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祇園甲部歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。
崇徳天皇の怨霊をなだめるため、後白河上皇は保元の乱の戦場となった
白河北殿(現、左京区聖護院川原町)に崇徳院粟田宮を創始しましたが、
この宮は応仁の乱に罹災し、室町時代、後土御門天皇が
祇園万寿小路の現在地に祀りました。
この地に祀られた理由は明らかではありませんが、
それについて阿波内侍の伝説があります。
『山州名跡誌・巻1』によれば、天皇の寵妃の一人阿波内侍が天皇の崩御後、
その霊が夜毎、光ものとなって現れるので出家し、仏種尼(ぶっしゅに)と名のり、
自邸内に仏堂を建てて天皇の菩提を弔ったのが始まりといわれ、
人々はこれを光堂と呼んだとしています。その後、
鎌倉時代に大円法師が観勝寺光明院を建てたという。
応仁の乱後、寺は荒廃しましたが、江戸時代に蓮華光院と称する
門跡寺院が太秦の安井から移ってきて観勝寺を再興し、
御廟は観勝寺の子院の万寿山蓮乗院が管理していました。
明治維新後、廃仏毀釈の激しい嵐が吹き荒れ、
すべて廃寺となり御廟だけが残りました。
また『愚管抄』によると、保元の乱で敗れ、讃岐に配流された天皇の崩御後、
天皇の寵妃烏丸殿が綾小路河原(祇園町南側)の自邸内に
天皇の御影堂を建て菩提を弔ったという。
烏丸殿と阿波内侍は同一人物なのか別人なのかはわかりませんが、
どちらにしても祇園町南側の地には、
崇徳天皇ゆかりの女性が住んでおられたようです。
祇園の歌舞練場の裏庭には古塚があり、
墳丘の上に阿波内侍の石造五輪塔があります。(『京の墓碑めぐり』)
『昭和京都名所図会』によると、阿波内侍は知足院公種(きんたね)の娘で、
天皇の崩御後、仏門に入り仏種尼と称しました。
知足院公種という人物については不詳。
安井金比羅宮(崇徳天皇)
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いつ通っても崇徳天皇廟の周辺はきれいに掃き清められ静かな一角です。
ところが’07・2月に近くを通りかかると、トラックが停車し土を掘る大きな音がします。
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「崇徳天皇御廟所」と刻んだ大小二基の石碑が見えます。
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その後、この御廟が気になり再び同年6月にたずねてみると、
立派に再建されていました。
現在、崇徳天皇の月命日に白峯神宮の神職によって祭祀が行われています。
保元の乱に敗れた崇徳新院は讃岐に配流され、寵妃兵衛佐局(重仁親王の母)らとともに
九年の歳月をそこで過ごし、二度と都の地を踏むことなく四十六年の生涯を終えました。
兵衛佐局は法勝寺執行信縁の娘で、のち大蔵卿源行宗の養女となっています。
『保元物語』によると、「配流地で新院は指を切りその血を混ぜた墨で、
五部大乗経の写経を行いました。完成した写本を都に送り、
京に近い八幡か鳥羽の安楽寿院に納めてほしいと嘆願しましたが、
信西の指図で後白河天皇はこれを拒否し、写本は送り返されてきました。
これに激怒した新院は天狗の姿となり、日本国の大悪魔となり、
天皇家を民とし民を皇にする。と誓い、自身の舌を噛み切った血で
写本に署名し海底深く沈めた。」という。
後世の人々は戦乱や天災が起こる度に、崇徳新院の祟りとして恐れました。
醍醐の一言寺(阿波内侍)
白峯神宮 (崇徳天皇) 崇徳天皇(白峯御陵)
崇徳天皇(白峯寺)
『アクセス』
「崇徳天皇廟」 京都市東山区祇園町南側
市バス「東山安井」下車徒歩2、3分、又は「祇園」下車徒歩5分
『参考資料』
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂
竹村俊則「京の墓碑めぐり」京都新聞社 竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫
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