「平治物語」には、亡き家盛に頼朝が似ているという話を宗清から聞いた池禅尼が、 ふびんに思い清盛に頼朝の命乞いをしたいきさつが詳しく語られていますが、はたして それだけの理由で池禅尼は断食までして清盛に頼朝の助命を嘆願したのでしょうか。 今回は池禅尼の縁者と頼朝の母方の縁者との接点をみてこの問題を考えてみます。
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藤原宗兼の娘池禅尼(宗子)は平忠盛の後妻となり家盛、頼盛を生みますが、
家盛は病をおして鳥羽院の熊野詣の供をして帰京の途中亡くなります。
池禅尼の叔母は当時宮廷社会で勢力を誇っていた善勝流藤原家保の妻となり
家成を生んでいます。この家系は家保の父顕季の母が白河天皇の乳母となった関係から
政界に進出し代々白河・鳥羽・後白河と常に院近臣の中心人物となっています。家成も
鳥羽院有力近臣として絶大な権勢を振るい鳥羽殿の安楽寿院や三重塔を造営します。
鳥羽院との間に近衛天皇を生んだ美福門院は家保の姪、家成の従姉妹にあたります。
忠盛は妻宗子の縁で家成との結びつきを強め白河院・鳥羽院の恩寵を得て
着実に出世していきます。
父正盛までは地下の受領だった忠盛が得長寿院を建立・寄進し、
鳥羽院を大いに喜ばせ念願の内裏の昇殿を許され殿上人になったことが
「平家物語」(巻一)『殿上の闇討の事』に書かれています。
得長寿院は、のちに清盛が建てた蓮華王院三十三間堂と構造・規模とも
ほぼ同じとみられ聖護院辺りにありましたが現存していません。
「然るに忠盛、未だ備前守たりし時、鳥羽の院の御願、得長寿院を造営して、
三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据え奉らる。供養は天承元年三月十三日なり。
勧賞には欠国を賜ふべき由仰せ下されける。上皇なほ御感の余りに、
内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて、始めて昇殿す。」
善勝流藤原氏と平家の関係は忠盛の時代だけでなく清盛の嫡子重盛が成親の妹を
妻とし、その子維盛も成親の娘と婚姻関係を結んでいます。平治の乱で
信頼方についた成親が解官だけですんだのは重盛が助命に奔走したおかげです。
美福門院の生んだ体仁(近衛天皇)が三歳の時、崇徳天皇は鳥羽上皇にだまされた形で 譲位すると、鳥羽・崇徳の不和はいっそう深まり、これが保元の乱の一因となります。 鳥羽院と美福門院は近衛天皇が即位すると病弱な天皇には皇子が 生まれないかもしれないと崇徳院の子である重仁親王、雅仁親王(後白河)の子 守仁親王(二条天皇)を養子にします。 池禅尼は重仁親王の乳母、忠盛は乳母夫となり、歌人でもあった忠盛は和歌を通じて 崇徳院とも親密な関係を築いています。
近衛天皇が即位すると美福門院の権勢が強まり、待賢門院やその周辺の人々は 影の薄い存在となり、鳥羽院との関係が疎遠になっていた待賢門院璋子が出家します。 崇徳院は母待賢門院が置かれている立場に心を痛め、 ますます美福門院を憎むようになります。 嗣子のないまま17歳の若さで近衛天皇が病死すると、重仁親王をたてたいと願う 崇徳院の気持ちに反して、鳥羽上皇は崇徳院の弟後白河天皇を即位させます。 保元元年(1156)鳥羽院が死去すると、謀反を起こさないといけない所まで 追い詰められた崇徳院が兵を集め保元の乱が起こります。 同じころ摂関家でも忠通、頼長の兄弟が家長の地位をめぐって内輪もめが起こり、 後白河天皇には忠通が崇徳院には頼長がつき天皇家・摂関家だけでなく侍として 仕える源氏、平氏の武士まで巻き込んだ戦いに発展していきます。
すでに忠盛は亡くなっていたため、池禅尼は「この軍は一定新院の御方はまけなんず、 勝べきやうもなき次第なり」とて「ひしと兄清盛につきてあれ」と頼盛に指示します。 ◆新院とは上皇が二人以上いる場合、新しく上皇になった方でここでは崇徳上皇のこと。 当時鳥羽上皇は没していたため、新院という言葉を用いる必要はないが、 崇徳上皇について新院という表現が広く用いられていた。
本来なら池禅尼は重仁の乳母ですから頼盛を崇徳院のもとに参加させるのが筋ですが、 池禅尼は崇徳院方に勝ち目はないと頼盛に後白河天皇方に加わるよう諭します。 この時やはり重仁親王の乳母子にあたる清盛は美福門院得子に誘われ、後白河天皇方に 付いていました。乳母としての感情を抑え、情勢を的確に判断した池禅尼により 平家は一族内で統一した行動をとることができ、その勢力を保持することができました。 これとは逆に源氏はこの戦いで義朝の父や兄弟が崇徳院方につき 一族の多くを失っています。
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次に頼朝の母方を見てみると頼朝の母は熱田大宮司家藤原季範の娘で、 季範は熱田大宮司であるとともに官人として殆どを都で過ごします。 その弟憲実は待賢門院の御願寺円勝寺に入り、 寺院内のこといっさいを掌る都維那(ついな)にまで昇進しています。 季範の娘たちも待賢門院璋子や璋子の娘上西門院に女房として仕え、頼朝の母も 上西門院の女房だったのではと云われています。息子範忠は後白河近臣、 範雅は後白河天皇の北面として仕え、祐範は園城寺に入っています。 統子内親王(上西門院)が皇后に昇ると12歳の頼朝が皇后宮権少進に任じられ、 さらに上西門院蔵人もつとめています。このことから上西門院や その周辺の頼朝の縁者が頼朝助命に動き上西門院と親しかった池禅尼に 口添えを頼んだのではないかといわれています。 |
また「王朝の明暗」によると頼朝が捕らえられて以来、彼の母方の縁者の間では 助命運動が密かに進められていたのではなかろうか。その中心人物は 頼朝の母の弟である園城寺の僧祐範とし、祐範は頼朝が伊豆国へ配流された際、 家人一人を頼朝に付け、その後は毎月頼朝の許に使者をつかわせ面倒を みたということである。祐範が白河法皇の皇子である園城寺長吏・前大僧都行慶に 頼朝の助命を懇願したとしても別に不自然ではなかろう。 行慶は従兄弟の宗賢法師を案内役とし密かに池殿を訪れ、池禅尼に 頼朝助命について尽力を懇願したとすれば、もともと頼朝に同情していた彼女は この依頼を拒絶できなかったであろう。宗賢は池禅尼の義理の甥にあたり、待賢門院の 忠実な側近で女院が落飾したその日に出家したという人物です。 それに池禅尼には保元の乱に崇徳上皇や重仁親王を裏切った後ろめたさが あったはずであると角田文衛先生は述べられています。 以上のことから池禅尼が一時的な感傷からだけで、死を覚悟した強い決意で 清盛に助命を懇願したのではないことが推測できるのではないでしょうか。
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『参考資料』 角田文衛「王朝の明暗」東京堂出版 高橋昌明「清盛以前」文理閣 竹内理三「日本の歴史(6)」中公文庫
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 保立道久「義経の登場」NHKブックス |