平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神戸市の氷室神社の西方には鵯越道が通っています。一の谷合戦の名場面、
鵯越の逆落としは義経の輝かしい軍功の一つですが、実際の「鵯越」は
夢野(神戸市兵庫区)から六甲山脈を高尾山の西で越え、藍那(神戸市北区)を経て
三木(兵庫県三木市)方面へ向かう間道で、特に藍那辺までの山道の名をいいます。

三草山(兵庫県社市)の戦いに勝利した
義経は一ノ谷合戦の前日、
軍勢を二手に分け、一手を土肥実平に預け、
一の谷の西からの攻撃に向かわせ、自らは鵯越に向かいました。

三草山の陣陥落の知らせ受け、平家方の大将軍宗盛は
「敵は三草山の陣を突破した。山手方面は大事なので誰か向かってほしい。」と
要請をしますが、義経との激戦が予想される場所へは
誰も向かおうとしません。ただ平家きっての猛将とうたわれた
能登守教経だけは「手ごわい相手は教経が引き受けましょう。」といって
兄通盛を伴い鵯越の南端の夢野(氷室神社)に陣を敷きます。
教経配下の越中前司盛俊は古明泉寺を陣所とし、三草山から山越えで
福原・兵庫を北から突こうとする敵の攻撃に備えました。

義経は再び軍勢を二手に分け、主力を委ねられた多田行綱は
真っ先に鵯越の坂道を一挙に南下し山手の陣を攻略しました。
一方、義経はわずか70騎ばかりの精鋭を率い、
鵯越を抜けきらずに高尾山(鵯越墓園内)から山中を西へと辿り、
一の谷の陣屋の背後にある鉄拐(てっかい)山・鉢伏山に達し、
その辺りの断崖から奇襲攻撃をかけ平家軍を打ち崩しました。

教経と離れ離れになった通盛は、もはやこれまでと自害を覚悟して
東へ落ちて行くうちに、湊川の川下で近江国蒲生郡木村の住人
木村三郎成綱、武蔵国住人玉井四郎資景ら七人に取り囲まれ討死し、
教盛(清盛の異母弟)の末の子蔵人大夫業盛(なりもり)は、
常陸国住人、土屋四郎・五郎に討ちとられました。

これまで度々の戦に一度も負けたことのなかった能登守教経も、
今度は何としても勝てないと思ったのか名馬「薄墨」に乗って
西に向かって落ちて行き、明石の浦から舟で屋島に渡りました。

義経が三草の陣から鵯越に向かったというルートには、
義経を祀る三木市志染町伏山の判官神社、
義経が軍議を開いたという藍那の相談ヶ辻、
相談ヶ辻から南下して鵯越墓園に入り、かつて鵯越の峠だったという
高尾山登り口まで進むと高尾地蔵が祀られ、その前には、義経馬つなぎの松と
呼ばれる枯れた松があり、鵯越ルートには義経伝説が連なっています。

氷室神社の創立年代は詳らかではありませんが、仁徳天皇の兄にあたる
額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が夢野に狩猟に来た時、
山中の石室に氷があるのを見つけこれを天皇に献上し、
これより後に仁徳天皇を祀ったのが始まりといわれています。
古くから氷・雪・水の神として讃えられ、
製氷業、酒造業、水商売の神として信仰されています。

夢野弁天は清盛が福原遷都の際、厳島神社を勧請し祀った七弁天の一つで、
付近には門脇中納言平教盛(清盛の異母弟)の別邸があったといわれています。
源平合戦の時、平教経(のりつね=教盛の次男)は兄通盛(みちもり)、
弟の業盛(なりもり)らとともに夢野の陣を布きました。


当時、氷室神社からは豊富な清水が湧き、この清水のそばに教経が陣取っていたので、
夢野清水は「陣馬の井」と呼ばれました。教経は兄の通盛とは違い性格も激しく、
戦場まで妻(小宰相)を呼び寄せ別れを惜しむ兄を見て怒り叱咤したのはこの時のことです。
江戸時代の中頃には、この水を汲んで沸かした温泉に多くの人々を入浴させ、
人々は清水の前にある弁財天の祠を拝んで湯に入りました。

楠正成と湊川合戦
湊川合戦の時、楠正成が家来を連れて氷室神社の社家、
小林氏を訪れています。この時、同氏
は地図と会下山の
砦を築くための人夫をさし出し、正成から幟と弓矢を拝領しました。


山裾にたち並ぶ住宅地を通って氷室神社へ

源平合戦の故事を彷彿させる紅白の幟が翻っています。

鳥居をくぐると、うっそうとした森が迫ります。

氷室神社は平通盛と小宰相の別れの舞台でもあります。

殿

明治8年(1875)、京都の伏見稲荷大社より勧請した氷室稲荷神社は
神戸の伏見さんとして親しまれ、
農業・工業・商業などの
守護と繁栄を司る神様として広く信仰されています。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。

氷室稲荷から森を奥に進むと、
冬の氷を夏まで貯蔵するために造られた氷室(氷室の旧跡)があります。
義経を追いつめた平家の猛将平教経の最期   

『アクセス』
「氷室神社」神戸市兵庫区氷室町2-15-1
JR・阪神・阪急「三宮駅」より市バス⑦にて「石井町」下車徒歩5分
JR「神戸駅」より市バス⑪にて「夢野三」下車徒歩5分
神戸電鉄有馬線長田駅より、東北に徒歩16分
『参考資料』
「兵庫県大百科事典」(下)神戸新聞出版センター 「日本名所風俗図会(13)」角川書店
 「氷室神社由緒」氷室神社 「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房 
 歴史資料ネットワーク編「地域社会からみた源平合戦」岩田書院

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
橘川真一「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞総合出版センター
「産経新聞朝刊」(神戸阪神 時空散歩)平成15年11月6日

 

 

 

 

 

 



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平治の乱で源氏が歴史の表舞台から姿を消し、この乱に勝利した清盛は、
仁安2年(1167)には太政大臣にまで昇りつめ、公家の頂点に立ちました。
この職を僅か3ヶ月で辞任した清盛は、嫡男重盛に六波羅の邸宅を譲り福原に居を移し、
日宋貿易に本腰を入れますが、清盛と後白河院の連携を
側面から支えていた
建春門院が死去すると、両者の関係はしだいに悪化し対立を深めました。

安元3年(1177)には、後白河院を中心とした鹿ケ谷の謀議が発覚し、
その後も続く院の挑発行為に、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、
クーデターを起こし、院を鳥羽離宮(鳥羽殿)に幽閉しました。
その翌年の治承4年(1180)2月、高倉天皇の皇子・安徳天皇を即位させます。
高倉天皇は清盛の妻時子の妹・建春門院滋子が後白河院との間にもうけた子で、
安徳天皇は清盛の娘建礼門院(徳子)の生んだ子です。
念願の天皇外戚の立場を得た清盛は、大きな権勢を誇るようになりました。
その陰で不遇をかこっていたのが、院の第2皇子以仁王(もちひとおう)です。

以仁王は皇位継承者の位置にありながら、平氏の縁に繋がらないため、
親皇宣下すら下されないという不当な扱いを受けていました。
しかし皇位への望みを捨てず八条院の猶子となり、彼女の強い後ろ盾を得て、
わずかな望みをつないでいました。八条院は後白河院の異母妹で、父鳥羽天皇や
母美福門院から莫大な所領譲られ、その財力をバックに大きな権力を持ち、
彼女の周辺には、源頼政はじめ様々な勢力を持つ人々が出入りしていました。
安徳天皇が即位した年の5月、以仁王は平家打倒の令旨を回し、
諸国の源氏に決起を促して挙兵の準備をします。
この計画はすぐに発覚し、以仁王は頼政らとともに南都に赴く途中、
平氏軍の追撃を受けて敗死し、乱は簡単に鎮圧されました。
しかし諸国に伝えられた令旨によって、頼朝が伊豆で挙兵し、
信濃でも義仲が兵を挙げ、内乱が各地に拡大しました。

 治承4年(1180)6月、清盛は周囲の反対を押し切って福原への遷都を強行し、
安徳天皇や高倉上皇、後白河院を福原の地に移しました。
福原は現在の神戸市兵庫区付近にあたり、そこには清盛の山荘(雪見御所)を
はじめとして平家一門の別荘がたち並んでいました。
別荘の南には清盛が整備した大輪田泊があり、そこを拠点として、
宋との貿易の利に目をつけた清盛が早くから地固めを行っていた地です。
ところが、これは計画的な遷都ではなく、貴族らも詳細は知らされず皇居や
院御所の準備もなく、とりあえず平頼盛(清盛の異母弟)の別荘が仮の内裏とされ、
高倉上皇は清盛の山荘、後白河院は平教盛(清盛の異母弟)の邸に入りましたが、
随行の者の多くは宿もなく、道ばたに座り込むありさまでした。

なぜ、清盛はなぜ慌しく京を出て福原に都を置こうとしたのでしょうか。
それは以仁王の反乱を一応鎮圧したものの、園城寺・興福寺などの寺社勢力が
この乱に深く関わっていたことが明らかとなり、南都北嶺の宗教界や
以仁王の背後にある八条院の勢力などに囲まれた平安京から逃れるため、
自身の山荘のある福原に都を遷すことにしたとされています。

元木泰雄氏は、以上の理由のほかに『平清盛と後白河院』の中で、
次のように述べておられます。「清盛は平氏の血を引く高倉上皇、安徳天皇という
平氏系新王朝の新都造営を決心して遷都を行い、藤原氏・後白河院・八条院と
結合する京を放棄するという目的があった。奈良時代の末、天武天皇の
皇統が断絶した時、皇位は天智系に移り、この皇統に属する桓武天皇は、
天武皇統に結びついた平城京を離れ、長岡京次いで平安京を造営している。
清盛もそれに倣ったものと思われる。」


寺社や高倉上皇、貴族たちの遷都反対の声が高まる中、
福原周辺では、平安京を念頭においた宮都造営が計画されました。
山が海に迫る狭い土地に平安京なみの土地確保は不可能で、
造営予定地をめぐって議論の最中、平維盛(重盛の嫡男)率いる追討軍が
富士川合戦で頼朝軍に大敗したという報告が清盛のもとに入りました。
すると今まで清盛に従順であった宗盛(清盛の3男)までもが、
還都を父に強く迫りました。内乱が激化するとともに清盛も新都造営を
諦めなければならなくなり、さらにかねてから病気がちであった
高倉上皇の病状も無視しがたく、ついに還都が決定されました。
治承4年11月24日に天皇以下福原を離れ、
同月26日には住みなれた平安京に戻りました。

雪見御所跡・荒田八幡神社・宝地院・薬仙寺 
『参考資料』
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 
「兵庫県風土記」(元木泰雄・福原遷都 大輪田泊と平清盛)旺文社
 高橋昌明編「王朝への挑戦 平清盛」(別冊太陽)平凡社
 林原美術館「平家物語絵巻」クレオ


 

 



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神戸市兵庫区に清盛ゆかりの厳島神社があります。
清盛は篤く敬う安芸国の厳島神社より、港の守護神として
市杵嶋姫命を勧請し、宮島の七つの海岸にちなみ、
福原京の周り七ヶ所に祀ったので、七弁天といわれました。

その一つが今回ご紹介する外弁天とも呼ばれる兵庫
厳島神社です。
福原周辺にあるこの弁才天を祀っている弁天社は、
兵庫厳島神社の他、花隈厳島神社・和田神社・真光寺・
済鱗寺(さいりんじ)恵林寺(えりんじ)・氷室神社です。

弁才天はもともとヒンドゥー教の神で水の神、
豊穣の神として信仰されましたが、弁舌の女神ヴァーチエと融合して
学問芸術の女神の性格を合わせもつようになります。
この弁才天が仏教の守護神となり神仏習合の影響を受け、
水の神・理財の女神である市杵嶋姫命と同一視されるようになります。


厳島神社は丹生山田道の傍らにあります。
この付近は昔「渦輪」と呼ばれた湊川の旧川筋にあたり、
さらに地下水も湧き出して淵のようになっていたといわれています。
渦輪にあった弁天の祠を合祀しています。



 安芸の厳島神社の大鳥居を思わせる両部鳥居。

厳島神社御由緒
祭神 市杵嶋姫命 (いちきしまひめのみこと)
当神社はおよそ八百年前、治承四年(1180)に平清盛によって福原遷都、
兵庫築港の行われた時、兵庫の町や港の発展と住民の繁栄を祈願し
平家一門の氏神として深く信仰している安芸国、
厳島神社をこの地に勧請した。俗に弁天さまとして讃えられ 
福徳円満・長寿無量の福の神として七福神の一つに数えられ或いは辨舌、
音楽芸能、海上、交通安全の守護神として厚く信仰されています。
例大祭、神幸祭 五月十六日
    針供養 二月八日

亥の子祭 旧暦十月 亥の日
境内社 淡島神社 四月三日
               稲荷神社 三月初午 (現地駒札)

清盛七辯天 お洒落辯天(おしゃれべんてん)
 平清盛が治水のために建立した最初の神社。
江戸時代から湧いていた井戸の水脈が2年前に復活!
女性の守り神、「淡島神社」も祀っていて、
2月8日は「針供養」を盛大に開催する。
裁縫上手と一緒に、
おしゃれ上手になれるようお祈りしよう。(現地案内板)

拝殿

淡島神社

放生池

 厳島神社は平家一門の篤い信仰に支えられ発展してきました。
清盛と安芸の厳島神社を結びつけたのは『平家物語』(巻3・大塔建立の事)によると、
清盛が高野山で見た霊夢がきっかけでした。

清盛が安芸守であった時、鳥羽院に高野山壇上伽藍の大塔修理を命じられました。
6ヵ年で修築を終え落慶供養の際、高野山に上り奥の院に参詣すると、
どこからともなく現れた老僧が「安芸の厳島神社は荒れ果てている。
次に厳島を修理すれば汝に高い官位を保障する。」と告げかき消すように
姿が見えなくなりました。この夢を信じ清盛はさっそく厳島神社の修造に着手し、
清盛51歳の仁安3年(1168)には、ほぼ現状に近い荘厳華麗な社殿を再建しました。


古くから日本人の生活の中には神道が根付いていましたが、6Cに百済から
伝来した仏教は、日本の神々の姿を借りて次第に民衆の間に浸透していきました。
平安時代中期になると、その傾向はさらに強まり、神の本体は仏で、
仏が人々を救うために神の姿となって現れたのだとする
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が唱えられ、神社には仏像が祀られ、
境内に寺が建てられて神宮寺となり、神前で般若心経なども読まれていました。

厳島神社においても、平安時代中ごろには神仏習合が始まり、
平家一門が氏神として崇める頃には、仏教としての色あいを濃くしていました。
そのような中、市杵嶋姫命が弁才天と習合し、同じだと見なされていました。
しかし明治時代の神仏分離令によって、神社と寺院ははっきり区別され、その後、
民衆による廃仏希釈運動が起こり、寺院や仏像の徹底した破壊が行われました。
厳島内の寺院もいくつかが廃寺となり、厳島神社に祀られていた空海作と
伝えられる弁天像は大願寺に移されました。この弁才天は、江ノ島、竹生島とともに
日本三大弁天の一つに数えられています。なお、宮島のお土産の宮島杓子は
弁才天が持つ琵琶をヒントに江戸時代、光明院の僧・誓真が考案したものです。
『アクセス』
「兵庫厳島神社」兵庫県神戸市兵庫区永沢町4-4—21
阪神・阪急・神戸電鉄新開地駅より、南に徒歩3分

JR神戸線神戸駅より、西に徒歩約13分
『参考資料』

「兵庫県大百科事典」(上巻)神戸新聞総合出版センター 「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社
日下力監修「厳島神社と平家納経」青春出版社 「検証日本史の舞台」東京堂出版 
渋谷申博「面白いほどよくわかる日本の神社」日本文芸社 
武光誠「神社とお寺の基本がわかる本」宝島社新書
 高橋昌明編「王朝への挑戦平清盛」平凡社(別冊太陽)

 



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