平貞能(生没年不詳)は父家貞の代から続く有力な平氏家人で、
清盛の一の腹心といわれるとともに重盛が家督を継ぐと重盛に従い、
維盛の乳人(めのと)藤原忠清と並んで小松家にとって重要な侍でした。
半ば死を覚悟していた重盛の熊野詣にも同行し、
特に重盛に心服していた人物として平家物語に描かれています。
貞能(さだよし)の父貞家は、桓武平氏の血を引く郎党で、
忠盛(清盛の父)が『巻1・殿上の闇討の事』で闇討に遇いかけた時、
主人につき従っていた平家の大番頭です。
維盛が富士川の戦いで敗走し、この合戦の侍大将藤原忠清が
評判をおとすと、次に頼みにされたのが貞能でした。
清盛が亡くなり謀反が全国に拡大すると、貞能は肥後守に任じられ
九州の謀反鎮圧にあたりました。
謀反の首謀者菊池隆直らを降伏させ、一応の成功をおさめたものの、
追討は困難を極め、数万の軍勢を率いてくると噂されていましたが、
都落ち直前に帰還した時には、期待に反し千余騎しか連れていませんでした。
平家一門都落ちの日、源行綱が叛乱を起こしているとの
知らせを受け、貞能は河尻(淀川河口)に鎮圧に向かいましたが、
河尻の動きが誤報とわかって都に戻る途中、
一門の都落ちに行きあいました。
貞能は大将の宗盛に向かって、引き返して都で
決戦するように進言しますが、容れられなかったため、
重盛の次男資盛(すけもり)とともに一門と別れ、
法住寺殿内の蓮華王院に入りました。
そこで一門の中でも後白河院の覚えのよかった資盛は、
平氏の都落ちを察し、比叡山に逃れていた院の指示を
仰ごうとしましたが、連絡がうまく取れず、やむなく重盛
の墓に詣で遺骨を掘り起こして高野山に送り、
翌朝、資盛と貞能は遅れて一門に合流します。
このことからも、この時期の平氏軍は、一門と行動を同じにせず
後白河院の指示を仰ぐ資盛らと宗盛指令下の平家主流派の
人々とで成り立っていたことがうかがえます。
これより先に貞能は肥後守に任じられ、菊池隆直らの謀反平定に赴き、
鎮西やその経路の西海道の情勢をよく知っていたことから、
宗盛とは別の西国での勢力回復が難しいという
情勢判断をしていたものと思われます。
こうして木曽義仲が京都に入る直前に都落ちした平家は、
九州の原田種直らに迎えられ、ひとまず平家の荘園があった
太宰府に落ち着き、体制を立て直そうとしました。
しかし九州の有力武士たちの中には、豊後国(大分県)の豪族
緒方惟栄(これよし)のように平家に帰服しない者がいました。
当時豊後国は鼻が大きいことから鼻豊後とよばれた
藤原頼輔(よりすけ)の知行国であり、代官として現地にいた
息子の頼経(よりつね)が、後白河法皇の意を受け、
平家を追討するよう惟栄に指示し、
惟栄は九州の武士たちにこれを院宣と称して伝えたという。
ちなみに藤原師実(もろざね)の曾孫にあたる頼経は、
名門出身でありながら、のち義経に心酔してその腹心となり、
そのため二度も配流の憂き目にあっています。
惟栄はもと重盛の家人であったという縁から、資盛は補佐役として
貞能を伴い五百余騎を引き連れ、惟栄の許に和平交渉に赴きましたが、
交渉は不首尾に終わり、平家は太宰府を追われました。
さいわい長門国の目代が大船を献上してくれたので、
一門は屋島に向かいましたが、途中、清経は柳ヶ浦で入水し、
清経の兄の維盛は屋島には行ったものの、
こっそり島を抜け出し熊野の那智沖で入水しています。
この頃の小松家の人々の心情が推察できる出来事です。
忠房も屋島の戦場を逃れ、紀伊の湯浅宗重を頼り、
源氏方の熊野別当湛増と戦いましたが、合戦は長引き
頼朝が文覚を使者として巧みに宗重を説き伏せたため、
忠房の身柄は頼朝方に引き渡され、やがて殺害されました。
小松殿の公達は、一の谷合戦で戦死した師盛(もろもり)、
壇ノ浦に沈んだ資盛・有盛以外は、
すべて主流派戦線離脱者だったのです。
貞能も清経の入水と相前後し、主流派から離脱して
九州に留まり出家したという。
平家の前途に見切りをつけたのでしょうか、
それとも緒方惟栄の説得工作に失敗して責められ、
その立場がさらに辛いものとなったのでしょうか。
『平家物語』では、重盛の息子たち、維盛・資盛・清経・有盛・師盛・忠房は
「小松殿の公達」とよばれます。清盛の死後、重盛の継母である
平時子の生んだ宗盛が平氏一門の棟梁となったことで、
小松殿の公達は一門の中で微妙な立場に置かれていました。
小松家の有力家人の藤原忠清や平貞頼(貞能の息子)らも、
出家して都落ちには同行しませんでした。
頼朝が平治の乱後捕われ、頼朝の助命を清盛に嘆願したのは、
頼盛の母池の禅尼でその時、清盛を説得したのは重盛でした。
その結果頼朝は死罪を免れ伊豆へ配流されています。
頼盛は都落ちの際、京都に残る道を選び、頼朝に手厚く保護されています。
同様のことが、小松殿の公達にも期待できたはずです。
主流派と小松家の人々との気持ちのずれの理由はこんなところにもあり、
それが九州における情勢によってさらに表面化したとも考えられます。
その後、貞能の消息はようとして知れませんでしたが、
平氏一門が滅亡した3ヶ月ほど後、鎌倉の御家人
宇都宮朝綱(ともつな)のもとに突然姿を現し、
姻戚関係にある朝綱に頼朝へのとりなしを懇願しました。
『吾妻鏡』文治元年(1185)7月7日の条によると、
宇都宮朝綱は平貞能が降人となって自分のもとにやってきた事情を
頼朝に説明しましたが、頼朝は難色を示します。
それで朝綱は一家の命運をかけて頼朝に貞能の助命を強く訴えます。
「上(頼朝)が挙兵した時、大番役として都にいた畠山重能(しげよし)、
小山田有重、宇都宮朝綱は、頼朝に縁のある者として都に留め置かれ、
平家一門都落ちの際、三人は処刑されるところでしたが、
貞能が宗盛を説得したので味方のもとに参ることができ、
平氏追討に参加することができました。
貞能は上にとってもまた功のある者ではないでしょうか。」
この朝綱の主張は認められ、貞能の身柄は朝綱預りとなりました。
宇都宮氏ゆかりの地域に平貞能と平重盛にまつわる
伝承をもつ寺院があるのはそのためです。
畠山重能(重忠の父)、その弟の小山田有重、宇都宮朝綱は
大番上京中に、頼朝が挙兵したため彼らは身柄を拘束され、
そのまま平家の家人として北陸道で木曽義仲軍と戦うことになりました。
京都大番役は、諸国の武士が三年交代で京都に滞在し、宮廷、
京都警固の役にあたったものをいいいますが、
危急の時には人質にもなります。
角田文衛氏は「妙雲寺を初めとして、その縁起が平貞能と結びついた
小松寺は諸方に見受けられる。これらを歴史的に解明するためには、
余りに史料が不足しているけれども、
貞能が宇都宮朝綱の援助を得て仏堂を建立し、
重盛はじめ平家一門の後世を弔いながら晩年を過ごしたと
みなすことは単なる推測にとどまらぬであろう。」と述べておられます。
(『平家後抄(上)』)
妙雲寺(平貞能、東国落ち)
都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿) 平忠房の最期(湯浅城跡)
平維盛供養塔(補陀洛山寺) 平清経の墓(福岡県京都郡苅田町)
緒方三郎惟栄館跡
『参考資料』
角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫、2001年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年
河合康編「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
安田元久「平家の群像」塙新書、1982年