中王子まで続きます。
およそ10キロの道のり
には、案内板や道標が設置され、
義経ゆかりの地名や伝説が残されています。


「源平合戦の元歴二年(1185)二月十八日 源義経は風雨の中を
散りぢりに着いた
軍船をここに集め勢ぞろいの後、屋島に向かう。」(碑文より)

阿波勝浦は現在の小松島市、義経上陸地点は、はっきりしませんが、
JR阿波赤石駅近くに勢合(せいごう)の石碑がたっています。
義経が漂着した船を集めたことからその名がついたといわれています

勢合の碑から義経ドリームロードを進み左折します。

道標に従い進むと、すぐ薄暗い森が見えてきます。
恩山寺への車の通行は不可。

四国のみち、歩き遍路の道です。

森は釈迦庵の跡で、その前に「弦張坂」の説明板があります。

平家方の田口成良が勢力を張る阿波国では、気を休めるわけにはいかなかったようです。

釈迦庵の横手からゆるやかな上り坂が800mほど続きます。

立江寺への道標、歩きへんろの道。

竹林を下って行くと敵がいないと分かって弦を弓から外して巻いたという
「弦巻坂」の説明板があり、傍には花折地蔵が祀られています。(勢合の碑から3、9キロ)





道標に従って坂を下ると牛舎横から車道に出ます。



すぐ先に弘法大師お手植えとも伝えられる「ビランジュ」が茂っています。
ビランジュの名はインドの毘蘭樹にあてたもので、
恩山寺が弘法大師ゆかりの地であることからそうよんでいます。

暖地に自生する常緑の高木で樹皮が次々に剥がれ落ち、
赤褐色の木肌があらわれることから、

ばくちに敗れ衣を剥がれるのに例えてバクチノ木ともいいます。

ここを上った先にあるのが、
四国霊場18番札所・恩山寺(真言宗)
です。

参道入口付近に義経上陸地の碑がたっています。
義経上陸の地の碑
「源平合戦の元歴二年(1185)二月十八日 
義経の軍勢は讃岐(屋島)に逃れた平家を討つため
 折からの暴風に乗じて摂津(大阪)の渡辺の浦より
船を進めこの地に上陸した。」(碑文より)


義経がここに上陸したとすれば、当時、このあたりは
海岸線だったということになります。

現在、この石碑は海岸線からかなり陸地に入った山沿いにあります。

このことについて小松島市役所産業振興課に問い合わせたところ、
次のようなお返事をいただきました。
「地図や文献等では確認できませんでしたが、義経上陸の石碑あたりは、
海岸線だったと伝えられています。
より南方の田野町の
天王社(神社)付近に「白砂」という地名が残っており、
その辺りからずっと海岸であったといわれています。」

義経の上陸地を『平家物語』は阿波勝浦とし、
『源平盛衰記』の諸本の中には、
「はちまあまこの浦(八万尼子の浦)」(勝浦川河口か)とし、
『吾妻鏡』では「椿浦」としています。
椿浦(徳島県阿南市椿泊)は小松島市のずっと南方に位置し、
屋島に進軍するには、遠回りしすぎと思われます。

菱沼一憲氏は義経を道案内した近藤親家が津田島の領主であったことから

「義経の上陸地は津田港である」と推定されています。
しかし上陸地を勝浦川の河口にある津田港(小松島市津田町)とすると、
地元に伝わる伝説と齟齬が生じてしまいます。
義経阿波から屋島へ進軍1   
義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)  
『アクセス』
「勢合の碑」小松島市田野町 JR牟岐線「阿波赤石駅」から徒歩2分
『参考資料』
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年 
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略-その伝説と実像」角川選書、平成17
新定「源平盛衰記」(巻5)新人物往来社、1991
 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、
2008

 



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元暦2年(1185)2月17日、義経は屋島にこもる平家を討つため、
僅か150余騎で荒れくるう雨風を押して渡辺の津を船出し、
3日かかるところをわずか6時間で阿波の勝浦に渡ったといいます。

上陸すると海岸には平家の赤旗が翻り、百騎ほどがひかえていましたが、
義経勢に蹴散らされ、大将の近藤六親家(ちかいえ)は捕えられました。
親家からこの地の名が勝浦(現在の小松島市)であると聞くと、
義経は縁起のいい名に喜び勇みます。

近くに平家方の田口成良(重能)の弟、桜間良遠(よしとお)の
拠点があることを聞きだし直ちにその城を攻め落とし、
さらに成良の嫡男の田内教能(でんないのりよし)が源氏方の
河野通信を討つため三千騎を率いて伊予に出陣しているので、
屋島は手薄であると教えられます。
これをチャンスとみた義経は、休む間もなく夜通し駆け屋島の
背後に着きました。(『平家物語・巻11・勝浦合戦の事』)

物語は上陸地の名も屋島を守る軍勢の人数も
義経が知らなかったとしていますが、
義経の阿波上陸は、平家に深い恨みをもつ親家との
密接な連携のもと、平氏勢力の田口氏の本拠を討ち、
屋島を背後から攻めようという意図があったと思われますし、
田内教能が伊予に出陣中で
、屋島に残っている軍勢が少ないという
情報も手に入れ、周到な準備をしていたと考えられます。
義経の迅速な行動を支えたのは、親家の協力があったからです。

屋島へ義経を道案内した近藤六親家は、
西光(藤原師光)の子とされています。
西光はもとは阿波の在庁官人でしたが、後白河院側近の
信西の家来となってから頭角を現し、
平治の乱で信西が殺された後、後白河院の近臣に転じ、
きり者とうたわれ権勢を誇っていました。
治承元年(1177)、平氏に対する反感が次第に高まり、
後白河院近臣による鹿ケ谷事件が起こります。
この謀議に加わり捕われた西光は斬殺されました。

それでも清盛はおさまらず、西光の子ら(師高・師経・師平)を処刑し、
田口成良に命じて阿波郡柿原(現・阿波市吉野町柿原)にいた
四男の広長まで攻め自害させました。この時、
六男の親家も柿原にいましたが、難を逃れ板西城に潜みました。

親家も阿波の在庁官人ですが、「治承三年(1179)の政変」で
清盛が軍勢を率いて後白河院を鳥羽離宮に幽閉し
京都を制圧、院政を停止させて以後、阿波国在庁は
平家方の田口一族が掌握し、近藤氏は逼塞していました。


義経が阿波勝浦から一気に北上して讃岐の屋島に攻め寄せた道は、
義経街道と呼ばれています。

中でも小松島市田野町の勢合(せいごう)を起点として、
小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約10キロメートルは
「義経ドリームロード」と称され、案内板や道標が設置され、
ハイキングコースになっています。


義経軍が阿波に上陸後、あちこちに吹き寄せられた軍船を集めて
兵たちが勢ぞろいした場所にたつ勢合の石碑。

近くには義経橋や弁慶橋などの伝説地が点在しています。
義経が屋島へ進軍したという義経ドリームロードを少し外れ、
寄り道して義経橋を渡りましょう。

勢合の碑から義経ドリームロードを進み、
水路に沿って義経橋を目ざします。

平成七年に架けられた義経橋



渡辺の津(義経屋島へ出撃) 
義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード) 
義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)  
『アクセス』
「勢合」小松島市田野町 JR牟岐線「阿波赤石駅」から徒歩2分

『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年 元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略-その伝説と実像」角川選書、平成
17
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 五味文彦「源義経」岩波新書、2004
「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年 県史36「徳島県の歴史」山川出版社、2007



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大山祇神社の宝物館には、全国の国宝・重要文化財の指定を受けた武具類の
約八割が保存され、全国神社に類を見ない一大宝庫となっています。
大部分は南北朝から室町時代にかけてのものですが、源平時代の河野一族はもとより
頼朝・義経・義仲・平重盛などの奉納品も多くあります。これは源平両首脳が
河野(三島)水軍にいかに期待をかけていたかを物語っています。
中には斉明天皇奉納の唐代の禽獣葡萄(ちんじゅうぶどう)鏡(国宝)や
室町時代の三島水軍鶴姫の女性用の鎧(重文)、村上水軍の武将が詠んだ
法楽連歌(連歌懐紙は重文)なども展示されています。法楽とは神仏を慰める意味です。
館内を見て回ると歴代武将たちから奉納されたおびただしい武具類が次々に現れ、
彼らのエピソードを思い出させてくれます。

ここで宝物館内で一族の名が最も多く見られる
河野氏の興亡を源平合戦を中心にして
見てみましょう。
瀬戸内海では9C後半から海賊が出没し、京へ送られる官物が奪われるという
事件が度々起こり、政治問題となっていました。白河上皇さらに鳥羽院に
海賊退治を命じられた忠盛(清盛の父)は海賊追討のかたわら、職権を利用して
瀬戸内海を制圧し、伊予河野・越智・阿波田口氏など西国水軍を麾下におき、
勢力を拡大しながら富を蓄えていきました。

河野氏が確実に史上に登場するのは源平争乱期からです。平安時代末期、
平氏の傘下にあった河野氏ですが『平家物語・巻6・飛脚到来の事』によると、
木曽で義仲が謀反を起こし、九州でも緒方惟義始め、臼杵、戸次、松浦党などが
平家を裏切ったという飛脚が到来して皆が驚き呆れている中、
今度は伊予から「伊予国住人河野四郎通清が平家に叛き源氏に味方したので、
備後国(広島県)の豪族西寂らが伊予国に攻め渡り、
高縄城(松山市)で通清を討ち取った。」という知らせが都にもたらされました。
この時、通清の子通信は伊予を留守にしていたのです。
瀬戸内海を舞台とした海戦、源平合戦には両陣営とも、船戦に長けた
河野(三島)水軍を味方に引きいれることに必死で、河野通信のもとに
何度も使者が走りました。通清の代から反平氏に傾いていた河野氏は
讃岐志度合戦、壇ノ浦合戦に兵船を率いて義経軍に味方し活躍します。

平氏追討に貢献した河野通信は、奥州合戦にも従軍し、北条時政の娘を
妻に迎えるなど、幕府中枢に深く結びついていきました。後鳥羽天皇が
承久の乱を起こすと、通信もこれに呼応して伊予で兵を挙げましたが失敗、
所領の多くを没収され苦境に陥りました。一族のうちでただ一人
幕府方についたのが母が時政の娘であった通信の子の通久です。
以後河野氏は通久の系統を中心に一族の再興を図っていくことになります。
蒙古襲来の際、志賀島合戦でめざましい働きをしたのが通久の孫の通有でした。
『八幡愚童訓』によると、通有は負傷しながらも敵の船に乗り移って奮戦し、
散々に敵の首を斬りとり、大将を生捕りにしたとあり、通有の豪胆さは
後世にまで語り伝えられることになります。通有はこの戦乱の後、
多くの所領を与えられ、一時衰退していた河野氏の勢力を復活させました。
予備知識はこれ位にして宝物館の中に入りましょう。
宝物画像はすべて『大山祇神社』より、引用させていただきました。

宝物館・海事博物館へ



一遍上人奉納の宝篋印塔の右奥に宝物館(紫陽殿・国宝館)の入口が見えます。



紫陽殿


 伝義経奉納 赤絲威鎧・大袖付(国宝
若武者らしい華やかな茜染の赤糸で威した鎧です。
源平合戦後、佐藤忠信を使者として奉納したもので「八艘飛びの鎧」とよばれます。

ほとんどの鎧がそうなのですが、縅(おどし)毛は朽ち、
わずかな色糸で判別するだけです。

平氏が滅びると、義経は頼朝の推挙によって伊予の守となりました。

紫綾威(むらさきあやおどし)鎧・大袖付(国宝)
重厚で格調高い頼朝奉納の鎧です。
 

紺絲威鎧・兜・大袖付(国宝) 
紺色で統一された河野通信奉納鎧は鉄・革の平札(ひらざね)を
一枚まぜに、幅広で厚手の紺糸で威してあり、日本三大鎧の一つです。
源平合戦戦勝のお礼に奉納したものです。


義仲奉納の素朴な薫紫韋威(ふすべむらさきかわおどし)胴丸・大袖付(重文)
平家一門を都落ちさせた後、義仲は河野通信に源氏に味方するよう
この胴丸を社前に奉納したと伝えています。

歴代の源氏の武将には、義経の他、経基・満仲・頼光・頼信・頼義・義家・為義・義朝
義仲と
伊予の守に就任する者が多く、源氏と伊予とのつながりの深さが知られます。

伝平重盛奉納の白鞘柄の豪華な螺鈿飾(らでんかざり)太刀(重文)

小松内大臣伊予守重盛奉納  亀甲繋散蒔絵手巾掛(重文)
亀甲蒔絵を施した貴族の調度品です。

平重盛奉納 銅製水瓶(重文)
獅子鈕(ぼたん)のある蓋があり、端正で雄大な感のある宝物です。

河野通信奉納  革包太刀 銘恒真(重文)
平安時代末期の備前国の恒真作の実戦的な太刀です。

伊予守義経奉納  薙刀(重文)
先幅やや広く反りの浅い大薙刀

伝武蔵坊弁慶奉納  薙刀(重文)
京都で義経に出会った弁慶は、義経の強さに感服し最後まで献身的な家臣として
仕えたとされていますが、『平家物語』では、義経の身辺を守る
従者の一人としてしか記されず、実像は謎に包まれています。

和田小太郎義盛奉納  革箙(重文)箙とは矢を入れて背に負う道具。
義盛は三浦氏の一族で頼朝の挙兵に参加し、頼朝の武家政権が
つくられると
初代侍所別当に任じられました。

河野通有奉納 萌黄綾縅(もえぎあやおどし)腰取鎧・大袖付(重文)
平小札を一枚交ぜに、萌黄綾と異色綾を腰取に威しています。
『蒙古襲来絵詞』には、竹崎季長と河野通有父子の陣中対面の図が描かれています。

河野通有奉納 黒漆塗革張冑鉢(重文)
樫実形二重革張の冑鉢で、蒙古軍から奪い取った中国元時代の武将の冑です。

 宝物館に隣接する大三島海事博物館は、昭和天皇の海洋生物御研究のための
御採取船「葉山丸」を記念して建造されたものです。
葉山丸はじめ瀬戸内海を中心とした動・植物の標本類、水軍関係・海事関係資料と
共に全国の鉱山から奉納された代表的な鉱石類も多数展示されています。
 
 「紫陽殿・国宝館・海事博物館」 
共通拝観料大人千円 大学生・高校生800円 中学生・子供400円  
    開館時間 午前830分~午後5時(但し入館は午後430分迄)無休 
大山祇神社1  
『参考資料』
「大山祇神社」大三島宮 大山祇神社発行、平成22年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年
 「検証日本史の舞台」」東京堂出版、2010年 「愛媛県百科大事典」(上)愛媛新聞社、1985年
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 県史38「愛媛県の歴史」山川出版社、2003年

 



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