義経は土佐坊昌俊の夜討ちにあった翌日の
文治元年(1185)10月18日、その件を朝廷に報告し、
行家とともに再び「頼朝追討宣旨」を下されるよう要請しました。
当時、宮廷内は後白河法皇近臣の大蔵卿高階泰経のような
親義経派と頼朝に好意的な右大臣九条兼実に分裂していました。
兼実は頼朝には追討を受けるべき何の咎もないと主張しましたが、
法皇や公卿らは義経を怒らせる事態を恐れて、
頼朝追討宣旨を下しました。
このことを知った頼朝は、行家と義経を討つべく
10月29日に自ら大軍を率いて出陣し、11月1日に駿河国の
黄瀬川に到着し、ここで都の様子を見ることにしました。
この地は5年前、頼朝の挙兵を知って馳せ参じた義経がはじめて
兄と対面し、互いに手を取り合って涙を流した場所でした。
あの時の気持ちは、もう頼朝にはありません。
その頃、京では義経と行家が軍勢を招集しましたが、
時流を予知した畿内の武士らは与せず、思うように集まりません。
これでは鎌倉から攻め上ってくる大軍が相手では勝ち目がないと、
都を出て西国の緒方惟栄(義)を頼り九州に活路を見出そうと、
後白河法皇に要請し「義経を九州の地頭に、行家を四国の地頭に任命する。
西国の目代たちは、両人の下知に従うべし。」という院宣を賜りました。
緒方惟栄(これよし)は、かつて平重盛の家人でしたが、京から太宰府に落ちた
平家を一族で攻撃して追い落とした豊後(大分県)の豪族です。
同年11月3日、義経と行家に率いられた500余騎の軍勢は
静かに京を去って行きました。この潔い態度に感動した九条兼実は、
頼朝びいきにも関わらず、その日記『玉葉』に「法皇、公卿、
他の諸家も皆無事である。義経の所業は実に義士というべきか。
洛中の身分の高い者も低い者も喜び感謝しない者はない。」と記し、
義経を「義士」と称えています。洛中の人々は、義経が
西国落ちに際して狼藉を働くだろうと心配していたのです。
兼実などはなすすべがなく、伊勢大神宮と
春日大明神を念ずるばかりだったという。
『吾妻鏡』は、義経・行家に従う者として
前中将時実(平大納言時忠の息)・
侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成の息)・
伊豆右衛門尉有綱(義経の娘婿)・堀弥太郎景光 ・
佐藤四郎忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘綱・弁慶法師以下、
その勢200騎ばかり(『平家物語』には500余騎)と記しています。
京を出た義経一行は大物浦(兵庫県尼崎市)を目指します。
この報を聞いた太田城城主の太田太郎頼基は、義経に明日はないと判断し、
60余騎の手勢を率いて川原条(河原津)で合戦を挑みましたが、
義経一行に取り囲まれ、太田太郎は手傷を受け、郎党の多くが討たれました。
川原条は、太田城から西国街道を通って、安威川にかかる
太田橋の西側の地名、現在の茨木市西太田町辺をいいます。
絵図の右手に見える太田廃寺跡は、明治40年(1907)の開鑿により、
出土瓦に飛鳥時代後期(7 世紀後半頃)に遡るものがあり、
飛鳥後期の寺院と想定されています
最寄りのバス停「追大総持寺キャンパス前」
バス停から太田一丁目へ進みます。
左手に建築中のイオンタウン、右手にビニール温室、
きれいに刈込まれたカイズカイブキの植込みが見えてきます。
説明板・旧跡太田城址と彫られた碑があります。
太田城跡
太田1・2丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭くてT字路に
なっているところが多くありますが、城下町であった特徴をしめしています。
この城は、平安時代末期(12世紀末)の平城で、太田太郎頼基(よりもと)という人が
築いた城であると言われていますが、くわしいことはわかっていません。
頼基は、多田源氏の一族で、摂津国でも優秀な武士として名を連ねています。
その行跡のうち「平家物語巻12」に、源義経と近くの川原条
(かわらじょう=安威川と西国街道が交叉する
太田橋のすぐ西側)で合戦したことが記されています。
それによると、平家を滅ぼした義経が都にとどまっていたとき、
兄頼朝が義経を討つため都に攻め入るという噂がたったので、
義経が文治元年(1185)11月3日の明け方、西国へ
逃げのびようとしました。頼基は、「我が門の前を通しながら、
矢ひとつ射かけてあるべきか」といって、
川原条(河原津)というところで義経と戦いましたが、
この時敗れたとされています。 茨木市教育委員会(説明板より)
太田太郎頼基は『平家物語』(巻4巻・源氏揃)にもその名が見えます。
源三位頼政がある夜ひそかに皇位継承の機会を窺いながら
過ごしてきた以仁王(後白河院の皇子)の御所を訪ね謀叛を勧めます。
そして諸国にいる源氏に蹶起を促せば馳せ参じるであろう
50人もの源氏の名を数えあげるくだりがあり、その中に「摂津国の
多田次郎朝実(ともざね)、手嶋冠者髙頼、太田の太郎頼基」とあります。
太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側一帯の太田村に築かれていたと
推定されますが、今は「城の前」「城の崎」などの関係小字が残っているだけです。
「太田東芝町」交差点のところにある坂を雲見坂(くもみざか)といい、
東から西に向かって緩やかな下り坂になります。
この名の由来は『摂津名所図会』に、「太田村にあり、太田太郎頼基ここにて
天文を見て雲気を考え、軍の勝敗をさとりし所といふ」とあることから
この辺りから頼基が雲の流れを見て、天気や戦の
勝敗を判断したことから名づけられたようです。
地蔵菩薩と彫られた太田太郎頼基の墓と太田城跡顕彰碑。
自然石に「地蔵菩薩」その背面に
「太田野太郎丸(太田太郎頼基)」と彫られています。
黄瀬川の陣で義経、頼朝と対面
『アクセス』
「太田城跡」大阪府茨木市太田1-4
阪急茨木市駅から近鉄バス 花園東和苑行き「太田」下車
阪急茨木市駅から近鉄バス「追大総持寺キャンパス前」下車
阪急茨木市駅から近鉄バス「東芝正面前」下車
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)(下2)角川書店、昭和62年、昭和52年
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1985年