平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都国際ホテルの東側、西福寺の南に閑院跡の碑が建っています。
閑院は平安京の左京二条大路南、西洞院大路西に
(現在の中京区古城町一帯)にあった藤原冬嗣(795~826)の別邸で、
藤原氏の邸宅として継承されます。約一町(120m四方)の広さがあり、
その後、鎌倉時代の正元元年(1259)に焼失するまで、
後三条天皇の時から里内裏として使用され、高倉天皇以降は
歴代天皇の皇居となりました。

この頃、平安京の内裏は特別な場合以外は使われなくなり、
後鳥羽天皇は閑院で即位し、19歳で上皇となるまで
天皇在位中は閑院を御所としました。
建久元年(1190)上洛した頼朝が後鳥羽天皇に
拝謁したのもこの御所でした。






高倉天皇の第四皇子として誕生した後鳥羽天皇
(尊成=たかひら親王)が即位したのは、わずか4歳のときです。
高倉院(後白河法皇の皇子)には、清盛を外祖父とする
安徳天皇の他に二宮・三宮・四宮と3人の皇子がありますが、
 平家は木曾義仲に追われて都落ちする際、安徳天皇と
二の宮(守貞親王)を連れて三種の神器を持ち去りました。

このため都に天皇が不在という事態となり、朝廷は新天皇を
即位させることが急務となり、新帝の候補者として、
尊成親王の他に第三皇子の(惟明=これあきら親王)が
いましたが、義仲は北陸宮(以仁王の遺児)を推挙しましたため、
最後は卜筮(ぼくぜい=亀の甲や獣の骨を焼いてする占い)によって
決定されたという。

『平家物語・巻8・四宮即位』には、
 法皇は都に残っていた孫の三宮、四宮に対面し、まず5歳になる
三宮に「これへ」と声をかけると、宮は法皇を見て
むずかったので、もうよいと追い払われた。次に
4歳の四宮を呼ぶと宮は法皇の膝の上に乗ってすぐになついたため、
法皇は人なつっこい性格の四宮の即位を決められた。という
逸話が載せられています。

 ところが、当時の右大臣九条兼実の日記『玉葉』によると、
木曽義仲がこの問題にわり込み以仁王(後白河第4皇子)の遺児、
北陸宮を強引に推薦したため事態は紛糾し、三宮・四宮・
北陸宮のいずれを皇位につけるか占いが行なわれます。
結局、義仲は公卿たちに体よくあしらわれ、占いを再三
やり直しては北陸宮を凶と判定させ四宮に決定しました。
見えすいた占いに義仲は憤慨した。とあります。
北陸宮は父以仁王もちひとおう)が、平氏打倒の
謀反を起こした際、
出家させられますが、のちに還俗して
北陸地方に逃れ義仲の保護下にあった宮です。
一介の武士が天皇の即位をめぐる問題に口を挟んだことが
義仲と法皇との関係を悪化させる大きな原因となります。

後白河法皇の院宣により三種の神器のないまま閑院殿において
四宮が即位します。この天皇がのちに承久の乱で
隠岐に流されることになる後鳥羽天皇です。
これによって西国に安徳天皇、都に後鳥羽天皇という
二人の天皇が同時に存在し、
三種の神器なしに即位するという異例な事態となりました。

後鳥羽天皇の生母は、藤原信隆の娘殖子(のちの七条院)です。
殖子(母は藤原休子)は建礼門院徳子に仕えて高倉天皇の寵愛を受け、
二宮守貞親王と四宮尊成(たかひら)親王を生んでいます。
父の信隆は法皇の近臣、清盛の娘を妻にしている関係で、
皇子の誕生を喜んだものの平家に気兼ねして
皇子たちを特に大切にしませんでしたが、清盛の妻時子が
「遠慮することはない」と言って、乳母を大勢つけて
二宮を息子の知盛に四宮を時子の異父弟能円法師に育てさせます。

 四宮の乳母範子(はんし)は、夫が時子の弟能円法師であったため、
四宮とともに都落ちに従って西七条まで行ったところ、
範子の兄藤原範光(のりみつ)が駆けつけ「物の怪にでもとりつかれて
狂ったのか、今ようやくこの宮の運が開けようとしているのに。」と
範子を怒鳴って引き留め連れ帰った。その翌日、法皇より四宮を迎える
車がきたというエピソードが『平家物語』に語られています。

『アクセス』
「閑院内裏跡の碑」京都市中京区押小路通小川西北角
市バス「二条城前」「堀川御池」下車 徒歩約10分 
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
「後鳥羽院のすべて」新人物往来社 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
「京の史跡めぐり」京都新聞社 

 



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河尻に摂津源氏の源行綱が叛乱を起こしているとの知らせを受け、
平貞能(さだよし)が鎮圧に向かっている間に平宗盛は都落ちを決定しました。
河尻(淀川水系の神崎川河口)の動きが誤報とわかって都に戻る途中、
貞能は鵜殿(現、大阪府高槻市)あたりで、都落ちの行幸に行きあいました。
『大阪府の地名』(平凡社)には、鵜殿(うどの)村について
「平貞能が鵜殿辺りにて行幸にまいりある」と記され、
この地が平家一門の都落ちの舞台となったことがわかります。

貞能は大将の宗盛に向かって、西国には平家に服せぬ者も多いので、
引き返して都で決戦するように進言しますが、宗盛は聞き入れません。
これより先に貞能は鎮西鎮圧に下り、
その経路の西海道や鎮西の情勢をよく知っていたのです。

平貞能の父貞家は清盛の父忠盛が『巻1・殿上の闇討の事』で
闇討に遇いかけた時、主につき従っていた平家の大番頭です。
貞能は清盛に仕え、重盛が平氏の家督を継ぐと、重盛、資盛(すけもり)に従い、
維盛の乳人の上総介(藤原・伊藤とも)忠清と並ぶ小松家の有力御家人です。

維盛が富士川の戦いで敗走し、この合戦の侍大将忠清が評判をおとすと、
次に頼みにされたのが貞能でした。
清盛が亡くなり謀反が全国に拡大すると、貞能は肥後守に任じられ
九州の謀反鎮圧にあたり、一応の成功をおさめます。

貞能は宗盛に都での決戦を主張しましたが、容れられなかったため、
資盛(重盛の次男)とともに平家一門と別れ、
手勢を率いて都へ引き返し法住寺殿内の蓮華王院に入りました。
一門の中でも後白河院の覚えのよかった資盛は、
比叡山に逃れていた院の指示を仰ごうとしましたが、
取次いでくれる者がなく、連絡が取れません。

貞能は九条河原の法性寺とも六波羅にあったともいわれる
重盛の墓に詣で、墓を源氏の駒の蹄にかけさせまいと掘り起こして、
辺りの土を賀茂川に流し、骨を高野山に送ったという。
翌朝、仕方なく資盛・貞能は手勢とともに都を離れ一門に合流します。

清盛の死後、後継者となったのは、重盛の継母時子が生んだ平宗盛であり、
重盛の小松家は一門の傍流に追いやられ、
小松家の人々は一門の中で微妙な立場に置かれていました。

九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』には
維盛・資盛・貞能の脱落の噂が早くからあったことを記しています。
都落ちの際、維盛の乳人藤原忠清、貞能の子貞頼は出家して加わらず、
この後、貞能も平氏が太宰府を追われた時に一門を離脱、
小松殿の公達は有力郎党に見捨てられた形となりました。

 こうして様々な人間模様を繰り広げつつ都落ちした一行は、
福原に到着します。かっての都は至る処を秋草が覆い、
荒れ果ててもの寂しい風景でした。
翌朝、福原の内裏に火をかけ、天皇はじめ人々は皆船に乗り込みます。
燃え盛る福原をふり返って見れば、都を出た時ほどではないが、
名残は惜しいと、
一行は涙で袖を濡らしながら去って行きます。

落ちゆく人々の心境を綴った「巻7・福原落ちの事」は
序章の「祇園精舎の事」と並ぶ名文といわれています。
その一節をご紹介します。

昨日は、東関の麓にくつばみを並べて
十万余騎(北陸出陣のため逢坂関に)、
今日は西海の浪の上に纜(ともづな)をといて七千余人、
雲海沈々として青天まさに暮れなんとす。

孤島に夕霧隔てて、月海上に浮かべり。
極浦(遠い浦)の浪を分け、潮に引かれて行く船は、
半天の雲にさかのぼる。日数ふれば、
都は山川ほどを隔てて、雲居のよそにぞなりにける。
はるばる来ぬと思へども、ただ尽きせぬものは涙なり。
寿永二年七月二十五日 平家都を落ち果てぬ。






「鵜殿葭(よし)の原」碑

鵜 殿
鵜殿を含む鵜殿村(現在の道鵜町・萩之庄・井尻・上牧のあたり)は、
山崎や柱本(大阪府高槻市)などとともに淀川水運の泊り場として
また景勝地として名を高め、古くから歴史に登場します。

紀貫之が土佐国守の任を終えて淀川を遡り帰京する際、
「うどのというところにとまる」とあり、『土佐日記』の舞台でもありました。


紀貫之の『土佐日記』は、紀貫之の土佐から都までの旅日記です。
承平5年(935)2月9日、鵜殿に宿泊した紀貫之は、
10日はさしさわりがあって上らず、11日、さし上っていくと
川向かいに見える「石清水八幡宮」を喜び拝み奉り、
続いて「山崎の橋見ゆ。うれしきことかぎりなし。」と記し、
都の入口に到着した喜びが伝わってきます。

このことからも山崎が遠国からの帰京を実感する地であり、

都との惜別の地であったことが窺えます。
当時、淀川をはさんで対岸の橋本へ渡る山崎橋が架けられていました。

 『アクセス』
「鵜殿葭の原の碑」高槻市道鵜町1丁目
阪急京都線上牧駅下車徒歩30分 
上牧駅のガードを抜け171号線を横断し、淀川堤防を目指してください。

又は阪急京都線高槻駅下車 市バス「道鵜(どうう)町」停より徒歩5分

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「検証日本史の舞台」東京堂出版 高橋昌明「平家の群像」岩波新書
川合康編「平家物語を読む」吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫 上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」塙新書
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「大阪府の地名」(1)平凡社 「高槻市史」(第1巻)高槻市役所
「高槻の史跡」高槻市教育委員会 「土佐日記 蜻蛉日記」小学館

 

 

 



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関大明神社の創建は不詳ですが、古来この地は西国から京都に入る要衝で、
社地は山崎関跡とされ、
関の神を祀ったのが起こりと考えられます。


祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根(あめのこやね)命と伝えます。
平安時代に関は廃止され、跡地に公営宿泊施設の関戸院が設けられ、
貴族や官人が宿泊や休憩に利用しました。
ここは西国へ向かう貴族と見送りの人が別れを惜しんだ地でもあり、
平兼盛やしろめ、大江嘉言などの和歌が歌集にみえます。

ここはまた木曽義仲に追われ、都落ちした平家一門が
安徳天皇の輿をおろし別れを惜しんだ地です。
『平家物語』によると、「山崎の関戸の院に玉の輿をかきすえて、
平大納言時忠が男山を伏し拝み、泣く泣く京都還幸を祈った。」とあります。
安徳天皇は六歳とまだ幼かったため、母の建礼門院と同じ輿に乗り、三種の
神器を携え、甲冑に身を固め弓矢を携えた軍兵に取り囲まれての物々しい行幸です。

さまざまな思いをこめながら都を落ちた平家の人々は、
前内大臣宗盛以下、一門に連なる公卿・殿上人・僧・侍などその勢7千余騎。
安徳天皇の輿を山城・攝津との国境・関戸院(現、関大明神社)におろしました。

JR山崎駅前から南に100mほど進むと旧西国街道にでます。
この街道を西へ歩くと、溝があります。
この溝が東側の山城国(京都府)と西側の摂津国(大阪府)の境界で、
現在も府境となっています。


山城と摂津の国境に建つ「従是東山城国(これより東山城の国」と刻んだ碑
 
玉垣に囲まれ、国境付近に建つ関大明神社

一間社流造の本殿


関大明神社  (現地説明碑)
「当社のはじめりは不明ですが、当地が古代摂津国と
山背国(後の山城国)の関所である山崎の関の跡といわれ、
関守神または辻神を祭ったのが起こりではないかと思われます。
この関所は当時、交通の要であり、時には朝廷が兵を派遣し、
守らせるほど重要なところでした。しかし、平安時代のはじめのころには
関は廃止されていたらしく、その跡地には関戸院という施設が置かれ
藤原道長や平家一門など貴族や官人の宿泊に利用されていたようです。
現在の本殿は室町時代中ごろに建てられたと思われ、
大阪府の重要文化財に指定されています。
祭神は大巳貴命・天児古屋根命又は大智明神。」


寿永2年(1183 )7月25日、都落ちする平時忠が対岸の男山の
石清水八幡宮を遥拝し
「願わくは帝をはじめ我らを再び都へお帰しください。」と
祈られたのはいかにも悲しいことです

保元・平治の乱の後、春の花のように咲き誇り栄華を極めた平家が、

今や秋の紅葉のように散り果てようとしていました。
安徳天皇の外戚であり公卿・殿上人の連なる平家が都を追いだされ、
せんかたなく西国に落ちていこうとは誰が思ったでしょうか。

山崎より対岸の男山を望む

都の空をふり返ると空が霞んだようになって陽の光も見えず、
六波羅炎上の煙ばかりが遠く立ち上っていました。
清盛の弟の平教盛と経盛がこの煙によせて
都落ちの感慨や今後の事を思う歌を詠み別れを告げます。
教盛は
♪はかなしや主は雲井にわかるれば あとはけぶりと立ちのぼるかな
(はかないことよ、家を捨てて雲もはるかな旅路をたどれば、
家々を焼いた煙が空ゆく雲への彼方へと立ち上っていくことだなぁ)

続いて経盛は
♪ふるさとを焼け野の原とかへり見て 末もけぶりの波路をぞゆく
(住みなれた館を焼野の原としてその煙をふり返り見つつ 
いつ帰るとも知れぬ煙にとざされた海の旅路を行くことであるよ)

まことに故郷を煙のかなたに望みつつ、前途万里の
雲のかなたに赴く人々の心が推しはかられて哀れです。
平家都落ちの印象的なシーンです。

山崎
山城国の出入口にあたる山崎は、石清水八幡宮を遥拝する地であり、
なにより都との惜別の地でありました。
大和物語や落窪物語でも西国へ下る別れの場とされ、
藤原伊周(これちか)の左遷の別れも山崎と話題は豊富です。

覚一本『平家物語』では、平家一門の都落ちの行列が
京から山崎まで陸路を進んできたという状況が読みとれ、
経盛の歌に「けぶりの波路をぞゆく」とあり、
ここから船にのる予定であることが推測できます。
都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿)  
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
平家一門都落ち(太宰府天満宮)  
 『アクセス』
「関大明神社」大阪府島本町山崎1丁目 JR山崎駅下車5分

JR山崎駅前からすぐ南に離宮八幡宮があります。
そこから旧西国街道沿いに西方へ少し進むと社があります。
 『参考資料』
検証「日本史の舞台」東京堂出版 「史跡をたずねて」島本町教育委員会
 上田正昭編「探訪古代の道」法蔵館 「京都大事典」(府域編)淡交社  高橋昌明「平家の群像」岩波新書
 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
「第5巻・源平の盛衰」世界文化社 「大阪府の歴史散歩」(上)山川出版社
 「山崎・水無瀬」大山崎教育委員会

 

 



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都落ちの日、平経正は幼い頃に稚児として仕えた仁和寺を訪れ、
かつて賜った琵琶「青山(せいざん)」を返上します。



青山というのは、平安時代の初め頃、唐から朝廷に献上された
琵琶の名器「玄象(げんじょう)・獅子丸・青山」のうちの一つで、
胴の中央に夏山の緑の峰と木の間から出る有明の月が
描かれていることから名づけられたといいます。
その後、帝から仁和寺に与えられて、
覚性法親王から経正に下されたものでした。

経正は経盛の嫡子で経俊・敦盛の兄にあたり、
父経盛は清盛の弟で笛の名手でした。
祖父忠盛、父の素養を受継ぎ音楽・和歌、特に琵琶に優れ
「北陸追討の途中、竹生島に参詣して弁才天の前で琵琶の秘曲を
弾いたところ、弁才天が白竜の姿となって彼の袖に現れた。」とか
「経正17の年、九州宇佐八幡宮へ勅使として派遣され、神殿に向かい
青山を弾じたところ神官たちはみな涙で袖を絞った。」という
エピソードが平家物語に見えます。
和歌を藤原俊成に学び、父経盛とともに勅撰歌人で、
経正の歌は『千載和歌集』に入集されています。

仁和寺は平安時代、宇多天皇が開山し御所を御室と称します。
その後、代々皇族が法親王として入り寺を管理し、
法親王も御室と呼ばれます。
当時、貴族の子弟が元服まで学問や礼法を習うため
寺院で過ごすことはよくあることでした。
経正は鳥羽天皇の皇子、覚性法親王に仕えていましたが、
都落ちの時にはすでになく、
その甥、後白河院の皇子・守覚法親王の代になっていました。
守覚法親王は経正と同年代、
やはり幼い頃から仁和寺に入り、覚性法親王に共に仕える間柄でした。
経正は門前で馬を下り
「平家一門はもはや運が尽きて、すでに今日都を立ちいでました。
この世に思い残す事はただ御室の君へのお名残惜しさばかりです。
また帰ることができるとも思われず誠に残念でございます。
甲冑をつけ弓矢を携えた物物しい姿ですのでご遠慮申しあげます。」と
武装姿をはばかり御室にお目にかかるのを遠慮したが、
御室は「構わぬからその姿のままで参れ」と申される。
経正が兜を脱いで中庭の白砂にひざまずきかしこまっていると、
御室は御簾を高く巻かせ「これへ、これへ」と広縁にのぼらせました。

「これは先年、賜った青山です。名残惜しいのですが、
これ程の名器を田舎の塵に埋もれさせてしまうのは
何としても残念な事です。
万が一平家の運が開けてまた都に帰ることでもありましたら、
その時改めて頂戴したいと思います。」と経正が涙ながらに申しあげると、
御室は哀れに思われ、和歌を一首詠まれた。

♪あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく
(こころならず別れて行くそなたの名残のこの琵琶を、
後々までの形見として、大切に包んで預かっておこう)
経正は硯をお借りして返します。
♪呉竹のかけひの水はかはるとも なほすみあかぬ宮のうちかな
(庭先の筧の水の流れは昔と変わっていますが、
「先代と当代と御室が代わったということ」
それでも水は今なお澄んで美しく、
この御所は私にとって飽きることのない住みかです)

別れを告げる経正に稚児たち・坊官・侍僧にいたるまで、
袂にすがり袖を引っぱって別れを惜しみ泣かない者はなかった。
中でも経正が稚児の頃、兄貴分だった行慶は、
名残を惜しむあまり桂川の岸辺まで送ってきます。
しかしどこまでも見送るわけにゆかないから、
別れを告げ涙ながらに歌を詠みます。
♪あはれなり老木(おいき)若木も山桜 おくれ先だち花はのこらじ 
(早い遅いの違いはあっても、山桜がみな散ってしまうように、
平家の人々が都を去っていくのは悲しいことです。)

♪旅衣夜な夜な袖をかた敷きて 思へばわれは遠くにゆきなん
(夜毎、旅に独り寝する私の前途は思えば遥か遠いことでしょう)と
返すや供の者に巻いて持たせていた赤旗、ざっとさし差し上げる。
するとあちこちに身を潜めて待っていた侍どもが「すわ」とて駆け寄り、
その勢百騎ばかり鞭をあげ駒を早めて程なく行幸に追いつきます。

半年後、経正は一の谷合戦で武蔵国の住人河越小太郎重房に討ち取られます。
神戸市兵庫区にある清盛塚の傍らには経正を偲んで琵琶塚が建てられています。
尚、その後琵琶青山は持ち主を転々として、宇和島伊達家に伝られたという。
 仁和寺旧御室御所御殿
仁王門を入った左側にある御殿は平安時代の法親王たちの住居で、
勅使門・宸殿・白書院・黒書院などがあり、
門跡寺院らしい美しいたたずまいを見せています。

御殿の廻廊

経正が武装姿をはばかり跪いた書院前の階(きざはし)

宸殿内部

北庭

中門

金堂

鐘楼
守覚法親王は和歌や音楽に秀で、当時の歴史にも深い関心を寄せています。
平家の人々を偲ぶ思いを『左記』に著し、経正都落ちのエピソードもその中に
綴られています。
また建礼門院の安産の祈りを、守覚法親王は孔雀法で行い
安徳天皇が誕生しました。その天皇を奉じて平家は西へと落ちていきます。
 平経正竹生島詣(宝厳寺・都久夫須麻神社) 
明石市源平合戦の史跡馬塚(経正最期)  
 『アクセス』
「仁和寺」京都市右京区御室大内33
嵐電(京福電鉄)北野線 御室仁和寺駅下車 徒歩約2分
JR京都駅から JRバス:高尾・京北線 約30分 バス停「御室仁和寺前」下車すぐ。
 『参考資料』

村井康彦「平家物語の世界」徳間書房 新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下) 新潮社 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂 「仁和寺と洛西の名刹」小学館

 

 

 



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