平教経(のりつね=1160~1185)は、平清盛の異母弟・
教盛(のりもり)の次男で、清盛の甥にあたります。治承3年(1179)、
兄通盛(みちもり)のあとをつぎ能登守となり、能登殿とも呼ばれます。
『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月7日条に一ノ谷合戦で甲斐源氏の
安田義定が教経を討取ったと記されていますが、戦後義経が討取った首を
掲げて都大路を行進した時、その首は本物でないという声があがりました。
『玉葉』2月19日条は、屋島に帰住した平氏の動向を伝える中で、
「渡さるるの首の中、教経においては一定(いちじょう)現存云々」と
記しています。「現存」は通常、生きている意味に使います。
教経の一ノ谷合戦における生死は謎とされてきましたが、
『平家物語を知る事典』によると、「吾妻鏡は論功行賞の最初の段階で、
安田義定による教経殺害が事実と認定されたため、
軋轢を生む後日の変更などはしなかったことを示している。」とあります。
安田義定は八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の曾孫です。
頼朝の挙兵に甲斐で呼応して立ち上がり、富士川の合戦を勝利に導き、
木曽義仲に続いて都に入り、遠江守に任じられています。
当時、出自・勢力とも一目置かざるを得ない存在で、
自己主張の強い武将でした。
壇ノ浦合戦の結果を記した同時代の史料
『醍醐寺雑事(ぞうじ)記・巻10』には、壇ノ浦での自害者の項に
「能登守教経」の名があり、その時まで生きていたと思われます。
一ノ谷合戦の際、義経軍が三草の陣を陥落したという報に、
鵯越の麓にあった山の手の陣の守備固めが急がれましたが、
義経との激戦が予想される場所への出陣を誰もが嫌がりました。
しかし、「手ごわい方面には、この教経が出陣しましょう。」と
教経だけは平家の棟梁宗盛の要請を引き受けました
一ノ谷合戦後、平教経は、水島の戦い・六ヶ度合戦・屋島の戦いと、
各地を転戦し、そのつど奮戦し源氏を苦しめ続けました。
義経の急襲を受けた屋島合戦では、「王城一の強弓精兵」と謳われた
教経は、船の上から陸地の敵に矢を射かけて
源氏武者を次々に射倒し、義経を狙って放った矢を
身代わりとなって受けた佐藤嗣信をも射殺しました。
壇ノ浦合戦でも、大勢が決しても戦い続け、
義経を窮地に追いつめています。
壇ノ浦合戦で敗北が決定的となり、安徳天皇の入水を知った
平家一門の人々は次々と海中に身を投げました。
そんな中で最後まで戦いぬこうとする能登守教経の奮戦はすさまじいものでした。
弓矢の名人ですが、ありったけの矢を射つくしてしまったので、
今日が最後と、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧、いかものづくりの(立派な)
太刀と大長刀を両手に持って、船から船へ飛び移って斬りまわっていました。
暴れまわる教経に総司令官の知盛は使者を立て「そんなに罪をつくりなさるな。
それほどの相手でもありますまいに」とたしなめると、教経は
敵の大将軍に組めということだと気づき、闘志を燃え滾らせて
船を次々に乗り移り、義経を捜しついにめぐりあいました。
一勇斎国芳筆「八嶋大合戦」部分 高松市歴史資料館蔵 (「源平合戦人物伝」より転載)
壇ノ浦で血眼になって追いかける教経を尻目に義経は「八艘飛び」で難を逃れました。
「義経八艘飛びの像」みもすそ川公園にて撮影。
義経は組んではかなわぬと、6mほど離れた味方の船にひらりと飛び移りました。
その身の軽いこと、鞍馬時代の牛若丸を彷彿とさせます。
「義経の八艘飛び」というのがこれです。さすがの教経も、真似はできません。
教経は目ざす義経を取り逃がしたので、もうこれまでと覚悟を決め、
太刀、大長刀を海に投げ入れ、兜を投げ捨てざんばら髪となって、
鎧の袖、草摺りをかなぐり捨て、胴ばかり残して軽々としたいでたちで
「われと思わんものは、この教経を生捕にして、鎌倉へ連れてゆけ。
頼朝に物申さん」」と大音声をあげます。その鬼神のような姿に、
さすがの源氏の武者たちもたじろいて近づくことができません。
ここに、怪力の持ち主で知られた土佐国(高知県)の住人、
安芸郷(土佐国東南端の一角)を知行する安芸大領(郡の長官)の子、
安芸太郎実光(さねみつ)・次郎兄弟と自分と同様に怪力の郎党の3人が、
能登殿の船に押し並べ、乗り移りそれとばかりに挑みかかりました。
教経はまず郎党を蹴倒して、海に投げ込み、安芸兄弟を左右の脇に
しっかりと抱え込んで「いざ参れ、おのれら死出の山の供をせよ」と
叫ぶがはやいか海中に身をおどらせます。
教経はこのとき26歳。豪傑らしい壮絶な最期でした。
読み本系に属する平家物語(百二十句本)にこんな一節があります。
「ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、
大領太郎実光とて、三十人が力あり。弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。
主におとらぬ郎等一人。兄の太郎、判官(義経)の御前に
すすみ出でて申しけるは、『能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、
組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ
幼き者不便にあづかるべし』と申せば、判官、『神妙に申したり。
子孫においては疑ひあるまじき』とのたまへば、安芸の太郎主従三人、
小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。」
源氏方にとって闘志の原動力は所領の獲得にありました。
安芸兄弟は手柄をたてて、土地を獲得して帰りたいのですが、
教経にはとても太刀打ちできません。とうていかなわない敵に対しては、
手柄というのは、命を捨てることでしかありません。
「能登殿に寄りつく者がいないので、我らが組みつこうと思います。
それについては、土佐に残した2歳の子に目をかけていただきたい」と
義経に言うと、「殊勝によくぞ申した。子孫のことは気づかい無用」
こうして義経から安芸郡の支配権相続についての保障を得ると、
安芸兄弟と郎党は、小舟に乗って能登殿の船にうつり、3人1度に
兜を少し前に俯せて、教経に討ちかかって行ったのでした。
義経の八艘飛び
能登守教経の山手の陣(神戸の氷室神社)
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年