平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平家物語の中で、もっとも有名な物語は那須与一の扇の的です。
洲崎寺から北へ進むと祈り岩バス停前に「いの里岩」と刻んだ石標があり、
当時、海の中にあった駒立岩はその先の川の中です。
付近には与一公園、与一橋もあります。



左手はもくもく遊らんど、その先に見えるのが与一橋



与一橋の欄干は波をデザインした石のアート
さすが石の町、周辺にはさまざまな石のオブジェがあります




那須与一が成功を祈った祈り岩。



那須与一が扇を射る時に、神明の加護を祈った場所です。
「いの里岩」の下方は、埋まっています。







祈り岩から駒立岩まで北西へ50メートル

川の中にある祈り岩の傍の小さな石には、「いのり岩レプリカ石」と刻まれています。
本物の祈り岩がすぐ近くにあるのに、何故ここにレプリカが置かれているのでしょうか。
この件について、高松市文化財課に問い合わせたところ

「高松市に合併する前の旧牟礼町がレプリカを施工したものと思われます。
旧牟礼町の人によると、祈り岩周辺が市街地の中に埋もれてしまっていて、
祈り岩から駒立岩が見えないことから、レプリカを駒立岩付近に設置し、
往時の雰囲気を再現したのではないかということです。」というお返事をいただきました。


相引川の水路には、与一が扇を射るときに駒を止めたという
駒立岩があり、潮が引くと巨岩が姿を現わします。


先の方(四角で囲んだ所)に、扇を開いた竿と女房のパネルが置かれています。





与一公園の案内板

与一公園内の扇をかたどった池の水は抜かれていて、噴水はあがっていません。  
♪もののふの誉の岩に鯊(はぜ)ひとつ 水原秋桜子

戦いが一段落した夕暮れどき、平家方から優雅に飾りたてた小舟が一艘近づいてきました。
その舟の中から女房が現れ、金色の日の丸の描かれた紅一色の扇を竿の先につけて
陸に向かって手招きします。この女房というのは、千人の雑仕から選ばれた美女で、
今年19歳の玉虫の前という建礼門院の女房です。その意図するところがわからず
義経の「あれはいかに。」との問いかけに
「扇を射よということでしょう。
誰かに射落とさせるのがよろしいでしょう。」と後藤兵衛実基が進言します。


「味方に射当てる者はいるか。」という義経の重ねての問いかけに、

実基は即座に那須太郎資高の子、那須与一宗高を推挙します。
与一宗高は小兵(小柄の武士)ではあるが、空を飛ぶ鳥の三羽に二羽を
射落とすほどの腕前だというのです。与一は辞退しますが義経は許しません。
「義経の命令に背いてはならぬ。文句をいう者は鎌倉へ帰れ。」と語気荒く言うので、
与一は命令に逆らえず、荒れる海に駒を乗り入れ駒立岩まで進めます。

それでも的の扇まで20メートルほどもあります。ちょうど激しい北風が吹いて
舟も扇も波に揺れています。両軍かたずをのんで見守っている中、
ここで射損じたなら源氏末代の恥、目を閉じ「南無八幡大菩薩、我国の神は日光権現、
宇都宮大明神、那須の温泉大明神、どうぞあの扇の真ん中を射当てさせてくださいませ。
これを射そこなうものなら弓を切り折って命を絶ちます。もう一度本国へ
迎えてやろうとお思いならば、この矢を外させないでください。…」そう祈って目を開くと
心なしか風もおさまり、的の扇も射やすくなっています。
与一は手早く鏑矢を
箙から引き抜いてすばやくつがえ、えいっとばかりに放ちました。
鏑矢とは矢の先に鏑をつけたもので、矢を射ると音を発します。
鏑 は蕪の形に似た長円形で、木や角で作り中を空洞にして
3~8個の穴をあけ、射ると穴が風を切って鳴ります。

矢を射る距離についてコメントをいただいたので、
追記させていただきます。
「与一と扇との間隔は、7段くらいはあろうと見えた。」とあります。
1段を6間とすれば80ないし90メートル。
1段を9尺とすれば20から25メートルくらいになる。
後者の方が実情に適する。(『平家物語全注釈(下巻1)』)

梶原正昭氏は「中世では、1段は9尺(2・7m)のことなので7、8段は約20mほどの
距離ということになる。」と述べておられます。(『古典講読平家物語』)

弓は強弓。鏑矢は浦一帯に鳴り響き、扇のかなめ際、
一寸ばかりの所に見事命中。
扇は天高く舞いあがり、
しばらくひらひらと舞うと春風に吹かれて海へ落ち、
金の日輪を描いた真紅の扇が夕日を受けて
白波の上に漂い、
浮いたり沈んだりしています。
これを見て、沖では平家が船端をたたいてどっと歓声をあげ、

陸では源氏が箙をたたいてどよめきました。
あまりの見事さに感極まったのか平家方の年老いた武者が、
小舟の上で舞を舞いはじめました。

ところがこの余興は義経にはまったく通じません。
「あの者も射よ。」と命じられ、
与一は仕方なくその男まで射てしまいました。
「風流を解さぬ振舞い」と平家のほうは静まりかえりましたが、
源氏方はまた箙をたたいて囃したてました。

那須氏は藤原道長の孫通家の子、貞信を祖とし、下野国那須郡に勢力を張った豪族で、
与一の父資高はその六代目にあたります。与一はその十一番目の子です。

強弓というのは、普通の弓は一人が弓をためてもう一人が弦を張る「二人張り」ですが、
それよりはるかに弦(つる)の張の強い「三人張り」「四人張り」などの
弓を引きこなし、狙った的をはずさず射抜く人のことです。

屋島合戦では、義経勢の奇襲に驚き平家が沖へ逃れた隙に、後藤実基は内裏を焼いて
敵の反撃を封じという、老練で思慮深い古つわものらしい活躍を見せています。
扇に何かいわれがあるかと義経が実基に尋ねたのは、
実基が都の武士で弓馬の故実にも通じていたからです。
那須与一の郷(那須神社)  那須与一の墓(即成院) 
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)   
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一 那須与市堂  
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『アクセス』
「祈り岩」高松市牟礼町大字牟礼宮北 ことでん「八栗」駅より徒歩15分 
ことでん「いのり岩」
バス停前
「駒立岩」高松市牟礼町大字牟礼宮北 祈り岩より1分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年

梶原正昭「古典講読平家物語」岩波書店、2014年
 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年





 

 







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佐藤継信の墓は、高松市内に二ヶ所あります。
ことでん八栗駅の南、牟礼川沿いの一角ともう一ヶ所は、屋島寺参詣路沿いに祀られています。

ことでん八栗駅から踏切を越え南へ、 牟礼川沿いに少し進みます。

景行天皇皇子の神櫛王(かみくしおう)墓の東隣に佐藤継信の墓所があります。

継信の子孫が遺跡の大改修を実施し、公園のように整備しました。

もとは今の墓所の背後の平田池(ため池)の地にありましたが、
正保2年(1645)、この池を築造した時に現在地に移されました。

寛永20年(1643)には、初代高松藩主松平頼重が標石を建てています。

佐藤兵衛尉継信之墓と彫られています。



松平頼重がたてた標石の表は「佐藤次信墓」とあり、
その背後には五輪塔が祀られています。

標石の背面には、「寛永癸未仲夏上浣建之」と刻まれています。
(寛永癸未は1643年、仲夏は陰暦の5月、上浣は上旬のこと)

大夫黒馬娌處」「大夫黒供養之碑」
大夫黒はもとは院の厩で飼育されていた馬で後白河院から義経に下賜され、
一ノ谷合戦では、平家陣の背後の断崖絶壁から駆け下った馬です。
義経は大夫(五位)に叙位された時、自分の大夫にちなんで
この愛馬を
大夫黒と名づけました。
『吾妻鏡』は、義経が秘蔵の名馬を僧に与えたことを美談として讃えています。


大夫黒に乗り戦場を駆ける義経。



安徳天皇社から緩やかな坂を上ります。

屋島寺の参拝を終えた巡礼者が洲崎寺さらに八栗寺へと向かう遍路道です。

松平頼重(水戸光圀の同母兄)が四国巡礼の人々の目につくようにと設けた墓所です。
頼重は学問に熱心で、特に『平家物語』を好んで読んでいたようです。
主人の楯となって討死した継信を武士の鑑であるとして、その死を顕彰しました。
この地では、継信はとりわけ英雄のように扱われています。

佐藤継信の父は陸奥国信夫(しのぶ)庄(福島市)の豪族・
庄司
佐藤元(基)治で、平泉の藤原秀衡と同じく秀郷流藤原氏を出自としています。
秀郷流藤原氏は、平将門の乱を鎮圧したことで有名な藤原秀郷を始祖とします。

義経が挙兵した兄頼朝の軍陣に向かおうとした時、秀衡は強く止めました。
しかし、義経の決心が固いのを知り、継信・忠信兄弟に随行を命じたのです。

佐藤継信の墓
継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登の守教経の強弓により、
大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、
合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
 また、墓は牟礼町王墓に残っています。
高松市 高松観光協会 (現地説明板)

義経は継信の死を深く悲しみ、近くの寺から高僧を招き、、「一日教を書いてやってくれ。」と言い、
布施の代わりに
自分の馬に金覆輪の鞍を置いて贈り、ねんごろな供養を頼みました
お経一部を何人もで、手分けして一日で書き上げることを「一日教」といいます。

馬も鞍も武士にとって大切な財産です。それほどまでして供養し、
一人の郎党の死を心から悼む義経の姿に、継信の弟忠信をはじめ家来たちは、
みな涙を流し「この主君のためなら、命を失っても惜しくない。」と言いあったという。

『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日の条には、「義経は継信の死を大いに嘆き悲しみ、
僧侶を招き遺骸に立派な袈裟を着せ、千株松の根元に葬り、名馬太夫黒を僧侶に与えた。
この馬は義経が行幸に供奉する際に後白河院から賜ったもので、
戦場に向かう時には必ずまたがっていた。」と記されています。
屋島古戦場を歩く佐藤継信最期(射落畠)  
馬町の佐藤継信 忠信墓    馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信)  
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「佐藤継信の墓」高松市牟礼町王墓 ことでん「八栗駅」徒歩5分

高松市屋島東町 遍路道沿い ことでん「八栗駅」下車 徒歩約35分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂、2004
 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、
2004年 川合康「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「香川県の歴史」山川出版社、
2011
「平家物語図典」小学館、2010年


 



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瓜生(うりゅう)が丘は屋島にいる平氏を攻めるため、義経が陣を張った場所です。

鎌長製衡株式会社のすぐ近くに瓜生が丘(宇龍ヶ岡)の碑があります。


牟礼川と鎌長製衡工場の塀沿いの道を進みます。

向こうに見える携帯電話の鉄塔が建っている小高い丘を瓜生が丘とよび、
源氏軍の陣は、この丘から長刀泉・菜切地蔵堂辺まで布かれていたと推定されています。

工場の東に「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑が立っています。 
義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信が運びこまれた場所です。

六万寺の方向から見た瓜生が丘。現在は田園地帯の中にあります。

鎌長製衡の工場西には、弁慶が食事の用意のために掘った長刀泉が残っています。



長刀泉は弁慶が長刀の石突きで掘った井戸。弁慶の力自慢のエピソードです。
「菜切地蔵」、「瓜生が丘」の周辺にあることから、源氏軍の陣跡と考えられています。
説明板からは、辺りは海辺だったので飲料水に苦慮した様子がうかがえます。







JR線路の南側、菜切公民館の北の丘の上には、菜切地蔵堂があります。


地蔵堂の中央に地蔵菩薩、右側に室町時代以後の作と考えられる五輪塔、
左側に十一面観音の石彫を安置しています。
十一面観音、地蔵菩薩とも最近の作品で、
土地の人は右側の五輪塔を地蔵と呼んでいます。



弁慶が石地蔵の背中をまな板がわりにして長刀で野菜を切ったと伝え、
この辺一帯の集落を今も菜切とよんでいます。
長刀泉、菜切地蔵ともに遠い昔の伝説です。

『平家物語』の中で、弁慶は義経を守る従者の一人として記されているだけで、武勇伝は
ほとんど語られず、佐藤兄弟や伊勢三郎義盛に比べて、存在感の薄い人物として描かれています。
『源平盛衰記』によると、義経勢が屋島に向かう途中の金泉寺(徳島県板野町)で、
義経が「誰か講式読むべき」というと、弁慶が高座に昇って仏前にあった観音講式を
大音声で見事に読みあげており、文武に秀でていた人物であったことが知られます。
弁慶が注目されるのは、平氏の滅亡後、義経が頼朝に追われる身となってからです。
※屋島古戦場をご案内しています。
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『アクセス』
「宇龍ヶ岡の碑」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡の東南 JR古高松南駅より徒歩7分
ことでん八栗駅より徒歩12分 

「菜切地蔵堂」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡の南西 JR古高松南駅より徒歩5分 
「長刀泉」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡工場の西  JR古高松南駅より徒歩3分
『参考資料』
上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂、2004年 
奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
 「香川県の地名」平凡社、1989年 「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年

 

 





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洲崎寺は檀ノ浦の入江の東にあり、対岸には屋島があります。
一帯が源平屋島合戦の舞台となったため、寺は戦火に巻き込まれ、
堂塔伽藍は焼け落ち、本尊と不動明王像だけがかろうじて焼け残ったという。
その時、教経の強弓に倒れた佐藤継信の遺体が本堂の扉に乗せて源氏の本陣まで
運び込まれています。その後、再興されるも長宗我部元親の軍勢により再び焼失し、
元禄12年(1699)、四国八十八ヶ所霊場八栗寺の願いにより再興されました。
その百年近く後の開帳の際に因幡鳥取藩の由井蔵主が継信の遺骸を運んだ
古い扉を送ってきたと『続々讃岐国大日記』に記されています。
継信の念持仏水月観音は洲崎寺に寄進され、継信の菩提寺として、
毎年3月19日に慰霊法要が行われています。

当寺は四国遍路を庶民に広めた真念法師の墓があることでも知られています。
また、檀ノ浦一帯を測量した伊能忠敬一行がこの寺に宿泊しています。

弓流し跡から北へ進みます。

五剣山の西方、牟礼浜にあります。



山門

ことでん洲崎寺バス停横にあります。

「屋島檀ノ浦の戦い」を表している庭園

本堂


鐘楼

源平屋島合戦の模様を描いた石造りの説明板



合戦のあらまし
①寿永四年二月十八日 義経率いる源氏軍は阿波勝浦に上陸する。

②平家方の桜ノ間城を攻め落とす。 
③源氏軍は淡路の江田源三ら約三十騎と合流する。
④大坂峠で平家の使者を捕える。  
⑤大内町丹生から二隊に分離する。本隊は内陸から、別隊は海岸沿いから屋島に迫る。
⑥十九日朝、屋島に到着する。別隊も合流し平家に攻め入る。
⑦那須与市ら約三十騎、赤牛崎(あかばざき)を経て安徳天皇社を焼き払う。
⑧あわてた平家は舟に乗り移り、海へと逃げる。
入り江に浮かぶ平家の舟軍と浜辺の源氏軍の戦いとなる。
⑨平家の勇将教経が総門に上陸し弓矢戦となる。
この時、源氏の勇将佐藤継信が義経の身代わりとなり討死する。
⑩夕刻、源氏勢は瓜生ヶ丘に陣を敷く。
⑪明けて二十日、当地近辺で戦いはせめぎ合いとなる。
[扇の的] [錣引き] [弓流し]等の話はこの時の出来事である。
 ⑫翌朝平家は海を越え源氏勢の背後から攻める。
義経はそれを察し、志度寺辺りで平家を打ち破る。
⑬平家は戦いに敗れ、屋島をあとに西海に落ちていく。


◆③江田源三は義経の家来。 ④義経は大坂越の難路を通って讃岐に入る途中、
屋島へ向かう文の使いを捕えます。京の女房から屋島の宗盛への手紙で、
「義経はすばやい男ですから、暴風雨に紛れて攻め寄せましょう。
十分ご用心なさいませ。」とあり、渡辺の津に源氏が船揃えしたことを知らせるものでした。

源平合戦 屋島檀ノ浦の戦い
平安時代末期 寿永二年(一一八三)七月、木曽義仲に敗れた平家は、幼帝・安徳天皇を奉じて、
六万寺と屋島檀ノ浦(安徳神社)の地に陣を布敷き、勢力の回復をはかり、
源氏軍の襲来に備えていた。時に、寿永四年(一一八五)二月十九日、平家追討の命を受けた
義経率いる源氏勢はわずか百五十騎で数千を超す軍団が守る屋島に攻め込んだ。
思いもよらぬ陸路からの急襲に慌てた平家は、辛うじて舟で沖へ逃げた。
そして、戦いは、沖の平家と陸の源氏による弓矢の合戦となった。
この戦いは、数々の英雄と悲劇を歴史に残した[佐藤継信の討死]
[扇の的]・[錣引き]・[弓流し]等、数多くの話と史跡が今に伝えられている。

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『アクセス』
「洲崎寺」高松市牟礼浜北地区 ことでん八栗駅より徒歩約12分 
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



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義経弓流しは那須与一の扇の的射などの名場面が多い、
屋島合戦の中の逸話のひとつです。



八栗駅から洲崎寺に向かう途中の道脇に
「義経弓流シ」と「源平屋島合戦古戦場」の碑がたっています。





那須与一が見事に扇を射落とした直後、平家方の50歳ほどの武者が船上に現れ、
扇の立ててあった場所で舞い始めました。
義経の命でこの武者が射殺されると、平家方はしばらく唖然としていましたが、
やがて激怒し義経軍に攻撃をしかけ乱戦となりました。そのうちどうしたはずみか、
義経は弓を海中に落とし、それを拾い上げようと必死です。
「危険なので弓をお捨てなされ、お捨てなされ。」という
郎党の声にも耳を貸さずようやくの思いで弓を拾いました。

義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。叔父為朝(鎮西八郎)のような
強い弓ならばわざとでも落として敵に見せるところだ。
しかし自分は小柄で非力だから張の弱い弓を使っている。
それを拾われて、これが源氏の大将の弓かと笑われては末代までの恥である。
それで命がけで拾ったのだ。」と言ったので、
郎党はみなこの言葉に感じ入ったということです。

義経は弓の名手鎮西八郎為朝のように大男ではなく、体は小柄で貧弱、
弓も立派なものではありません。敵に拾われた時、何と弱弓なことよと
笑われるのが嫌さに身の危険も顧みず弓を拾ったのです。

義経の負けん気の強さと命よりも名を惜しむ武将だったことを物語る一幕です。

『源平合戦図屏風』六曲一双、右双部分。
画像は別冊太陽平家物語絵巻より引用させていただきました。

義経を中心に平家方に越中次郎盛嗣、源氏方に後藤兵衛実基が描かれています。
戦いたけなわなり、源氏方は総大将義経みずから敵船に近づいての奮戦です。
平家方は熊手を振って源氏の武者を海中に引きずり落とそうとし、
それを払いのけながら、義経が流される弓をとろうと身をのりだしています。
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『アクセス』
「義経弓流し」高松市牟礼町浜北地区  ことでん八栗駅より徒歩約10分

射落畠から北へ約200m
『参考資料』
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年

 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
「平家物語図典」小学館、2010年







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琴電八栗駅の北側あたりは屋島合戦の激戦地と伝えられ、この地区には古戦場跡の
「平家総門跡」「射落畠」「義経の弓流し」「那須与一の駒立岩」「洲崎寺」などが残っています。

射落畠(いおちばた)は、佐藤継信が義経を庇って戦死した場所です。



総門跡角の道標。 「源平合戦史跡  射落畠八0米」

道標に従って進むと防火用水の向うに射落畠の碑が見えます。

合戦当時、この辺りは海近くの湿地帯でした。昭和6年(1931)5月、継信三十世の孫、
佐藤信古氏が蓮畑の一部を買い取り整地して射落畠碑と遠祖君乗馬薄墨碑を建立。







遠祖君乗馬薄墨碑
兄頼朝の挙兵を聞いた義経は、奥州平泉から兄のもとに馳せ参じます。
その時、藤原秀衡は思いとどまらせようとしましたが、どうしてもという義経に
はなむけとして秘蔵の愛馬「薄墨」を贈り、佐藤継信・忠信兄弟をつけてやりました。


佐藤継信顕彰碑
この地は源義経の四天王の一人佐藤継信戦死の場所である。
継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う。

継信は若くして智略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。
源義経陸奥に来て秀衡の批護をうけ後頼朝挙兵を援けるため都に上るに際し、
父の命により継信 忠信の兄弟もこれに従う。
連戦して平家を追い屋島壇(檀)ノ浦にいたり、
敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年二十八才

継信はみちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身であり、
源平八00年祭と当クラブ結成二十周年を記念してこの碑を建立するものである。

      昭和六十年四月十八日    福島飯坂ライオンズクラブ

 お目汚しに拙句を一句  ♪故郷のヒーローかこむ 蓮の花

平家の総大将宗盛(清盛の三男)は、義経の奇襲に驚きいったんは
沖に逃げましたが、源氏の軍勢が少数だと気付いてややおちつきを取り戻し、
能登守教経(清盛の弟教盛の子)に攻撃をしかけるよう命じます。
教経(のりつね)は平家きっての猛将とうたわれ、
率いる兵らも源氏の精鋭に劣らず勇猛な勇士たちです。
すぐに態勢を立て直した教経は、巻き返しを図るべく総門に押寄せ、
沖の平家船団と屋島の浦に駒を進めた源氏勢との矢合戦となりました。

教経は評判の強弓で源氏の兵を次々に射落としていきます。どうかして義経を
一矢でしとめようと狙いをつけますが、源氏の方もそれと知って1騎当千の
兵(つわもの)らが矢おもてに立ちふさがります。教経は「そこをのけい」と叫びながら
さんざんに射ったので、十数騎ほどがあっという間に射落とされました。
次いで義経めがけて放った矢が主君の前に進み出た佐藤継信の左肩から右脇へと射ぬき、
その首を落とそうと走り寄った教経の童菊王丸を継信の弟忠信が射とめます。
やはり童の首を取られまいと、教経は左手で弓を持ちながら右手で童を抱え
岸辺の船に投げ入れました。首はとられませんでしたが、やがて息をひきとりました。
この時菊王丸、18歳。教経は年若い菊王丸が不憫でならず、
その日の合戦をやめてしまいました。
その菊王丸が相引川左岸の屋島東小学校北側に葬られています。

教経の矢にかかって、まっさかさまにどうと馬から落ちる継信。

義経は陣の後ろに担ぎ込ませた継信の手をとり、涙ながらに
「思い残すことはないか」と問うと、継信は苦しい息の下から答えます。
「弓矢とる者、敵の矢に当たって死ぬことは元より覚悟のこと。主君のお命に代わって
討たれるということは、この上ない名誉なことです。ただ思うことは故郷に残した
老母のことが気がかりなのと平家を滅ぼし、殿の御栄達を見届けることが
できないのが残念です。」と言い残して息を引き取りました。
右腕とも頼む郎党を殺され、義経もこの日は戦う気力を失いました。
屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
屋島古戦場を歩く(安徳天皇社・菊王丸の墓) 
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「射落畠」高松市牟礼町牟礼浜西 琴電「八栗駅」下車徒歩5分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年 
冨倉徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年
 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年
「平家物語図典」小学館、2010年


 



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