京都市左京区岡崎の疎水べり、冷泉通と東大路通の交差点あたりに
得長寿院(とくちょうじゅいん)跡の碑がたっています。
得長寿院は平清盛の父・忠盛が備前守(岡山県東南部)だった時、
鳥羽上皇のために建立し、平氏が中央政界で躍進するきっかけとなった建物です。
上皇の御願寺として天承二年(1133)に完成、その本堂の中央に丈六の観音像、
左右に等身の正観音像五百体ずつ計千一体の観音像を安置し、
各々の胎内には小仏を納めたという。
この堂宇は南北に長くて東面し、三十三間の構造をもっていました。
これをモデルにして造営されたのが、京都東山七条に現存する
三十三間堂(蓮華王院)で、構造・規模・景観ともほぼ同じと見られています。
東山の三十三間堂は後白河法皇の御願寺で、
法皇の御所である法住寺殿の西に清盛が建立しました。
得長寿院は源平争乱後の元暦2年(1185)に大地震で倒壊、失われてしまいました。
平氏は桓武天皇の末裔ですが、皇族を離れ平姓を賜って臣下に下って以来、
皇族の血筋でありながら、長い間受領階級の身に甘んじていました。
地下の受領だった忠盛が蓄えた財力にものをいわせ、鳥羽上皇に得長寿院を
建立・寄進したことが『平家物語・巻1・殿上の闇討』に書かれています。
上皇は大いに喜び、忠盛を都近くの但馬国(兵庫県)の国司に任命するとともに
内裏への昇殿を許しました。こうして忠盛はさらに巨大な富を
手中に収めることになるのです。忠盛36歳の時です。
御願寺(ごがんじ)は天皇・上皇・皇后などが建てる寺をいい、
臣下の者がその資金を出して造営献上します。
受領階級は諸国の国守のことで、当時「受領は倒るる所に土をつかめ」という
諺があり、転んでもただでは起きない受領の強欲なやり口を表し、
『今昔物語』には、信濃守藤原陳忠(のぶただ)という欲の深い
受領の話が書かれています。受領になると巨大な利権が得られ、
特に富裕国の国守になると、4年の任期中に一財産築いて帰ってきます。
忠盛は富裕国備前の国守だったのです。
内裏の昇殿は、宮中の清涼殿の「殿上の間」への出入りが許され、
殿上人と呼ばれて本物の貴族の仲間入りをします。
ふつうの貴族は20歳前後で昇殿することが多いのですが、
忠盛は36歳の遅い昇殿でした。
殿上の闇討ち1(清涼殿殿上の間)
『アクセス』
「得長寿院跡の碑」
京都市左京区岡崎徳成町 市バス「熊野神社前」徒歩6,7分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 「京都市の地名」平凡社
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社