平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




神戸市平野区の祇園神社からすぐのところ、江戸時代末期に海軍操錬所を開設した
勝海舟寓居跡の隣に
「元暦(げんりゃく)元年の五輪塔」の案内板があります。

有馬道(R428)から東へ

説明板に「この門は清水観音堂(室町時代~昭和3年)があった当時の参拝門です。
江戸時代後期のもので神戸市内でも貴重な現存物です。
静かにお通り下さい。」と書かれていますが…
声をかけても応答はありません。
門には表札がかかっていますから、
どなたかが住んでおられるのでしょうがお留守のようです。


元暦元年(1184)といえば、源平一の谷合戦があった年です。
多くの平家の公達が討たれ、平家一門は屋島へと敗走しました。
図書館でこの五輪塔について調べてみましたが、わからず
ネットで検索すると幾つかの情報が得られました。
それによると、
2012年5月、勝海舟寓居跡とともに清水観音堂の参拝門も解体され、
十軒ほどの住宅が建設され、五輪塔はそのうちの一軒の
裏庭の奥に祀られているそうです。このように神戸の町は
都市化が進む中で、小さな祠や塚はしだいに見つけにくくなっています。

「ひらの塾」事務局のサイトには、元暦元年五輪塔の画像とその説明があり、
この画像をお借りしようと連絡しましたが、現在この電話は使われていないとのこと。


 「元暦元年の銘のある五輪塔二基が安置されており、
源平合戦で源氏に討たれた平家の公達の供養塔だと思われます。」
(お問合せ先)手づくりのまちおこしやん「ひらの塾事務局 TEL.078-361-3020」
「元暦元年」の銘が伝承の古さを物語っています。

源平一の谷合戦に討たれ給ふ人々、越前の三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、
武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、
大夫敦盛、以上十人のしるし都へ入る。(『平家物語・小宰相身投ぐる事』)
 清房は兄知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備しましたが、
範頼軍に陣を突破されると、従兄弟の経俊、義弟の清定とともに
三騎で敵陣に突入し、散々に戦い敵を数多討ち取った末に討ち取られました。
淡路守清房は清盛の八男、尾張守清定は清盛の養子です。

一の谷合戦で討たれた平家の公達の墓や塚は次の通りです。
清盛の弟、薩摩守忠度
薩摩守忠度の最期(腕塚堂)
平教盛(清盛の弟)の嫡男通盛(みちもり)
平通盛と小宰相の墓(願成寺)  
通盛の弟、業盛(なりもり)
平業盛の塚(善光寺神戸別院)
平知盛の嫡男、知章(ともあきら)
平知章の墓 (明泉寺) 
平重盛の五男、師盛(もろもり)
平師盛の墓(石水寺) 
平経盛の嫡男琵琶の名手経正
明石市源平合戦の史跡馬塚(経正最期)
経正の弟、経俊
平経俊の墓(鎮守稲荷神社)
経正の弟、笛の名手敦盛
敦盛最期(敦盛塚)

追記(2017年10月10日)元暦元年の五輪塔
(平野商店街振興組合サービスステーション 平野史跡マップより)

「元暦元年(1184)は一の谷の戦いで潮音山上伽寺が焼失し、
また多くの平家公達が討たれて
平家が屋島へ敗走した年です。
このことを後世の人が憂い、南北朝時代に建立した供養塔と伝えられています。
現在は民家の中に設置されています。このお宅は江戸時代末期に、
海軍操練所を開設した勝海舟が仮の住まいとしたところです。」
  『アクセス』
「元暦元年の五輪塔」神戸市兵庫区五宮町26-9  
JR三ノ宮駅またはJR神戸駅から 神戸市バス「五宮町」下車すぐ

『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社

 



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平家一門の福原の邸宅は六甲山系が迫る山の手、
兵庫区北部の平野から荒田町へかけてと、氷室町から夢野あたりにありました。
湊山小学校の北方、福原京を見下ろす位置に祇園神社があります。

社伝によれば、清和天皇の時代、都の疫病を鎮めるため、
貞観11年(869)姫路市の広嶺神社より「牛頭(ごず)天王」(素盞嗚尊)の
分霊を京都八坂神社に移す途中、その神輿がここで一泊したといわれ、
これを記念して社殿を建立したのが始まりとされています。
神社の西側には、牛頭天王にまつわる
天王川、天王橋、天王谷、天王谷川などの地名が残っています。

清盛はこの神社の裏山に潮音山上伽寺(ちょうおんさんじょうがじ)という
天台宗の寺を建立し、そこで波音を聞きながら
経ヶ島築造計画を練ったと伝えられています。


社の傍らを北上する有馬道(R428号)は、有馬温泉へと続く街道です。

長くて急な階段を上ると、南に広がる神戸市街が一望できます。

88段の石段を上ると

本殿
祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
例祭日 六月七日、
祇園祭(7月13日~20日)は疫病・風水害など
不慮の災難を除く祭りとして毎年盛大に行われています。


眼下には有馬道が通っています。
今はビルばかりになってしまい、当時を偲ばせるものは何もありません。
清盛はここにどのような都を築こうとしたのでしょうか。


『アクセス』
「祇園神社」神戸市兵庫区上祇園町12−1 三宮駅から神戸市営バス7系統

バス停「平野」下車 すぐ東の平野交差点から北へ徒歩4、5分
『参考資料』

高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社選書メチエ 「兵庫県大百科事典」(上)神戸新聞出版センター 
兵庫県の歴史散歩編集委員会編「兵庫県の歴史散歩」山川出版社 
歴史資料ネットワーク「地域社会からみた源平合戦」岩田書院

「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店





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大山咋(おおやまくい)神社は、石井川上流の石井橋北東の山王町にあります。
かつてこの地は山間の林でしたが、戦後、住宅地となり社のすぐ傍まで住宅が迫っています。

祭神の大山咋命は山を支配する神様で「山王さん」と呼ばれ、
山王町は山王さんに由来する町名です。


一、御社名 大山咋神社(おおやまくいじんじゃ)
一、御祭神 大山咋尊(おおやまくいのみこと)
      素盞雄尊(すさのおのみこと)
          一、御神徳 山の守護神、滋賀県の日吉神社の御祭神と同一であります。
一、御祭日 例祭五月四日 五日  秋祭十月四日 五日
一、御由緒  創立年月不詳なるも第四十五代聖武天皇
神亀年仲(皇紀1384年)の勧請にて其の後
治承年間(皇紀1837年)平清盛福原遷都に際し五条大納言邦綱に
雪御所鎮護のため再建造営なさしめたと伝えられ、
古くより、日吉山王の社 として崇敬されております。
兵庫区山王町一丁目六ノ五 大山咋神社社務所



住宅が両側から迫った小さな社です。

拝殿

摂関家をしのぐ権勢を手に入れた清盛は、比叡山の鎮守日吉神社の参詣の際には、
平家一門はもとより、公卿たちを大勢お供に連れて行きました。
その壮麗さは摂関家の人たちの奈良の春日大社、宇治の平等院詣などは足元にも
及ばなかったと「巻6・経の島の事」は語っています。南都焼討では
東大寺・興福寺などを焼いてしまいましたが、本来の清盛は神仏を大切にしていたのです。

大山咋神社を造営した五条大納言邦綱は、藤原北家の流れを汲む下級貴族で、
始めは藤原忠通に、忠通の死後は清盛に仕えます。
なかなかのやり手だったようで諸国の受領を歴任して得た財力で諸殿舎を造営し、
その功により45歳で公卿、さらに正二位大納言にまで昇りつめました。
娘たちは六条・高倉・安徳天皇や建礼門院らの乳母を務め、
安徳天皇の乳母となった藤原輔子(すけこ)は平重衡(清盛の5男)の妻となり、
のち寂光院入りした建礼門院に仕えました。

現在の京都御所は南北朝時代に皇居となりましたが、
もとは邦綱の土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があった所で、
短期間ですが六条・高倉天皇の御所として提供していました。
京都市東山区の小松谷正林寺の東、渋谷通り南には邦綱の山荘若松亭があり、
江戸時代中期まで、この山荘内にあった若松池の一部を残していました。
現在、池は跡形もありませんが、この地を清閑寺池田町とよんでいます。
平重衡を総大将とする南都攻撃に当たって、平家の軍勢が
この邸に集結したといいますから、かなり広い山荘だったようです。
邦綱の寺江の別荘は神崎川の河口にあり、福原への中継点として厳島御幸の
高倉上皇や安徳天皇他多くの要人が訪れ、川から直接邸内へ船に乗ったまま
入ることができる立派な建物であったと『高倉院厳島御幸記』にあります。
また「宇治河の亭」とか「宇治の新亭」などと呼ばれた邦綱の福原の邸宅は、
宇治川の畔、
熊野神社(中央区中山手通7丁目)の辺と推定され、

この社も邦綱によって再建されたと伝えられています。

頼朝・義仲の挙兵、四国・九州でも反平家の挙兵が相次ぐ中、
清盛が没すると、後を追うように邦綱は亡くなりました。
二人の病名は
マラリアではなかったのかといわれ、邦綱が同時に発病したのは
潜伏期間中に感染したと考えられています。

寺江亭跡(藤原邦綱別邸)  
『アクセス』
「大山咋神社」神戸市兵庫区山王町1丁目6−5  
JR「神戸駅」JR「三宮駅」 より市バス ⑦「石井橋」下車 北へ徒歩約8分

『参考資料』
高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社
辻川敦・大国正美「神戸~尼崎海辺の歴史」神戸新聞総合出版センター
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 


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兵庫運河に架かる清盛橋の畔に天平18年(746)、行基が開いたといわれる
医王山薬仙寺(時宗)があります。飢餓に苦しむ鬼や霊を供養する施餓鬼会を
行なった最初の寺で、本尊は平安時代作の木像薬師如来坐像(国重文)です。


かつて薬仙寺は兵庫津の南西、須佐の入江に面した町はずれにあり、
境内地は6500坪余もありましたが、明治初期の新川運河掘削で狭められ、
さらに運河の拡張工事で削られました。
兵庫運河・新川運河は波の荒い和田岬を迂回するために
明治時代に造られた運河で大輪田橋から東を新川運河といいます。

薬仙寺は新川運河に近い住宅街の一画にあります。
 
さまざまな伝説や史跡が残る歴史の色濃い寺です。

後醍醐天皇ゆかりの寺で、天皇から医王山薬仙寺の名を賜りました。
行基が千人の僧を集め供養した千僧寺の跡を継いだと伝えています。
この辺は清盛の別荘地で、清盛が行った千僧供養の和田浜は
この付近とされています。


後白河法皇が閉じこめられた萱の御所は、「清盛塔の南にあった」とか、
「兵庫津近くに方三間の藁葺小屋を建てていた」などといわれ、
境内には伝承により作られた萱の御所跡碑があります。
しかし、「萱の御所」は夢野の平教盛邸にあったとする説が有力視されています。

萱(かや)の御所跡碑
境内の萱の御所跡は、福原遷都の際、後白河法皇を幽閉した建物跡で、
「牢(籠)の御所」とも呼ばれています。もとはここから北東方向約百mの
新川運河の地にありましたが、昭和28年の新川運河拡張工事によって
水中に没したため移設、再建されました。

清盛は四方に端板をはりめぐらし、一所にだけ入口を開けた中に、
三間(約5,4m)の小屋を作って後白河院を閉じ込め、
守護の武士には、平氏家人の原田大夫種直を仕えさせました。
容易に人が出入りできそうになかったので、童たちは「牢の御所」と呼びました。
聞くだに忌まわしく、腹立たしいことです。『巻5・都遷の事』
種直は九州の大豪族で、平家の九州経営を助け重臣となった人物です。



後醍醐天皇薬水・薬師出現古跡の碑

元弘3年(1333)、後醍醐天皇は討幕計画に失敗し、
後鳥羽上皇の例に倣って隠岐に流されました。しかし天皇は島を脱出し、
諸国へ討幕の綸旨を出し京都へ向かう途中、兵庫津の福厳(ふくごん)寺(門口町)の
行在所でひどい頭痛に悩まされました。この時、薬仙寺の霊泉を献上したところ
頭痛が癒えたという。こうして後鳥羽上皇が承久の乱で敗れ隠岐の島に在住19年間、
毎夜のごとく夢見て果たせなかった帰京を天皇は僅か1年で実現しました。


♪我こそは新島守(にいじまもり)よ 隠岐の海の荒き波風心して吹け  後鳥羽院
[訳] 私こそがこの島の新たなる島守であるぞ。隠岐の海の荒い波風よ、心して吹けよ。

大施餓鬼会日本最初之道場の碑
手入れの行き届いた広い境内には、この他に
大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント、神戸大空襲犠牲者慰霊碑などがあります。

 


 
薬仙寺(時宗)
この地は奈良時代行基菩薩が開いたと傳えられる大輪田の湊に接し
平安時代にはたびたび千僧供養が行われた所である。

承元元年(1207)法然上人が讃岐へ下るとき、ここへ立ち寄り大衆を教化され、
文久元年(1861)には英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を
視察するため宿泊した由緒ある寺院である。
重要文化財  
一、木造薬師如来坐像  
一、絹本着色施餓鬼図 
昭和三十九年三月  神戸市教育委員会


時宗開祖の一遍上人は、「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を配って
全国を遊行しながら、踊り念仏を勧めて教えを広め、
正応2年(1289)真光寺(清盛塚の西隣)で没しました。
真光寺には清盛が安芸の厳島神社から勧請した七つの弁財天のひとつがあります。
薬仙寺はもと天台宗でしたが、延文元年(1356)、真如が国阿の弟子となり、
名も直阿と改めて時宗に改宗しました。

萱の御所(文覚と頼朝)  
『アクセス』
「薬仙寺」 兵庫県神戸市兵庫区今出在家町4丁目1−14
JR「和田岬」駅下車徒歩約10分
『参考資料』

「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社 「兵庫県大百科事典」(下)神戸新聞出版センター
杜山悠「神戸歴史散歩」創元社 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社
「平家物語」」(上)角川ソフィア文庫 神戸史談会「源平と神戸」神戸新聞出版センター

「歴史読本」(天皇の戦い2000年史)2000年7月号 新人物往来社

 

 

 



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薬仙寺の萱(かや)の御所跡碑
以仁王の乱で強い危機感を抱いた清盛は、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇を
福原に行幸させ、天皇は平頼盛(清盛の弟)の家、上皇は清盛の山荘、
法皇は昔から近侍していた平教盛(清盛の弟)の邸があてがわれました。
清盛が法皇を幽閉したという茅葺の建物は、兵庫の港近くにあったといわれ、
薬仙寺の境内に「萱の御所跡」の碑がたっています。しかし実際は夢野の氷室・熊野
両神社の近くに教盛の邸があり、そこに法皇は閉じ込められたと見られています。

『巻5・都遷の事』によると、清盛は周囲に端板を打ちつけ、一つだけ入り口を開けた
牢屋のような家に法皇を押し込め、大宰府の府官原田大夫種直に監視させました。
それを口さがない人々が「籠(ろう)の御所」とよんだ。とあります。
これを示す史料はなく事実かどうか不明ですが、貴族の日記などには
福原での法皇の活動形跡は一切見られず、隔離されていたものと思われます。
平教盛は邸宅が六波羅の総門近くにあったので門脇殿とも呼ばれ、
鹿ケ谷謀議の際に流罪となった藤原成経は娘婿にあたります。
成経はこの謀議の首謀者成親(なりちか)の子で、謀議には加わっていませんが、
当時の掟で父の罪に連座して、平康頼・俊寛と共に薩摩国喜界ヶ島に流されました。
教盛は成経の助命のため奔走し、流罪後は彼らの衣食を自身の領地
肥前国鹿瀬庄(佐賀市鹿瀬町)から送らせています。

後白河法皇は治承3年の清盛のクーデターで鳥羽離宮(鳥羽殿)に幽閉された
だけでなく、第二皇子の以仁王(もちひとおう)まで殺され、福原では祖末な小屋に
閉じ込められてしまいました。そこへ文覚が監視の目を盗んで忍び込んできます。

蛭ヶ小島の頼朝を文覚は度々訪れ謀反をけしかけますが、流人の身であることを
理由に躊躇するので、伊豆と福原を10日足らずで往復し、幽閉中の法皇から平氏追討の
院宣を持ち帰り、頼朝を挙兵に踏み切らせたと『巻5・伊豆院宣の事』は語っています。
頼朝の挙兵は以仁王の令旨に加え、後白河の院宣によって権威づけられましたが、
院宣については具体的な裏づけがなく虚構と見られています。
しかし、文覚が何か頼朝の心を動かすような強い働きかけをして、
謀反の決意をさせたと思われます。平家討伐後、文覚は頼朝だけでなく後白河法皇の
帰依も受け、頼朝の助力で江ノ島に弁財天を勧請し、頼朝と法皇の援助を受け、
神護寺や東寺などを再興しています。また平維盛(重盛の嫡男)の遺児
六代の助命を再三懇願し、根負けした頼朝は渋々ながらも承諾しました。

治承4年(1180)6月19日、京都の三善(みよし)康信の使者・弟の康清が蛭ヶ小島を訪れ、
以仁王の乱が鎮められたことを伝え、「以仁王の令旨を受けた源氏はすべて追討せよ。」という
命令が出されているので頼朝に奥州に逃れるよう勧めてきました。
風雲急を告げる知らせです。三善康信は中宮徳子(建礼門院)庁の官人で、平氏情勢を
知りうる立場にありました。母が頼朝の乳母の妹であった関係で、
これまでも配流中の頼朝のもとに毎月3回、洛中の情勢を報告してきています。
同月27日には、挙兵直前の頼朝のもとに千葉胤頼(たねより)・三浦義澄が訪問し、
内容は明らかではありませんが、頼朝と密談しています。
彼らは大番役のため京都にいましたが、以仁王の乱に遭遇し、帰国が延びていたのです。
それだけに平家の動向に関する最新の情報を持っていたはずです。

『平清盛と後白河院』には、「胤頼と義澄の来訪こそ、彼らをはじめとする武士たちの挙兵の
決意を伝えるとともに、頼朝の挙兵を確認するためのものであったと考えられる。」とあり、
頼朝はこれらの動きを受けてついに決断しました。

千葉胤頼は文覚の父持遠の推挙によって、上西門院(後白河の同母姉)の侍となり、
出家前、文覚はやはり上西(じょうさい)門院に仕え、その縁で両者は師壇関係にありました。
千葉氏は代々園城寺(三井寺)と関係が深く、胤頼の弟・日胤(にちいん)は園城寺に入り、
頼朝の祈祷師ともなり、頼朝に依頼されて600日間源氏の氏神である
石清水八幡宮に参籠して大般若経を読みます。
以仁王の乱では、源頼政軍に身を投じ、光明山鳥居前で以仁王とともに戦死しました。
頼朝が平治の乱に初陣したのは13歳の時です。その十ヵ月前、
頼朝は上西門院庁の蔵人に任じられています。
そうした立場と情勢の中で、文覚は頼朝に、また千葉胤頼に働きかけたと思われます。

石橋山合戦で惨敗した頼朝は、命を落とすはずのところを土肥実平の働きで生きのび、
真鶴半島から舟で安房に渡り、房総半島を北上し下総国府(千葉県市川市)に入りました。
それを安房の大豪族・千葉常胤一族が迎え、頼朝は覇者の道を歩み始めます。
常胤は保元の乱の時、頼朝の父義朝の郎党として出陣したこともあり、
六男胤頼が父に頼朝への帰順を説得したとされています。三浦一族は代々源氏の家人で、
頼朝挙兵後畠山重忠の衣笠城攻撃で、義澄は父の義明を失っています。

                                       文覚(2) 恋塚浄禅寺  

『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
  
山田昭全「人物叢書 文覚」吉川弘文館 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社

「源頼朝七つの謎」新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館 



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熊野神社は清盛が福原遷都にあたり、紀伊国の熊野権現を
王城鎮護の神としてこの地に祀ったのが始まりと伝えられています。

社殿は東向き、紀伊の熊野三山の方を向いています。

拝殿
平安末期、歴代の上皇は何度も熊野御幸を行い、熊野信仰が一つのブームとなっていました。
後白河上皇はは34度、清盛、重盛(清盛の嫡男)らも度々参詣しました。
清盛が安芸守を務めていた若いころ、伊勢湾の安濃津(津市)から海路で参詣の途上、
船の中に大きな鱸が躍り込んで出世のご利益にあずかったという
エピソードが『巻1・鱸』に書かれています。

清盛の根強い熊野信仰は、福原でも忘れずに熊野権現を勧請したようです。
わずか半年で都は京へ移りましたが、
神社は今も夢野の権現さんとして親しまれています。






手水舎



伝承では清盛の弟平教盛の邸宅は、熊野神社の近くにあったといわれています。
後白河法皇が幽閉された萱の御所跡の碑が薬仙寺にありますが
実際の「萱の御所」の位置は、夢野の教盛邸とする説が有力とされています。

 
熊野神社(ごんげんさん)
ご由緒
平清盛が福原(現神戸市)遷都に際し後白河法皇が

ご崇敬の厚い紀州熊野権現を皇城鎮護の神として東向きに
奉鎮したと伝えられており爾来当夢野の住民が産土神(うぶすながみ)として
崇敬祭祀今日に至ったものであります。
・権現とは仏教渡来以来、崇高且ご神徳の高い神々様の称号です。


ご祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)

ご神徳 事業創設 殖産工業の祖神
    縁結び・福徳延命
ご祭礼   例祭 五月八日 宵宮祭 九日例大祭
         秋祭 十月八日 宵宮祭 九日秋季大祭
総祈祷祭   一月十六日
                  氏地地域内の安全家運隆昌祈願祭
       月例祭  毎月 一日、九日、十五日
『アクセス』
「熊野神社」神戸市兵庫区熊野町3-1-1
JR・阪神・阪急「三宮駅」より市バス⑦にて夢野町二丁目で下車 西へ徒歩5分
『参考資料』
「兵庫県大百科事典」(上)神戸新聞出版センター
 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 

 



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