平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平安時代末から中世にかけての東海道の宿駅として栄えた手越宿(現、静岡市)は
遊女の里として知られ、手越長者の館跡と伝えられる場所には、
少将井神社があります。
建久四年(1193)の建立というこの古い社には、
手越少将が祀られ、
境内には、ここで生まれたという白拍子姿の千手の前の像が建っています。

一ノ谷の戦いで捕虜となった重衡は、鎌倉に護送されて一年余の月日を過ごします。
その間、重衡の身の回りの世話をしたのが千手の前です。

千手の前は手越宿の長者(宿場の長で遊女の抱え主)の娘で、
『平家物語』には、この三、四年頼朝に仕えた娘とあり、『吾妻鏡』には、
政子仕えの女房と記されているので、どちらにしても幕府に仕えていた女房です。
長者はそれなりの実力があり、格も高い人ですから、
娘が頼朝の許に奉公することは十分ありえると思われます。


千手の前の像





JR静岡駅から「安倍川橋」でバスを下り、長い橋を渡って手越へ入りました。

安倍川橋を渡り終えると手越の里

手越バス停からバスの進行方向に進み、右側の心光院の路地へ入ります。





少将井神社は狭い路地を通り抜けた山際に鎮座し、
傍には楠の老木が
青々と枝葉を繁らせています。 





拝殿、下の画像は拝殿の背後の本殿

鎌倉に護送されることになった平重衡が伊豆の国府に到着すると、
たまたま伊豆の北条にいた源頼朝は、梶原景時に命じて北条に連れて来させ、
廊で重衡に面会しさっそく尋問します。
「東大寺を焼いたのは、
故入道清盛殿の指示に従ったのか、それともそなたの咄嗟の処置だったのか。」
重衡は「奈良を焼き滅ぼしたのは、死んだ入道の命令でもないし、
自分の一存でもない。暴徒化した奈良の大衆たちを鎮圧するため出兵し、
戦いが夜に入り味方の同士討ちを避けるようと
放った火が風に煽られ、伽藍に燃え広がったもので不慮の事態だったのです。
しかし責めは一身に受ける覚悟です。
すみやかに断罪に処せられるべし。」と答えその後は何も言いません。

頼朝は剛直に言うべきことは言う重衡の毅然とした態度に感服し、
梶原景時はじめその場にいた者も皆感じ入ったといいます。
重衡の身柄を伊豆国の住人狩野介宗茂(むねもち)に預け、
頼朝が遣わしたのが千手前です。
千手の前は「何事でも重衡殿のお望をお聞きしてきて伝えよ。という頼朝殿の
仰せでございます。」と重衡に尋ねると「このような身になった今、
何を望みましょうか。ただ出家することだけが願いです。」と
いうので頼朝に報告すると「朝敵として預かっている者に出家など
断じて許されることではない。」と一蹴しました。
(『平家物語』『吾妻鏡』)

少将井神社由緒(現地説明板) 
 「 当神社の祭神は素盞鳴命(すさのうのみこと)で、
建久4年(1193年)源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年に当たり、
有名な富士の巻狩り、曽我兄弟の仇討ちがあった年である。
その後、東海道の要衝安倍川の渡しの宿場町として繁栄した。
手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経の遊君
少将君の名と共に往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られ、
当地の名社として今日に至っている。
明治十二年(1879年)村社に列し、明治二十二年(1889年)九月六日
手越桜山鎮座の村社神明官(天照大神)、手越向山鎮座の山王神社の
(大山咋神・おおやまくいのかみ)、手越水神鎮座の水神社
(罔象女命・みずはめのみこと) の三社を合祀し、同日手越藤木鎮座の左口神社の
猿田彦命(さるたひこのみこと)を移し境内社とした。
後に合祀して祭神は五社となる。

社殿は明治32年(1899年)7月、昭和33年(1958年)11月氏子の奉仕により
改築される。例祭は、古くは9月18日に行われたが、
明治43年(1910年)より
10月17日に改められる。
例祭には、氏子一同服装を改めて参拝するを例とし、平素は出生児の初宮詣りや、
病気平癒の祈願詣りなどがあり、神人和合の古い伝統が伝えられている。」

手越少将は、源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際に富士野の旅館に召された
工藤祐経(すけつね)の馴染みの遊女です。『曽我物語』で知られる
曽我兄弟の仇討事件が起きたのはこの巻狩りの最中、曽我兄弟が父の仇、
工藤祐経の宿舎を襲って祐経を討ち取ります。
事件後、手越少将らが鎌倉に召しだされ事件の夜の子細や
曽我兄弟の行動について詮議を受けたことが『吾妻鏡』に記されています。

平重衡と千手の前2  
平重衡と千手の前3(千手寺)
  熊野御前と平重衡 (行興寺・池田の渡し)  
『アクセス』
「少将井神社」静岡市駿河区手越202 JR静岡駅より「手越」バス停下車 徒歩約5分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会

「静岡県の地名」平凡社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)(富士の巻狩)吉川弘文館

 



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鎌倉幕府が成立すると、京都鎌倉間の往来が盛んになり、
その間を結ぶ東海道は重要なルートとなりました。
東海道の旅を記した作品には、古くは『伊勢物語』や
『更級日記』などがあり、鎌倉時代に入ると『海道記』、
『東関紀行』などの紀行文が書かれるようになりました。
紀行文は、道中の地名を文章の中に連ねて日を重ねていきます。
地名は和歌に詠まれて広く知られた場所、いわゆる歌枕が綴られます。
『平家物語・海道下』は、それらの作品の影響を受け、
重衡が東海道をいかに下って行ったかを周辺の歴史や
歌枕にちなむ故事などを紹介しながら美しい文章で綴っています。

さて梶原景時に護送された平重衡が池田宿をあとにしたのは、
三月もなかばを過ぎ、はや春も終わろうとした頃です。
遠山の桜花は残り雪かのように見え、
沿道の浦々や島々は霞にすっぽりと包まれています。
来し方行く末のことを思い重衡は、「いったいどのような宿業で
このような憂き目にあうのか」と尽きせぬものはただ涙ばかり。
小夜の中山(静岡県掛川市)へさしかかった時には、
西行の歌のようにふたたびこの峠を越えることはあるまいと思われ、
涙で袂をひどく濡らしました。

小夜の中山は、『古今和歌集』をはじめとして
勅撰和歌集などにも多く詠まれてきた古くからの歌枕です。
当時、箱根・鈴鹿とともに東海道の難所といわれていた
この峠を西行は二度越えています。
一度目は、北面の武士として鳥羽上皇に仕えた西行が
突然出家し、京を離れ諸国の歌枕を巡る旅に出た時。

二度目は平家が壇ノ浦で敗れてから一年後のことです。
平重衡の南都焼き討ちによって伽藍を失った
東大寺再建を指揮した俊乗房重源の依頼により、
大仏に貼る金箔の調達のために奥州に赴いた時、
♪年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山
(年老いてまた小夜の中山を越えると思ったであろうか。
69歳の今、この老の身をひきずってふたたび越えている。
命があったからだなあ)と険阻なこの峠を40年以上前にも
越えたことを思いだし、「命なりけり」とその感慨を詠んでいます。
『平家物語』では、この和歌を引用していますが、
西行が小夜の中山を越えたのは、平重衡が鎌倉に下ってから
二年後の文治二年(1186)の春のことです。

蔦かずらの茂った宇都谷峠を心細く越えて手越の宿を過ぎ行けば、
北方はるか遠くに雪山が見えます。
名を問うと甲斐の白根山ということでした。重衡は涙をおさえて、
♪惜しからぬ命なれども今日までに つれなき甲斐の白根をも見つ

(惜しくもない命ですが、今日まで生き永らえてきました。
その生きがいが甲斐の白根山を見ることだったのか。)と
重衡が自嘲気味に詠んだのは、『海道記』の一節
「北に遠ざかりて雪白き山あり、
問へば甲斐の白嶺といふ。年ごろ聞きしところあれば見つ…
惜しからぬ命なれども今日あれば 生きたる甲斐の白ねをも見つ」を
借用したもので、重衡の作ではありません。


清見が関を通り過ぎ、富士山の裾野にさしかかると、
北には青山が険しくそびえ、松吹く風は寂しく、
南には青い海が広々と横たわり、岸打つ波は煙っています。
「恋ひせば痩せぬべし、恋ひせずもありけり」と
足柄明神が歌い始めたという足柄山を越え、
このくだりは、足柄明神が3年間会わなかった妻を見て、
「私を恋しがっていれば痩せているはずなのに、
太っているのは恋しがっていなかったからだ」という歌を詠み、
妻に文句を言ったという足柄山に伝わる伝説で
今様の足柄の歌詞に見えます。

こゆるぎの森、鞠子川(酒匂川の古名)、小磯大磯の浦々、
八的(やつまと、辻堂海岸)、砥上(とがみ)が原(鵠沼付近)、
御輿が崎(七里が浜)を通り過ぎ鎌倉へ到着しました。
清見(きよみ)が関
 興津は古代からの交通の要衝で清見寺(せいけんじ)の
門前には、清見が関跡の標柱が建っています。
この関は、清少納言の『枕草子』「関は…」にも書かれている
関の一つで、重衡の護送役の梶原景時が、後に襲われた地です。
鎌倉幕府創建の功労者梶原景時は、頼朝が没した翌
正治二年(1200)、御家人内の勢力争いにやぶれて鎌倉を追われ、
再起を期して西国に赴く途次、清見が関で北条時政の意向を受けた
地元の豪族に襲われ、梶原山で自害しました。
梶原山(静岡市清水区)山頂には、
「梶原景時終焉の地」の石碑が建っています。
清見寺は、寺伝によると天武天皇が清見が関を守るために
建てた仏堂が始まりと伝えられています。


静岡市内の梶原景時ゆかりの地を訪ね、
最後の目的地興津に着いた頃にはあたりは薄暗くなっていました。


清見寺の総門をくぐり、東海道本線を渡って境内に入ります。
総門の向こうに電車が走っています。

清見寺の東側の隅

清見関跡と記された標柱と関所跡の礎石が残っています。

『アクセス』
「清見関跡」静岡市清水区興津清見寺町418-1

JR興津駅から静鉄バス三保山の手線「清見寺前」下車徒歩1分
JR興津駅下車 国道1号線を静岡方面へ徒歩約20分(1200m)
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
「静岡県の地名」平凡社
 「静岡県の歴史散歩」山川出版社 梶原等「梶原景時」新人物往来社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「東海道名所図会を読む」東京堂出版
 白洲正子「西行」新潮社 
岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版

 

 

 



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平重衡は鎌倉に護送される途次、池田宿(現、静岡県磐田市)の長者、
熊野(ゆや)の娘侍従のもとに一夜の宿をとります。
かつて主要な街道には、遊女を置いた大きな宿場があり、その一つ、
池田宿は、天竜川を渡る際の宿駅で平安時代には成立していました。
この宿(しゅく)の長者(遊女の主に女主人)が抱えていた遊女と
義朝との間に生まれたのが源頼朝の弟範頼です。

JR豊田町駅北口前のユーバス乗り場
藤の花と熊野御前が描かれたユーバスで行興寺を訪ねました。

侍従は重衡を見ると「おいたわしや、世が世なら
とてもお近づきになれないお方なのに、
このような所においで下さるとは…」といって一首の歌をさしあげました。
♪旅の空 埴生の小屋のいぶせさに ふるさといかに恋しかるらん
 (旅の空でこんなみすぼらしい宿にお泊りになって、
どんなにか故郷が恋しいことでしょう)

これに対して重衡は、
♪ふるさとも恋しくもなし旅の空 都もついのすみかならねば 
(旅にあっても故郷が恋しいとは思いません。
都はもはや安住の地ではないのですから)とあきらめの心境の歌を返しました。

重衡は彼女の歌に感心して、「どのような女性であろうか」と
護送役の梶原景時に尋ねると
「ご存知ありませんか。宗盛殿(重衡の兄)が遠江(静岡県西部)守だった時、
見そめ都に召して寵愛されていた女性です。老母を故郷に置いていたので、
しきりにお暇を願いましたが、お許しがないので花の季節三月になって、
♪いかにせん都の春も惜しけれど なれし東の花やちるらん
(この都の春も名残惜しいのですが、こうしている間にも東国の花が
散ってしまうかも知れません。「あづまの花」は、故郷の母を暗示しています。)と
詠んだ一首に宗盛殿は心を動かされ、帰郷を許したという
海道一の歌の名人です。」
と答えました。(平家物語・巻10・海道下)

平宗盛と侍従の逸話を題材にして脚色されたのが謡曲『熊野』です。
春爛漫の京を舞台に病気の母を思う熊野の姿が詩情豊かに描かれています。
ただ謡曲のヒロインの名は熊野ですが、
『平家物語』では熊野の娘侍従とするものが大部分で、
謡曲と同じく女主人公の名を「熊野」とするものは底本のほか屋台本があります。
筆者がテキストに使用しています
「新潮日本古典集成」(百二十句本を底本)は、
女主人公の名は熊野で、覚一本系「角川ソフィア文庫」は侍従です。

「時は平家全盛期の京、平宗盛の寵愛する熊野のもとに池田宿から侍女の
朝顔が母の手紙を持って訪れます。文には病状が思わしくないので、一目でも
会いたいという母の願いがしたためられていました。熊野は宗盛に暇を願い出ますが、
宗盛は「この春ばかりの花見の供」と帰郷を許さず清水寺への供を命じます。
牛車で行く道すがら、東山の桜は今を盛りと咲き誇っていますが、
母を案じる熊野の気持ちは沈むばかり。
やがて酒宴がはじまり涙をおさえながら舞を披露します。舞の途中、
にわかの村雨に散る桜の花に母の命を重ね合せ、花びらを扇ですくって硯にあけ、
♪いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん と一首短冊にしたためて
宗盛に差出すと、宗盛はさすがに熊野の心を哀れと思い暇をとらせました。
後に宗盛の死を知った熊野は尼となり、33歳の若さで生涯を閉じたという。」
(謡曲・熊野)


行興寺周辺には、多くの旅人や華やかに装った遊女が行き交う時代がありました。

熊野が母の冥福を祈るために建立したのが行興寺の始まりといわれます。
寺伝によると、熊野は池田の長者が熊野権現に祈願して授かった娘といわれ、
この寺の長藤は熊野が植えたものと伝えられています。
本堂に向かって左側に国指定天然記念物の老木があり、
ほかに5本の県指定天然記念物の長藤があり、熊野公園および行興寺境内を合わせた
藤棚面積約1,600平方メートルを誇る藤の名所です。


本堂を囲むように藤棚が広がっています。

本堂の傍には熊野と母、侍女朝顔の五輪塔が祀られています。

向って右が熊野の母の墓、左熊野の墓


国指定天然記念物の藤の老木

西法寺跡の土地千坪を借りて整備された
熊野記念公園には、立派な能舞台と伝統芸能会館があります。

行興寺の本堂裏、熊野(ゆや)公園に建つ能舞台


行興寺の西方には、暴れ天竜と恐れられた天竜川の「池田の渡し」がありました。
「池田の渡し歴史風景館」には、1000年も前から続いていたと
記録されている
池田の渡船の歴史が展示されています。

現在の池田の渡し前

池田の渡し前の常夜燈がわずかに往時を偲ばせています。
『アクセス』
「行興寺」静岡県磐田市池田330
JR「豊田町駅」北口から循環ユーバス「ゆや号」乗車約25分
(1時間10分に1本程度 日曜日は運休)「熊野公園入口」下車西へ徒歩約3分
「熊野公園口」から「JR豊田町駅」乗車時間は約50分 ご注意ください。 
長藤まつり期間中の土・日曜日およびゴールデンウィーク中は、
臨時シャトルバスが運行されます。
「池田の渡し歴史風景館」静岡県磐田市池田300-3
(休館)月曜日・毎月最終火曜日・祝日の翌日、年末年始 
9:00~17:00 入館料無料 行興寺から西へ徒歩約3分
『参考資料』

「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
「静岡県の地名」平凡社 「静岡県の歴史散歩」山川出版社
「らんまん花舞台」(産経新聞・夕刊・2008・4・8)「古典芸能」(産経新聞・朝刊・2008・3・19)

 

 



 

 

 



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関蝉丸神社は、上社・下社と二社あります。
逢坂山頂上付近にある上社(祭神猿田彦命・蝉丸)と
逢坂山の東麓、大津側の下社(祭神豊玉姫命・蝉丸)です。
逢坂山は平安京の東の入口にあたり、都を守る逢坂の関がおかれていました。
社伝によれば、弘仁13年(822)
小野朝臣峯守が逢坂山を往来する旅人の守護神として
山上・山下に創建したのを始まりとし、関の鎮守として建てたとされています

この両社に天慶9年(946)、古代からの祭神・猿田彦命と豊玉姫命に
蝉丸が合祀され、歌舞音曲の神として人々の信仰を集めました。

蝉丸は能・紀行・名所図会などに登場し、様々な伝説に彩られて
広く知られていますが、出自、没年とも不詳です。
『今昔物語集』や謡曲『蝉丸』によると、目が不自由であったとされ、
『平家物語』では、醍醐天皇の皇子、『今昔物語集』では、
宇多法皇の皇子・敦実親王の従者で、音曲に優れた敦実親王の
下で働くうちに琵琶の名手となったと記されています。
『後撰集』の詞書によれば、逢坂の関のそばに
庵をかけて住んでいたことがうかがわれ、『無名抄』には、
逢坂の関にある明神様は、蝉丸の庵の跡と伝えています。
琵琶法師はこの蝉丸を自分たちの祖神として崇めていました。

一の谷合戦で捕虜となった平重衡(清盛の5男)を下向させるよう頼朝がしきりに
要求するので
、寿永3年(1184)3月10日、鎌倉に送られることになりました。
護送役は梶原景時です。一行は都の出口・粟田口から、四宮河原を通りすぎ
東海道を下って行きます。それを平家物語は「海道下」という美しい文で綴り、
その中に重衡の心情をあらわしています。
四宮河原は昔、醍醐天皇の第四皇子・蝉丸が庵を結び
逢坂の関の嵐に心をすませ琵琶を弾いた所です。
そこへ源博雅という琵琶の名手が、風の吹く日も吹かぬ日も、
雨の降る夜も降らぬ夜も、三年間、毎日通い続けて耳をすませ、
琵琶の秘曲とされる三曲(流泉・啄木・楊真操)を伝えたということです。
その昔の出来事や蝉丸が侘住まいした藁(わら)家なども思い出されて、
いっそう感慨深いものがあります。

逢坂山を打ち越えて、勢田の唐橋駒もとどろに踏みならし、
ひばりあがれる野路の里(草津の南)、志賀の浦波春かけて、
霞にくもる鏡山、比良の高嶺を北にして、伊吹の嶽も近づきぬ。
心を留むとしなけれども、荒れてなかなかやさしきは、
不破の関屋の板びさし、いかに鳴海の汐干潟、
涙に濡れて行くうちに、あの在原業平が『伊勢物語』で、
「か・き・つ・ば・た」の五文字を歌の各句の上に据えて
♪唐衣きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う と詠んだ地、
かきつばたの名所三河国の八橋(愛知県知立市)にさしかかっても
物思いは尽きぬまま、いつしか浜名湖を渡り、
池田の宿(静岡県磐田市池田)に着きました。(巻十・海道下)

今回は重衡がその道すがら偲んだ蝉丸ゆかりの関清水蝉丸神社を訪ねましょう。

京阪電車の踏切を渡って境内に入ります。

鳥居をくぐると右手に蝉丸の歌碑が建っています。

♪これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関と
多くの旅人が逢坂の関を行き交う様子を詠んだ歌は、
小倉百人一首に収められています。


境内には歌枕として知られる関の清水があります。
♪逢坂の関の清水に影みえて 今や引くらむ望月の駒 紀貫之

琵琶法師の信仰を集めてきた関蝉丸神社下社の拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

本殿横の六角形の時雨燈籠(国重文)



社殿横の小道を上ると小町塚があります。

小町塚
花濃以呂は宇つりにけりないづらに わが身世にふるながめせしまに
碑文はレファレンス協同データーベースよりお借りしました。

小野小町は関寺で晩年を過ごしたと言われ、
関寺を舞台にした謡曲「関寺小町」があります。
関寺はかつて逢坂関の東側にありましたが、平安時代中期に大地震で倒壊し、
その跡地に長安寺(大津市逢坂2-3-23)が建てられたといわれています。
『アクセス』
「関清水蝉丸神社」 滋賀県大津市逢坂1ー15-6 

 京阪電鉄・京津線「上栄町駅」下車 徒歩 10 分
上栄町駅から国道161号線を南(京都方面)に進むと右手に見えてきます。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院
新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社 「滋賀県の地名」平凡社



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源範頼(のりより)は京と東国を往復する源義朝が、
池田宿(現、静岡県磐田市)の遊女に生ませた子で、
頼朝・義経とは異母兄弟の関係にあり、遠江国
蒲御厨(かばのみくりや=現、静岡県浜松市)で生まれたため、
「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。

範頼は藤原範季(後白河法皇の近臣)の子として養育されたと、
九条兼実の日記『玉葉』に記され、「範」という文字は、
範季(のりすえ)から与えられたと思われますが、
生い立ちは不明です。
藤原範季は義経が頼朝と対立して追討された時、その逃亡を助け、
義経とも縁の深い人物です。(『武門源氏の血脈』)

範頼が史料に初めて見えるのは、
寿永二年(1183)二月の野木宮合戦です。叔父の志田義弘が
鎌倉を襲おうと本拠地の常陸国志田(現、茨城県土浦市など)から
三万余騎を率いて進軍し、下野国野木宮(現、栃木県野木町)で
待ち伏せしていた頼朝方の小山朝政らに敗れました。
この時、鎌倉から馳せ着た蒲冠者範頼の名が『吾妻鏡』に記されています。

その後、木曽義仲追討、一ノ谷や壇ノ浦合戦など数々の合戦で、
大手(正面攻撃軍)の大将軍として参戦し、
その軍功によって頼朝の推挙で三河守となりました。
弟の義経が討伐されてからは、二の舞を恐れ事あるごとに
不忠がない旨の起請文を提出して、異心のないことを頼朝に誓いました。
しかし、建久四年(1193)曽我兄弟仇討事件の時、富士の狩場で
頼朝が殺されたという誤報が鎌倉に届き、嘆く政子に対して範頼が
「範頼がいます。ご安心を」と慰めた言葉が災いとなり、
謀反の疑いをかけられ、伊豆修善寺で誅殺されました。


源範頼は、現在の飯田小学校の西隣に広大な別荘を構え、
守護神として京都の伏見神社から稲荷明神を迎えました。
その後、室町時代に範頼の菩提を弔うため、
この別荘を寺にして稲荷山龍泉寺と呼びました。

六地蔵

山門

本堂

範頼ゆかりの若木の桜
蒲冠者源範頼公桜

稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代蒲氏の別荘地でした。
源範頼公(1154~1193)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で
「蒲御厨」(旧蒲・和田・飯田の範囲)で生まれ育ちました。
範頼公ゆかりの桜が埼玉県北本市東定寺(天然記念物石戸蒲桜)と
三重県鈴鹿市上野町の御曹司桜(石薬師蒲桜)にあります。
平成十五年二月九日上野町の方々のご厚意により
「石薬師蒲桜」の苗が範頼公の古里に移植されました。
龍泉寺に植えられたこの桜を「範頼公」と命名し、
範頼公とともに当地で愛されるようにと願っています。
平成十五年八月二十四日範頼公没後八一0年記念(碑文より)

石薬師蒲桜は、範頼が平家追討のため西に向かう途上、
三重県鈴鹿市の石薬師寺に詣で、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って
馬の鞭にしていた桜の枝を地面に挿したのが、
根付いて生長したと伝えられています。


弁財天

墓地内にひときわ大きな(2、55m)
範頼の五輪の供養塔があり、塔石には
「源公大居士三河守御曹子蒲冠者源範頼公」と
刻まれていますが、建立年月日は不明です。


龍泉寺前の道、この道を隔てた所に駒塚があります。

駒塚
この地は、源範頼公の愛馬を葬った駒塚である。
範頼公は建久四年(1193)伊豆修善寺で殺害されたが、
この時、愛馬は主人が幼少期から青年期をすごした懐かしの故郷に
主人の首をくわえて走り還り息絶えたと伝えられている。
後日、忠誠を盡した愛馬を慰霊するため、馬頭観音菩薩像が建立された。
碑文より) 


忠誠を尽くした愛馬を慰霊するため、建立された馬頭観音菩薩像。
『アクセス』
「稲荷山龍泉寺」静岡県浜松市南区飯田町990 - 1
JR浜松駅前遠鉄バス「鶴見・新貝住宅」行
(ダイヤは1時間に2本位)乗車(約20分)「東部中学入口」下車徒歩約5分
 バス停からバスの進行方向に進み、飯田小学校横の路地を入ります。
道なりに進むとすぐに龍泉寺の生け垣が見えてきます。
(弁財天辺に入ります。)
「駒塚」龍泉寺山門から50mほど南方にあります。
境内南側の道路を左折(東方向)、最初の辻を右折(南方向)、
さらに右折して西に進みます。
源範頼館跡(息障院)  
『参考資料』
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社 
野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 
高橋典幸「源頼朝」山川出版社 
奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
「静岡県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 

 



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