平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



鶴ヶ岡八幡宮から金沢街道(県道204)に沿って、
東へ進んだ十二所に大江広元邸跡があります。



明石橋交差点を滑川沿いに70mほど行くと、
住宅(十二所921)の角に「大江広元邸址」の石碑が建っています。





富士川合戦に続く金砂城(かなさじょう=現、茨城県常陸太田市)の戦いで、
常陸の佐竹氏などの反対勢力を破った源頼朝は、治承4年(1180)12月、
大倉郷に建設した大倉御所(現、大蔵幕府跡の碑が建つ清泉小学校辺)に移りました。

佐竹氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光嫡流で、
常陸国北部を中心に強大な勢力を誇り、頼朝の背後を脅かす存在でした。

元暦元年(1184)8月から公文所(くもんじょ)の建設がはじまり、
10月には完工してその別当(長官)に大江広元が起用されました。

公文所と同時期に裁判実務を扱う問注所(もんちゅうしょ)も新設され、
執事(長官)には三善康信が任じられました。
和田義盛を別当としてすでに設置されていた侍所とともに
幕府の三大機関である三つの組織が整いました。
侍所は御家人の統制などを担当し、その所司(副長官)には、
梶原景時を任命しました。

別当和田義盛は、畠山重忠の攻撃を受け
衣笠城からほうほうのていで安房に逃亡する途中、
石橋山合戦で敗れ真鶴から船出した頼朝と海上で出会い、
早々と恩賞を願いでて勝利の暁には
「侍所別当」に任命するという約束をとりつけたという。

現在公文所の位置は、はっきりとはしていませんが、公文所に門を建てているので、
大蔵幕府と同じ敷地内にあったとは考えにくく、鶴岡八幡宮の東隣、
筋替橋を東北隅とする位置に建てられていたと思われます。

筋替橋は西御門川に架かっていましたが、現在は暗渠(あんきょ)となっています。

公文所はもとは公卿の政所(まんどころ)や国衙(こくが)・荘園などに設置された
公文書を管理する機関ですが、頼朝の財政基盤が成立したので、
それを管理する家政機関としての公文所を置きました。
建久元年(1190)に頼朝が従二位に任じられ公卿に叙せられると、
政所設置の資格を得たため、これを設置し公文所の組織を統合して、
東国で得た関東知行国や関東御領と称する将軍直轄領、
朝廷から与えられた平氏没官(もっかん)領などの経営を行いました。

大江広元の出自については諸説ありますが、大江維光(これみつ)を
父として生まれ、中原広季の養子となって、中原姓を名のっていました。
大江姓に復したのは、陸奥守に任官した以後の
建保4年(1216)、朝廷に願いを出して改姓しました。

広元は朝廷に仕える下級貴族でしたが、太政官の事務部局である
外記(げき)の官人を務めた後、兄弟の中原親能(ちかよし)が
頼朝と親しかったため、頼朝に事務能力を買われ鎌倉に下りました。

頼朝にかわって度々都に上り、朝廷との交渉で
大きな役割を果たしています。


中原親能の父は、明法(みょうぼう)博士中原広季で、
親能は都で斎院次官に任じられていましたが、幼い頃、相模国の武士
波多野経家(つねいえ)に養育され、その娘を妻としていました。
頼朝とは古くからの知り合いで、頼朝が挙兵するとすぐに鎌倉に下り、
公事奉行人(公文所や問注所の別当・執事を兼務)として活躍する一方、
平家追討軍として範頼に従ったり、京都守護などを務めました。

また経家の兄波多野義通(よしみち)の妹は、
源義朝の妻となり朝長(ともなが)を生んでいます。
頼朝は平治の乱で父義朝と異母兄の義平、
中宮少進(しょうじん)朝長を失いました。

問注所執事の三善康信は、太政官の書記官役を世襲する
家柄に生まれた下級貴族です。おばが頼朝の乳母であった縁で、
都で下級官僚として仕えるかたわらこまめに伊豆配流の頼朝に
都の情勢を知らせ続け、挙兵を内側から大きく助けました。

頼朝は武士たちとは軍議を凝らし、主に文書を通じて行う朝廷との
交渉や連絡は、京都で下級官人であった側近たちが、
その実務経験を生かして草創期の鎌倉幕府を支え続けました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)11月12日の条には、大江広元は諸国に
命令が行き渡るよう守護・地頭を置くよう早く朝廷に申請すべきであると提言し、
頼朝は大いに感心しこの提案通りにすることにしたと記されています。

碑文 「大江廣元邸址
大江氏奕世學匠トシテ顯ル嘗テ匡房兵法ヲ以テ
義家ニ授ク
廣元ハ其ノ匡房ノ曽孫ナリ
頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ来リ常ニ帷幄ニ待シ機密ニ参書ス
幕制創定ノ功廣元ノ力興リテ多キニ居リ相模毛利荘ヲ
食ム子孫依リテ毛利ヲ氏トス
而シテ因縁竒シクモ此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ
王政復古ニ倡首タリ
此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖大膳大夫ノ邸址ナリ
大正十四年三月建 鎌倉町青年團」

碑文に「毛利ノ鼻祖(びそ)」とあるのは、広元の
4男季光(すえみつ)が相模国毛利荘(現、厚木市)を賜って
毛利氏初代となり、以後、毛利氏を名のったと言っています。

大意「大江氏は代々学問の家として知られていました。
広元は、かつて源義家に兵法を教えた大江匡房のひ孫です。
頼朝に招かれ、鎌倉に来てからは常に幕府の中枢にあり、
機密な事柄に参画していました。幕府の創設の功績は、
広元の力によるものが大きく、相模の国の毛利庄を賜って
子孫は毛利氏を名乗りました。しかし、因縁奇しくもこの幕府創業の元勲の
七百年後の末裔が、王政復古の主導をしました。
この地がその毛利氏の始祖、大膳大夫(広元)の邸宅の跡です。」

『アクセス』
「大江広元邸址」鎌倉市十二所921番地
JR鎌倉駅東口からバス停「ハイランド入口」下車
『参考資料』
元木泰雄「武家政治の創始者 源頼朝」中公新書、2019年
本郷恵子「京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年
高橋典幸「源頼朝」山川出版社、2010年
湯山学「波多野氏と波多野庄」夢工房、2008年
関幸彦編「相模武士団」吉川弘文館、2017年
奥富敬之「もっと行きたい鎌倉歴史散歩」新人物往来社、2010年
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
日本の歴史と文化を訪ねる会「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年
高橋慎一郎「武家の古都、鎌倉」山川出版社、2008年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年





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義経が生まれた年の平治元年(1159)の12月、平治の乱に敗れた
源義朝は、
東国をさして落ちて行く途中、尾張国内海荘で旧臣
長田忠致(ただむね)に討たれました。それを金王丸(こんのうまる)が
都に戻り常盤に知らせると、
常盤は幼い3人の子を連れて都を逃れ、
大和国宇陀郡(こおり)竜門牧

(現、宇陀市大宇陀区牧)の伯父のもとに身を寄せました。

義経が大江広元充てに書いた書状「腰越状」にも「生まれてしばらくして

父義朝の御他界にあい、みなし子となり母の懐に抱かれ大和国宇陀郡
竜門に連れて行かれて以来、片時も心の安らいだ時はなく。」と記しています。

最寄りの近鉄電車「榛原(はいばら)駅」



宇陀市は吉野に近く、名張市を経て伊勢に通じる交通上の要路にあたり、
宇陀地域には、吉野とともに源氏に纏わる伝承や史跡が多く残っています。

常盤が宇陀の竜門に逃れたのは、ここには大和源氏一族が
勢力を広げており、伯父が住んでいたことのようです。

清和源氏の祖、源経基(つねもと)の嫡男で武門としての地位を
確立したのが源満仲です。その長男頼光(よりみつ)は、

摂津に拠り摂津源氏を称しました。以仁王とともに挙兵した
頼政は摂津源氏の子孫です。

満仲の次男・大和守源頼親(よりちか)は、
大和国宇野を本拠地としたことから大和源氏と称しました。
宇陀市には、六孫王(ろくそんのう)と名のった
源経基の墓と伝わる五輪塔もあります。

頼親の子孫宇野七郎親治は、保元の乱の際、左大臣藤原頼長
(崇徳上皇方)に召されて活躍したことが『保元物語』に見えます。

満仲の三男河内守源頼信は、河内国壷井を本拠地としたことから
河内源氏とよばれる武士団を形成し、子孫は
頼義、義家、義親、為義、義朝、頼朝と代を重ねていきます。

バス停「松井天神社」から2分ほどの所、
旧道沿いに常盤御前の腰掛石があります。

路線バスが通るR166

宇陀葬祭(宇陀市菟田野松井)の向かい側に
長さ1m余りの大きな石があります。




常盤御前の腰掛け石
源義朝の妻常盤御前には、今若、乙若、牛若(後の義経)という
三人の子どもがいました。義朝が平治の乱に敗れ、
常盤御前は三児を連れ吉野から下芳野ににげのびた時、
岸岡の家に足を留めて隠れていたことがありました。
その際に腰掛けたと伝えられています。 菟田野町観光協会(駒札より)



常盤御前の腰掛け石の近くを流れる芳野川(ほうのがわ)

常盤屋敷は、うたの電気工事(宇陀市菟田野下芳野)の近くにあります。

 
この辺りは常盤屋敷と呼ばれています。

常盤御前(義経の母)の隠れ家・井戸
常盤御前ときわごぜんは、永治七年(1141)十五歳の時、第七六代
近衛天皇の皇后、九条院の雑仕女(女中)となりました。
「千人の美女の中から百人を選び、その中から十人、
更に残った最後の一人」と讃えられるほどの美人だったので、
すぐに源氏の頭領、源左馬頭義朝に見初められて三人の子をもうけました。
三子とは今若、乙若、牛若(後の義経)であります。
源義朝が平治の乱(1160 ~1164)で平清盛との戦いに敗れ命を失い、
常盤御前も追われる身となりました。
「捕えられれば、自分だけなく子供たちが命も危ない」
常盤は京都から逃れて吉野、龍門から宇陀へと、
雪の大和路を幼い男の子三人(七歳、五歳、二歳)をつれて逃亡しました。
追手の厳しいなかを、やっとの思いで生まれ故郷下芳野の岸の岡へとたどり着き、
岸の岡に足をとどめ、隠れ住むようになりました。
御前が使ったと伝えられる井戸は常盤井戸の名称で今も残っており、
その付近は常盤屋敷と言われています。
又、常盤御前の念持仏が、200m当方の「妙香寺」に安置されています。
鞍馬山で武術を修行した牛若丸と京都五条大橋で
弁慶との出会いはあまりにも有名な話であり、
幼い頃下芳野で暮らした牛若を想い浮かべたいと思います。
菟田野観光協会(0745ー82ー2457) 神話の会(説明板より)

説明板の背後は結構荒れていて、
井戸跡らしいものを見つけることはできませんでした。

宝樹寺・雪よけ松の碑 (常盤御前ゆかりの地)  
常盤御前捕わる(常盤就捕處碑・常盤井)  
『アクセス』
「常盤御前の腰掛石」宇陀市菟田野松井
近鉄榛原駅下車 バス停「松井天神社前」より徒歩約2分
「常盤屋敷・井戸跡」宇陀市菟田野下芳野(しもほうの)
宇陀市観光案内所が運営するレンタサイクルを利用しました。
(榛原駅の傍、宇陀市榛原萩原2427. 電話番号 0745-88-9049)
 レンタサイクル(電動アシスト自転車)営業:9:00~17:00 休業日:年末年始
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年 
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年
「源氏 武門の覇者」新人物往来社、2007年
 五味文彦「物語の舞台を歩く 義経記」山川出版社、2005年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 

 

 

 



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義経は平家一門の総帥平宗盛を捕虜として鎌倉に下りましたが、
金洗沢(かねあらいざわ)に関がつくられ、宗盛を受けとりにきた北条時政は、
義経を遮り鎌倉の入口である腰越で沙汰を待つようにと命じました。
仕方なく義経は、腰越の満福寺に入り鎌倉入りの
許可を待ちましたが、頼朝からの連絡はいくら待ってもありません。
もはやこれまでと意を決した義経は、元暦2年(1185)5月24日、
鎌倉幕府の公文所(くもんじょ)別当(
長官)
大江広元に充てて長文の弁明書を書きました。腰越状です。

満福寺のすぐ目の前には、江ノ電の踏切があり、
鎌倉・藤沢間をつなぐレトロな電車が行き交っています。





腰越状は「左衛門少尉義経恐れながら申し上げる主旨は、」で始まり、
「兄の代官のひとりに選ばれ、勅命によって朝敵を滅ぼし、
父祖の会稽の恥をそそぎました。その自分がなぜ咎をこうむり、
勘気をこうむるのか。」そして讒言によって自分の功績が無視され、
兄と対面できないので申し開きもできないと嘆いています。

そして「生まれてまもなく父が非業の死を遂げてから後、
母の懐に抱かれ、大和国宇陀郡(こおり)竜門に逃れて以来、
片時も安堵の日はなく、都を流浪したが、うまくゆかず、
諸国を放浪し土民百姓らに召し使われていた不遇な
青春時代
を送ったことを語り、次いで時期が到来し、
木曽義仲を追討してからこのかた、ある時は、聳え立つ
岩山を駿馬に鞭打って駆け下り(一ノ谷合戦義経の逆落し)、

またある時は、吹き荒れる強風の中、危険を顧みず
果てしない大海に船を漕ぎだす(屋島合戦での渡海)など
平氏滅亡のために命を惜しまず戦い、朝廷より五位尉を賜ったのは
源家にとってこれ以上の名誉はないはずですが、
今の義経はせつなる嘆きにとざされております。」と記しています。

「五位尉」は、五位で左衛門尉ということで、
かつて祖父源為義が務めた官職でした。
その職に自分がついたのは、源家再興という
長年の望みにもかなうことではないか。と言っているのです。
義経は頼朝に無断で任官したことを謝罪せず、
むしろ「五位尉」という重職についたことを
光栄に思っているような書き方です。

頼朝は自分を頂点とする武家社会を作ろうとしていたため、
許可無く官位を受けることを禁止していたのですが、
義経はそれを理解できず、兄の壮大な展望を見通せなかったようです。

最後に「何ら野心をいだかぬ旨を数通の起請文にしたため
差し上げたものの、未だにお許しは頂けていません。
この想いを何とかして兄上に伝えられるよう広大な貴殿の
ご慈悲を賜りたい。」と大江広元に精一杯訴えています。
この手紙を清書したのは武蔵坊弁慶だといわれ、
その下書きが満福寺に残っています。
江戸期の腰越状の版木もあり、江戸時代に刷り物が
参詣者に配られたと考えられます。

『平家物語』『吾妻鏡』元暦2年(1185)5月24日条、
『義経記』にも、ほぼ同文のものが載っていますが、
「腰越状」の語句に後世の書簡文体が見えることなどから、
真偽を疑問視され、後世の偽作かともいわれています。

腰越状によると、義経の伝記上よく知られた鞍馬入りや
若き日、平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたことは記されず、
土民・百姓に使われた苦労が語られていることなど、
注目すべきことではなかろうか。
義経伝の一消息を見せているかも知れず、
一概に後の捏造と極めつけられない面もある。
(新潮社『平家物語(下)』第百十四句腰越、頭注)

また富倉徳次郎氏のご考察に依ると、
義経が嘆願書を提出したことは事実であり、その内容も
この腰越状に近いものだったが、現存のものは
後の創作とするのが事実に近いであろうとされています。

伊藤一美氏は「大江広元が義経の嘆願書を
同氏の文倉に残していた可能性は高く、『吾妻鏡』編纂時に
それを史料として提供したのではないか」と推測されています。
(『義経とその時代』2章「腰越状が語る義経」


山門傍の文学案内板   源義経と腰越
 鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官称した。
父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄源範頼とともに
源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。
帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、
頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、
平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、
讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させた。 
しかし、頼朝との不和が深まり、補虜の平宗盛父子を伴って
鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。
この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元に
とりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。

 「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
 さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、
関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、
鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、
「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、
参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。 

その申し状に日く、
 源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、
御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、
累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)
(引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年)
 しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。
「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などや
作品にもなり、現在でも「判官もの」 として親しまれている。

 「中世には鎌倉と京を結ぶ街道筋のうち、
腰越は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。
義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。」

詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)にお尋ねください。
平成八年二月 鎌倉教育委員会 鎌倉文学館


 山門を入るとすぐ右手に「義経宿陣之趾」の碑が建っています。

碑文  「文治元年(皇紀一八四五)五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレズ腰越ノ驛ニ滞在シ
欝憤ノ餘因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ款状ヲ呈セシコト 
東鏡ニ見テ世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺ニ存ス
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團」

大意「文治元年(1185)5月
源義経は朝敵だった平家を滅ぼし、降伏した前内大臣の
平宗盛を捕虜として引き連れ鎌倉に凱旋したが、頼朝の不審を蒙り、
鎌倉に入ることを許されなかったため、腰越駅に滞在し、
その鬱憤のあまり、因幡前司大江広元に一通の嘆願状として差し出した。
そのことが吾妻鏡に書いてあり、世にいう腰越状はこのことである。
その下書きと伝えられるものが満福寺に存在する。
昭和16年3月建 鎌倉市青年団」
腰越状ゆかりの満福寺(1)義経の生涯を描いた襖絵  
『アクセス』
「満福寺」神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分 無料駐車場があります。
拝観時間9時00分~17時00分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
 前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館、2015年
大三輪龍彦・関幸彦他
義経とその時代」山川出版社、2005年

 

 

 



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壇ノ浦合戦後、義経は兄頼朝との和解のため、
捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下りました。しかし、
捕虜を受け取りに来た北条時政は義経の鎌倉入りを許さず、
「腰越にて沙汰を待つべし」と述べ、頼朝との対面を許しませんでした。
悲嘆にくれた義経は、思いあまってその心情を
満福寺で書状に書き頼朝の側近大江広元に送りました。腰越状です。

腰越は、中世には鎌倉と大磯(神奈川県)の間に設けられた宿駅(腰越駅)でした。
宿駅とは、街道の要所で旅人を泊めたり、荷物を運ぶための
人や馬を集めておいた宿場のことです。
満福寺は駅家(うまや)の跡ともいわれています。

最寄りの江ノ電腰越駅から駅前通りを海岸方面に進み、
「義経腰越状旧跡 真言宗満福寺」の標識を左折して小道に入り
江ノ電の踏切を渡った所に満福寺があります。





源義経の名を書いたのぼり旗が翻っています。(2006年9月撮影)

石段の先に山門が建っています。2015年4月、腰越近辺の
小坪合戦ゆかりの地を巡っている際に再度参拝しました。
そのため、写真はない混ぜのご紹介となっています。

山門をくぐると本堂(昭和6年再建)があります。
龍護山医王院満福寺(真言宗)は、寺伝では、
行基創建と伝えていますが定かではありません。
中興開山は平安時代末期の高範(こうはん)という。
本尊は木造薬師如来(室町時代作)です。

腰越状を代筆する弁慶と義経の新しい像が本堂左手前に建ち、
弁慶の手玉石が本堂の左手から
右手前に移されていました。



屋根瓦紋は笹りんどう、欄干には弁慶と義経が彫られています。
本堂には、鎌倉彫の技法を取り入れた漆画による32面の襖絵があります。
物語などで知られた義経・静御前・弁慶にまつわる名場面を描いたものです。

雪の中、都を逃れる常盤に抱かれた牛若丸。

腰越状を書く義経。

吉野での静との別れ。

静御前の舞。

義経の子を生んだ静は、その子が男の子だったため
取りあげられました。

弁慶と共に雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経。

弁慶の立往生。

境内には、弁慶の腰掛石、弁慶が墨の水をくんだといわれる硯池、
弁慶の手玉石、義経手洗い井戸などが伝説とともに残されています。





同寺には、弁慶筆と伝える腰越状の下書きがあり、展示されています。
江戸時代の腰越状の版木、弁慶が用いたとされる
椀・錫杖(しゃくじょう)なども所蔵しています。

「腰越状草案のいわれ」
腰越状を草庵するとき弁慶が墨をすっていると、
草むらでこおろぎがしきりに鳴いていた。
そこで弁慶がやめろと叫ぶと、こおろぎはぴたりと鳴きやみ、
境内は静かになったという。
今でもこの境内ではこおろぎが鳴かないと伝えられる。

「源義経公慰霊碑」昭和54年(1979)建立。
文治5年(1189)6月、藤原秀衡の使者がもたらした美酒に浸され
黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められた義経の首級を
腰越の浦で首実検したことにちなんで建てられた碑です。

本堂傍に立つ「しらす丼」ののぼり旗に従って進むと

裏山へ続く道があり、腰越の海が見渡せる高台に
「茶房・宿坊 義経庵」と書いた看板が見えてきます。

遅めの昼食をとろうと「生しらす丼」を注文すると売り切れ、
生しらすと釜揚げしらすのハーフ丼でしたが、
春の海の香に舌鼓をうちました。

江ノ島遠望
腰越状ゆかりの満福寺(2)腰越状・義経宿陣之趾の碑  
源義経、平宗盛父子を護送して鎌倉へ下向(金洗沢・腰越) 
『アクセス』
「満福寺」神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分 無料駐車場があります。
拝観時間9時00分~17時00分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 



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