源頼義は陸奥の国で勃発した前九年の役を鎮圧して東国に
ゆるぎない勢力をきずきました。頼義の次男賀茂次郎義綱は甥義忠を
殺害したという冤罪をきせられて佐渡へ流罪となり、頼義の系統は
嫡男八幡太郎義家の子孫と三男新羅三郎義光の子孫に大きく分かれました。
新羅三郎義光の嫡子義業は近江・常陸の所領を受け継ぎ、その長男昌義は
常陸の所領を受けて佐竹に住み 「佐竹冠者」と称し佐竹氏の始祖となりました。
次男義定はもう一つの所領を継いで 近江国浅井郡山本(木之本町広瀬)に
居館を構えて山本氏と称し、義定の嫡男山本義経は
湖北の所領を継いで山本冠者と名のっています。
弓馬の芸に秀で仁安三年(1168)左兵衛尉に任じられ、
活躍していましたが、彼か彼の郎党が延暦寺の僧を殺害したという
罪で佐渡に流されました。 その後、平清盛の嫡男重盛が死去、
その特赦で義経は治承三年(1179)秋に
近江に帰っていました。 この時、義経は50歳位であったという。
治承四年四月、以仁王の平家追討の令旨が全国の源氏に伝えられると
同年十一月、 源頼朝や木曽義仲に倣って山本義経は挙兵しました。
平家の将藤原飛騨守景家とその家臣が伊勢に向かう途中、
義経はこの一行を襲撃し 十数人を殺害、討取った首を勢多橋にさらした。
飛騨守景家は頼政が挙兵した時、以仁王を討ち取った武将です。
「平家物語」(高倉の宮最後)によると以仁王と頼政はひとまず三井寺に逃げて
比叡山と南都(奈良)の僧兵に援軍を求めるが、比叡山はあてにならず
奈良からの援軍は中々こない平家軍は三井寺に迫った。そこで一行は興福寺を
頼って南都へ逃れたが宇治の平等院で追いつかれた。頼政が 平家軍を
防いでいる間に、以仁王は僅かな供とともに南都へと急いだ。
平家の中でも古兵(ふるつわもの)の飛騨守景家は、以仁王は南都に
逃れたに違いないとみて、戦場をぬけて五百余騎を率いて以仁王の後を追った。
光明山の鳥居前で ついに以仁王は景家の軍勢に追いつかれ、
矢をわき腹に受けて落馬し首をとられました。
勢いにのった山本義経は近江国を押え琵琶湖水運を支配下に入れ、
平家への運上物を北陸道で差し押さえました。三井寺を拠点に義経が六波羅へ
夜襲をかけるという噂も流れましたが、治承四年(1180)十二月一日、清盛の命を
受けた平知盛を大将とする軍勢が近江に押し寄せ山本(下)城を攻め落とした。
義経とその弟柏木冠者義兼は頼朝を頼って鎌倉に逃げ、土肥実平を介して
頼朝に謁見すると「まっ先に参向するとは実に神妙である。関東に
仕えることを許す。」と仰りその御家人となったが、鎌倉には移住せず
故郷に帰って山本城を修復してこもり、 近江各地に潜伏し
反平家のゲリラ戦を続けながら頼朝が上洛してくるのを待ちました。
そこへ源頼朝の挙兵に応じて木曽で旗揚げをした源義仲が
寿永二年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦で平家の大軍を撃破し
北陸路から京を目指して勢多に迫ると平家に強い敵意を抱く
山本義経は義仲に加勢して都に入りました。
いち早く挙兵し平家に抵抗した義経はその功を認められ
寿永二年(1183)秋に伊賀守、12月には若狭守に任じられた。
木曽義仲の傍若無人な振る舞いを嫌っていた山本義経は、元暦元年(1184)
頼朝が九郎判官義経や範頼に源義仲追討を命じた際、一族とともに
義仲追討軍に加わるが、それ以後の山本義経の消息は不明。その子孫は
殷富門院(亮子内親王)や七条院(後鳥羽上皇の生母)に判官代として仕えた。
「延慶本平家物語」(巻11)に九郎判官義経の容姿について
「色白男の長(たけ)低きが、向歯(むかば)の殊に指し出て」とあり、色白で背が
低く反っ歯と記していることから「 源義経は出歯の醜男」だったといわれた。
実はこれは山本義経が反っ歯で「反っ歯の兵衛」と呼ばれていたため、
山本兵衛尉(じょう)源義経と九郎判官義経を混同したものと思われます。
二人の義経は共に清和源氏、同じ時代の人物、さらに義仲追討に
一緒に加わり行動したことで混同されやすかったのでしょう。
「古活字本平治物語」によると九郎判官義経は「鏡の宿」で自ら元服し、
義経という名に決めた。と書かれている。源氏の通字は頼朝・義家の二代は
「頼」であったが、「頼義・義家・義親・為義・義朝」というように「義」であった。
九郎は「義」の下に自分で適当な文字を入れたのであろう。
なお「義経記」では、熱田神宮で熱田大宮司を烏帽子親として元服したとある。
しかし平安時代にはできるだけ同一の名をつけることを避けるため、
烏帽子親は前もって名を調べ研究したので「
義経記」のこの記事は作り話と思われます。
正式な元服式を行い烏帽子親に名をつけてもらったなら、 烏帽子親は
山下兵衛尉と同じ義経という名を九郎のためにつけなかったはずです。
もう一方の新羅三郎義光を祖とする佐竹氏は源氏の一族でありながら
いまだに帰属していなかったため、頼朝は富士川合戦から帰るとただちに
佐竹征伐のために常陸国に向った。佐竹氏は多くの兵をもち
その権威は国外にまで及び郎従は国中に満ち、当主である隆義の母が
藤原清衡の娘であったため、奥州藤原氏とも通じていました。
治承4年11月4日、頼朝軍は常陸国府に到着した。しかし佐竹冠者秀義は
父隆義が平家方として都にいることもあってすぐには参上できないといって
金砂(かなさ)城に籠った。そこで千葉常胤・上総介広常・三浦義澄
土肥実平らの宿老たちはよくよく計略を練ろうと話し合いました。
まず佐竹一族の縁者上総介広常を遣わして一族をおびきだすことにし、
佐竹義政は広常の誘いにのり、頼朝に見参するために常陸国府に向かいました。
だが一行が国府手前の大矢橋にさしかかると広常は義政を殺害しました。
だまし討ちです。続いて頼朝は金砂城(茨城県久慈郡金砂郷町)を
攻撃するために兵を遣わせた。
佐竹秀義は金砂山の切り立った断崖の上に城壁を築き、以前から防戦の
備えをしていたため少しも動揺せず、高い崖の上から大木や岩石を
投げ落とすので頼朝軍の兵士には当たるが、頼朝軍から射た矢が山の上に
届くことはなかった。そこで頼朝の側近たちは策を練った。佐竹秀義の
叔父佐竹義季は智謀が優れ欲深い人物であった。この義季を利で
つろうという作戦である。恩賞に目がくらんだ義季はたちまちひっかかった。
事情をよく知っている義季が頼朝勢を案内して城の裏手に回り
鬨の声をあげると、佐竹勢は防ぎきれずに逃亡した。秀義は城を逃れ
常陸と奥州の国境に近い 花園山(北茨城市花園)に逃げ込み、その子たちの
中には奥州の藤原秀衡を 頼った者もいた。頼朝はここで兵を引いた。
奥州の藤原氏と戦う力はその当時の頼朝にはありませんでした。
『アクセス』
「瀬田唐橋」滋賀県大津市唐橋町 京阪電鉄/石山坂本線「唐橋前駅」下車 徒歩 5 分
JR琵琶湖線「石山駅」下車 徒歩 10 分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 角田文衛著作集6「平安人物史」(下)法蔵館
七宮三「常陸・秋田 佐竹一族」新人物往来社 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社
奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店「平家物語」(上)新潮日本古典集成
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂