京都の名所の一つに三十三間堂があります。
平清盛が後白河上皇のために千手観音像一千一体を安置する御堂を
造営し寄進したもので、長寛二年(1164)12月、
上皇の御所法住寺殿の西に建てられました。
正式名は蓮華王院(天台宗)といい、堂の内陣の柱間(はしらま)が
三十三あることから三十三間堂とよばれ、現在は妙法院に属します。
南北118m・東西22m、堂内の中央に
千手観音坐像一体が安置され、その左右に千手観音像五百体ずつ
計一千一体が並び28部衆とともに祀られています。
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平安時代末期は、一度参拝するより二度、三度というように数の信仰が
盛り上がり、貴族は数を争って仏像を造り塔を建てました。
この多数量崇拝と結びついて千手観音信仰が盛んになりました。
観音経によると観音は人々を救うために三十三の姿に変身して現れるという。
三十三間堂に千一体祀られているということは三万三千三十三の観音が
あることになり、その手は千本であるからさらに霊験が増し、
人々のどんな願い事も見逃さず目配りし、
計り知れない救いの手を衆生に差しのべてくれます。
このお堂は木曽義仲の法住寺合戦の兵火をまぬがれましたが、
慶長元年(1249)、火災に遭い創建時にあった五重塔などの
堂塔とともに焼失しました。この時、かろうじて
百二十四体の観音像や28部衆は堂外に運びだされました。
鎌倉時代後期に創建時の姿に再建され、七百五十年あまり前の姿を
今に伝えています。この堂のモデルとなったのが、清盛の父忠盛が、
鳥羽院のために造営した得長寿院(とくちょうじゅいん)です。
白河南殿(岡崎)の一角に建立され、内陣の柱間が三十三あったことから
俗に三十三間堂と呼ばれて一千一体の聖観音像が安置されました。
この功によって忠盛は但馬国の国守に任命されるとともに、殿上人に
列せられ権力の手がかりをつかみました。元暦2年(1185)、得長寿院は
地震で倒壊して現在跡形もありませんが、両寺院の規模・構造とも
ほぼ同じであったので、その姿を蓮華王院に見ることができます。
豊臣秀吉によって北隣に方広寺大仏殿が創建されると、蓮華王院は
その山内寺院として編入され千手堂と称され、南大門と西大門が新たに
つくられました。さらにその後方広寺が妙法院の管理となったことから
三十三間堂も妙法院の管理となり、西大門は七条通の拡張により、
東寺の南大門として移建されました。
『アクセス』
「三十三間堂」京都市東山区三十三間堂廻り町657
京都駅より市バス「博物館・三十三間堂前」下車すぐ
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社