山吹は木曽義仲が平氏追討の挙兵をした時、
巴と共に木曾から連れてきた女性です。
「木曽殿は、信濃より巴、山吹とて二人の美女を具せられたり。
山吹はいたわることありて、都にとどまりぬ。」と
『平家物語・巻九・木曽の最期の事』の章段に記されているだけで、
その後の山吹についての資料はなく、名前すら出てきません。
一方の巴は、色白く髪の長い美女であるばかりでなく、
一人当千の強さを誇る女将軍として、小督や祇王妓女などと並んで、
『平家物語』に描かれる最も有名な女性の一人となっています。
巴の前にすっかり影が薄くなった感のある山吹ですが、
伝承や浄瑠璃・歌舞伎からその足跡を辿ってみましょう。
JR大津駅の西側にかってあった秋岸寺は、
山吹御前終焉地と伝えられ、前回、ここから
義仲寺に移された山吹供養塚をご覧いただきました。
三条京阪バスターミナルの南側の旧有済小学校にも山吹の塚があります。
義仲は落ち延びる時、六条河原から三条河原、
粟田口を経て山科から大津へ抜け、
山吹は病のため京に留めおかれたと『平家物語』が伝えていることから、
これに基づく伝承史跡と思われます。
『平家物語』の山吹は、義仲の妻や愛妾として記されていませんが、
天文4年(1739)に大坂竹本座で初演された
『ひらかな盛衰記』の中では、山吹は義仲との間に駒若丸をもうけ、
義仲の奥方として登場、義仲討死後は
大津で息絶える悲劇の女性として描かれています。
この内容を踏まえ山吹は伝承化され、
大津市秋岸寺の塚は築かれたのでしょう。
この演目は『源平盛衰記』を平仮名にしてわかりやすく脚色したもので、
「ひらかな」は「ひらがな」とよばれています。
源義経の木曽義仲討伐から一ノ谷合戦までを背景に、
義経軍功の陰に忠節や愛を貫く義仲の妻子や家臣たち、
戦いに巻きこまれた庶民の哀切を史実と
虚構を取混ぜて戯曲にしたものです。
ここで、山吹御前と駒若丸の話を扱った
「大津旅籠屋の場」から「福島船頭権四郎住家の場」までの
あらすじをご紹介しておきます。
「大津旅籠屋(はたごや)の場」
義仲が粟津で討たれ、山吹御前と駒若丸、腰元のお筆、
義仲の家来鎌田隼人一行は、木曽をさして逃れる途中、
大津の清水屋という旅宿に泊まります。
そこで西国巡礼の旅をする権四郎と娘およし、
孫の槌松(つちまつ)という摂津福島の船頭一家と隣り合わせます。
その夜、山吹を追ってきた鎌倉方の番場忠太と捕手に襲われ、
あわてて逃げますが、混乱と暗闇の中で、
槌松と駒若丸が入れ替わります。鎌田隼人と槌松が殺され、
駒若丸も殺されたと思い込んだ山吹は悲嘆のあまり死んでしまいます。
残されたお筆は山吹御前の死骸を隠すために、
笹の枝の上に乗せてけんめいに引っぱります。
「福島船頭権四郎住家(すみか)の場」
今日は権四郎の娘およしの前夫の三回忌です。
先代の死後、権四郎の家に婿入りした男は「松右衛門」を名乗り、
正体を隠して船頭をしています。
前夫の子、槌松がこの前の旅で入れ替わってしまったのですが、
いつか本当の槌松が帰ってくるだろう、
その時、この子も無事にお返しできるようにと、
その子(駒若丸)を元の子供の名前のまま槌松と呼び、
大事に育てています。
権四郎は法事に集まった人々を前にして
大津の宿で夜襲に遭い、孫の槌松と相宿の子供を取り違えて
逃げて来たことなどを話しています。
そこへ槌松が身につけていた所書きをたよりに、
お筆が駒若丸を取り戻しにやってきます。
取り違えた子は大事な主君の若君だから返してほしい、
そっちの子供は死んだと告げると、
孫の帰りを今日か明日かと毎日待っていた権四郎は、
お筆の身勝手な言い分に、
預かっている子供(駒若丸)を殺してやると怒ります。
その子供が駒若丸と知って驚き、
そうまでしないで子供を返してあげよう、という
松右衛門ですが、舅は承知しません。
松右衛門は、しかたなく自分の正体を明かすことにします。
樋口次郎兼光、木曽四天王の一人であると名乗ります。
主君の敵をとるために義経が乗船する船の船頭となり
「逆櫓」の技術によって船を沈めようと企て、
権四郎一家の婿になったのです。
槌松は武将である自分の子であるから武士であるし、
槌松にとっても駒若丸は主君にあたるといい、
槌松がこんなりっぱな働きができたのも、
自分を婿として受け入れてくれた舅殿のおかげだと礼を言い、
ここは槌松の忠義に免じて、どうか怒りをおさめて、
駒若丸を返してやってほしいと頼みます。
しだいに権四郎の怒りも解けて改めて槌松の供養を行います。
義仲が生まれたという埼玉県比企郡嵐山町鎌形にある
班渓寺(はんけいじ)の境内にも、山吹の墓があります。
この寺では、義仲の嫡男義高の母は山吹といい、
義高の菩提を弔うために、
山吹がこの寺を創建したと伝えています。
『ひらかな盛衰記』からの影響を受け、
山吹が義仲の妻、義高の母として扱われたものと思われます。
また、愛媛県伊予市中山町佐礼谷にも山吹の塚があるとされています。
これは義仲が伊予の守に任ぜられたことに由来すると考えられていて、
地元の伝承によれば、義仲討死後、山吹御前とその従者は、
大阪から船に乗り、海路を伊予へと逃れますが、
山吹は心労と旅の疲れから病に伏して、
とうとう息絶えてしまい当地に葬られたとのことです。
義仲が育った長野県木曽町日義には、
山吹は木曽川の背後の山、山吹山に住んでいたとか、
林昌寺には義仲の妻だったという話が伝えられています。
山吹山とともにこの周辺の木曽川に架かる橋には、
葵橋・巴橋・山吹橋と義仲にかかわりのある女性名がつけられています。
下記の記事をクリックして山吹山、班渓寺、林昌寺をご覧ください。
中原兼遠 林昌寺・手習天神
『アクセス』
「山吹御前の塚」京都市東山区大和大路通三条下ル東入ル若松町(元有済小学校内)
京阪電車「三条」駅下車 徒歩5分
有済小学校は統合により廃校となり、門は通常閉まっています。
(月・水・金・土 9~17:00)事前連絡 075(541)2151
『参考資料』
「新版歌祭文・摂州合邦辻・ひらかな盛衰記」白水社 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 「朝日将軍木曽義仲」日義村役場
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター