須賀神社は、古くは現岡崎東天王町にある東天王社(岡崎神社)に
相対して西天王社とよばれました。
社伝によれば鳥羽天皇皇后の美福門院得子が建立した
歓喜光院の鎮守社として創祀され、旧地は平安神宮蒼竜楼の
東北にある西天王塚付近にあったと伝えています。
元弘2年(1332)の兵火を避けて吉田神社の末社木瓜神社の傍に移され、
大正13年に旧御旅所の現在地に移り、須賀神社と改めました。
祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、櫛稲田比売命(クシナダヒメノミコト)、
久那斗神(クナドノカミ)、八衢比古神(ヤチマタヒコノカミ)、
八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)の五柱を祀り、
昭和39年には交通神社が創始されました。
歓喜光院は永治元年(1141)に美福門院の御願寺として創建され、
現在の平安神宮の北または西北辺にあったとされ、
院地は東西2町と推定されています。
美福門院の死後その娘八条院が伝領すると、女院御所が付設され、
女院は桜の名所であるこの地をしばしば訪れています。
応仁元年(1467)の兵火で焼失し廃寺となりました。
須賀神社・交通神社
美福門院得子の家系は藤原北家の傍流に属し、中・下級貴族の家柄でした。
ところが、得子の祖父藤原顕季(あきすえ)が乳母子として
白河法皇に引き立てられ、院近臣として急速に台頭してきます。
法皇の寵愛は父の長実にまで及び、長実は受領を歴任して
巨万の富を蓄え、従三位にまでのぼって公卿となります。
鳥羽上皇の中宮待賢門院璋子は崇徳・後白河両天皇を生み、
白河法皇(鳥羽の祖父)の庇護のもとで大きな勢力をもっていましたが、
法皇が崩御すると鳥羽は璋子を遠ざけます。
説話集『古事談』には、「崇徳天皇は鳥羽上皇の子ではなく、
璋子が白河法皇と密通して生まれた法皇の子であり、上皇はそのことを
知っていて、崇徳天皇を叔父子とよんで嫌っていた。」とあります。
替わって勢力を伸ばしたのが
父の死後入内し、上皇の寵愛を一身に集めた得子(美福門院)です。
得子は崇徳天皇を退位させ、わずか3歳のわが子体仁親王(近衛天皇)を
即位させることに成功します。
鳥羽上皇は病弱な近衛天皇に皇子が誕生しなかった場合に備えて、
崇徳天皇の皇子重仁親王と雅仁親王(後白河天皇)の
皇子守仁親王(二条天皇)を得子の猶子として養育させます。
近衛天皇は17歳の若さで亡くなりました。早速、皇位継承問題が
もちあがり、院近臣や公卿を集めて議定が開かれました。
待賢門院の皇子覚性法親王を還俗させて即位させようとする案や
近衛天皇の姉の八条院を女帝とする意見などもありましたが、
父(崇徳)が皇位を経験した重仁が、帝位につくものと思われていました。
しかし、美福門院は崇徳院政につながる重仁の即位を阻もうと
守仁親王(二条天皇)を押しました。そこへ父をさしおいて、
子が先に皇位を継ぐことは不穏当であると信西が強く主張し、
雅仁親王(後白河天皇)が、ひとまず中継ぎとして即位しました。
後に後白河天皇は「治天の君」として権力を振いますが、
当時は今様に熱中し遊び暮らしていました。
信西の妻紀伊二位は雅仁の乳母です。
信西には、雅仁を即位させて自分がその背後で政治を執ろうという
野心がありました。貴族社会において、乳母は乳母の夫や乳母子らと
一家総出で養君の養育にあたり、乳母一家と養君の関係はきわめて親密でした。
信西の策謀で天子の器ではないといわれていた弟が皇位につき、
息子の重仁は皇統から遠ざけられました。
崇徳新院が憤慨したのは当然です。
白河法皇以来、院政の権力維持の手段として、幼帝をたて、
青年期に退位させるという方法がとられてきましたが、
この時、後白河天皇はすでに29歳になっていました。
その頃、摂関家でも内紛が起こります。
摂関家の藤原忠実の息子、長男忠通は関白の地位につき、
次男頼長は左大臣でした。23歳も年の差がある兄弟です。
忠実は頼長の抜群の学才を愛し、忠通から氏長者を取り上げ
頼長に与えたので、忠通は父を憎むようになりました。
また、忠実が鳥羽上皇に働きかけたことによって、
頼長は内覧の宣旨を受けます。天皇の決裁を補佐・助言し
政務に参与する内覧の機能は関白と同じであり、
頼長の内覧就任によって、関白と内覧が並び立つという
異常な事態となりました。こうして、
父から疎外された忠通は信西、美福門院と手を結びます。
彼らが仕組んだ罠で、近衛天皇の崩御は忠実・頼長父子の
呪詛によるものとの風評がたち、鳥羽上皇はこれを信じたといいます。
後白河天皇即位と同時に忠通には関白の再任の宣旨が下されましたが、
頼長に内覧の宣旨はなく忠実父子は失脚の憂き目をみます。
身に覚えのない噂がもとで宮廷社会から追放された
頼長と崇徳新院が手を組むのは時間の問題でした。
こうした不穏な情勢の中、鳥羽上皇の崩御をきっかけに
保元の乱がまき起こります。
この乱において、美福門院は信西とともに優れた
政治的手腕を見せ後白河天皇方を勝利に導きます。
次いで起こった平治の乱の修羅場をみ、その収束を見届けた後に亡くなり、
遺言により遺骨は高野山に納められました。
美福門院隠れさせ給ひける御葬送の御供に草津といふ所より
舟にて漕ぎ出でける。曙の空の景色、浪の音、折から物悲しくて読み侍りける。
♪ 朝ぼらけ漕ぎ行く跡に消ゆる泡の 哀れ誠にうき世なりけり 藤原隆信朝臣
(新拾遺集、巻十、哀傷歌)
藤原 隆信の母は美福門院の女房加賀で、
隆信を連れて藤原俊成に再嫁し定家を生んでいます。
藤原隆信が哀しみにくれ歌を口ずさんだ
かつて草津の湊とよばれた羽束橋辺の風景
下鳥羽は古くは草津といい、京から西国へ赴く人々の乗船地にあたるので、
草津の湊とよばれ、高野山、熊野、四天王寺などへ
参詣する人々が乗船する地でもありました。
高野山不動院・美福門院陵
『アクセス』
「須賀神社」京都市左京区聖護院円頓美町1(聖護院の向側)市バス熊野神社下車徒歩約5分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書
橋本義彦「古文書の語る日本史」(平安)筑摩書房 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 田端泰子「「乳母の力 歴史を支えた女たち」吉川弘文館