円通律寺は熊谷寺円光堂の右手の坂道を上り、小さな峠を越えた所にあります。
境内には山門・本堂・坊舎・鐘楼・宝庫・鎮守社などの建物があり、
本尊は木造釈迦如来坐像(国重文)で、宝庫には紙本著色十巻抄(国重文)など
多くの経典などを所蔵しています。開基は空海十大弟子の一人智泉と伝えられ、
その没後荒廃していたのを俊乗坊重源が再興し、専修往生院という
新別所を建て、本堂・三重塔・食堂(じきどう)・湯屋などの
堂宇や数多くの仏像・経典類があったことが知られます。
その後、再び荒廃を極め、江戸時代初期、山口修理亮重政が堂宇を
修理して釈迦堂を安置、密教と律宗の兼学道場となりました。
現在は真言宗の僧侶を目指す人々の修行寺院で、
女人禁制・立ち入り禁止という厳格な規律を守っています。
観光客・参拝客で賑う小田原通、南無阿弥陀仏の赤い旗が翻る熊谷寺
円光堂右手の坂を上ります
円通寺は修行道場につき拝観できません。円通寺 事相講伝所(現地駒札)
坂道を上ると人家は途切れ風景は一変します。
高野山女人道㉓ポイント大峰口女人堂跡ここから下り坂です。
明治5年に女人禁制が解かれるまで山内に入ることが許されなかった女人は、
奥の院の御廟を拝みながら八葉蓮華の峰々をめぐる女人道を辿りました。
高野山へ入るには古来七口あり、それぞれに女人堂が置かれていましたが、
今は不動坂口女人堂が残っているだけで他は案内板があるだけです。
高野山女人道㉒ポイント奥の院と円通律寺の分岐点
橋を渡り右へ曲がった先にまっすぐな道がのび、遠くに山門が見えます。
『不許葷酒入山門』の石碑がたち、山門から中へは入れません。
山門前の杉林一帯は、重源が活躍した時代には高野聖が無数に庵を構え、
念仏を唱える声が周囲の山々にこだましたという。
静寂そのもの、辺りにはいたるところに立入禁止の注意書き
これ以上は近寄りがたい雰囲気が感じられズームを使って山門を撮影
下級貴族の紀季重の子として京で生まれた重源は、13歳で醍醐寺に入り、
醍醐寺の中でもとくに密教修行の聖地、上醍醐を拠点として修行に励み、
後に法然に浄土宗を学びます。大峰・熊野・葛城などで厳しい修験道の
修行を積み、次いで東大寺造営勧進の宣旨を賜るまでほぼ10年余にわたって
高野山で修行しました。重源が安元2年(1177)に高野山延寿院に
施入した梵鐘の銘に「勧進入唐三度聖人重源」と刻まれ、
重源が三度入宋していたことが窺われます。
重源は聖にありがちな謎めいた人物で、人を信用させるため法螺もあったようで、
入宋三度というのも疑問とする意見もありますが、東大寺再興のような大事業には、
ある程度の宣伝活動も必要だったに違いありません。重源はこの入宋で
天台山や阿育王山などの仏教聖地をまわるとともに、宋朝建築様式や
仏教美術を学び、阿育王山では舎利殿建立に関わり、土木技術を習得しました。
大仏鋳造に活躍した宋の鋳物師・陳和卿(ちんなけい)の起用や宋朝建築様式の
採用なども複数回に及ぶ入宋体験を通してはじめて可能になったと思われます。
治承4年(1180)平重衡の南都焼討によって、東大寺・興福寺の伽藍が焼失すると
再建は焼亡の翌年、後白河院の宣旨で復興事業は、
東大寺大勧進上人重源に一切が委ねられました。時すでに61歳での勧進職就任。
山林修行で鍛えられた体力と強い精神力で厳しい復興事業を見事完成させました。
この人選には自薦、他薦の諸説があり、重源を勧進職に推挙したのは、法然とも
明遍ともいわれています。重源は高野聖としては明遍の蓮華谷系の聖であり、
明遍はもと東大寺の学匠であったことなどから、
五来重氏は『高野聖』の中で次のように述べられています。
「重源は東大寺に対して自薦運動を展開するとともに、
明遍に推薦を頼んだのであろう。」
どちらにしても建築や土木技術に関する知識、技術者などの人脈、
念仏集団の組織力をかわれ任命されたものと推測できます。
勧進帳を手にした重源率いる聖集団が洛中の有力貴族や源頼朝、
実力ある鎌倉武士などに広く寄進を募って全国を走りました。重源自身も
後白河法皇や皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)その他諸家を勧進に廻っています。
歌舞伎の『勧進帳』は、頼朝に追われ山伏を装って奥州へ落ちる義経一行が、
安宅の関で関守の富樫左衛門に見とがめられ、弁慶が東大寺再建の
勧進帳を読み上げて難をきりぬけるという歌舞伎十八番の一つです。
大仏の金メッキが足らず、西行が重源の依頼を受けて
陸奥へ旅立ったのも奥州の藤原秀衡からの砂金調達のためでした。
それは西行と重源が高野山にいた時期が重なるので、西行が高野山蓮華乗院の
建立の際に見せた勧進能力を重源が高く評価したものと考えられています。
『アクセス』
「円通律寺」和歌山県伊都郡高野町高野山 熊谷寺より徒歩約30分
「熊谷寺」和歌山県伊都郡高野町高野山501
ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「かるかや堂前」下車徒歩約2分
又は「一の橋」下車徒歩6、7分
『参考資料』
中尾堯「旅の勧進聖・重源」吉川弘文館 五来重「増補=高野聖」角川選書
五味文彦「西行と清盛」新潮社 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社