平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




讃岐国府跡の裏手、城山(きやま)の麓に小高い丘があります。鼓岡です。
この岡には雲井御所から移った崇徳上皇が崩御するまで約6年間住んだ木の丸殿がありました。

鼓岡全景。

崇徳上皇を祀る鼓岡神社。

鼓岡神社由緒
当社地は保元平治の昔崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、
長寛二年(一一六四年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り
仙居あそばされた聖蹟である。建久二年(一一九一年)後白河上皇近侍
阿闍梨章実、木の丸殿を白峯御陵に移し跡地に之に代わるべき祠を建立し、
上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の草創と云はれている。
伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い、
鳴けば聞き聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎすと御製された。
時鳥上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には木の丸殿、擬古堂、観音堂杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、
鼓岡文庫などがあり附近には内裏泉、菊塚、盌塚などの遺跡がある。
鼓岡神社(現地説明板より)

石段の正面には鼓岡神社鳥居、右手に擬古堂(ぎこどう)の鳥居が見えます。
左手の広場には、鼓岡神社の由緒を書いた説明板などがあります。

左から説明板、鼓岡文庫、崇徳上皇念持佛三尊堂、鼓岡碑。

鼓岡行宮旧跡碑

明治40年に府中村の有志が建てた縦3㍍、横2㍍の大きな石碑です。
題字は閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の
篆書体(てんしょたい)の文字で彫ってあります。



総坪数30坪ある擬古堂。  
 「くちぬとも 木丸殿を 忘れじと 石に心に 深く刻めり」と詠んだ
細川潤次郎は土佐藩士で、幕末から大正時代にかけての法制学者・教育家です。

擬古堂
保元元年(一一五六)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、
長寛二(一一六四)年、ここ鼓岡にて四五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは、御所(天皇が住む屋敷)にも関わらず、
とても粗末な造りであったため「木の丸殿(このまるでん)」と呼ばれ、
上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも
次のように詠まれています。 
朝倉や 白峯寺に 入りながら 
     君にしられで 帰る悲しさ
この建物は、大正二(一九一三)年、崇徳上皇七百五十年大祭が
挙行された際に造られたものです。

粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため
「擬古堂(ぎこどう)」という名称が与えられました。
また『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、
上皇の菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により
御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の
頓証寺殿(とんしょうじでん)となったとされています。
平成二十五年三月 坂出市教育委員会(現地説明板)

木の丸殿は、とても粗末な建物だったようですから、擬古堂も皮のついた
丸木で造られ、上皇の住まいは質素なものであったということを表わしています。
一方、讃岐国府が3年がかりで建設したのだから、かなりの規模の
御所であったという説もあります。辺りには南海道の甲知駅跡があり、
擬古堂は甲知の御所ともよばれています。


眺望がいいので讃岐府中駅から讃岐国府跡にかけて、
さらに国分寺跡までくまなく見渡せます。

崇徳上皇歌碑

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の  われても末に 逢わむとぞ思ふ 


岩にせき止められて、二つに分かれた急流がやがて一つになって合流するように、
今はあなたとの仲をさかれても、いつか必ず逢おうと心に決めています。
崇徳天皇が譲位してまもなくの作とかで、
百人一首第77番、『詞花集』恋歌で広く知られています。

杜鵑塚
 啼けば聞く聞けば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす 崇徳天皇
ほととぎすの鳴く声を聞けば、崇徳天皇が都を思い出すので、
里人がホトトギスを殺したり、追い払ったりしたので、
のちにほとぎす塚をたてて供養したそうです。(駒札より)


この歌は実際には、後に承久の乱に敗れ隠岐の島に流された
後鳥羽上皇が配所で詠んだものです。
それが崇徳上皇作の歌として誤り伝えられ、
上皇の悲劇の生涯に同情した人々によって語り継がれてきたようです。
『アクセス』
「鼓岡神社」坂出市府中町乙5116 讃岐府中駅から徒歩約15分 
『参考資料』「香川県の地名」平凡社、1989年

 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年


 



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 崇徳上皇は鼓ヶ岡の木の丸殿(このまるでん)が完成したため、
雲井御所からそこへ移り、崩御までのおよそ6年を過ごすことになりました。
これまで上皇は綾高遠館の隣に住み、雲井御所での生活は
比較的自由で穏やかなものでしたが、
木の丸殿は国府の裏手にあり、
国府の役人の監視も厳しかったはずです。
これまでとは環境が大きく変わってしまい、
高遠の屋敷からも遠くなり、
不自由な生活を強いられることになりました。
そのためか上皇は悲嘆にくれる毎日を送るようになったという。
時には、開法寺や綾川の土手などを散策することもあったのでしょうが、
いっそう仏道修行に打ち込むようになったのはこの頃です。

坂出市はかつて讃岐国府が置かれた地で、政治・文化の中心地として栄えていました。
JR讃岐府中駅西北方向の田園地帯の中に「讃岐国府跡」の石碑が建っています。

国府とは各国ごとに置かれた役所のことで、国司(県知事)らが政務を執る施設です。
国司の下には数百人もの役人が多くの役所の施設で働いたとされ、
国府はこれらが集まった官庁街、今でいう都道府県庁にあたります。
詳しい場所はまだ特定されていませんが、
国府につながりのある
地名が多く残っていることから、
鼓ヶ岡神社の北東一帯、綾川までが讃岐国府跡と推定されています。



この辺りは古代には阿野郡甲知郷とよばれ、国府や南海道の
甲知(こうち)駅が置かれ、
古くから讃岐国(香川県)の中心地でした。





讃岐国の中央を標す境石(堺石)。

境石から綾川を渡って国府跡へ。
綾川は讃岐国府近くを流れるためその名が都に聞こえ、
藤原孝善(たかよし)は、
「霧晴れぬ 綾の川辺に 鳴く千鳥  声にや友の ゆく方を知る」と詠み『後拾遺集』
以後、歌の名所となりました。

(霧の晴れない視界の悪い綾川の川辺で鳴いている千鳥は、
姿が見えなくても友の鳴く声によってその居場所を知るのであろうか。)






国府の規模は、碑のある場所を中心に八町(約870㍍)四方だったと見られています。

綾北平野の南限にあって、三方を山で囲まれたこの地域は大化の改新による
律令制度によって讃岐国府の置かれたところである。
附近には、垣ノ内(国庁の区域)・張次(ちょうつぎ・諸帳簿を扱った役所)・
状次(じょうつぎ・書状を扱ったところ)・正倉(国庁の倉)・
印 鑰(いんやく・かぎの保管所)・聖堂(学問所)などの地名があり、
名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、
木ノ丸殿(擬古堂)・内裏泉・盌塚・菊塚など保元の乱によって讃岐に流された
崇徳天皇の悲しい遺跡は、保元の昔を物語る。また白鳳期建立の開法寺の塔礎石や
巨石墳新宮古墳・式内大社城山神社など古代~中世の遺跡も多く、
ここに訪れる人々を古代讃岐のロマンへ誘うところである。(現地説明板)
国府跡一帯は、近年宅地化が急速に進んでいるため、
発掘調査が継続して行われています。

讃岐国は大国に次ぐ上国で、国司として赴任した人々には、
紀夏井(きのなつい)や菅原道真、『和漢朗詠集』の編者
藤原公任(きんとう)など史上有名な人物も多くいます。
夏井は善政を行い、四年の任期が終えた時、百姓たちに望まれて
さらに二年任期を延長したといわれ、道真は五年間在任し、
大旱魃(かんばつ)の時、死装束を着て国府西にある城山(きやま)神社で、
七日間降雨を祈願し、雨を降らせ百姓たちを喜ばせたと伝えられています。
平安時代中頃になると、国司に任命されても現地に赴任しない
遙任(ようにん)が増え、代わりに目代と呼ばれる
代理人を現地へ派遣するなどしてその任にあてました。

京都の草津湊から崇徳上皇の船には、国司の藤原季行(すえゆき)が同行し
厳重な監視の下、松山の津へ到着しました。
遙任国司である季行は、讃岐へ赴任せず都に住んでいたのです。

鼓ヶ岡の傍には、白鳳時代から平安時代末期にかけて、国府とも強い関連性をもった
巨刹開法寺(かいほうじ)がありました。今は開法寺というため池となり、
時に古瓦が発掘される程度でしたが、平成11年から同20年にかけて行われた
周辺の発掘調査により僧坊や講堂、廻廊のものと思われる礎石も見つかり、
寺院内の大まかな建物の配置がわかりつつあります。

またため池のほとりには、この寺の塔跡(県史跡)が残っています。
土壇の上に自然石の礎石が並び、その中央に直径80㌢の柱穴底に、
径50㌢ほどの舎利孔をもつ心礎があります。平安時代前期、
国司を務めた菅原道真の漢詩集『菅家文草(かんけぶんそう)』の中には、
国府周辺を詠んだ詩が収められ、松山の海辺に官舎の別館が
軒を並べていたことなど、当時の府内や松山津の様子が知られます。

その巻三の「客舎冬夜(きゃくしゃとうや)」という詩に「開法寺」という名が見え、
「開法寺は府衙の西に在り」などと書き残されています。
この一文が、讃岐国府の位置を決める重要な手がかりとされています。 
『アクセス』
「讃岐国府跡の碑」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約16分
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年

 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年



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姫塚は崇徳上皇と綾の局との間に生まれた皇女の墓であるといわれ、
ブロック塀に囲まれた広い墓地の中に祀られています。

姫塚は広大な水田地帯の一角にあります。



姫君は幼くして亡くなったため、雲井御所の西方に埋葬し、
綾家では毎年盂蘭盆(うらぼん)に燈明を灯すという。


姫塚
 一一五六年、保元の乱にやぶれて讃岐に配流となられた崇徳上皇は、
松山の津に御着になられました。ところがまだ御所ができていないため、
在地の有力者である綾高遠が自分の館を修繕して、仮の御所とされたと
つたえられており、雲井御所跡として今も伝えられています。
さてこの仮の御所にお住まいになられていた頃、
何かと不便があってはならないとのことで、綾高遠息女である綾の局が
上皇の身の回りの世話をされておりました。
この綾の局と上皇の間に皇子と皇女が誕生したと伝えられております。
この姫塚はその皇女の墓であると伝えられております。

1坪余りの塚で高さは1メートルほどです。


姫塚からコンクリート舗装の農道を東へ200メートルばかり行くと、
綾川の堤防西側の水田の中に、高さ4メートルの碑が建っています。
碑には崇徳上皇がこの辺で過ごしたことを示す
「崇徳天皇駐蹕(ちゅうひつ)長命寺舊趾」と刻まれています。

4坪余りの地に花崗岩の石碑が建っています。

長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が建ち並ぶ寺院でしたが、
戦国時代長曽我部の兵火によって焼失し、さらに万治年間(1658~62)の大洪水で
この付近は荒廃したため、寺跡は必ずしも明確ではありません。崇徳上皇は
讃岐に上陸してから3年ほど後に雲井御所から鼓ヶ岡の木の丸殿に移りました。
去るにあたり、長命寺の柱に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 
空行く月の影にまかせて」と書き残したといわれ、
この歌から行在所はのちに雲井御所とよばれるようになりました。
長命寺に兵火が及んだ際も、上皇が墨書した柱だけが焼け残り、
万治年間の洪水で流されるまで野中に立っていたという。(『綾北問尋鈔』)

地元の伝承では、崇徳上皇の仮御所として御堂(仏堂)を提供していた綾高遠が、
いくら配流といっても上皇を自分の館内に留め置くのは憚られるとして、
近くの長命寺へ移したとしています。
上皇のここでの暮らしぶりは、長命寺の境内に射山(まとやま)を設け、
近郊の武士を集めて射芸を競って過ごしたり、ときには松ヶ浦を訪れて涼をとり、
貝拾いなどをして、しばしこの世の憂いを忘れたという話もあります。
松ヶ浦は当時白砂青松の景勝地で、松山の津を含む雲井御所北方一帯の海岸をいい、
いまは干拓されて港の面影はありませんが、
上皇はこの浦の景色を特に気に入られたようです。
『後拾遺集』(巻8・別・486)によると、
「讃岐へまかりける人につかはしける」という詞書を添え、中納言定頼は
「まつ山の松の浦風吹き寄せて 拾うて忍べ恋忘れ貝」と詠んでいます。

『保元物語』が讃岐配流となった崇徳上皇がまず入ったと記す
「二の在庁散位高遠が松山の御堂」を『綾北問尋鈔(あやきたもんじんしょう)』や
『讃岐国名所図会』は長命寺とし、『全讃史』は長命寺辺にあった綾高遠の邸としています。


現在、長命寺跡と雲井御所跡との間には綾川が流れていますが、
当時の川筋はもっと白峯側だったようですから、
高遠の屋敷から長命寺へは歩いて2、3分の所にあったはずです。
高遠の館や雲井御所、長命寺も同じ一画にあったともいえます。

綾川

綾川に架かる新雲井橋。

綾川ほとりにある綾氏の末裔が住んでおられる立派な旧家、その東側に雲井御所跡。

讃岐では近世に多くの歴史や地誌に関する書物が記されました。現在坂出に
数多く残る崇徳院伝承地のほとんどは、これに基づいてその時代に設けられたものです。
今日の坂出市の名所旧跡を著した『綾北問尋鈔』が編纂されたのは、
宝暦五年(1755)のことで、
著者は西庄村(坂出市西庄町)の大庄屋の本条左衛門です。
この書物には崇徳院関係の伝承地も記され、著者はこの書をまとめるにあたって
土地の古老の話を尋ねまわっています。
武殻王(たけかいこおう)、神功皇后、
平家の落人、『太平記』の記事、長曾我部の侵入などの歴史を述べながら、
地誌と伝説も加えて興味深く書いています。
『アクセス』
「姫塚」琴参バス王越線雲井橋下車徒歩約10分又は高松善通寺線「八十場駅」下車 徒歩約50分
 「長命寺跡」坂出市林田町 坂出駅から車で約15分 琴参バス王越線雲井橋下車徒歩約8分
レンタサイクル JR坂出駅構内の坂出市観光案内所(0877・45・1122)
料金は1日200円(500円の預かり金が必要)午前9時から午後4時半。
『参考資料』
「日本名所風俗図会」(四国の巻)角川書店、昭和56年 「香川県の地名」平凡社、1989
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996
年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998

 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年



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讃岐配流となった崇徳院は松山の津に到着しましたが、急なことで御所の
用意ができてなかったため、土地の豪族で讃岐国府に勤める役人であった
綾高遠(あやのたかとお)の松山の御堂を住まいにしました。綾氏は景行天皇の血を引く
日本武尊(やまとたけるのみこと)の皇子、武殻王(たけかいこおう)の
流れをくむ讃岐の古代豪族で、高遠はその一族と推測されています。

坂出市は東部および南部のほとんどは山地で、市街地は綾川の三角州にひらけています。
その大半は江戸時代には塩田がつくられ、その後埋め立てられているので、
海岸線はずっと北に伸び、昔の面影はありません。
綾川下流の右岸にある松山は、この川の堆積作用によって形成された地にあります。

その後、松山の御堂は綾川の洪水により流失し、あたりは田となっていましたが、
天保六年(1835)に高松藩第九代藩主松平頼恕(まつだいら よりひろ)が
場所を推定して整備し、雲井御所之碑を建てました。松平頼恕は尊王攘夷を強硬に
主張した水戸斉昭(なりあき)の兄にあたり、やはり尊王の志が厚い人物でした。

綾川に架かる新雲井橋。

崇徳院は都を懐かしんで雲井御所近くに流れる綾川を鴨川とよび、
今でも土地の人はこのあたりの綾川を鴨川とよんでいます。







雲井の御所跡は、綾川の土手を下りたところ、
遠くを山々に囲まれた田園地帯にあります。

地元の人が綾高遠の子孫の家だと教えてくれた立派な民家には、
綾○○という表札がかかっています。



綾家の東隣にある雲井の御所跡。





崇徳上皇の守り本尊の観世音を安置したものとして、土地の尊崇が厚い中川観音堂。
綾高遠の子孫、林田太次郎が宝永元年に奉納した鰐口(わにぐち)。

「この地は、保元の乱に敗れ讃岐に配流となられた崇徳上皇が、仮の御所として
過ごされた場所と伝えられ、天保六年(1835)高松藩主松平頼恕公により
雲井御所之碑が建立されている。保元の乱は平安時代の末、摂関家の藤原頼長と
忠通の争いと皇室である崇徳上皇と後白河天皇の争いが結びついて激しさを増し、
保元元年(1156)鳥羽法皇の死を契機として一挙に激化した争乱である。
結果は崇徳上皇側の大敗に終わり、上皇は讃岐に配流となった。当時三十八歳の
上皇は、国府の目代である綾高遠の館を御所とされたと伝えられている。
「綾北問尋抄」「白峰寺縁起」などでは、仮の御所で三年を過ごされながら、
都を懐かしく思い、その御所の柱に御詠歌を記されたとされ、その一首に、
ここもまた あらぬ雲井となりにけり  空行く月の影にまかせてと詠まれた歌から
雲井御所と名付け、この地は雲井の里という、と伝えられている。またこの里に
上皇が愛でた「うずら」を放たれたことから、この地は「うずらの里」とも呼ばれている。

雲井御所で約三年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷御され、
長寛二年(1164)八月 四十六歳の若さで崩御なされた。崩御の後、京都より御返勅が
あるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年九月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。
時代を経て、雲井御所の所在が不明になっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が
上皇の旧跡地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる
綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。綾氏は石碑の前に大蘇鉄を二株植えたといわれ、
今も大蘇鉄が繁っている。 平成十三年十二月 坂出市教育委員会」(現地説明板)

松平頼恕はこの碑を建てる一方、現在の高松市円座町に住んでいた綾高遠の子孫を探し出して
ここに住まわせ、田地2ヘクタール(2万平方メートル)を与えて永代碑の見守りを命じました。
『アクセス』
「雲井御所跡」香川県坂出市林田町中川 JR坂出駅から車で約10分 
琴参バス王越線「雲井橋」下車徒歩約6分(バスの本数が少ないので、ご注意ください。)
琴参バス坂出営業所 ☎0877-46-2213
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年 
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
 県史37「香川県の歴史」山川出版社、1997年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
「角川日本地名大辞典(37)」角川書店、昭和60年




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讃岐へ配流となった崇徳院は、保元元年(1156)7月23日、
草津湊から屋形船に乗り込み、淀川を下り大阪湾から瀬戸内海に出ました。
途中には、いろいろな名所旧跡がありますが、船からは移り行く外の景色を
眺めることもできず、警固の者から「ただ今須磨の関の沖を通っています。
あそこに淡路島が見えてきました。」という声だけをたよりに、
それぞれの地の故事に思いを馳せて心を慰めるうちに、院を乗せた船は
仁和寺を出発してから、11日目に松山の津(坂出市高屋町)に到着しました。

現在では、高松が四国の玄関口となり、高松港がよく使われますが、
当時、松山の津のあるあたりが大きな入り江になっていて、四国随一の良港でした。
現在の松山小学校付近からは、弥生時代の製塩土器などが発見されるなど、
古代には、海岸線が今よりも内陸まで入り込んでいたことが推測されています。

松山の津は、高屋と青海(おうみ)の境を流れる青海川の当時の河口にあったとされ、
中世までの河口は現在の河口より約2キロ内陸に入った地点、雄山の北東麓と
推定されています。松山の津は
綾川の上流にある讃岐国府の港であり、四国の
玄関口のひとつでもあることから、かなりの賑わいを見せていたと考えられます。


2つ並んだおむすび山、雌山(めんやま)と雄山(おんやま)の間を
さぬき浜街道が走っています。

さぬき浜街道沿いのガソリンスタンド近くに、
松山の津の石碑と説明板が建っています。



讃岐に流された崇徳院が最初に上陸したとされる場所です。
碑には、「崇徳天皇御着船地 松山津」と彫られています。

松山の津(現地説明板)
崇徳天皇(1119~1164)は平安時代末期に在位された第75代の天皇でしたが、
当時は上皇(退位した天皇)が政治の実権を握る「院政」という
政治のやり方が行われており、崇徳天皇の在位中、白河上皇、鳥羽上皇という
強力な権力者のため、政界の中枢に地位を確立できませんでした。
また実子である重仁親王の皇位継承の望みも絶たれてしまい、
崇徳上皇は、鳥羽上皇、後白河天皇やその周囲に対し強い不満を抱いていました。
これに藤原摂関家の権力争いも加わり、京の都には不穏な空気が流れるようになっていました。
そして一一五六(保元)年七月、鳥羽上皇の崩御をきっかけに、
ついに戦闘行為へと発展します。(保元の乱)。
しかし戦い自体はあっけないもので、後白河天皇方の奇襲により、
一日で決着がついてしまいました。敗れた崇徳上皇は讃岐へ配流となり、
ここ松山の津に着いたとされています。津とは港のことであり、
当時の坂出地域の玄関口となる場所でした。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、
この雄山の麓も海であったと考えられます。崇徳上皇はその後8年間を
坂出で過ごされましたが、結局京都に帰ることはできず、
一一六四(長寛二)年に崩御され、白峰で荼毘に付されました。 
浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく『保元物語』 
この松山の津の石碑は、松山地区の郷土史である『続・松山史』の編纂を記念し、
昭和六十一年に建てられたものです。 平成二十三年九月二十七日 坂出市教育委員会


車の往来が激しいさぬき浜街道と雌山。
『アクセス』
「松山の津の碑」坂出市高屋町
JR坂出駅から車で約15分
JR坂出駅から琴参バス王越線「高屋局前」下車 徒歩約7分
(バスは1時間に1本程度です。)

琴参バス坂出営業所 ☎0877-46-2213
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年




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