平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



殿上人として昇殿を許された忠盛への周囲の反発は大きく、貴族らは
自分たちとは住む世界が違うと忠盛を嫌い、五節豊明(とよあかり)の節会で
闇討ちを計画しましたが、忠盛の冷静な判断でこれを未然に防ぐことができました。

古くから死や出産などを穢れとして忌む風習は日本各地にあり、
特に嫌われたのが死の穢れです。戦闘を生業とする忠盛が昇殿したら
神聖な御所が汚されるとする誇り高い公卿たちの差別意識があったのです。
闇討ちに失敗した殿上人たちは、豊明の節会の宴会で忠盛に恥をかかせます。

忠盛が御前に召されて舞を舞いだすと、殿上人たちは拍子をとりながら
「伊勢瓶子(へいし)は酢甕(すがめ)なり」と歌い囃し立てました。
瓶子は徳利のことで、ふつうは銀や錫で作ります。
伊勢産の粗末な素瓶(すがめ)と、斜視(すがめ)であった忠盛とをかけて、
「伊勢で作る徳利は質が悪く、酢を入れる甕ぐらいにしか使えない。」とからかったのです。

忠盛はいたたまれなくなって中座し、腰に差していた刀を
主殿司(とのもづかさ)に預けて帰りました。宴会の途中で出てきた主人を気遣って
平家貞が「いかがでしたか。」と尋ねましたが、本当のことをいうと、殿上に駆け上がり
斬りこんでいきそうな顔つきだったので、「いや別段何もなかった。」とさりげなく答えます。

紫宸殿で行われた豊明の節会が終わると、殿上人らは忠盛が剣を帯びて
昇殿したことや武装した郎党を控えさせたことを鳥羽院に申し立て、
「すぐに昇殿を取り消して免職すべきです。」と大騒ぎになりました。
院は驚き忠盛に尋ねると、「郎党が殿上の小庭に入りこんだことは、
全く知りませんでした。ただ私が闇討ちされるという噂を伝え聞き、心配して
警護していたものです。刀は主殿司に預けておいたのでご確認なさってください。」と
答え、その刀を持ってこさせて抜いて見せると銀箔を貼りつけた木刀でした。
院は闇討ちを避けるため刀を差しながらも、後日、訴えられることを考えて
木刀にしていた忠盛の思慮深さに感心し、また「郎党が殿上の小庭に控えていたのも、
武士の家来なら当然のことで忠盛の罪ではない。」と慎重な行動を褒め、
忠盛は罪に問われることはありませんでした。


承明門から見た紫宸殿と白砂の広がる南庭
紫宸殿は京都御所の正殿で南面し、即位礼や節会などの国家儀式が行われました。
正面中央に「紫宸殿」の扁額を掲げ、
簀子縁から南庭に18段の階(きざはし)が架かっています。


階左右には、左近の桜、右近の橘があります。



紫宸殿の母屋中央に置かれている高御座(たかみくら)
向かって右側は皇后御座として用いられる御帳台(みちょうだい)




女官が紫宸殿の簀子の上の南東角で、親王・公卿などに昇殿するよう
檜扇をかざして合図をしています。


紫宸殿の西廂は御膳宿(おものやどり)ともいい、
節会の時は御膳具(おものぐ)が準備され、
ここから釆女と呼ばれる女官が紫宸殿の母屋へ御膳を運びます。
また紫宸殿の北廂の間を御後(ごご)といい、ここに「主殿司」という灯火や燃料を
扱う女官が控えていました。この女官に忠盛は刀を預けて退出したのでした。

忠盛は勅撰歌人としても知られ、『平家物語・巻1・鱸の事』には、忠盛が
備前国から都に上った時、鳥羽院に「明石の浦はどうであったか。」と尋ねられ、
とっさに機智に富んだ和歌で答えたので、院は大いに感じ入ったとあり、
『巻1・殿上の闇討』には、鳥羽院に仕えた忠盛最愛の女房も歌のたしなみがあり、
忠盛はその女房との間に薩摩守忠度をもうけたと記されています。

忠盛は瀬戸内海の海賊討伐を進めることで名をあげ、宋との貿易も積極的に行いました。
菅原道真が宇多天皇に進言し、遣唐使の派遣が中止されましたが、それ以後も大陸や
朝鮮半島からの民間商船の来航はあり、大宰府を通じて私貿易が行われていました。
鳥羽院の直轄領である肥前国神崎荘(佐賀県神埼市)の預所(現地管理者)を
忠盛は務め、その立場を利用して日宋貿易に関与し、鳥羽院の権力をバックに
貿易から大宰府を排除させました。日宋貿易を独占することで経済的に潤い、宋から
送られてくる珍しい唐物を院に献上、これらの品々は忠盛の出世に一役買っています。

忠盛は順調な昇進を続け、58歳でその生涯を終えた時、
時の左大臣藤原頼長はその日記『台記』の中で、「忠盛は巨万の富と武力を兼ね備え、
多くの家来を率いていたが、人柄は謙虚で派手なことはせず、その死を誰もが
惜しんだ。」と記しています。
このようにして忠盛は平家興隆のもとを築き、
それを見事に開花させたのが息子の清盛でした。

殿上の闇討ち1(清涼殿殿上の間)  
アクセス』
「京都御所」 地下鉄烏丸線 「今出川駅」から徒歩5分
 市バス 「烏丸今出川」から徒歩5分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 本郷恵子「蕩尽する中世」新潮社

「御所・離宮」(財)菊葉文化協会 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社  竹内理三「日本の歴史・武士の登場」中公文庫
 別冊太陽「平清盛」平凡社

 

 





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清盛の一族は桓武天皇の血を引くものの、高望王の時に平の姓を与えられて臣下に下り、
その子国香から正盛に至るまでの六代の間は、諸国の受領であり
宮中の昇殿を許されませんでした。桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-
①国香-②貞盛-③維衡-④正度-⑤正衡-⑥正盛-忠盛-清盛

白河・鳥羽院に重用された清盛の父忠盛は備前・尾張・播磨などの受領を歴任して
大金を手に入れ、地方から吸いあげたそのお金で両院が熱心に行っていた
寺や塔などの造営を財政面で支え、その褒美として
国司に任命されるということを繰り返し次第に莫大な財力を蓄えていきました
忠盛は鳥羽院の御願寺得長寿院を造営した功で内裏の昇殿を許され、
念願の内の殿上人となりました。武士としては初めての栄誉です。

忠盛は勅撰歌人として知られ舞や香道など、宮廷の教養も身につけ、
財力や武力だけに頼って出世を勝ち取ったのではありません。しかし名門意識が強い
他の貴族たちが、たかが地方回りの受領を歓迎するはずがありません。
忠盛の出世を憎んだ貴族たちが五節(ごせち)豊明(とよあかり)の節会の夜、
忠盛を闇討ちにしようと企んだことが『平家物語(巻1)殿上の闇討』に見えます。
五節豊明の節会は新嘗祭の最終日、その年の初穂を神に供え、
紫宸殿で舞姫が五節の舞を舞い宴が催されました。この日ばかりは無礼講!
「闇討ち」といっても、せいぜい袋叩きといった程度のものです。

これを事前に察知した忠盛は「武芸を生業とする家に生まれながら、そんな恥辱を受けたら
家の名誉、身の名誉を汚すことになる。」と木刀に銀箔を張った刀を差して昇殿し、
切れ味を試すように薄暗いところで引き抜いて見せました。その刀がはた目からはまるで
キラリと光る氷の刃のように見えたので、貴族らはぞっとして、
目をみはり気勢をそがれてしまいました。

忠盛の家来、平家貞は主人の身を案じ狩衣の下に腹巻を着こみ、腰には太刀を帯び、
殿上の間の小庭に跪きかしこまっていました。腹巻というのは、背で合せ
腹に巻く鎧の一種です。蔵人頭(とう)はこれを怪しみ「うつほ柱の内側に
狩衣姿の者がいるが誰だ。無礼である。早く退出せよ。」と六位の蔵人に言わせました。
すると家貞は「重代の主君である備前守忠盛様が今宵闇討ちされると聞きまして、
ここに控えているのです。」といって動きません。先の忠盛の刀といい、この家来といい、
貴族たちは恐れをなしたのかその夜の闇討ちは行われませんでした。
このような機転で忠盛は窮地を逃れました。
貴族社会の中で古くから続く身分秩序を破る忠盛の苦労が描かれています。

殿上人は三位・四位以上の者がほとんどですが、蔵人は天皇の御用を務めるため
五位・六位でも殿上人です。蔵人の筆頭を蔵人頭(頭中将)といい、
四位殿上人の中から2名選びます。
このあと意地の悪い殿上人らが
豊明の節会の余興の席で、忠盛をからかうという話に続きます。

国司の長官を守といい、任地に赴任する国司を受領といいます。
貴族の中には、国司に任命されながら現地に赴任ぜず、代わりに目代(代官)を派遣し、
自身は都に留まり利益だけを得る者もいました。
受領は税を取りたてて朝廷などへ納入するのが仕事ですが、
租税以外に任国で徴収したものは自らの富として蓄積できたといわれ、

いろいろなやり方で私腹をこやし、一財産築いて都に帰ってきます。


清涼殿は天皇が日常の生活の場として使用された御殿で、
内部は襖などでの間仕切りが多く複雑です。母屋の四方には廂、
東側には吹き放しの弘廂があり、その外に簀の縁先をめぐらせています。
ここは臣下が並んで座り、重要な政務や儀式が行われたところです。
庭先には白砂が敷かれ漢竹(かわたけ)・呉竹(くれたけ)が植えられ、
御溝水(みかわみず)が流れています。
東南隅の石灰壇は、天皇が毎朝伊勢神宮を遥拝する所です。
昼御座は天皇の日中の居間です。


清涼殿の庭先に流れる御溝水

昼御座の北には夜の御殿(天皇の寝所)と護持僧が伺候した御二間、
その北側には、女御・更衣が控えた「藤壷上御局・萩の戸・弘徽殿上昼御座」があります。




清涼殿の南側には殿上の間があり、ここに蔵人以上の殿上人が伺候し、
宮中の事務をつかさどった所です。


家貞が控えていた殿上の前の小庭に見える太柱が空(うつほ)柱。
この柱は雨樋で中は空洞になっています。




宮中警護の武士の詰め所滝口の陣
御溝水は清涼殿の北廂の北の滝口から流れ、
ここの詰所で天皇の寝所を警護したのが滝口の武士です。
滝口入道ももとは斎藤時頼という滝口の武士でした。

殿上の闇討ち2(紫宸殿)
『アクセス』
「京都御所」 地下鉄烏丸線 「今出川駅」から徒歩5分 市バス 「烏丸今出川」から徒歩5分
『参考資料』

新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 
「御所・離宮」(財)菊葉文化協会 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社  竹内理三「日本の歴史・武士の登場」中公文庫 
佐々木恵介「受領と地方社会」山川出版社 新訂「官職要解」講談社学術文庫 

 

 

 



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京都市左京区岡崎の疎水べり、冷泉通と東大路通の交差点あたりに
得長寿院(とくちょうじゅいん)跡の碑がたっています。


得長寿院は平清盛の父・忠盛が備前守(岡山県東南部)だった時、
鳥羽上皇のために建立し、平氏が中央政界で躍進するきっかけとなった建物です。
上皇の御願寺として天承二年(1133)に完成、その本堂の中央に丈六の観音像、
左右に等身の正観音像五百体ずつ計千一体の観音像を安置し、
各々の胎内には小仏を納めたという。
この堂宇は南北に長くて東面し、三十三間の構造をもっていました。

これをモデルにして造営されたのが、京都東山七条に現存する
三十三間堂(蓮華王院)で、構造・規模・景観ともほぼ同じと見られています。
東山の三十三間堂は後白河法皇の御願寺で、
法皇の御所である法住寺殿の西に清盛が建立しました。


得長寿院は源平争乱後の元暦2年(1185)に大地震で倒壊、失われてしまいました。



平氏は桓武天皇の末裔ですが、皇族を離れ平姓を賜って臣下に下って以来、
皇族の血筋でありながら、長い間受領階級の身に甘んじていました。
地下の受領だった忠盛が蓄えた財力にものをいわせ、鳥羽上皇に得長寿院を
建立・寄進したことが『平家物語・巻1・殿上の闇討』に書かれています。
上皇は大いに喜び、忠盛を都近くの但馬国(兵庫県)の国司に任命するとともに
内裏への昇殿を許しました。
こうして忠盛はさらに巨大な富を
手中に収めることになるのです。忠盛36歳の時です。
御願寺(ごがんじ)は天皇・上皇・皇后などが建てる寺をいい、
臣下の者がその資金を出して造営献上します。

受領階級は諸国の国守のことで、当時「受領は倒るる所に土をつかめ」という
諺があり、転んでもただでは起きない受領の強欲なやり口を表し、
『今昔物語』には、信濃守藤原陳忠(のぶただ)という欲の深い
受領の話が書かれています。受領になると巨大な利権が得られ、
特に富裕国の国守になると、4年の任期中に一財産築いて帰ってきます。
忠盛は富裕国備前の国守だったのです。

内裏の昇殿は、宮中の清涼殿の「殿上の間」への出入りが許され、
殿上人と呼ばれて本物の貴族の仲間入りをします。
ふつうの貴族は20歳前後で昇殿することが多いのですが、
忠盛は36歳の遅い昇殿でした。
殿上の闇討ち1(清涼殿殿上の間)  

『アクセス』
「得長寿院跡の碑」
京都市左京区岡崎徳成町 市バス「熊野神社前」徒歩6,7分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 「京都市の地名」平凡社
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社

 



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京都から敦賀に抜ける周山街道を清滝川に沿って上ると
栂尾山高山寺があります。
高山寺は奈良時代末に開かれ、
始め天台宗度賀尾(どがのお)寺といいましたが、

神護寺の文覚上人が再興し、寺は神護寺の別院となりました。
今は真言宗系の単立寺院となっています。
文覚の佐渡配流によって再び荒廃しましたが、
後鳥羽上皇によって栂尾(とがのお)の
地を賜った明恵上人が
中興の祖となり、高山寺と改め華厳宗の道場としました。


頼朝が亡くなると、僅か2ヶ月後に
頼朝の帰依を受けていた文覚は佐渡流罪となります。

理由は文覚が後鳥羽院を退け、院の兄である
二宮(守貞親王)を擁立しようと
画策したためとか、
内大臣源通親の暗殺を謀ったとかいわれていますが、
頼朝の死を
機に源通親が政治の中枢と深く関わった
文覚の粛清を図ったものと思われます。


承久の乱では、合戦とは程遠い明恵までも巻き込みました。
栂尾山中の高山寺周辺が落人たちの隠れ場となったのです。
安達景盛の軍勢が高山寺に乱入し、
敗れた官兵を匿った罪で
明恵を六波羅に引き立て、
そこで明恵は北条泰時と出会うことになります。

かねてから明恵の噂を聞いていた六波羅探題長官の
泰時(のちの第3代執権)は、
驚いて明恵を上座に据えました。
すると明恵は「高山寺に救いを求める者は
袈裟の下に
隠してでも救う。」といって泰時を感動させ、その帰依を受けています。


安達景盛は頼朝の流人生活を支えた安達盛長の嫡男で、
実朝が暗殺されると
高野山に上りますが、
出家後も高野山に居ながら幕政に参与します。

北条泰時の嫡男・時氏に嫁いだ娘(松下禅尼)が生んだ経時・時頼が
執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めます。
六波羅探題は、平氏六波羅邸跡にあった鎌倉幕府の出先機関で、
京都の警護・朝廷監視のための役所です。
東山区洛東中学校門傍に
「平氏六波羅第、六波羅探題府」の石碑があります。
現在、
この碑は六波羅密寺(東山区五条通大和大路上ル)の境内に移されています。


平安末から鎌倉時代にかけて次々と新仏教が華やかに誕生した陰で、
明恵は南都の華厳の伝統を受け、密教・禅なども幅広く研究し
それらを総合した華厳宗の復興を目ざしました。
栄達の道に背を向け、教団を作ろうという考えもありませんでした。
名利を嫌った高潔な行いは、後鳥羽上皇・北条泰時・
安達景盛だけでなく、
九条兼実・九条道家・西園寺公経(きんつね)、
朝廷・貴族など多くの人々から
深い尊敬と帰依を寄せられ、
建礼門院は明恵より授戒されたといわれています。


また実朝の遺臣葛山景倫(願性)が由良庄(和歌山県日高郡由良町)に

西方寺(興国寺)を建立し、実朝の頭骨を納めた塔を建てた際、
明恵は開堂供養の導師として招かれています。
承久の乱後には、
後鳥羽上皇の学問所である
賀茂別院の石水院が高山寺に移されました。

寺領の寄進も多く南北朝時代には、広大なものとなりましたが、
応仁の乱の兵火にかかり衰微しました。

明恵の業績に茶の栽培があります。茶は平安時代以前は、
珍味または薬用として身分の高い人の間で用いられただけですが、
宋から帰国した禅宗の師である栄西から茶の種を贈られ、
これを蒔いたのが栂尾茶で、高山寺は日本最古の茶園となりました。
宇治の茶は栂尾から移植されたもので、宇治の茶業家らが
毎年新茶を明恵の廟の前に供え、また11月8日には、茶道家元らによって
明恵の御影に
茶を献じる献茶式が行われています。

明恵は釈迦が生まれたインドを訪れ、仏跡を参拝しようと
準備していましたが、果たせませんでした。その後、
栂尾の地を賜り、日本に留まって仏道を極める覚悟をします。
そして高山寺の裏山を釈迦ゆかりの楞伽山(りょうがせん) と名づけ、
山中各所に座禅の場を設け、釈迦の遺跡になぞらえた
諸堂を次々と整備していきました。
鎌倉時代の古地図には、大門・本堂・阿弥陀堂・塔・
羅漢堂・経蔵・鐘楼などが描かれていますが、
その多くが兵火などで失われ、現在は石水院が残るだけです。

菱形に連なる敷石の表参道、右手には復興された茶畑が広がっています。

高山寺は平成6年「古都京都の文化財」として、
世界文化遺産に登録されました。

高山寺山門


石水院入口にある高さ約1.7m石水院笠塔婆(重美)
表面には建立趣旨の銘が刻んであります。


石水院西の広縁に置かれている善財童子の木像。
石水院(国宝)は寝殿造りのため、お寺らしい雰囲気はなく、
鎌倉時代の貴族の住宅建築を偲ばせます。

文化財の宝庫といわれるほど寺宝が多く、国宝7件、重文50件、
国宝重文指定の典籍は1万点を超え、境内は国の史跡に指定されています。
宝物は殆ど国立博物館に保管され、実物を見ることはできませんが、
石水院には、紙本「明恵上人樹上座禅像」や
明恵が身近において愛玩したという「木彫狗児」(
子犬)の複製が飾られ、
「鳥獣人物戯画」の模写が広げられています。


中でもよく知られているのが「鳥獣人物戯画」です。
甲乙丙丁の4巻に動物や人物を軽妙に描いた
絵巻は漫画の祖といわれています。


あずまや

明恵上人晩年の草庵跡にあたる地に江戸時代再建された開山堂
堂内には明恵上人坐像(重文)が安置されています。

明恵上人の開山廟

杉並木の続く金堂への道

江戸時代に仁和寺の古御所の御堂を移した金堂
境内の西端、奥まったところにあります

石水院横の裏参道

明恵は文覚の右腕として活躍した上覚(湯浅宗重の四男)の甥です。
平安末期紀州に生まれ、父は平重国という
高倉院の武者所に仕えた武士で、母は湯浅宗重の娘です。
治承4年(1180)正月に母が他界し、
次いでその年の9月に父重国が東国で戦死しました。

それは丁度頼朝が兵を挙げた時期と重なります。

石橋山合戦で敗れた頼朝は、真鶴から土肥実平らと
小舟に乗り安房へ逃れ、安房の国から上総へ向かいました。
この時、千葉常胤は一族とともに平氏方の下総国の
目代を討ち取り、下総国府に到着した頼朝を迎えました。
重国はこの合戦で死んだと思われ、重国は目代自身であったか、
目代とともに下向した武士と考えられています。
こうして明恵は8歳で両親を一時に失い、
母の妹の夫・崎山良貞に養われ、9歳で叔父の上覚を頼って
高雄神護寺に入り、文覚・上覚を師として勉学に励みます。
16歳で上覚について出家し、東大寺戒壇院で授戒します。

文覚は早くに明恵の器量を見抜き、殊のほか可愛がりましたが、
明恵から見た文覚は必ずしも尊敬できる師ではなかったようです。
若き日の文覚は上西門院(後白河院の同母姉)に仕えた
武士でしたが、19歳で出家し厳しい修行を積みます。
神護寺再興のために後白河院の宴席を騒がして
伊豆に流され、そこで頼朝と出会います。『平家物語』には、
頼朝に平家打倒の挙兵を勧めた人物として描かれています。
その後、文覚は赦免され、頼朝が天下をとると、
その力を背後に上覚とともに神護寺の復興に奮闘します。

明恵の祖父の湯浅宗重は屋島合戦に敗れ、落ち延びてきた
平忠房(重盛の子)を匿い合戦となり、忠房は捕えられて処刑されますが、
頼朝は湯浅氏に対しては寛大な処置をとっています。
これは文覚の力によるものと思われます。


幼くして孤児となった明恵は釈迦如来を父と仰いで、名声を求めたり、
権益を得ようとはせず、厳しく戒律を守り、修行に励みました。
迷いを断つために本尊の前で右耳を切るという
情熱の激しさにおいて、
文覚に相通ずるところがありますが、
明恵はこれを抑えることを知っていました。


明恵の座右の銘として「あるべきようわ」があります。
「僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきように。」
人間は、時・所・位に応じて、
「阿留辺幾夜宇和」を心がけて生きていかねばならない。と

常に心がけながら仏道修行に専念していました。
なお、開山廟脇にたつ雄大な宝篋印塔は、わが国宝篋印塔中、
早期の形式に属する貴重なもので重要文化財に指定されています。
『アクセス』
「高山寺」京都市右京区梅ケ畑栂尾町
8
京都駅からJRバスで栂ノ尾下車すぐ 神護寺からは徒歩約30
『参考資料』
田中久夫「人物叢書明恵」吉川弘文館 山田昭全「人物叢書文覚」吉川弘文館 
白洲正子「明恵上人」講談社文芸文庫 「源頼朝のすべて」新人物往来社 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社  

「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」駿々堂
 林屋辰三郎「京都」岩波新書「神護寺 高山寺」小学館



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