平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



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京都郊外の西山連峯の麓にある勝持寺は、西行ゆかりの寺として知られています。
寺伝によれば、白鳳八年(679)天武天皇の勅によって役小角が創建し、その後、
延暦十年(791)に伝教大師(最澄)が桓武天皇の勅により再建したといわれています。
平安時代末期、鳥羽上皇の北面の武士であった佐藤義清(のりきよ)が
この寺に入って出家し、名を西行と改め一株の桜を植えたとされています。
人々はその桜を西行桜と名づけ、寺を花の寺と呼ぶようになりました。
境内には、その時の鏡石と姿見池が残されています。


朝から雪が降り始めたので、花の寺の雪景色を見ようと大原野に出かけました。
家を出る時はちらつく程度でしたが、向日町駅に着いた時には
大粒の雪が降り出し、瞬く間に道路が真っ白になっていきました。





仁王門





正式には小塩山大原院勝持寺といい、大原野神社の供僧寺であったという。
本尊は薬師如来、西国薬師四十九霊場第四十二番札所です。

本堂



本堂の外に座る賓頭盧尊者びんずるそんじゃ) は、インドの16羅漢の1人です。
なでぼとけとも云われ、病のあるところを撫でると治るという信仰があります。

鐘楼横の西行桜に雪がつもり、まるで華が咲いているかのようです。
南北朝時代、バサラ大名として知られる佐々木道誉がここで前代未聞の
花見の宴を催すなど、数々の花見の宴や茶会などで賑わったようです。



鐘楼堂

西行がこの寺で出家した時、この石を鏡の代わりに使って頭を剃ったと伝わっています。

魚籃観音(ぎょらんかんのん)
西遊記にも登場する観音様で、手に持つ竹ツボの中に魚が入っています。

小塩山 松風寒し大原や  冴野沼のさえまさるらん
冴野沼は歌枕で知られています。

この日、池は雪に覆われ埋もれていました。

西行伝説のはじまり
♪願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ
生前に詠んだ歌のとおり1190年2月16日満月の日に
自らの死を予期したように世を去ったので、同時代の歌人藤原俊成、定家以下
名のある歌人たちは感動し、西行を追慕する多くの歌を残しています。

歌人でもあった後鳥羽上皇も西行をたたえ、後鳥羽上皇の院宣で撰ばれた
『新古今和歌集』には94首入り、その地位はゆるぎないものになりました。
このようにして西行の死後名声が高まるにつれて、西行にまつわる伝承も
多くなっていきました。
亡くなってすぐから
『西行物語』『西行物語絵巻』『西行絵巻』によりその生涯が物語化され、
道行く聖達が
西行にまつわる伝承を伝え歩き、
多くの人々に西行像がイメージされていきました。
西行伝説その1・出家の動機
1、 「西行物語」によるとかねてから人生のはかなさを感じていた所、
前夜も一緒に帰路についた親友の突然の死が引き金となったとか。

2、 『源平盛衰記』によると、動機は恋のためで、口にするのも
畏れ多い高貴な身分の女性に思いをかけていたのを
思い切り、
出家を決心したというものです。


その相手とは身分も年齢も違う待賢門院璋子への恋だとか、
和歌を通じて親しくしていた待賢門院璋子の局の女房達の
一人が相手だとか、
中でも待賢門院門院堀河の
「長からむ心も知らず黒髪のみだれて今朝はものをこそ思へ」の歌は
西行との後朝(きぬぎぬ)の歌とその結びつきを強調する人もあります。

『院政期社会の研究』の中で、五味文彦氏は、西行の亡くなったのが
待賢門院璋子の娘・上西門院統子の死の翌年であったことについて

「偶然とはいえない、果たして西行は謎の出家をしているのであり、
そこには上西門院統子への追慕が認められよう。」と述べたことから
その相手が上西門院統子と取沙汰もされました。
3、 『台記』(当時の内大臣藤原頼長の日記)によると、信仰心からの出家とあります。
4、 故郷にある荘園の隣地が鳥羽上皇に領地を寄進し、隣地との境界線争いの相手が
お仕えしている鳥羽上皇となり重荷になったとか。
5、 結婚して藤原俊成とも付き合いが始まり歌人としての才能を生かしたくなったとか。
以上のように諸説ありますが、どこまでも推定の域、その動機は謎のままです。
『アクセス』
「勝持寺」京都市西京区大原野南春日町1194
JR向日町駅又は阪急東向日町駅より 大原野線63系統 洛西バスターミナル行
「南春日町」下車1・1K 徒歩約20分。
バスの本数が少ないので、ご注意ください。
拝観時間:9:00~17:00(受付16:30終了)
2月中は拝観休止。
『参考資料』

白洲正子「西行」新潮文庫 佐藤和彦・樋口州男「西行のすべて」新人物往来社 
高木きよ子「西行」大明堂

 

 
 
 
 

 

 

 

 








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二十三歳で出家した佐藤義清(のりきよ)は法名を西行とし、
三十歳近くまで鞍馬・東山・小倉山麓などに庵を結んでいました。
その間、高雄に文覚上人を訪ねるなどしています。

当時、小倉山一帯は西行のような数寄者が好んで住んだ地域でした。
♪小倉山麓の里に木の葉散れば梢に晴るる月を見るかな (『新古今集』冬歌)など
小倉山隠棲中に詠んだ歌が多くあり、
この一帯が西行と深い関係があったことを示しています。



西行井戸は今も保存されています。



碑の側面には「西行定家去来あはれあはれ侘のうた人はひとり住みたり」と
刻まれています。

落柿舎近く、天龍寺塔頭の弘源寺境外墓地の東側に「西行井戸」と称する遺蹟があり、
二尊院附近に庵を結んだ西行が使っていた井戸と伝えています。


井戸左横には西行の歌碑がありますが、風化し文字が読み取りにくくなっています。
牡鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな 
『アクセス』
「西行井戸」京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町19
落柿舎の北にある弘源寺の墓苑の東側
市バス「嵯峨小学校前」下車徒歩約10分  「嵯峨嵐山」駅下車徒歩約20分
「参考資料」
佐藤和彦・樋口州男 「西行のすべて」新人物往来社
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂
 


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白河天皇陵より北へ150mの所 (京都市伏見区竹田浄菩提院町)に
西行が北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられている「西行寺址」と記した
石碑が火消し地蔵の傍にあります。


「西行寺址」西行が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられています。
江戸時代には西行寺が建てられ,境内には月見池・剃髪堂がありました。



鳥羽殿復元図


西行寺はその後荒廃し、明治11年(1878)に観音寺(浄土宗)に合併されました。
観音寺には西行法師の木造坐像を安置していますが、同寺は非公開寺院です。

浄土宗観音寺と彫られています。

西行俗名佐藤義清(のりきよ・1118~90)は、和歌山県紀ノ川べりの
那賀郡打田町生まれ、
ここの豊かな土地に佐藤家の大荘園がありました。

武士になったのは17歳頃、豊かな財力をバックに徳大寺家の口利きで、
この頃には珍しくない成功(じょうごう・貢ぎ物等を献上)により、
鳥羽上皇の御所近くに住み左衛門尉、北面の武士として仕えていました。

北面の武士は武士のエリートで、源氏や平家からも採用され
同僚には同い年の平清盛がいました。

父方の祖先はムカデ退治の伝説で有名な藤原秀郷で
母の父は源氏の家系の監物(けんもつ)源清経、この清経は今様や蹴鞠の名手でした。
父方の武門の血と母方の芸能の血を受け継ぎ義清は文武両道の活発な青年でした。
歌人でもある左大臣徳大寺実能に仕えたことで和歌への関心が生まれ、
京の町に住み始めて1、2年で歌を読み始めます。

♪伏見過ぎぬ岡の屋になおとどまらじ 日野まで行きて駒こころみむ
乗馬も得意だった義清が鳥羽殿から岡の屋(宇治の北)、日野(醍醐辺)まで
馬を走らせた様子がこの頃の歌でわかります。
父方、母方の血を受けた才能は「歌人」として花開きはじめました。

「左衛門尉」
は御所の出入口の衛門の警固や院の御幸にお供する役職、
この役の最高位が
「検非違使」で警固役だけでなく裁判、訴訟も含めた
裁断ができました。
西行の父も祖父も検非違使でした。
「監物」大蔵省他諸官司の倉庫の出納を監察し、
宮中に保管されているそれらの鍵の係りでもありました。
「北面の武士」
院(上皇、法皇の御所)の北面に詰所があり警固や上皇の御幸にお供する武士のこと。
白河天皇は藤原氏が長年摂関政治という形で政権を握っていたので
天皇はこれを天皇家に取り戻したいと、院政という政治形態をとり、
藤原氏や寺院が荘園を拡大する阻止しようとしました。しかし藤原氏や寺院は抵抗します。
東大寺、興福寺、延暦寺、三井寺が朝廷や貴族と争ったのも荘園の争奪が背景にありました。
この世で自分の思い通りにならないものは「鴨川の水」と「双六のサイコロの目」
「山法師」(延暦寺の僧のこと)といったという白河上皇の有名なエピソードがありますが、
白河上皇がこの僧兵を防ぐため武士を常備させたのが北面の武士のはじまりです。

「摂関政治」 藤原氏が娘を天皇の后にし、その生んだ子を天皇にし、天皇の祖父となり
天皇の政治を代行すること。
「院政」 引退した天皇が上皇、法皇になり国を統治すること。

徳大寺家は藤原北家から出た家で、待賢門院璋子の兄実能が
現在の竜安寺辺にあった山荘や徳大寺を祖父、父から引き継いだため
徳大寺家とよばれるようになりました。
佐藤家は徳大寺家に荘園を
寄進し徳大寺家の家人(家臣)でした。

公実のおば茂子が、白河天皇の母。公実の妹苡子が鳥羽天皇の母、
娘待賢門院璋子が鳥羽天皇の中宮。その後も近衛、二条天皇の皇后多子
後白河天皇の中宮・忻子のような后妃を出しました。
『アクセス』
「西行寺址」京都市伏見区竹田浄菩提院町 白河天皇陵より北へ150m
近鉄電車・地下鉄「竹田駅」下車 徒歩約20分
「観音寺」京都市伏見区竹田内畑町248
近鉄電車・地下鉄「竹田駅」下車徒歩 東南へ約5分
『参考資料』 
佐藤和彦・樋口州男「西行のすべて」新人物往来社 高木きよ子「西行」大明堂
 岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂 
 



 
   
 


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白峯神宮は明治元年(1868)に明治天皇が父孝明天皇の遺志をつぎ
讃岐の白峰(香川県坂出市)より崇徳上皇の神霊を移し祀ったのがはじまりです。

崇徳上皇は皇位をめぐって弟の後白河天皇と争い、保元の乱で敗れ、
讃岐の配所で崩御し、遺骸は白峰陵に葬られました。
以後、相次ぐ天変地異や源平の争乱は、上皇の祟りと信じられて恐れられました。

幕末、孝明天皇は都に帰ることなく讃岐で亡くなった崇徳上皇の霊を
京都に迎えようとしましたが、果たせず
その遺志を継いだ
明治天皇が明治改元にあわせて、白峯神宮を造営しました。
勅使は讃岐の白峰陵の前で宣命を読みあげ、
上皇の木像とともに神霊を迎えて京都に帰りました。
次いで明治6年、淡路国天王森山陵(兵庫県三原郡南淡町)の
淳仁天皇の霊も合祀されました。
淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、
孝謙天皇に対して謀反を計ったという罪で淡路島に流され、
翌年の神護元年(765)配所で崩御しました。

社地はもと蹴鞠、和歌の家元・飛鳥井家の別邸でしたが、
飛鳥井氏が寄付し、飛鳥井氏の鎮守神、毬大明神は摂社に祀られました。

これに因んで毎年七月七日には、毬精大明神祭が行われ蹴鞠が奉納されます。



拝殿

崇徳天皇のファンの寄付によって建てられたという石碑。
  秋季例大祭 崇徳天皇祭は九月二十一日に行われ、
十一月十五日には、弓の奉射神事・伴緒社祭もあります。


本殿東の末社、伴緒(とものお)社は保元の乱の際、
崇徳天皇のもとに馳せ参じた源為義・為朝父子の霊を祀っています。

源為義は保元の乱では、子の為朝とともに崇徳院方につきましたが敗れ、
後白河天皇方についた嫡子義朝を頼って降伏します。
しかし、義朝の戦功に代えての助命嘆願もかなわず処刑されました。


源為朝は義朝(頼朝の父)の弟で、武勇に優れ弓をひいては当代随一といわれ、

13歳の時、鎮西(九州)に渡って九州に勢力を張り、鎮西八郎とよばれました。
たまたま上洛していた時に保元の乱が起こり、父とともに崇徳新院方について戦い
大いに奮戦しますが敗れて行方をくらまします。まもなく捕えられ肩と手の関節を抜かれて
伊豆大島に流罪となります。ここで島の代官の婿となって大島はじめ近くの島を
領有して騒ぎを起こし、後白河院の命を受けた討伐軍に攻められ自刃しました。
江戸時代滝沢馬琴によって、壮大なスケールの為朝一代記
『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が著され人気を博しました。


オガタマノ木(京都市指定天然記念物)は樹齢が八百年と考えられることから、
飛鳥井家の邸宅であった時代に植えられたものと見られています。
5月初めに珍しい花を咲かせ、その実の形から
巫女が神楽などで使う鈴をかたどったといわれ、
榊が使われる前は、オガタマノ木が神前に供えられたとされています。


潜滝社



鞠庭

摂社毬大明神社は、サッカーや球技の神様として信仰され、
球技関係者が参拝に訪れてはボールを奉納しています。

4月中旬、薄黄緑色の花を咲かせる「黄桜」が咲き誇っていました。
崇徳院ゆかりの地(白峯御陵)  
崇徳院ゆかりの地(白峯寺)  
 『アクセス』
「白峯神宮」 京都市上京区今出川通り堀川東入北側 市バス「堀川今出川」下車すぐ
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 
「京都市の地名」平凡社

 

 


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