源範頼(のりより)は京と東国を往復する源義朝が、
池田宿(現、静岡県磐田市)の遊女に生ませた子で、
頼朝・義経とは異母兄弟の関係にあり、遠江国
蒲御厨(かばのみくりや=現、静岡県浜松市)で生まれたため、
「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。
範頼は藤原範季(後白河法皇の近臣)の子として養育されたと、
九条兼実の日記『玉葉』に記され、「範」という文字は、
範季(のりすえ)から与えられたと思われますが、
生い立ちは不明です。
藤原範季は義経が頼朝と対立して追討された時、その逃亡を助け、
義経とも縁の深い人物です。(『武門源氏の血脈』)
範頼が史料に初めて見えるのは、
寿永二年(1183)二月の野木宮合戦です。叔父の志田義弘が
鎌倉を襲おうと本拠地の常陸国志田(現、茨城県土浦市など)から
三万余騎を率いて進軍し、下野国野木宮(現、栃木県野木町)で
待ち伏せしていた頼朝方の小山朝政らに敗れました。
この時、鎌倉から馳せ着た蒲冠者範頼の名が『吾妻鏡』に記されています。
その後、木曽義仲追討、一ノ谷や壇ノ浦合戦など数々の合戦で、
大手(正面攻撃軍)の大将軍として参戦し、
その軍功によって頼朝の推挙で三河守となりました。
弟の義経が討伐されてからは、二の舞を恐れ事あるごとに
不忠がない旨の起請文を提出して、異心のないことを頼朝に誓いました。
しかし、建久四年(1193)曽我兄弟仇討事件の時、富士の狩場で
頼朝が殺されたという誤報が鎌倉に届き、嘆く政子に対して範頼が
「範頼がいます。ご安心を」と慰めた言葉が災いとなり、
謀反の疑いをかけられ、伊豆修善寺で誅殺されました。
源範頼は、現在の飯田小学校の西隣に広大な別荘を構え、
守護神として京都の伏見神社から稲荷明神を迎えました。
その後、室町時代に範頼の菩提を弔うため、
この別荘を寺にして稲荷山龍泉寺と呼びました。
六地蔵
山門
本堂
範頼ゆかりの若木の桜
蒲冠者源範頼公桜
稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代蒲氏の別荘地でした。
源範頼公(1154~1193)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で
「蒲御厨」(旧蒲・和田・飯田の範囲)で生まれ育ちました。
範頼公ゆかりの桜が埼玉県北本市東定寺(天然記念物石戸蒲桜)と
三重県鈴鹿市上野町の御曹司桜(石薬師蒲桜)にあります。
平成十五年二月九日上野町の方々のご厚意により
「石薬師蒲桜」の苗が範頼公の古里に移植されました。
龍泉寺に植えられたこの桜を「範頼公」と命名し、
範頼公とともに当地で愛されるようにと願っています。
平成十五年八月二十四日範頼公没後八一0年記念(碑文より)
石薬師蒲桜は、範頼が平家追討のため西に向かう途上、
三重県鈴鹿市の石薬師寺に詣で、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って
馬の鞭にしていた桜の枝を地面に挿したのが、
根付いて生長したと伝えられています。
弁財天
墓地内にひときわ大きな(2、55m)
範頼の五輪の供養塔があり、塔石には
「源公大居士三河守御曹子蒲冠者源範頼公」と
刻まれていますが、建立年月日は不明です。
龍泉寺前の道、この道を隔てた所に駒塚があります。
駒塚
この地は、源範頼公の愛馬を葬った駒塚である。
範頼公は建久四年(1193)伊豆修善寺で殺害されたが、
この時、愛馬は主人が幼少期から青年期をすごした懐かしの故郷に
主人の首をくわえて走り還り息絶えたと伝えられている。
後日、忠誠を盡した愛馬を慰霊するため、馬頭観音菩薩像が建立された。
(碑文より)
忠誠を尽くした愛馬を慰霊するため、建立された馬頭観音菩薩像。
『アクセス』
「稲荷山龍泉寺」静岡県浜松市南区飯田町990 - 1
JR浜松駅前遠鉄バス「鶴見・新貝住宅」行
(ダイヤは1時間に2本位)乗車(約20分)「東部中学入口」下車徒歩約5分
バス停からバスの進行方向に進み、飯田小学校横の路地を入ります。
道なりに進むとすぐに龍泉寺の生け垣が見えてきます。
(弁財天辺に入ります。)
「駒塚」龍泉寺山門から50mほど南方にあります。
境内南側の道路を左折(東方向)、最初の辻を右折(南方向)、
さらに右折して西に進みます。
源範頼館跡(息障院)
『参考資料』
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社
野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 高橋典幸「源頼朝」山川出版社
奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
「静岡県の歴史散歩」山川出版社