鷲尾三郎義久(?~1189 熊王丸・経春)は、義経に一ノ谷を案内し、
衣川の合戦で最期をともにした郎党です。
寿永3年(1184)2月5日、三草山合戦(加東市)で敵陣を撃破した後、
義経は敗走する敵を追いながら南下し、6日朝には播磨の小野・三木辺まで進みました。
ここで軍を二つに分け土肥実平に7千の兵を預け、一ノ谷の西木戸(城戸)を
西方から攻撃させ、自身は山越えをして一ノ谷の背後に出ようとします。
ちなみに小野・三木両市には、多くの義経伝承が残されています。
三木市伏山地区には、義経に差し出した大飯の故事にちなみ、
判官さん(義経)を祀ったとされる判官神社や三木市内を流れる美嚢(みのう)川
近くの田の畦道には「弁慶の足跡」とよばれる大きな石が立っています。
『平家物語・巻9・老馬』によると、山中で道に迷った義経は、
武蔵坊弁慶が見つけてきたこの辺りの地理に詳しい
老猟師に案内を命じたところ、猟師は自分の代わりに18歳の
息子熊王を差し出しました。義経はすぐさま熊王を元服させ、
義経の一字を与えて義久と改めさせました。
老猟師鷲尾武久には、太刀一振、陣幕一張、旗日の丸、
武蔵坊弁慶薙刀及太刀、亀井六郎太刀一振を与えたといいます。
武久は桓武平氏平貞衡の末裔で、桑名次郎清綱が初めて鷲尾の姓を名のり、
その次男の武久が山田庄に住んで鷲尾庄司と称したといいますが、
鷲尾家に関する伝承は様々であり不明です。
平家滅亡後も義久は忠実な義経の郎党として奥州までついて行き、
最後は藤原泰衡の軍勢と戦い、5騎の敵を倒した末に
主君と命運をともにしたという。(『義経記』)
ところが、『平家物語』でも古態を示すという延慶本は、
三草山の夜討ちで捕虜となった一人、播磨国安田庄下司の多賀菅六久利の
縄をといて一ノ谷へ道案内させたとしています。
多可郡(現、兵庫県西脇市他)の管六久利は、先祖相伝の所領安田庄の
下司職を平家の侍、越中前司盛俊に横領されたため、長年訴えていましたが、
埒が明かず生活のために猟師をしているという男です。
神戸市には、山田東下(北区)、須磨区白川、同区多井畑(たいのはた)と
鷲尾家が三つあり、六甲山系の南を通って播磨に出るルートを占め、
この付近に勢力を張っていました。本家は鷲尾山の麓、山田東下の鷲尾氏でした。
鷲尾の地名は丹波国多紀郡(現、丹波篠山市)にもあり、鷲尾氏は
丹波篠山市の出身だともいわれ、そこに鷲尾三郎の供養塔があります。
白川には鷲尾一族の祀る山伏山(やまぶしやま)神社があります。
山伏は猟師や山師、木地師(ろくろを使って木製の椀や盆を作る)など、
山の中で暮らしをたてる人々と強く結びついています。
このことからも鷲尾氏は、大きな血縁集団を形成し、
六甲山系から丹波にかけた山岳地帯を支配下におき、
山民の広くて早い情報網を操る有力一族だったと思われます。
野村貴郎氏は「鷲尾一族という交通の要衝を抑えた氏族集団が各地に存在し、
お互いに連絡・協力しあっていたことは想像に難くありません。」と
述べておられます。(『北神戸歴史の道を歩く』)
鷲尾三郎義久の先導により、一ノ谷への逆落としは見事に成功し
義経は大勝利を収めました。この功績によって、
鷲尾氏は山田庄の下村と小河を与えられ栄えましたが、
信長に敵対した三木城の別所氏に味方した罪で
秀吉に領地を没収され衰退しました。それでも明治の中頃までは
旧家としての格式を保って存続していたようです。
『摂津名所図会』には、江戸末期の山田荘、鷲尾氏屋敷が描かれています。
早稲田大学古典籍総合データベース摂津名所図会より転載
(請求記号:ル04_03651_0010)
丹生(にぶ)山田庄を二分するような千年旧屋、鷲尾氏と土地の豪族
栗花落(つゆ)氏の屋敷が描かれています。今は山田東下に鷲尾屋敷はありません。
挿絵には、「一谷逆落としの標者(あないしゃ)鷲尾義久の旧屋は丹生山田東下村にあり。
その時賜し太刀二振を什宝とす。又庭に義経公腰懸石あり。武士の輩ここに至り、
誉を賞じ古戦場の蹟を尋ぬるも多かりき。」と説明書きがあります。
上の挿絵を一部切り取って拡大しました。
来客に什宝の刀を見せている光景です。庭には義経こしかけ石が描かれています。
また『摂津名所図会』は、多井畑の鷲尾家には
義経拝領の兜鎧があると記しています。
丹生神社・鷲尾家邸跡・福田寺・鷲尾家墓所
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)
『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年
秋里籬嶌「摂津名所図会」(版本地誌体系)臨川書店刊、1996年 館内閲覧
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年