平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



壇ノ浦というのは、関門海峡の下関側の名です。潮の流れが速く、
その変化が激しいことで知られ、早鞆瀬戸(はやとものせと)ともいわれています。

屋島の戦いに勝利した源義経は軍船840艘を率いて関門海峡の東口、
奥津(満珠島・干珠島)まで進みました。これを聞いた平家軍も
軍船500余艘を率いて彦島を出撃し、田ノ浦
(現、北九州市門司区・関門橋の東側)まで船を進め、
奥津の義経軍とは30余町(約3270m)隔てていました。両者はそこで
元暦2年(1185)3月24日午の刻(正午)に戦闘を開始しました。

合戦の開始については『平家物語』には「卯刻(朝七時)に矢合」と
書かれていますが、正しくは義経の報告によって、
九条兼実の日記『玉葉』元暦2年(1185)4月4日条に
「去る3月24日長門壇ノ浦において合戦、午の刻より
申の刻(午後4時)に至る。多数を討取り、生け捕りにした。」とあり、
正午に始まり16時頃まで行われたことが確認できます。

『玉葉』のこの記事は、追討の大将軍義経から合戦報告を
受け取った後白河院の使者が右大臣九条兼実邸を訪問し、
義経からの飛脚の内容を伝え、それを書きとめたものです。

戦いの前半の様子を『平家物語』(巻11・壇浦合戦)は、
「門司、赤間、壇ノ浦は、潮が逆巻いて流れ落ちるような
急流であったから、平家は潮の流れに乗って有利に戦かったが、
潮に向かった源氏の船は押し返された」とあるように、ここでは
潮流が合戦に大きな影響を与えたように記されています。しかし、
戦いの途中で潮流が反転し、状況を変えたとまではいっていません。
『吾妻鏡』(元暦2年3月24日条)には、合戦に関しても
簡潔にしか記してなく、潮流についてはまったく触れていません。

合戦への潮流の影響は、古くは黒板(くろいた)勝美
東京帝国大学教授が提唱した潮流勝因説です。
黒板教授は旧海軍の潮流資料に基づき、
その著書『義経伝』において、壇ノ浦合戦当日の
潮流の変化を推定し、関門海峡の潮流が正午ごろは、
内海に向って東流していた潮が、午後3時ごろから
外洋に向って西流に変化すると指摘しました。

義経は味方に引き入れた地元の串崎船に乗りこみ、早くから
老船頭に潮流の変化を聞き、午後3時頃より西流という
潮流を予測して作戦を立てた。これが功を奏して序盤こそ
苦戦したものの、潮が逆流してからは一気に反撃に出て
最大8ノットという激しい潮流を利用して勝利をおさめたのだとし、
戦いの勝敗を決したのは、関門海峡の潮の流れの
変化であるというのです。この説は広く支持され、
壇ノ浦の強い潮流が勝敗の最大要因とされました。

ところが、近年のコンピューター技術の発展により、
これに異論を唱える人がでてきました。
金指(かなさし)正三海上保安大学教授は、潮流のコンピュータ解析を行い、
合戦の行われた日は小潮流の時期で、黒板説の根拠となっている
8ノットという速い潮流は無く、
また大正時代に旧海軍が潮流を
調査した場所は最も狭い早鞆瀬戸の話であり、
主戦場の壇ノ浦は、それより東北、潮流の影響の少ない
満珠島・干珠島に至る広い海域で、
この海域の当日の潮流は1ノット以下であり
合戦に影響を与えるものではないとしました。

当時の船を復元した船舶史の石井謙治氏は、同じ潮流に
乗っていた源平両軍の船が海面を進む速力は同じであるといい、
従来の説は、人々が陸地から見た船の動きが
海上でも同様に作用すると錯誤しているとし、
合戦には潮流はまったく影響しないと述べておられます。

中本静暁氏は、合戦のあった旧暦3月24日(新暦5月2日)と
月と太陽位置関係がよく似ているのは、
昭和23年(1948)5月2日であるとし、そのデーターを提示されています。
『地域文化研究』(元暦2年3月24日の壇ノ浦の潮流について)

ちなみに潮の干満(かんまん)は、月と太陽の引力によって起き、
月と太陽位置の影響が最も大きく影響しています。

義経が後白河院に報告したという『玉葉』の記述によって
この表を見ると、12時から午後4時までは、
潮流が最も静まっている時間帯であることがわかります。

豊富な海戦の経験をもつ平氏は、壇ノ浦が時間帯によって
潮の流れが目まぐるしく変わることを熟知しています。
海に精通していた地元の小水軍を味方にした義経も
この海域の複雑な潮流や操船のコツを聞いたと推測できます。
このことから、源平双方は潮の流れが緩やかな
時間帯を選んで合戦を行ったと思われます。

『平家物語』は、沖は潮の流れが速いので、
梶原景時父子は、
水際に船をつけて潮の流れに乗って進んでくる
敵の船を熊手にかけて引き寄せ、親子主従14、5人が次々と
敵の船に乗り移って討取り、大成果をあげたと記しています。
海戦が狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の
向きも変わるという壇ノ浦で行われたということは、
潮流の影響を全く無視できなかったことを物語っています。

梶原景時に扮する片岡市蔵の役者絵
(東京大学大学院情報学蔵)源平合戦人物伝より転載。

梶原源太景季



関門海峡は、1日平均500隻を超える船舶が行き交い、
外国船や大型船もかなりあります。
船舶の安全航行のために、
関門海峡には潮流信号表示機が3か所設置されています。

下関側では火の山の下、国道9号線沿いの高台に潮流信号の
電光表示機があり、
関門海峡・早鞆瀬戸の潮流の状況
(流向・流速・流速の傾向)を電光板で知ることができます。

電光表示は、東流(玄界灘から周防灘の方へ流れる潮流)が「E」、
西流(周防灘から玄海灘の方へ流れる潮流)は「W」で表されます。

また矢印の上向き「↑」は急潮に向かう、
下向き「↓」は緩潮に向かうことを表します。
0~13までの「数字」は、潮流の速さをノットで示し、
これまでに最高の急潮は12ノットとされています。



『アクセス』
「火の山下潮流信号所」 下関市みもすそ川町3-1 
「御裳川バス停」下車徒歩約6分
『参考資料』
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年
 河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
朝日カルチャーシリーズ「名将の決断 斎藤道三・平知盛」朝日新聞出版、2009年

 

 



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一ノ谷合戦から約1年、屋島の戦いから1ヶ月余が経ちました。
屋島合戦で義経軍の奇襲攻撃受け、瀬戸内海を西に逃れた平家軍は、
平知盛が拠点とする長門国彦島(引島)に着き、
いよいよ最終決戦に臨むことになりました。

一方、屋島をおさえた義経には、伊予の河野水軍や阿波・讃岐の
豪族たちが兵船を率いて帰属し、散々迷った末に
平家方から寝返った熊野別当湛増の水軍も加わりました。

義経軍は、周防国(山口県東南部)まで進出し、源範頼配下の
三浦義澄の軍勢と合流しました。範頼が豊後に渡海する時、
門司の関(北九州市)を見た者として、周防に留まり
守備を命じられていた義澄は、当地の地理に詳しかったため、
義経に先頭を進むよう命じられたという。三浦半島を
本拠地とする三浦氏は、海運にも長けていたと思われます。

鈴木かほる氏は、「義澄が、すでに門司の関を見ていたということは、
平安末期、三浦氏の相伝所領が門司周辺にあった可能性は
大である。」と述べておられます。(『相模三浦一族とその周辺史』)

そこへ周防国の在庁官人の
船所(ふなどころ)五郎政利が、
数十艘の船を献上したので、義経は政利に鎌倉殿の
御家人たることを保証する書状を与えています。(『吾妻鏡』)

また関門海峡の複雑な潮の流れに詳しい長門国串崎の水軍を
味方につけることに成功し、源氏軍は串崎船12艘に先導され
長府沖の満珠(まんじゅ)島・干珠(かんじゅ)島周辺に集結しました。

この時の功により、串崎の船頭たちは平氏追討後、日本国中の
津泊(つどまり)の公役を免除するという義経自筆の
下文を与えられています。(南北朝時代の歴史書『梅松論(下)』)

源氏の動きを見守っていた平家軍は、全軍を三手に分けて
山鹿秀遠(ひでとお)を第一陣、松浦(まつら)党の水軍を第二陣、
そして平氏の軍を第三陣として総勢500余艘を以て彦島を出撃し、戦いの前日、
急潮の早鞆瀬戸を抜け、流れのゆるやかな門司の田ノ浦に陣を布きます。

屋島合戦の前、渡辺津で逆櫓をつけるつけないで義経と
対立した梶原景時が、決戦当日、また義経と衝突しました。
屋島合戦の時、遅れをとって、景時が到着した時には、
すでに合戦は終結していました。この汚名を挽回するため、
義経をさしおいて景時が「先陣は景時に」と言い張りました。
しかし義経が許さなかったため、あわや同士討ちというところで、
義経には三浦義澄が景時には土肥実平が取り付いて
事なきを得ましたが、これ以降景時は、頼朝に義経を
讒言するようになり、後の義経の悲劇へと繋がっていきます。

元暦2年(寿永4年、1185)3月24日午の刻(正午)
開戦の鏑矢が鳴り響き、両軍の鬨の声は、梵天まで轟き、
堅牢地神(けんろうじしん=大地を司る神)もさぞ驚いたに違いない。
こうして関門海峡を舞台に源平最後の戦いが幕を開けました。

 源氏軍 壇ノ浦赤間が関(山口県下関市)

 
源氏軍の先陣にいた義経は、(右上、日の丸の扇を持っています。)
楯も鎧も防ぎきれず散々に射られて退却します。
義経は屋島合戦の「義経弓流し」に見られるように、
背が低く小柄であったため、その弓は弱く、
立派なものではありませんでした。

平家軍 田ノ浦門司の関(北九州市)
 平家軍の三手に分けた第一陣。田ノ浦から発進した山鹿党は、
九州一の強弓を引く山鹿秀遠を先陣とし、源氏方へまっしぐらに進み、
精兵五百人を舟ばたに立て、一斉に矢を放ちます。

鬨の声が鎮まると、平家の総指揮官知盛は、舟の屋形に立ちあがり、
「いくさは今日が最後であるぞ。者ども、一歩たりとも退くな。
天竺(インド)震旦(中国)にも、わが朝にもならびなき
いかなる名将、勇士といへども、運命が尽きては力及ばず、
されども武士としての名誉は惜しめ。東国の者どもに弱気を見せるな。」と
大音声をあげ、武士たちに下知をとばします。

戦いのために用意した船は『平家物語』は、「源氏の船は三千余艘、
平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。」としていますが、
この数にはかなり誇張があり、『吾妻鏡』によると、
平氏の五百余艘に対して源氏は八百四十艘としています。

平氏側の唐船(からぶね=中国風の大型船)には、安徳天皇はじめ、
総大将の平宗盛や二位尼、一門の女房達が乗っている御座船と思われます。
ところが、総指揮官の平知盛(清盛の4男)は、この唐船をおとりに使い、
実際には安徳天皇や宗盛、二位尼らを粗末な船に乗せ、
唐船には身分の低い兵を乗せて御座船めがけて襲撃する源氏を
一気に討取ろうという作戦を立てました。
『平家物語』は、阿波民部重能(しげよし)の裏切りによって
この計略は敵方に通報された。と記しています。

阿波の豪族・阿波民部重能(成良とも)は、清盛が福原に
経島を建設する際、その奉行を務めるなど有力家人として平氏を支え、
平家都落ち後も忠誠を尽くし、屋島に内裏を建て一門を迎え入れるなど
貢献度は抜群でした。その重能に裏切りの心がめばえたのは、
時世の動きと嫡男の田内(でんない)左衛門教能(のりよし)が屋島で、
義経の家臣伊勢三郎義盛に騙され捕虜となってからでした。

知盛は子息のために、重能が裏切ることを危惧し、
決戦を前に斬り捨てようと、惣領である宗盛に進言しますが、
凡庸な宗盛はこれを見抜くことができず許さなかったため、
知盛は歯ぎしりをして悔しがったという。
これが平家にとって決定的なあやまちとなります。
知盛の不安は的中し、平家側の作戦はすべて源氏方に漏れ、
しだいに敗色が濃くなるとそれまで平家に
つき従っていた者たちまでが次々と寝返りました。

壇ノ浦合戦では、源範頼の功績も大きかったのです。
壇ノ浦海戦に先だって、源氏本隊の範頼軍は、九州一の
反平家勢力の緒方三郎惟義(これよし)・臼杵二郎兄弟から
船の提供を受け、周防国を発ち豊後国(大分県)に上陸し、
再度渡海して葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町)に上陸しました。

元暦2年(1185)2月、原田種直一族を葦屋浦(あしやうら)合戦で破り、
平氏の九州上陸を阻止する態勢を整えていたので、
平家の逃げ場はどこにもありませんでした。
平氏の九州支配、とりわけ大宰府を中心とした九州支配が
範頼によって根絶やしにされていたことになります。

原田種直の肖像画(岩門城跡にて撮影)
原田種直は、大宰府府官を歴代継承してきた
大蔵姓原田一族の惣領で、平家に取り立てられて
大宰権少弐(しょうに)となるなど平家が最も頼りとする存在でした。
妻は平重盛の養女(平頼盛の娘とも)といわれています。

一門都落ちの時、平家はすぐに原田種直を頼り、種直は自分の館
(福岡県筑紫郡那珂川町安徳)を安徳天皇の行宮にしています。
壇ノ浦合戦では、平氏側の水軍に原田種直の名が見えませんが、
『源平盛衰記(巻43)』(源平侍遠矢、附けたり成良返忠の事)には、
種直の名があり、平氏水軍として参加したことは間違いないようです。
源氏軍が結集した満珠島・干珠島 
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  

龍国寺(原田種直赦免)   闘鶏神社(熊野水軍本拠地)  
『参考資料』
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年 
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
朝日カルチャーシリーズ「名将の決断 斎藤道三・平知盛」朝日新聞出版、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年 
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
菱沼一憲編著「中世関東武士の研究 源範頼」戎光祥出版、2015年
鈴木かほる
相模三浦一族とその周辺史(門司の関と三浦氏)」新人物往来社、2007年
完訳「源平盛衰記(8)」勉誠出版、2005年

 

 

 



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料亭旅館「みもすそ川別館」の敷地内に安徳天皇入水像の碑があります。
受付の方にお願いして拝観させていただきました。



最寄りの御裳川バス停








備前焼で作られている安徳天皇像。



二位尼が念仏を唱える安徳天皇を抱きかかえ
入水しようとしている姿を表わしたものです。
この悲劇の像は、備前焼作家・
浦上善次氏の作品です。



台座には、「今は昔七百八十年前を偲び感慨一入深きもの〇〇
昭和四十年一月建之」と記されています。 〇読めない文字

都を落ちて2年、寿永4年(1185)3月24日、敗北を悟った平知盛は、
その旨を一門に伝えます。
覚悟をしていた二位尼(時子)は、
「われをどこに連れていく」と8歳の安徳天皇に無邪気に尋ねられ
「波の下にも都がございますよ。」と慰めて千尋の底に沈みました。

治承2年(1178)11月、高倉天皇と平清盛の娘・建礼門院徳子との間に
第1皇子として生まれた安徳天皇は、清盛の意向を受けて
僅か3歳で即位しましたが、平家一門の没落とともに状況は一変します。
寿永2年(1183)には、何も分からぬまま6歳で一門とともに都落ちし、
西海をさまよったあげく入水させられました。
まさに激しい時代の渦の中に巻き込まれた天皇です。

一条戻り橋(建礼門院の難産にあたり時子橋占い)  
『源平盛衰記』によると、建礼門院のお産の時、
時子が一条戻橋で橋占を行うと、
「八重の塩路の波の寄榻(よせしじ)」と
不吉な予言をされて生まれたのが安徳天皇でした。
壇ノ浦合戦(安徳天皇入水)  
『アクセス』
「みもすそ川別館」〒751-0813 山口県下関市みもすそ川町23−15
JR下関駅からバス12分「みもすそ川」バス停すぐ
『参考資料』
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課



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筆立山の麓に鎮まる甲宗(こうそう)八幡神社は、
貞観2年(860)、大宰大弐清原峯成(きよはらみねなり)により創建。
社号は、神功(じんぐう)皇后が着用した甲(かぶと)を
ご神体とすることに由来するという。

中世以来、門司六ヶ郷の総鎮守であり、源平ゆかりの地としても
知られる社で、社務所裏
には、平知盛の墓があります。
社伝によると、壇ノ浦の合戦後、知盛の遺体は門司関へ漂着し、
これを憐れんだ里人によって壇ノ浦を見渡せる
筆立山に葬られたとされています。
その後数百年の間、筆立山にありましたが、
昭和28年の大水害でこの山が崩落し、現在地に移されました。

元暦2年(1185)3月、壇ノ浦合戦前に鎌倉方の大将であった
源範頼(1150~1193)と副将の源義経(1159~1189)が参詣し、
重藤弓と鏑矢を奉納して必勝を祈願し、その戦勝後には、
社殿を新たに造営したとの記録が社伝に残っています。

第一殿に応神(おうじん)天皇、第二殿に神功皇后、
第三殿に宗像三女神(むなかたさんじょしん)の
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
多紀津比売命(たぎつひめのみこと)を祀っています。

源範頼・義経兄弟が揃って参詣したという甲宗八幡神社拝殿。

「義経・平家伝説ゆかりの地
甲宗八幡神社 平知盛の墓
源平の戦いの後、源範頼・義経兄弟が戦いで荒れた社殿を再建した。
また、拝殿裏には平知盛の墓と伝えられる石塔があり、
昭和28年の大水害の時に筆立山から流れて来たと伝えられる。北九州市」

みもすそ川公園内に建つ碇を振り上げる平知盛像。

源平最後の合戦に臨んだ新中納言知盛は、
総大将宗盛に代わって全軍を指揮し激を飛ばしました。
しかし安徳天皇が祖母の二位尼とともに入水、
宗盛父子は生け捕られ、教経が海に飛びこむのを見届けると
「見るべきものは全て見た。今は自害せん」と言い残し、
決して浮かんでくることがないように乳母子の
伊賀平内左衛門家長(いがへいざえないもんいえなが)と共に
重い鎧を二領着こんで、手を取り合い海に沈んでいきました。

伊賀平内左衛門家長は、筑後守平家貞の息子ともいわれ、
伊賀国服部の出身で、伊賀服部氏の祖と伝えられています。

平知盛の墓(左)と供養塔(右)

伝 平知盛の墓  
この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として
甲宗八幡神社に伝わるものです。
知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として
能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。
父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、
平家一門の統率的存在となり、寿永三年(1184年)、
所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、
翌年の壇の浦の戦い(1185年3月24日)では
田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、
義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の
最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と
潔く入水してその一生を終えました。
墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、
昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの
状態にありましたので、ここに再祀しております。  

平知盛・乳母子の伊賀平内左衛門家長の墓は赤間神宮にもあります。
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
知勇を兼ね備えた平知盛の最期   

アクセス』
「甲宗八幡宮」福岡県北九州市門司区旧門司1-7-18  
社務所受付時間9時〜17時 電話番号 093-321-0944
JR門司港駅から徒歩約15分
JR門司港駅から西鉄バス5分「甲宗八幡宮前」停下車徒歩すぐ。
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年

 



 

 



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平家の一杯水は、和布刈(めかり)神社から
「めかり観潮遊歩道」をノーフォーク広場へ向かう途中にあります。


関門海峡に面した遊歩道は、開放感にあふれ
対岸の
下関を眺めながら散策することができます。

「産湯井平家の一杯水」北九州市門司区大字門司



産湯井(うぶゆのい)について
ここには、以前湧き水があったと伝えられ、
古くは「産湯井」、壇ノ浦合戦後は「平家の一杯水」と呼ばれ、
郷土史等を基に再現したものです。   北九州市

和布刈神社の南のところに 産湯井というあり 
うがやふきあえずの尊(初代神武天皇の父君)の
御産湯の井戸なりと伝えられる  
海浜の波打ちぎわにあって 井水は海水より低く 時には
藻屑さえ入ることがあるが辛味は少しもないと云われていた

これを 普通に平家の一杯水と云い 源平合戦のとき
平家の武士たちは 戦の最中にも この井戸水を汲み 
のどを潤したと云われたところから「平家の一杯水」とも云われた
参考「門司郷土叢書」第八巻 門司の傳説(門司郷土史会 1960)P.588より

義経・平家伝説ゆかりの地
平家の一杯水
壇之浦の合戦で肩と足に矢を受けた平家武将が海に落ち、
命がけでこの岸にたどり着き、湧き水を見つけた。
武将はその水を飲んで喉の乾きを潤した。
夢中で2杯目を口にしたところ、
真水が塩水に変わっていたという伝説が残されている。
下関側にもあります。      北九州市
下関市前田海岸の平家の一杯水 

 

 



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和布刈(めかり)神社は、古城山の麓、
関門海峡に面して鎮座する小さなお社です。

早鞆(はやとも)の瀬戸は、下関市壇ノ浦と和布刈神社(早鞆明神とも)との
間の瀬戸で、その最も狭くなった岬の先に和布刈神社があります。

眼前には、早鞆の瀬戸と呼ばれる潮流の変化が激しい海峡があり、
ここで源平最後の合戦が繰り広げられ、平家一門をはじめ、
多くの人々が海の藻屑と消えていきました。

海中に戦国大名の宗氏が寄進した灯籠が立っています。
かなり風化が進んでいます。
真上に門司と下関を結ぶ関門橋が通り、
約700m向こうには下関市街が見えます。正面は火の山です。

下関市壇ノ浦から門司の古城山(標高175m)を望む。

『歴代鎮西要略』『豊前志』などによれば、古城山には、
元暦2年(1185)、平知盛が源氏との最後の合戦に備えて
家臣の紀井通資に命じて築かせたと伝えられる門司城がありました。
この城の遺構は残っておらず、現在、
城跡一帯は和布刈公園として整備されています。

壇ノ浦合戦前に平氏一門が勝利を祈願したという伝説が残っています。
「義経・平家伝説ゆかりの地 和布刈神社
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦200年)に創建。
新平家物語では 合戦前夜神宮橘魚彦による祝詞と新酒で
平家の戦勝を祈願したとされる。
毎年旧暦元旦の和布刈神事は有名。 北九州市」



拝殿 神紋は八重桜です。

社殿裏手に高浜虚子の句碑が海峡を眺めるように建っています。
♪夏潮の 今退く 平家滅ぶ時も
昭和16年(1941)6月に虚子がこの地を訪れた時に詠んだ句です。

和布刈神社
九州最北端に位置するするこの神社は、社記によると、仲哀天皇九年に
比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、
鵜茅葺不合命(うかやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命(とよたまひめのみこと)、
阿曇磯良神(あずみいそらのかみ)の五柱の神を祭神として創建され、
江戸時代までは、速人(はやと)社とか隼人(はやと)社と呼ばれていました。
近世末までは、時の領主である大内氏、毛利氏、細川氏、
小笠原氏の崇敬庇護暑く、神殿前には細川忠興公が寄進した灯籠があります。
この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、
和銅三年(710年)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、
奈良時代から行われていたものです。
神事は、毎年旧暦大晦日の
深夜から元旦にかけても干潮時に行われます。三人の神職がそれぞれ松明、
手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。
わかめは、万物に先んじて、芽を出し自然に繁茂するため、
幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。
神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形民族文化財に、
また、当神社に伝存する中世文書九通は、市の有形文化財に指定されています。
北 九 州 市  北九州教育委員会 」

神官が鎌と松明を持ち、引き潮の海へ下り立ち
ワカメを刈って神前に供える神事は、
謡曲『和布刈(めかり)』にも取り入れられてよく知られています。

「謡曲「和布刈」と和布神事
ここ和布刈神社では、毎年十二月晦日寅の刻(午前四時)に
神官が海中に入って水底の和布を刈り、神前に供える神事がある。
今日はその当日なので、神職の者がその用意をしていると、
魚翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に参り「海底の波風の荒い時でも、
和布刈の御神事の時には竜神が平坦な海路をお作りなさるから
出来たのである」と神徳をたたえて立ち去った。やがて竜女が現れて舞い、
沖から竜神も現れて波を退け、海底は平穏になった。
神主が海に入って和布を刈り終わると波は元の如くになり、
竜神は竜宮に飛んで入る。神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ奉じられた。
史実に現れたのが元明天皇和銅三年ですので、それ以前
神社創建時より御供えとして用うる為神事が行われていたと思われます。
謡曲史跡保存会」

『アクセス』
「和布刈神社」〒801-0855福岡県北九州市門司区門司3492番地
TEL(093)321-0749
JR鹿児島本線「門司港」駅より西鉄バス「和布刈」行き→「和布刈神社前」下車すぐ
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年 「角川日本地名大辞典」角川書店、平成3年
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年

 

 

 



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