平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




高倉上皇の厳島御幸が行われたのは、ちょうど清盛が
鳥羽殿に後白河法皇を幽閉している時でした。
何かと横暴な振舞いの多い清盛を諌め、法皇と清盛を結びつける
役だった重盛(清盛の嫡男)が病死、
しかし法皇は重盛の死を悲しむ様子も見せず、
重盛の知行国・越前を取り上げて清盛を挑発します。これに激怒した
清盛は、治承3年(1179)の政変(クーデター)を起こし、
後白河法皇を鳥羽殿(京都市伏見区)に幽閉しました。

高倉天皇の母は清盛の妻時子の妹の建春門院、父は後白河法皇です。
清盛の娘徳子を后とし、二人の間には皇子(安徳天皇)が
誕生しています。治承4年2月清盛の意向により、高倉天皇は
退位して上皇となり、僅か三歳の安徳天皇が皇位を継ぎました。
天皇が譲位してはじめての諸社への御幸は八幡、賀茂、春日などが
習わしですが、
高倉上皇は二人の対立に心を痛め清盛の心を
和らげようと、同年3月清盛が信仰する厳島神社に出発しました。

途中、鳥羽殿に幽閉されている父を見舞い、鳥羽の草津から川船で
淀川を下る途中、石清水八幡宮へ船中から御幣を奉り、藤原邦綱の
寺江亭に到着すると、福原の清盛から唐船が廻されていました。
その船で入江を巡航、翌朝、悪天候のために陸路をとり
上皇は輿、貴族たちは馬に乗り、福原の清盛邸に着きました。

清盛の山荘には、木立庭の有様、絵に描きとめたいと思うほどの
美しい庭があり、そこに厳島内侍(巫女)がやって来て、
ある者は唐風の装いをして舞を舞い、
ある者は殿上で神楽を歌ったりして一行をもてなしました。

福原からは清盛も唐船に乗り、一行を厳島まで先導しました。

厳島では写経が奉納され、舞楽が演じられるなど
平家一門の歓迎を受けた後、神社の社・末社などを巡拝し、
夕刻に瀧宮神社を参拝しました。
21日間のこの旅で高倉上皇は疲労困憊し、
その後も以仁王の挙兵や福原遷都などの心労が重なり、
治承5年(1181)正月、21歳の若さで崩御しました。
今回は高倉上皇が厳島御幸の際に参拝した厳島神社背後の霊山、
弥山(500m余)中腹にある瀧宮神社をご紹介します。

廻廊

本殿・幣殿・拝殿

廻廊から望む大鳥居

西の松原先端近くに祀られている清盛神社

承安4年(1174)後白河法皇が参詣された折の御幸松の遺木です。


厳島神社H・Pよりお借りした絵図に一部文字入れさせていただきました。

弥山登山口、石造四脚鳥居から白糸川の渓谷沿いに道は上りになります。

滝宮神社に上る石段の左側にある巨大な石は「御幸石」です。
高倉上皇が厳島御幸の時、この石の上に輿を据えて白糸の滝をご覧になったという。


瀧宮神社の背後に流れる白糸の滝

導師となった三井寺の公顕僧正が読んだという一首
♪雲井より落ちくる滝の白糸に 契を結ぶことぞうれしき  

(空から落ちてくる白糸のような滝、
その滝宮と縁を結ぶことができるのはまことに嬉しいことよ)
<

瀧宮神社
「瀧宮神社(現地駒札)
御祭神 湍津姫命(たぎつひめのみこと)
相殿神 大歳神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)
例祭日 二月一日
御由緒 御鎮座の年月不詳
治承四年(1180)高倉上皇が平清盛らと厳島参詣した折、三月二十七日夕刻に
この瀧宮神社を参詣したと「高倉院厳島御幸記」に記されている。
平成十七年九月六日台風十四号の土石流により本殿が流失し、
現在の本殿は平成二十四年四月に再建されたものである。」

平成24年7月、再度厳島神社を訪ね瀧宮神社を参拝しました。
『参考資料』 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店
 「伊都岐島」厳島神社社務所


 

 

 

 

 

 

 

 

 



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鳥羽離宮は、平安時代後期に洛南鳥羽の地に
白河・鳥羽両上皇が造営
した譲位後の御所です。
ただの隠居所ではなく、院政政治の拠点ともなりました。

応徳3年(1086)、備前守藤原季綱(すえつな)から寄進を受けた
土地を中心に、讃岐守高階泰仲らの受領層が造営を担当しました。
御堂および苑池からなり、
城南離宮(せいなんのりきゅう)とも鳥羽殿ともよばれました。
その敷地は、約180万平方メートルという広大なもので、
池は大海のごとくといわれ、離宮の南北の入口には
楼門があり、武士が警備していたという。

白河上皇から引き継いだ鳥羽上皇も次々と御堂や寝殿、
庭園などを造営してほぼ完成、鳥羽離宮周辺の道路も整備され、
また離宮内への各御殿には舟で往来し、
院政期の政治、経済、文化の中心地となりました。

『平家物語・巻3』の「城南の離宮の事」には、平氏の全盛期、
後白河法皇が清盛によって鳥羽離宮(田中殿)に幽閉され、
この地で失意の日々を過ごした情景が描かれています。

平安京の南に位置する鳥羽の地は、鴨川と桂川の合流点に近く、
鳥羽の作り道を3kmほど北上すれば、
羅城門、朱雀大路に至るという水陸交通の要衝でもありました

なお、鴨川は現在、当時と異なり大きく西寄りを流れています。

鳥羽作道と鴨川との間には、広大な苑池を囲んで南殿・北殿・泉殿・馬場殿・東殿・
田中殿と呼ばれた御所が造営され、各殿舎にはそれぞれ御堂(寺院)が付属しており、
南殿には証金剛院、北殿に勝光明院、泉殿に成(じょう)菩提院、
東殿に安楽寿院、田中殿に金剛心院が設けられました。

鳥羽院は白河院が崩御すると、すぐに鳥羽殿や白河殿・御所の蔵に
封をつけさせて宝物の分散を防ぎ、保延2年(1136)、
鳥羽離宮に経蔵(宝蔵)と阿弥陀堂からなる勝光明院
(しょうこうみょういん)を造営し、宝蔵に列島内外の宝物を納めました。
阿弥陀堂は平等院鳳凰堂を、
経蔵は同じく平等院の経蔵を模して建てられています。

南殿の北に造られた北殿の勝光明院は、その基壇の一角と園地、
そして東側で経蔵が調査で見つかっています。
経蔵は堀と築地塀に囲まれていました。

北殿・南殿地域航空写真(西より 1970年ごろ)
手前右の広場が鳥羽離宮公園、公園の北側が秋の山です。
鳥羽殿の発掘調査は、この地域から開始されました。

作道を挟んだ西側一帯には、院政を執り行う諸機関が建ち並んでいましたが、
この区域は後に鴨川の流路変更により全て削られてしまいました。
当時の記録類から御倉町、院庁、公卿らの宿所などを見ることができます。


城南宮HPより、城南宮周辺地図を一部お借りし、それに文字入れしました。

安楽寿院境内の鳥羽離宮復元図





鳥羽離宮では法会の他、歌会や舞楽の宴・競べ馬などの華やかな雅遊も
しばしば催されましたが、承久の乱後は次第に衰退し、今その面影は
わずかに東殿の一部であった安楽寿院や白河・鳥羽・近衛各天皇陵、
馬場殿跡の城南宮、秋の山、北向(北向山)不動院などを残すだけです。
現在遺跡の一部が国の史跡に指定され、鳥羽離宮跡公園となっています。

地下鉄・近鉄竹田駅から10分ほど歩いた所には、
安楽寿院、鳥羽天皇陵、近衛天皇陵があります。
安楽寿院は鳥羽上皇が離宮の東殿の一宇に無量寿仏三尊を安置したのが
始まりで、保元元年(1156)7月鳥羽
上皇はここで崩御しました。

臨終の直前、崇徳新院は父鳥羽上皇のもとを訪れましたが、
対面を阻止されやむなく白河北殿に入り、
そこへ宇治から藤原頼長も駆けつけました。保元の乱の始まりです。


安楽寿院の境内には、鳥羽離宮復元図があります。

  
安楽寿院本坊の西にある鳥羽天皇安楽寿院陵

鳥羽天皇陵の左側にある冠石は、天皇が法皇になった時、
冠を埋めた所と伝えられています。

近衛天皇陵

安楽寿院本坊の南にある近衛天皇安楽寿院陵は、
豊臣秀頼が慶長年間に再建したものです

近衛天皇の母美福門院は、遺言により高野山に葬られています。
高野山不動院・美福門院陵  

江戸時代に近くで掘り出されたという三尊石仏は、藤原時代の石仏で安楽寿院前の
小屋の中にあり、向かって右に釈迦三尊、左に薬師三尊が安置されています。
他の一面、弥陀三尊は京都国立博物館に寄託されています。

安楽寿院から西へ向かうと、北向不動院、白河天皇陵があります。
北向不動院は、大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により興教大師を
開山としたのが起こりで、不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため
北向きに安置し、上皇から北向不動院の名を賜ったといわれています。



白河天皇成菩提院陵

北向不動院の西方にあり、周囲には空堀をめぐらせています。(竹田浄菩提院町)

田中殿は鳥羽殿に最後に造営された御所です。
鳥羽上皇の皇女八条院の御所として上皇が建て、
東殿の西側の「田中」とよばれた場所にあり、周囲は池で囲まれ
舟つき場や西には寝殿、東には金剛心院などがありました。
治承3年(1179)のクーデターでは、清盛が後白河上皇をこの御所に幽閉しました。
現在、田中殿があった辺りは整備されて田中殿公園となっています。


保元の乱の直前、崇徳新院は父鳥羽上皇の危篤を聞いて
安楽寿院に駆けつけましたが、
対面できず田中殿で7日程とどまってから
白河にある白河北殿に移りました。

西行寺跡 白河天皇より北へ150m竹田浄菩提院町の一角に
自然石の「西行寺跡」の碑があります。


佐藤義清(西行)が鳥羽殿の北面の武士として仕えていた頃の邸跡と伝えられ、
傍に西行寺内にあった地蔵堂が建っています。
江戸時代まで草庵が残っていましたが、明治11年、
京都市伏見区竹田内畑町の観音寺に併合されました。

西行は周辺のわびしい風景を次のように詠んでいます。
♪何となく物悲しくぞ見えわたる 鳥羽田の面の秋の夕暮
西行寺址・観音寺(西行)  

城南宮は方除けの神さまとして庶民の信仰を集めています。
馬場殿にあった城南寺が始まりとされ、今も曲水の宴などが行われています。





社伝によれば神功皇后の三韓征伐の際、船上に立てた旗に皇后と
八千戈神(やちほこのかみ)の神霊を添えて奉斎したのが起こりとされています。
鳥羽離宮が造営されるとその鎮守社となり、離宮の年中行事として
競馬(くらべうま)・流鏑馬などが盛大に開催されました。
応仁の乱後、城南寺は退転、神社だけが残り、
いつしか城南宮と呼ばれるようになりました。

後鳥羽上皇が承久の乱の際、城南寺の流鏑馬の武者揃えと称して
兵を集め、討幕に踏み切ったことはよく知られています。
そして京に攻め上った北条氏に上皇は大敗し、隠岐島に流罪となりました。


城南宮の南西は南殿にあたり、秋の山(南殿庭園の築山の遺構)があり、
辺りは鳥羽離宮公園となっています。


浄菩提院塚陵墓参考地

後宮塚陵墓参考地

『アクセス』
「安楽寿院」京都市伏見区竹田内畑町118 
近鉄京都線・地下鉄烏丸線「竹田」駅下車徒歩7、8分

『参考資料』
井上満郎「平安京の風景」文英堂 「京都府の歴史散歩」(中)山川出版社 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂 「平家物語図典」小学館
 白洲正子「西行」新潮文庫
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン


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