平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




由岐神社から800mほどで鞍馬寺本殿金堂に至ります。
鞍馬寺の中心道場で770年鑑真の高弟鑑禎(がんてい)がこの地に
草庵を造り
毘沙門天を祀ったのが始まりといわれています。

本堂金堂では、6月20日に竹伐会(たけきりえ)式が行われます。
僧兵に扮した鞍馬法師が山刀で太い青竹を五段に伐り、
各4人が東西にわかれて切断の速さを競って
その年の作物の豊凶を占う千年以上も続く行事です。

奥州平泉で自刃した義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬山に戻ったとされ、
毎年9月15日には義経の霊を慰める義経祭が催されています。

金堂からは比叡の山並みが一望できます。
奥の院参道
金堂の横から奥の院へここからもさらに上り坂

鐘楼 奥の院参道を過ぎてすぐ。
山並みを見下ろして鐘を突きます。

 



ある夜、正門坊と名乗る僧が現れ、牛若丸が清盛に敗れた源義朝の
子であることや兄の頼朝が伊豆の国に流されていることなどを語りました。
自分の素性を知った牛若丸は、この日を境に平家討伐を一途に思い、
いよいよ武芸に励むようになりました。

東光坊が夜な夜な寺を抜け出る牛若丸に不審をいだき
後をつけさせると、四方の木を「平家一族」
一本の大木を「清盛」と名づけて切りつける姿がありました。
これを知った東光坊は驚き牛若を出家させようとしましたが、
牛若が嫌がるので思いとどまり、厳しく監視し
名を「遮那王(しゃなおう)」と改めさせました。
正門坊とは、牛若丸の父義朝の郎党・鎌田二郎正清の子で
僧となり正門坊を名乗っていました。
 

義経公息次ぎの水

牛若丸は毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修行に
通ったとき、
この清水を汲んで喉をうるおしたという。
八百年後の今も湧きつづけている。(駒札より)

源義経公背比石
遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修業をしていた

牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に
下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。
波乱に富んだ義経公の生涯は、
この石に始まるといえよう。 
「遮那王が 背比べ石を 山に見て
わがこころなほ 明日を待つかな 」與謝野 寛(鉄幹)
(駒札より)

 
石の高さは1・2mほどしかなく
牛若丸は小柄だったようです。

大杉権現社 樹齢千年近い大杉の木の根道、
ここにある 古木の大杉を神木とし
大杉権現」の名で信仰する人々が
多くいます。
木の根道 砂岩が硬化して杉の根が地下に入ることができず、
地面に出て這い絡み合い珍しい 景観をつくっています。
根を踏まないように!との注意書き
 
鞍馬寺1(牛若丸)  鞍馬寺2(牛若丸) 
鞍馬寺4 (牛若丸)  


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 「僧正が谷(そうじょうがたに)不動堂」
「堂内の不動明王は比叡山開祖伝教大師がここに参篭なさったときお刻みになったと伝えられる。
また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台は、このあたりであるという。」(説明板より)
 
謡曲『鞍馬天狗』の舞台です。

義経は奥州衣川で自害しましたが、鞍馬寺では、その魂は鞍馬山に
戻って来たと信じられ、遮那王尊として義経堂に祀られています。

僧正が谷不動堂の向かいに建つ「義経堂」
「歴史には文治五年(1189)四月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂は
この山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。
 この義経堂には遮那王尊をおまつりする。」(駒札より)
                    
  鞍馬寺不動堂の辺一帯
  鬱蒼とした杉の大木が聳え立つこの辺りを僧正ヶ谷といい、
  ここで牛若丸が鞍馬天狗に出会い、夜ごと剣術や兵法の修行に励んだとされる場所で、
  山深く、神秘的で独特の雰囲気が感じられます。しかもこの奥には奥の院魔王殿が鎮座しています。

  護法魔王尊が祀られている奥の院魔王殿
650年前に金星から降臨したとされる魔王像を安置しています。
巨大な岩盤は古代の磐座(いわくら)信仰のものです。
「魔王殿」を過ぎれば鞍馬寺西門まで杉林の中、九十九折の坂道を下ると
やがて貴船川のほとりに出ます。鞍馬寺
西門近くの道ばたに祀られているお地蔵さん。
貴船川に架かる奥の院橋  鞍馬寺の西門を出て貴船神社へ
貴船神社(京都市左京区鞍馬貴船町180)
京都鴨川の水源地貴船で水の神を祀る神社です。
鞍馬で修行中の牛若丸が、夜な夜なこの社に通い、
源家再興を祈って願掛けを
したと伝えられています。
鞍馬寺本殿金堂からこの社まで40~50分あります。

叡山電車鞍馬駅から貴船神社まで
歩きましたが、貴船神社~鞍馬寺西門と
逆のコースを歩くこともできます。
貴船神社」は、叡山電車 貴船口駅下車
貴船川に沿って徒歩約30分です。
このコースは、あまり歩きなれていない人には
お勧めできませんが、帰りに鞍馬駅付近にある
おみやげやさんで買い物ができます。
シーズン中は、貴船神社⇔貴船口駅まで
バスも運行しています。

鞍馬寺1(牛若丸)  鞍馬寺2(牛若丸)   鞍馬寺3(牛若丸)




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鞍馬山は京都盆地の北に位置し標高584m、
その中腹にある鞍馬寺(左京区鞍馬本町1073)の
本尊毘沙門天は、平安京北方鎮護神として崇められました。
またこの毘沙門天が戦いの神であることから、
武将の篤い信仰を集めました。

鞍馬は牛若丸が7歳から鞍馬寺を出る16歳まで過ごした所で、
『義経記(ぎけいき)』による牛若丸伝説発祥の地です。
本殿裏から奥の院への山道には、牛若丸が武芸に励んだという伝説があり、
牛若丸背比べ石や義経息次ぎの水など、義経の足跡や遺跡が数多く残っています。
毎年9月15日には、義経を偲ぶ「義経祭」が催されます。

叡山電車「出町柳駅」から「鞍馬駅」まで30分ほどで到着します。
京都市街からだと、京阪電車と叡山電車を乗り継いで
1時間たらずで終点鞍馬駅です。
駅を出ると天狗の面が参拝者を歓迎してくれます。

牛若丸は、平治元年(1159)に父源氏の棟梁源義朝と
もと九条院(近衛天皇の中宮呈子)の雑仕女(ぞうしめ)であった
常盤との間に3人目の子として生まれました。
その年の12月、義朝は平治の乱で平清盛に破れた上、
東国めざして逃げる途中、尾張国内海荘で
家人の長田忠致(おさだただむね)に騙し討ちにされました。

常盤は7歳の今若・5歳の乙若・生まれたばかりの牛若を連れて
大和の宇陀郡龍門牧に住む伯父のもとに逃れましたが、老母が平家に
捕まり厳しく尋問されていることを知り、
六波羅に自首したという。

清盛は常盤と3人の子供の命を助け、子供が幼少であるということで、
出家を条件にそのまま都に住むことを許しました。
常盤は清盛に囲われる身となり、清盛との間に娘を1人もうけましたが、
のち大蔵卿一条長成(ながなり)の妻となり、2人の子を生んでいます。
そのうちの長子の能成(よしなり)は、義経が頼朝に
追われる身となった時、その逃亡を助けています。
3人の子供のうち、今若は醍醐寺、乙若は
園城寺に入り僧となりましたが、生まれて間もない
牛若は常盤の手元で育てられます。その後は
山科に隠れ住む源氏ゆかりの者にあずけられ、
7歳の時に鞍馬寺の別当東光坊・
阿闍梨蓮忍(れんにん)のもとに稚児として入り、
日夜、経を読み学業に励みました。
駅から200mほど進むと、朱塗りの仁王門が建っています。
仁王門を入ってまもなくケーブルの山門駅があります。
終点多宝塔前まで(所要2分)ですが、シーズン中は
時間待ちのほうが長いので、あまりお勧めできません。
もと天台宗の大寺でしたが、昭和24年(1949)、鞍馬弘教(こうきょう)の
総本山として独立しました。本尊は魔王尊・毘沙門天・千手観音。


仁王門をくぐって階段を上ると、
鬼一法眼を祀る鬼一法眼社があります。
鬼一法眼は一条堀川に住んでいた陰陽師で
牛若丸に兵法を教えたといわれる伝説上の人物です。
後年、奥州から京に戻った義経は、鬼一の娘の助けを借り、
兵法指南書「六韜(りくとう)」を手に入れ、
それを暗記したと
伝えられています。
当時、兵法指南書を伝授された者は、
超人的な力が得られると信じられていました。


鬼一法眼社 魔王の滝の鳥居
魔王の碑(鞍馬山は魔王尊が降り立った所)                             鬼一法眼社手前のお地蔵さん

鞍馬寺2(牛若丸)  
鞍馬寺3(牛若丸)
鞍馬寺4 (牛若丸)


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鬼一法眼社から2、3分進むと、九十九(つづら)折参道入り口に
天狗みくじで知られる由岐(ゆき)神社の拝殿が見えてきます。

天慶3年(940)創建、鞍馬の産土神として御所から勧請されました。
毎年10月22日に行われる「鞍馬の火祭」は、この社の祭礼です。
拝殿は中央が通路となっていることから
「割(わり)拝殿」と呼ばれ、崖にのぞむ舞台造です。
豊臣秀頼により慶長12年(1607)に再建。(国重文・桃山時代)
拝殿をくぐると上方に本殿があります。
お賽銭箱の左手に天狗みくじ 
由岐神社を過ぎると、左手の石段の上に義経の大きな供養塔が見えます。
牛若丸は父・義朝の祈祷の師であった東光坊阿闍梨蓮忍(れんにん)に
7歳で預けられ、東光坊で十年近く暮らしたといわれています。
ここは鞍馬寺別当東光坊阿闍梨の坊跡とされ、
牛若丸は毎晩ここから奥の院まで剣術の修行に出かけたという。

義経公供養塔

「八百年余り前、牛若丸が遮那王と名乗り、
七歳の頃から十年間、
昼は学問、夜は武芸に励んだときに住まいした
東光坊の旧跡である。義経公をしのんで、
昭和十五年に供養塔が建てられた。」(駒札より)


義経供養塔を過ぎると、九十九(つづら)折れと
呼ばれる急な曲がりくねった
坂道が
続きます。
清少納言の「枕草子」に「近うて遠きもの」の中に
鞍馬の九十九(つづら)折れと書かれている道です。


やがて右手に転法輪堂が続いて光明心殿が
見えてきました。


転法輪堂、光明心殿です。
鞍馬駅からここまでゆっくり歩いて40分位です。
鞍馬寺1(牛若丸)  
 鞍馬寺3(牛若丸鞍馬寺4 (牛若丸)
 


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吉野山の桜が歌に多く詠まれるようになったのは、平安時代からで
その桜を有名にした一人が
西行法師(1118~1190)です。
吉野の桜を愛し多くの歌を残しました。

平安時代末期の貴族社会から武家社会にかわる政治的転換期、
保元の乱の火種が大きくなり始めた保延6年(1140)頃に出家して西行となり、
義経が衣川で自害し、頼朝が奥州を平定した後、72才で没しています。
従って平家の隆盛と衰亡の一部始終を、目の当たりに見て過ごした訳です。

   

保元の乱で敗れた崇徳上皇やその母
待賢門院とは
深い繋がりがあり、
平清盛や源頼朝等とも交流がありました。

俗名佐藤義清、和歌山県那賀郡打田町生?
佐藤家はむかで退治で知られている藤原秀郷
(俵藤太)の流れをくむ武門の家柄で、
社会的には下級官吏でしたが
広い荘園を有する富裕な家でした。
母は源清経の女(むすめ)で祖父清経は
今様や蹴鞠の名手として有名であり
当時知られた風流人でした。

文武の血が西行に受け継がれて
いった
ということになります。
18歳から北面の武士として鳥羽院に
仕えましたが(平清盛とは同年同職)

23歳で京都の勝持寺で突然出家し、
円位、西行と称し一株の桜を植えました。
人々はその桜を西行桜と名づけ、寺を
花の寺とよぶようになりました。
出家の原因は厭世説、政治原因説
鳥羽上皇の中宮であった待賢門院璋子への
恋ゆえと
いう説もありますが謎とされています。
何不自由のない佐藤家の嫡子が若くして
出家したことは当時大変驚かれました。
出家後京都の周辺に居住して東山や嵯峨に
庵を
結び鞍馬にも足を運び
修行に
励んでいました。
29歳頃奥州の旅に赴き
能因法師の足跡をたどります。
後芭蕉が西行を慕って奥州を旅したとも
いわれています。(奧の細道)
以後30年ほど高野山を拠点に諸国を遍歴。
壮年時代吉野に庵を結び3年間を過ごし
大峰奧駆道修行をします。
熊野・中国・四国にも旅し
各地で数々の歌を詠みました。

(北面の武士)
御所の警備・行幸の際の皇家を司る武士
詰所が御所や鳥羽殿の北にあったので
こうよばれました。

(保元の乱)1156年
崇徳上皇と弟後白河天皇が皇位継承を
巡って皇族、公家、武士、肉親同士が相争う
戦いを
起こしました。
吉野山西行庵
横270cm奥行180cm
高さ65cmばかりの庵です。
西行庵から奧駈道に戻り青根ヶ峰を目指します。
苔清水
西行庵近くにある岩間より流れくる清水

”とくとくと落つる岩間の苔清水
汲みほすまでもなきすみかかな”西行

芭蕉もここで
”露とくとく試みに浮世すすがばや”
と詠んでいます。
昭和45年まで女性の入山を拒んできた
女人結界の碑。
この前を通り過ぎ青根ヶ峰へ
標高858mの頂上に着きました。
登山者が残していったのでしょうか
登頂記念の札がぶら下っています。

木々に囲まれて景色は望めません。
この先も熊野に向かう奧駈道が続きます。
      『アクセス』
近鉄電車「吉野駅」下車青根ヶ峰まで約8㎞ 徒歩約3時間        
   又はバス15分奧千本下車 徒歩約1時間30分。

系図は佐藤系図より、地図は吉野山ハイキングマップより
お借りしたものに一部文字入れさせていただきました。

佐藤氏は藤原秀郷より六世の孫公清にはじまり、
公清の官名が左衛門尉であったため左衛門尉の左をとって
佐藤と称したといわれます。
西行法師を平安時代末~鎌倉時代始の人とする説もありますが、
鎌倉時代の始まりを頼朝が幕府を開いた時(1192年)とする
一般的な説に従わせていただきました。


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