
姫塚は崇徳上皇と綾の局との間に生まれた皇女の墓であるといわれ、
ブロック塀に囲まれた広い墓地の中に祀られています。

姫塚は広大な水田地帯の一角にあります。


姫君は幼くして亡くなったため、雲井御所の西方に埋葬し、
綾家では毎年盂蘭盆(うらぼん)に燈明を灯すという。

姫塚
一一五六年、保元の乱にやぶれて讃岐に配流となられた崇徳上皇は、
松山の津に御着になられました。ところがまだ御所ができていないため、
在地の有力者である綾高遠が自分の館を修繕して、仮の御所とされたと
つたえられており、雲井御所跡として今も伝えられています。
さてこの仮の御所にお住まいになられていた頃、
何かと不便があってはならないとのことで、綾高遠息女である綾の局が
上皇の身の回りの世話をされておりました。
この綾の局と上皇の間に皇子と皇女が誕生したと伝えられております。
この姫塚はその皇女の墓であると伝えられております。

1坪余りの塚で高さは1メートルほどです。


姫塚からコンクリート舗装の農道を東へ200メートルばかり行くと、
綾川の堤防西側の水田の中に、高さ4メートルの碑が建っています。
碑には崇徳上皇がこの辺で過ごしたことを示す
「崇徳天皇駐蹕(ちゅうひつ)長命寺舊趾」と刻まれています。

4坪余りの地に花崗岩の石碑が建っています。

長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が建ち並ぶ寺院でしたが、
戦国時代長曽我部の兵火によって焼失し、さらに万治年間(1658~62)の大洪水で
この付近は荒廃したため、寺跡は必ずしも明確ではありません。崇徳上皇は
讃岐に上陸してから3年ほど後に雲井御所から鼓ヶ岡の木の丸殿に移りました。
去るにあたり、長命寺の柱に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり
空行く月の影にまかせて」と書き残したといわれ、
この歌から行在所はのちに雲井御所とよばれるようになりました。
長命寺に兵火が及んだ際も、上皇が墨書した柱だけが焼け残り、
万治年間の洪水で流されるまで野中に立っていたという。(『綾北問尋鈔』)
地元の伝承では、崇徳上皇の仮御所として御堂(仏堂)を提供していた綾高遠が、
いくら配流といっても上皇を自分の館内に留め置くのは憚られるとして、
近くの長命寺へ移したとしています。
上皇のここでの暮らしぶりは、長命寺の境内に射山(まとやま)を設け、
近郊の武士を集めて射芸を競って過ごしたり、ときには松ヶ浦を訪れて涼をとり、
貝拾いなどをして、しばしこの世の憂いを忘れたという話もあります。
松ヶ浦は当時白砂青松の景勝地で、松山の津を含む雲井御所北方一帯の海岸をいい、
いまは干拓されて港の面影はありませんが、
上皇はこの浦の景色を特に気に入られたようです。
『後拾遺集』(巻8・別・486)によると、
「讃岐へまかりける人につかはしける」という詞書を添え、中納言定頼は
「まつ山の松の浦風吹き寄せて 拾うて忍べ恋忘れ貝」と詠んでいます。
『保元物語』が讃岐配流となった崇徳上皇がまず入ったと記す
「二の在庁散位高遠が松山の御堂」を『綾北問尋鈔(あやきたもんじんしょう)』や
『讃岐国名所図会』は長命寺とし、『全讃史』は長命寺辺にあった綾高遠の邸としています。
現在、長命寺跡と雲井御所跡との間には綾川が流れていますが、
当時の川筋はもっと白峯側だったようですから、
高遠の屋敷から長命寺へは歩いて2、3分の所にあったはずです。
高遠の館や雲井御所、長命寺も同じ一画にあったともいえます。

綾川

綾川に架かる新雲井橋。

綾川ほとりにある綾氏の末裔が住んでおられる立派な旧家、その東側に雲井御所跡。
讃岐では近世に多くの歴史や地誌に関する書物が記されました。現在坂出に
数多く残る崇徳院伝承地のほとんどは、これに基づいてその時代に設けられたものです。
今日の坂出市の名所旧跡を著した『綾北問尋鈔』が編纂されたのは、
宝暦五年(1755)のことで、著者は西庄村(坂出市西庄町)の大庄屋の本条左衛門です。
この書物には崇徳院関係の伝承地も記され、著者はこの書をまとめるにあたって
土地の古老の話を尋ねまわっています。武殻王(たけかいこおう)、神功皇后、
平家の落人、『太平記』の記事、長曾我部の侵入などの歴史を述べながら、
地誌と伝説も加えて興味深く書いています。
『アクセス』
「姫塚」琴参バス王越線雲井橋下車徒歩約10分又は高松善通寺線「八十場駅」下車 徒歩約50分
「長命寺跡」坂出市林田町 坂出駅から車で約15分 琴参バス王越線雲井橋下車徒歩約8分
レンタサイクル JR坂出駅構内の坂出市観光案内所(0877・45・1122)
料金は1日200円(500円の預かり金が必要)午前9時から午後4時半。
『参考資料』
「日本名所風俗図会」(四国の巻)角川書店、昭和56年 「香川県の地名」平凡社、1989年
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年