薬仙寺の萱(かや)の御所跡碑
以仁王の乱で強い危機感を抱いた清盛は、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇を
福原に行幸させ、天皇は平頼盛(清盛の弟)の家、上皇は清盛の山荘、
法皇は昔から近侍していた平教盛(清盛の弟)の邸があてがわれました。
清盛が法皇を幽閉したという茅葺の建物は、兵庫の港近くにあったといわれ、
薬仙寺の境内に「萱の御所跡」の碑がたっています。しかし実際は夢野の氷室・熊野
両神社の近くに教盛の邸があり、そこに法皇は閉じ込められたと見られています。
『巻5・都遷の事』によると、清盛は周囲に端板を打ちつけ、一つだけ入り口を開けた
牢屋のような家に法皇を押し込め、大宰府の府官原田大夫種直に監視させました。
それを口さがない人々が「籠(ろう)の御所」とよんだ。とあります。
これを示す史料はなく事実かどうか不明ですが、貴族の日記などには
福原での法皇の活動形跡は一切見られず、隔離されていたものと思われます。
平教盛は邸宅が六波羅の総門近くにあったので門脇殿とも呼ばれ、
鹿ケ谷謀議の際に流罪となった藤原成経は娘婿にあたります。
成経はこの謀議の首謀者成親(なりちか)の子で、謀議には加わっていませんが、
当時の掟で父の罪に連座して、平康頼・俊寛と共に薩摩国喜界ヶ島に流されました。
教盛は成経の助命のため奔走し、流罪後は彼らの衣食を自身の領地
肥前国鹿瀬庄(佐賀市鹿瀬町)から送らせています。
後白河法皇は治承3年の清盛のクーデターで鳥羽離宮(鳥羽殿)に幽閉された
だけでなく、第二皇子の以仁王(もちひとおう)まで殺され、福原では祖末な小屋に
閉じ込められてしまいました。そこへ文覚が監視の目を盗んで忍び込んできます。
蛭ヶ小島の頼朝を文覚は度々訪れ謀反をけしかけますが、流人の身であることを
理由に躊躇するので、伊豆と福原を10日足らずで往復し、幽閉中の法皇から平氏追討の
院宣を持ち帰り、頼朝を挙兵に踏み切らせたと『巻5・伊豆院宣の事』は語っています。
頼朝の挙兵は以仁王の令旨に加え、後白河の院宣によって権威づけられましたが、
院宣については具体的な裏づけがなく虚構と見られています。
しかし、文覚が何か頼朝の心を動かすような強い働きかけをして、
謀反の決意をさせたと思われます。平家討伐後、文覚は頼朝だけでなく後白河法皇の
帰依も受け、頼朝の助力で江ノ島に弁財天を勧請し、頼朝と法皇の援助を受け、
神護寺や東寺などを再興しています。また平維盛(重盛の嫡男)の遺児
六代の助命を再三懇願し、根負けした頼朝は渋々ながらも承諾しました。
治承4年(1180)6月19日、京都の三善(みよし)康信の使者・弟の康清が蛭ヶ小島を訪れ、
以仁王の乱が鎮められたことを伝え、「以仁王の令旨を受けた源氏はすべて追討せよ。」という
命令が出されているので頼朝に奥州に逃れるよう勧めてきました。
風雲急を告げる知らせです。三善康信は中宮徳子(建礼門院)庁の官人で、平氏情勢を
知りうる立場にありました。母が頼朝の乳母の妹であった関係で、
これまでも配流中の頼朝のもとに毎月3回、洛中の情勢を報告してきています。
同月27日には、挙兵直前の頼朝のもとに千葉胤頼(たねより)・三浦義澄が訪問し、
内容は明らかではありませんが、頼朝と密談しています。
彼らは大番役のため京都にいましたが、以仁王の乱に遭遇し、帰国が延びていたのです。
それだけに平家の動向に関する最新の情報を持っていたはずです。
『平清盛と後白河院』には、「胤頼と義澄の来訪こそ、彼らをはじめとする武士たちの挙兵の
決意を伝えるとともに、頼朝の挙兵を確認するためのものであったと考えられる。」とあり、
頼朝はこれらの動きを受けてついに決断しました。
千葉胤頼は文覚の父持遠の推挙によって、上西門院(後白河の同母姉)の侍となり、
出家前、文覚はやはり上西(じょうさい)門院に仕え、その縁で両者は師壇関係にありました。
千葉氏は代々園城寺(三井寺)と関係が深く、胤頼の弟・日胤(にちいん)は園城寺に入り、
頼朝の祈祷師ともなり、頼朝に依頼されて600日間源氏の氏神である
石清水八幡宮に参籠して大般若経を読みます。
以仁王の乱では、源頼政軍に身を投じ、光明山鳥居前で以仁王とともに戦死しました。
頼朝が平治の乱に初陣したのは13歳の時です。その十ヵ月前、
頼朝は上西門院庁の蔵人に任じられています。
そうした立場と情勢の中で、文覚は頼朝に、また千葉胤頼に働きかけたと思われます。
石橋山合戦で惨敗した頼朝は、命を落とすはずのところを土肥実平の働きで生きのび、
真鶴半島から舟で安房に渡り、房総半島を北上し下総国府(千葉県市川市)に入りました。
それを安房の大豪族・千葉常胤一族が迎え、頼朝は覇者の道を歩み始めます。
常胤は保元の乱の時、頼朝の父義朝の郎党として出陣したこともあり、
六男胤頼が父に頼朝への帰順を説得したとされています。三浦一族は代々源氏の家人で、
頼朝挙兵後畠山重忠の衣笠城攻撃で、義澄は父の義明を失っています。
『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
山田昭全「人物叢書 文覚」吉川弘文館 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社
「源頼朝七つの謎」新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館