平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



野間大御堂寺境内の鐘楼堂の東側に平康頼の墓があります。
『日本名所風俗図会』(6)には、
この墓について「義朝の追福をせられしゆえ、
そののち寺僧この石碑を建てしとぞ」とあり、
平康頼が義朝の墓を修理し、小さな堂も建てるなどの
仏事供養をしたため、のちに大御堂寺関係の僧が建てた
康頼の供養塔のようです。平判官康頼という呼び名は、
康頼が検非違使尉であったことを示しています。

平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、東国へ敗走の途中、
乳母子鎌田正清の舅長田忠致(ただむね)を頼って野間庄
(現、愛知県知多郡美浜町野間)に辿りつきましたが、
そこで恩賞ほしさの忠致の裏切りにあい、正清ともども殺害されました。

平康頼は鹿ケ谷事件で俊寛、藤原成経(成親の息)とともに
鬼界ヶ島に流されますが、翌年建礼門院の懐妊に伴い赦免、
成経とともに帰京を赦された後白河院の近習です。

かつて平康頼が尾張国の目代として任地に赴いたところ、

野間庄にあった義朝の墳墓は、詣でる人もなく
荒れ果て目を覆うばかりの有様でした。

康頼はこの墓を修理して小堂を建て、六名の僧に念仏を唱えさせ
義朝・正清・正清の妻の菩提を弔ったという。
その上、堂の維持管理のため水田三十町を寄進しています。
その恩に報いるため源頼朝は、康頼を阿波国
麻殖保(おえほ)の保司(荘園の長官)に任じました。
(『吾妻鏡』文治二年(1186)閏七月二十二日条)

平治の乱で平清盛らに滅ぼされた義朝に康頼が深く心を寄せていたものと
思われますが、
寺領寄進は経済的に大きな負担だったでしょうし、

その行為が康頼の一存であったとは考えられません。
これについて『ふるさと森山』には、
「康頼は国司平保盛の目代として尾張国に下り、保盛の許可を得て
墓の整備をした。その時期は保盛が尾張の国司に任命された
仁安元年(1166)12月から解任された仁安3年(1168)11月、
1年11ヶ月の間である。このことが後白河上皇の耳にも達して
出世の糸口となり、尾張目代の任を終えると、左衛門尉に任官され
上皇の近習にとりたてられた。」と記されています。

服部英雄氏は「康頼の奇特な行いの背景には、尾張の知行国主
藤原成親の意向があった」と述べておられます。
(『歴史を読み解くさまざまな史料と視角』)
ちなみに成親が検非違使別当(長官)だったとき、
康頼はその配下に属していました。

 そして元暦元年(1184)の成親の弟盛頼宛の「肥前国晴気保地頭職を
盛頼に与えるという源頼朝の書状(宗像大社文書)から
盛頼が大御堂寺を保護したことは間違いない。」と主張しておられます。

 成親は平治の乱(1159)で藤原信頼・義朝に与しましたが、
妹婿平重盛の懇願で死罪を免れています。
義朝への思いは強かったはずです。
盛頼は藤原定家の姉婿で、三河守、鹿ケ谷事件で解官されるまで
尾張守を歴任しています。この事件で兄の成親、
義兄弟の西光は処刑されましたが、盛頼の処罰は解官にとどまりました。

 また、若松和三郎氏は「弔うべき怨霊を書いた長講堂の過去帳には
義朝の名も連記されていることから、後白河院は平治の乱後、
義朝の霊を弔い、同人の墓を修復するように康頼に命じたのであろう。と
推定されています。」(『ふるさと阿波 平康頼考(上)』)

 野間庄は長講堂領です。(『日本史総覧Ⅱ主要荘園一覧』)
長講堂は院の持仏堂として建てられたもので、
祇王・祇女・仏御前らの名前を記した過去帳を伝えています。
そこに寄進された荘園を長講堂領とよびます。
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)     
『参考資料』
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会 
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館 「半田市誌 本文篇」(半田市1971) 
 「日本名所風俗図会」(東海の巻)角川書店 
「ふるさと阿波 阿波郷土会報(177)」阿波郷土会
服部英雄「歴史を読み解く さまざまな史料と視角」青史出版
「日本史総覧Ⅱ主要荘園一覧 古代Ⅱ・中世」新人物往来社

 
 


コメント ( 2 ) | Trackback (  )




 
鶴林山大御堂寺(通称野間大坊)には、源義朝の墓があります。
平治元年(1159)12月末、平治の乱に敗れた源義朝は東国へ逃れる途中、
義朝の乳母子、鎌田政家(正清改名)の勧めで家人(けにん)の
長田忠致(おさだただむね)を頼り、知多半島の野間庄
(現、愛知県知多郡美浜町野間)に向かいました。
野間の豪族長田忠致は、鎌田政家の妻の父です。
忠致は義朝や婿の政家をさまざまにもてなした後、恩賞にあずかろうと
年が明けた正月3日に入浴中の義朝を謀殺しました。


寺伝によると、大御堂寺の創建は、天武天皇(673―86)の時代に始まり、
聖武天皇(723―49)の時、行基が開山となりました。
その後、白河天皇の勅願寺として承暦年間(1077―81)に再建され
大御堂寺と命名されました。


義朝の首を洗ったという門前の血の池

建久元年(1190)、父の法要に伴い頼朝によって建てられた大門

寺の門前には義朝の首を洗ったと伝える血の池、約六万平方メートルの広大な
境内には、大門、鐘楼堂、源義朝御廟、寺僧がたてたという平判官康頼卿墓、
大御堂寺本堂、野間大坊本殿などがあります。


大御堂寺本堂 本尊は阿弥陀三尊像



木太刀で埋まる義朝の墓。
湯殿にだましいれて湯かたびら一枚の義朝に大力の男が組みつき、
二人の男が左右から脇腹を突きました。義朝38歳、無念の最期

 「ここに一ふりの木太刀ありせば….」
非業の最期を遂げた義朝の悲痛な叫び声が聞こえてくるようです。
義朝の無念を参拝者が捧げ続けている木太刀の山



池禅尼の塚
頼朝は父義朝の廟所に、自身の命乞いをしてくれた池禅尼の塚を築きました。


鎌田政家並に妻平氏の墓
鎌田政家(正清)は酒宴の席で長田にだまし討ちにされ、
政家の妻は夫の刀を胸にあてて自害しました。

正清は祖父助道以来の源氏重代の家臣で、義朝の乳母子として近侍し、
平治の乱の際、藤原信頼が行った臨時の除目で
左兵衛尉に任じられ、
政家と改名しました。
磐田市の鎌田政家(正清)の墓  

織田信孝の墓

梵鐘は建長2年の銘があり、国重要文化財に指定されています。

荒れ果てていた義朝の墓を整備した平判官康頼卿の墓
平康頼の墓(野間大坊大御堂寺 )  

義朝が謀殺されて30年後の建久元年(1190)十月、天下を平定した源頼朝は
上洛の途次、
野間庄に立ち寄り父の廟所に詣で、鎌田正清(政家)の墓、
池禅尼の塚を建て七堂伽藍を造営し大法会を催しました。
頼朝の庇護を受けた当寺は大いに栄え、最盛期には大坊・南ノ坊(現・安養院)
蓮花坊・宝乗坊(現・密蔵院)をはじめ一山十四坊を擁する大寺でした。

寺はたびたびの兵火で焼けますが、秀吉、家康の寄進を受けて発展します。
中興の長円が家康の母方の従弟という関係で、
以後大御堂寺の住職は代々水野氏の世襲となります。
初代名古屋城主徳川義直は伽藍を修復し、
幕府御用絵師狩野探幽に命じて義朝最期の図や
大法会の図を描かせ自ら絵解きを記して寄進します。明治の廃仏毀釈後、
寺は本堂・大坊と安養院、密蔵院、法山寺を残すだけになりました。



野間大坊本殿
秀吉の晩年の居城「伏見山城」の一部を寛永年間(1624~43)に移築したもの。

源義朝最期の地野間(湯殿跡・法山寺)    
寺の近くには長田のはりつけの松があります。
野間はりつけの松・長田忠致屋敷跡 
織田信孝 (安養院・密蔵院) 
  『アクセス』
「大御堂寺」愛知県知多郡美浜町野間東畠50 
名鉄知多新線野間駅下車徒歩10分

『参考資料』
「愛知県の地名」平凡社 圭室文雄編「日本名刹大事典」雄山閣出版 
金岡秀友編「古寺名刹大辞典」東京堂出版 

「日本名所図会」(東海の巻)角川書店 永原慶二・貴志正造「吾妻鏡」(第十)新人物往来社 
五味文彦・本郷和人編「現代語訳・吾妻鏡」(3)吉川弘文館 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





安養院は、宝暦五年(1755)12石余を大御堂寺から分与されて現名に改称し、
明治になると大御堂寺の三院が安養院に合併しました。

織田信長の三男信孝は、兄信雄(のぶかつ)より20日余早く生まれましたが、
信雄の母方の家柄が上だったため三男とされたといわれています。
本能寺の変後、信孝は大坂で明智光秀の婿を殺害し、続いて光秀討伐のため
攻め上る秀吉軍と摂津富田で落ちあい山崎で光秀軍を破るなど活躍し、
兄信雄と家督を争いますが秀吉によって退けられ、
信長の嫡男信忠の子・
三法師が後継に決まりました。
信孝は三法師の後見役として
岐阜城と美濃国を与えられますが、
柴田勝家と手を結び秀吉と争います。

しかし勝家は賤ヶ岳の戦いに破れて越前北庄で自害したので、
後ろ盾を失った
信孝は兄信雄の勧めに従い岐阜城を明け渡し、
野間内海に落ち大御堂寺に送られて
安養院で自害しました。
寺には信孝が切腹した時に腸を投げつけたという

血染めの掛け軸(古画の墨梅)が秘蔵されています。



信孝辞世の句
♪昔より主を討つ身(内海)の野間なれば報いを待てや羽柴筑前

「昔より主を討つ身」とは長田父子が主の義朝を
野間内海庄で殺害したことを述べています。
織田信孝の墓は、大御堂寺の源義朝の廟所にあります。
源義朝の墓(大御堂寺) 
 

密蔵院の裏山には、長田忠致の磔の松があります。


『アクセス』
「安養院」知多郡美浜町野間字東畠90-1 大御堂寺から徒歩2、3分
「密蔵院」知多郡美浜町野間字松下105  大御堂寺から徒歩5分

『参考資料』
「愛知県の地名」平凡社  圭室文雄編「日本名刹大事典」雄山閣出版 
金岡秀友編「古寺名刹大辞典」東京堂出版 「戦国武将合戦事典」吉川弘文館
 
 
 

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )