崇徳院は讃岐の配所で、重仁親王の母である兵衛佐局とその他の女房
1人2人だけでの寂しい暮らしをし、親しく召し使っていた人々も人目をはばかって
院を訪ねてくることはなかった。と『今鏡』に哀れ深く記されていますが、
寂然(じゃくせん・ じゃくねん)が配所に院を訪ねてしばらく滞在し、
京へ戻る際、院と詠み交わした歌が室町時代の勅撰集
『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)巻9・旅歌に収められています。
「讃岐より都へのぼるとて、道より崇徳院にたてまつりける」という
詞書(ことばがき)があり、
「なぐさめにみつゝもゆかん君が住む そなたの山を雲なへだてそ」
これに対して、院からはこういう返しがありました。
「思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを」この歌からは、
都からはるかに隔たった見知らぬ土地で暮らす心細さが伝わってきます。

寂然(生没年不詳)は、兄の寂念(為業)・寂超(為経)とともに「大原三寂」とも、
「常盤三寂」ともよばれました。父藤原為忠は、白河院の乳母子知綱の孫であり、
妻は待賢門院の女房でした。為忠は三河守、安芸守、丹後守などを歴任して
富を築き、その財で造作した邸宅常盤は、和歌交流の場となっていました。
寂然の俗名は藤原頼業(よりなり)といい、康治2年(1143)壱岐の守となりましたが、
やがて辞任し、大原に隠棲しました。寂念・寂超も相前後して伊賀守、長門守を辞し
隠棲しています。寂然らは待賢門院の権勢が衰える中で出家したのです。
寂超(じゃくちょう)は歴史物語『今鏡』の著者と考えられ、
この物語は、当時の時代を知るうえで貴重な史料となっています。
崇徳天皇は鳥羽法皇の第1皇子、後白河天皇はその弟で第4皇子です。
どちらも母は待賢門院璋子です。崇徳天皇は5歳で皇位につきましたが、
保延7年(1141)、鳥羽上皇は出家して法皇となり、崇徳天皇23歳を位から
強引におろしました。これに代わって天皇の位についたのが、美福門院得子の子、
まだ3歳の近衛天皇でした。近衛天皇が即位すると、待賢門院は権勢を失い、
康治元年(1142)年に出家し、それから僅か3年後に亡くなりました。
寂然と同じように上皇の生前、讃岐の配所を訪ねた人物が『保元物語』、
『発心集』などに登場し、彼らが見た当時の木の丸殿の印象が記されています。
この説話を『保元物語』から、ご紹介させていただきます。
配所を訪ねたのは『保元物語』によると蓮誉(れんよ)、
『発心集』では蓮如となっています。
蓮如は『半井本保元物語』によると、俗名を淡路守是成といい、
楽人として上皇に召し使われていた人物です。
「鳥羽院の北面の武士であった紀伊守範道が、出家遁世して蓮誉と名乗り
諸国遍歴の聖となりました。在俗の時は、賀茂や石清水、内侍所などで行われる
御神楽に従事する楽人でしたが、とりたてていうほどの身分ではないので、
崇徳新院にお目にかかることはありませんでした。しかし配流地での新院の
気の毒な暮らしぶりを聞き、悲しく慕わしく思いはるばると讃岐まで訪ねてきました。
着いてみれば、御所のありさまは目もあてられぬ嘆かわしいお住まいでした。
武士どもが御所を囲み、いばらが道を塞ぎ、花鳥風月の趣があるところでなく、
新院のお心をお慰めするものは何もありません。雪の朝、雨の夜の哀れを
訪ねてくるものは誰もいないであろうと思い、粗末な衣の袖を涙で濡らしました。
どうかして御所の中に入ろうとしましたが、厳しく周囲を警固しているので、
むなしく辺りをうろうろするだけです。 日も暮れ果てて夜に入り、
月が明るく照る中、笛を吹きながら、朗詠をして心を慰めました。
『幽思(ゆうし)窮(きわ)まらず 深巷(しんこう)に人なき処
愁腸(しゅうちょう)断えなむとす 閑窓(かんそう)に月のある時』
(草深い巷(ちまた)の家は訪ねる人もなく、独り住んでいると物思いは絶え間がない。
寂しい窓に月のさす時は、思いも増してはらわたもちぎれる思いだ。)
『和漢朗詠集・巻下・閑居』とあるように、浦吹く風とともに波の音や
棹さす音がどこからともなく聞こえてきて、心細さは例えようもありません。
夜も更け、月も傾き、風は冷たくなり、心寂しく立ち尽くして
悲しみの涙に濡れていると、水干をまとった人が御所から出てきました。
蓮誉は嬉しく思い事情を話すと、哀れがって御所に紛れ込ませてくれました。
新院に直接お会いすることはできませんが、
板の端に一首の和歌を書きつけて、さっきの人に渡しました。
「朝倉や木の丸殿にいりながら 君に知られでかへるかなしさ」
(あの朝倉にあったような木の丸殿を訪ねながら、
お会いすることもかなわず帰る事は、たいへん悲しいことです。)
「朝倉の木の丸殿」は、斉明天皇が新羅侵攻の時、福岡県朝倉郡朝倉村須川に
造ったという黒木造り(樹皮がついたままの丸太)の粗末な御殿です。
その御殿をふまえ、崇徳院の御所を詠んだものです。
院も哀れに思い近くに召しよせ都のことも聞きたく、
昔話もしたいと思いましたが、それもならず返歌だけをことづけました。
「朝倉やただいたづらにかへすにも 釣りする海人のねをのみぞなく」
(せっかく来てくれたのに会うこともならず、朝倉にたとうべきこの御所から、
虚しく帰してしまうことになったが、そなたの好意は身にしみて嬉しく、
釣りをする漁夫のように声を立てて泣くばかりだ。)と書いてありました。
たいへん恐れ多く思い、これを大事に笈の底深く入れ、泣く泣く都へ帰りました。」
寿永3年(1183)4月、保元の乱の古戦場であり、崇徳院の
御所跡でもある春日河原(聖護院河原町)に神祠が建てられ、
その鎮祭の際に範道(蓮誉)は兄範季とともに勅使を勤めています。
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
(保元物語下 新院経沈めの事付けたり崩御の事)
新潮日本古典集成 鴨長明「方丈記 発心集」新潮社、昭和51年
(第六・九 宝日上人、和歌を詠じて行とする事 並 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事)
新潮日本古典集成「和漢朗詠集」新潮社、昭和58年 「西行のすべて」新人物往来社、1999年
五味文彦「西行と清盛 時代を拓いた二人」新潮社、2011年
全訳註竹鼻績「今鏡」 (上) 講談社学術文庫、昭和59年(すべらぎの中第二 八重の潮路)
山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川廣文館、2007年
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年
たまさか都からやってきた者にも高い身分が邪魔をして直接都の話を聞く事すらできない、ずっとのちには警戒も少しは弛んで、身分は低くても趣味の世界を共にする客も滞在する事が出来たのかも知れませんが、実に惨めな思いでおられたことでしょう。
あった阿部麻鳥が配所の周りを朗詠を吹いて巡り歩き
それに気付かれた新院に、池を挟んで言葉以上のものを語りかける横笛を吹きました。新院は、たいそうご感動されたというお話ですが、さぞかし心残りで残念であったと思います。
院方の武士の多くは斬首されてしまいました。
院はせいぜい都近辺の山里で軟禁されるくらいですむと思われていたようですが、
遠い讃岐への流罪そして二度と都の土を踏むことはできませんでした。
院には悲しい歌が多いです。
そこには崇徳上皇の配所を訪ねた人物も描かれているそうですね。
この説話は「保元物語」「発心集」の他、「十訓抄」や
「源平盛衰記」などにも記されていますが、
配所を訪ねた人物の俗名はさまざまです。
脚色されているのかも知れませんが、いずれにしても
御所の庭には草が生い茂り、警固が厳しかったとしています。
そのような隠棲聖が上皇の配所を訪ねたということはあったのでしょうが、
その実像を明らかにするのは難しいようです。
小さいころに「新平家物語」がずらっと並んでいた父の書棚を思い出します。