平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



寿永2年(1183)都落ちした平家は、一旦九州まで逃れましたが、
四国・山陽の豪族たちを次第に従わせ福原(神戸市)にまで迫りました。

これに対して、平氏追討の院宣を受けた源範頼・義経率いる源氏軍は、
平氏が城郭を構える福原に向かいました。軍勢を二手に分け、
大手(生田森)を攻める範頼軍は、山陽道を海岸沿いに、義経軍は都の
西の七条口(丹波口)から老ノ坂(おいのさか)峠を経て丹波路を進み、
山中を迂回して搦手(一ノ谷)を目ざしました。平家はこのことを聞き、
平資盛、有盛、師盛らが三草山の西麓に陣を布き、防備を固めました。

寿永3年(1184)2月4日の早朝、一万余騎を率いた義経は丹波路を進軍、
二日の道のりを一日で駆け、丹波・播磨境の三草山の東麓、
小野原(現、兵庫県丹波篠山市今田町小野原)に辿り着きました。
これより三里(約12㎞)へだてて源平は東西に布陣し、
一ノ谷合戦の前哨戦が、三草山の山麓でくり広げられました。

『平家物語』では、大手範頼軍が五万余騎、搦手義経軍は一万余騎とありますが、
実際はそれぞれ一、二千騎にすぎなかったという。(『玉葉』2月4日条)

京都・丹波篠山方面から加東市社(やしろ)町へ車を走らせると、
国道372号線の右手に
(有)徳澤鉄工所の看板が見えてきます。

その左手前方に平家本陣跡モニュメント(兵庫県加東市上三草)があります。

屏風状の壁に三草山合戦の様子が描かれています。

三草山合戦
平家物語によると、一一八四年(寿永三年)二月、当地の南に位置する
三草山(標高四二四m)を舞台として、源氏と平家の合戦がおこなわれた。
源義経率いる軍勢一万余騎は、丹波路を下り、平資盛を中心として
三草山の麓に守備する約三千騎の平家軍陣地を夜襲した。攻撃は明日であろうと
油断していた平家方に対し、数の上でも勝る源氏軍は一挙に陣を打ち破り、
資盛は讃岐国屋島へ敗走し、義経はその後鵯越へと向かったという
竣工 平成6年3月(モニュメント傍の説明碑)

 


義経軍は一万余騎で三草山の東、小野原に布陣。平資盛をはじめとする
三千余騎の平家軍が西側に布陣したとの情報を得た義経は、
戌の刻(午後八時頃)に土肥次郎実平を呼んで相談をする。
実平の傍らに控えていた田代冠者信綱が夜討を主張し、実平も同調する。
暗さを案じた一行は小野原の在家、野山に火をかけ、昼のような
明るさの中を三里ほど進み、平家一行と対戦する。(『平家物語絵巻)』)
土肥次郎に相談する義経(右手床几に座る)

 土肥実平(どひさねひら)は、現在の湯河原町、真鶴町を本拠としていた武将で、
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵以来の腹心的存在です。
石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ渡らせた功によって頼朝に重用され、
義経・範頼が平家追討使となってからは、京都における頼朝の代官となっています。

三草山登山道入口⇒

古くから、三草山の山麓をはしる丹波街道(国道372号線)は、
丹波・播磨の国境の 位置にあったため、しばしば合戦の舞台となりました。
もっとも有名なのが 『平家物語』が語る三草山合戦です。


三草山は播磨小富士ともよばれ標高423.9m、義経が平資盛を夜半に襲撃した
「三草山合戦」の舞台として有名ですが、実際に戦場となったのは
山麓の小野原(丹波篠山市今田町小野原)から社町に通じる山道だったようです。

昭和55年に三草山遊歩道が完成し、畑・三草・鹿野の三つの登山コースには、

それぞれコース案内板、トイレ、駐車場が整備されています。
一番距離の短い畑コースを登りました。



少しし登ると丸太の急階段がありますが、5合目付近からはゆるやかな傾斜です。


クサリ場を過ぎると三草山の稜線が見えてきます。

 

 

三草山城趾 三草山は播磨平野の北東隅にあり、山麓をはしる街道は、古くから、
播磨と丹波を結び京の都への要路であった。寿永三年二月、平家追討のため、
源九郎義経の率いる一万余騎は、丹波小野原の里に布陣し、夜半、
民家や山野に火を放ち、三草三里の山中を駆け抜け、一挙に平家の陣に突入した。
三草山の西の山口に陣取る小松三位中将資盛、左中将有盛など平家一門七千余騎は、
不意の夜討ちに弓矢を取るいとまもなく、もろくも、屋島をさして敗走していった。
これが世にいう「三草合戦」と「平家物語」などの伝えるところである。
その後、建武三年、赤松出羽守則定がこの地に山城を築いた。
嘉吉元年の騒乱のとき、三草口に赤松方の将宇野能登守国祐が配置され、
また、「嘉吉の乱」の後にも、赤松満政、則尚が三草山城で山名方の軍勢と
一戦を交えて敗れたことなど、三草山にまつわる歴戦の史である。
  新社町発足二十五周年記念事業として、清水・東条湖県立自然公園内のこの地に、
「三草山遊歩道」を新設し、住民こぞって郷土の歴史的遺産を保存し、
学園都市社町のシンボルとすべく、ここに碑を建立するものである。
昭和五十五年四月 三草山に遊歩道をつくる会長 社町長 石古勲(説明プレート)

 山頂からは360度に広がるパノラマの景色を見渡すことができます。

 
 山頂にある三草山神社には、京都から勧請した菅原 道真が祀られています。
「三草山城臺(だい)標」と記されています。

源義経一ノ谷へ出陣(七条口・老ノ坂峠・那須与市堂・義経腰掛岩)  
義経進軍三草山合戦から一ノ谷(佐保神社・山氏神社)  
『アクセス』
「三草山」兵庫県加東市上三草
畑コース 登山道を1時間ほど歩くと山頂に到着します。
お問い合わせ 加東市観光協会 0795-48-0995
加東市商工観光課 0795-43-0530
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年 
「平家物語絵巻」林原美術館、1998年 「平家物語図典」小学館、2010年
「兵庫県大百科事典」神戸新聞社、昭和58年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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平氏一門の館は六波羅にありますが、清盛は西八条殿(どの)も営んでいました。
六波羅は東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀にアクセスするのには
便利でしたが、京都政界を掌握するには不十分でした。
そこで比較的六波羅に近い、東寺の北側付近に
西八条第(てい)をつくりました。西八条は七条町
(現、京都駅北側一帯)に近く、西国へ通じる交通の要衝にあります。
ちなみに一ノ谷合戦出陣の際には、義経が摂津国の
軍勢を七条口(丹波口)に集結させています。

清盛と西八条の関係は、承安3年(1173)に清盛の妻
時子が持仏堂を建立したことに始まります。

全盛期には六町(約2万6千坪)という広大なもので、
現在の梅小路公園の南部分とJRの線路部分に位置しています。
清盛が内大臣になった頃から、整備・拡張がすすめられたようで、
ひと続きではなく一町(約109m)ごとに独立した邸宅が集まっていました。
清盛は太政大臣を辞任してから、福原(神戸市)に居を移しましたが、
上京の際にはこの邸宅を使用しています。

『平家物語図典』(左京四条以南略図より一部転載し、文字入れしました。)

清盛の西八条第の一町おいた東、八条二坊五町には、小松殿とよばれた
清盛の嫡男・
重盛(1138~79)邸、西八条第の南隣には重衡邸、
八条大路沿いには頼盛邸、宗盛邸が存在したことが記録に残っています。

不動産開発に伴い、重盛邸があった平安京の左京八条二坊五町
(南区猪熊通八条上ル戒光寺町)の一部で実施された
発掘調査で庭園の池跡が発見されました。


JR京都駅前



八条通リを西へ進みます。

戒光寺公園前を通り過ぎてさらに西へ

猪熊通りを北へ

調査地 南区猪熊通八条上ル戒光寺町

平家滅亡後、重盛邸跡には宋から帰国した曇照(どんしょう)律師が
戒光寺(かいこうじ)を建てましたが、応仁の乱に被災後、市内を転々として
江戸時代に現在の泉涌寺の山内に移され塔頭となりました。
現在も戒光寺町としてその名を残しています。

調査地付近の猪熊通りから南を眺む

小松殿池跡出土のニュースを伝える京都新聞

平清盛嫡男・重盛の邸宅「小松殿」の一部か、南区で発掘調査 庭園の池跡
平重盛の邸宅「小松殿」の推定地で見つかった池跡(京都市南区)
 平清盛の嫡男・重盛(1138~79年)が平安時代末期に構えた邸宅
「小松殿」の一部とみられる庭園の池跡が、京都市南区猪熊通八条上ルの
発掘調査で24日までに見つかった。担当した民間調査会社は、権勢を拡大した
平氏が平安京郊外の軍事拠点・六波羅に加え、平安京内でも
政治的な拠点を形成したことを裏付ける遺構としている。

 平氏は平治の乱(1159年)で勝利し、軍事貴族として確固とした地位を獲得。
清盛は現在の梅小路公園(下京区)一帯に「西八条第」を築いた。
文献では近くに一門の邸宅群もあったとされ、今回調査した
平安京左京八条二坊五町が小松殿の推定地とされる。不動産開発に伴い、
文化財サービス(伏見区)が21日まで約225平方メートルを調べていた。

 池跡は幅が東西12メートル、南北11メートルで、水深は最大0・3メートル。
池の東側に石などを用いて盛り土し、岸や陸部に向かうような傾斜があった。
一帯は平安後期ごろから急速に開発が盛んになるが、それまでは
鴨川の氾濫が及ぶエリアで、湿地帯に手を加えて池にしていたとみられる。
 池跡を覆う土からは平安末期から鎌倉時代初期の瓦や土器が出土。
この時期に集中し、同社は鎌倉初期ごろに一気に埋められたとみる。
池底に近い粘土層などに松ぼっくりが多く含まれることから
クロマツが近くに植えられていたと分析する。 同社の大西晃靖さんは
「多くの松ぼっくりが池底に堆積し、中にはネズミがかじった痕跡もあった。
一時の栄華に終わった平氏の没落を受け、
邸宅の庭や池も放置されていたようだ」と説明する。
 
重盛は平氏軍政の中心を担って清盛から棟梁(とうりょう)を継ぎ、
平家物語では文武に優れた温和な人物として描かれた。
だが79年に父より早く死去し一門の衰亡にも影響した。
源氏挙兵を受けた都落ち(1183年)で西八条第一帯は焼き払われたとされる。

 龍谷大の國下多美樹教授(考古学)は「小松殿は六波羅にある
同名の邸宅が知られるが本格調査はされておらず、別の場所とはいえ
初めて考古的に存在を明らかにできた。貴族邸宅の造りとすれば、
今回は池の南西端が検出されたとみられ、
北東側に建物跡があったと想定される」と話している。(日山正紀)
西八条第跡(西八条第跡の石碑)
  アクセス』
「平重盛邸跡」京都市南区猪熊通八条上ル戒光寺町
京都駅八条口下車徒歩約15分。
『参考資料』
「京都新聞朝刊」2019年6月25日
 京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年 
高橋昌明編「別冊太陽平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年 「平家物語図典」小学館、2010年
「京都市の地名」平凡社、1987年 竹村俊則「昭和京都名所図会(洛東上)」駿々堂、昭和55年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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JR西脇市駅の近くに「猪早太(いのはやた)供養碑」があります。
猪早太の末裔によって建てられ、
現在もその一族の人達により供養が続けられています。



JR西脇市駅前広場から通りへ出て、JR加古川駅の方向へ少し進みます。



本家の敷地内に建つ猪野早太の供養碑。

猪早太之塔
背面には「昭和四年五月 後裔長井伊作建」と刻まれています。
撮影していると、分家の方が通りかかられて
お声をかけていただき、お宅へ案内して下さいました。

供養碑の近くにある猪早太のご子孫のお宅の
仏壇を拝ませていただきました。お仏壇に祀られているお位牌。

源頼政の郎党猪早太(太田伊豆八郎廣政の息)は、多田源氏の支流です。
遠江国(静岡県)猪鼻湖(浜名湖の支湖)西岸または
近江国猪鼻(滋賀県甲賀市)を領したことから本姓は猪鼻という。
江戸時代の地誌『播磨鑑』によると、播磨国野村(現、兵庫県西脇市)の産とされます。
頼政の墓がある長明寺の川向うにある野村付近一帯も頼政の所領で、
猪早太は野村に住んだといわれています。


『平家物語』は、頼政が宮中で怪鳥鵺を射おとした時、
猪早太がこれにとどめを刺した。と語っています。

西脇市の高松山長明寺の本堂に頼政の鵺退治の絵馬が掲げてあります。







近衛天皇の御代、丑の刻(午前2時頃)に東三条の森の方から黒雲がわき立って
御殿の上を覆い、天皇が脅え苦しむことがありました。
目にも見えない変化の物を退治することを命じられた頼政は、深く信頼している
家来の猪早太に黒母衣を背負わせ、ただ1人連れていきました。。

母衣(ほろ)とは後方から矢などを防御するため、
鎧の背に袋のような布をつけて風で膨らませるもの。

頼政は山鳥の尾羽根に鋭い矢じりをつけた2本の矢と滋藤(しげどう)の弓を携えて
紫宸殿の広庭に控え、変化の物が現われるのを待ちました。

承明門より見る紫宸殿と広庭。 

あえて矢を2本持ったのは失敗した時、残った1本で
「変化の物を討ちとることのできるのは、頼政だけです。」と
自分を推薦した源雅頼(まさより)を射抜くためです。
頼政は射損じて、生き恥をさらすくらいなら潔く自刃しよう。
その代わり雅頼も生かしてはおかないぞという
強い覚悟を胸に秘めていたのです。

真夜中、いつものように東三条の森の方から黒雲が湧き上がり
御殿の上にたなびき、雲の中に怪しい物の姿があります。
頼政が南無八幡大菩薩と念じて黒雲目掛けて矢を放ち、落ちるところを
猪早太がさっと走り寄り取って押さえ、続けさまに刀で九たびまで刺しました。
火をとぼして見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、
手足は虎の姿で鳴く声は鵺に似ていました。

頼政は褒美に「獅子王」という剣を賜った時、左大臣藤原頼長に
歌を詠みかけられて即答し、
文武両道の達人ぶりを発揮しました。

『平家物語』ではこの後、二条天皇が鵺という化鳥に悩まされた時も、
暗闇の中、鏑矢の音で鳥を驚かせ、その鳴き声で所在を確かめ見事射落とし、
宮中が沸きかえった様子を描き、頼政の傑出した弓技を強く印象づけています。
 亀岡の頼政塚(源頼政の子孫)
宇治川の合戦で自刃した頼政の亡骸を、猪早太が
頼政の領地矢代荘に持ち帰り葬ったという。

また『日本人名大事典』によると、「猪早太が頼政の首を収め、
頼政の領地下総国古河(こが)に到りこれを葬る。
(一説には下河辺行平これを保管して東下すと)」とあります。

そこで源頼政の領地下総国古河を検索してみました。
「頼政神社茨城県古河市錦町9-5
正一位頼政(よりまさ)大明神といい、源三位(げんざんみ)頼政が
祀(まつ)られている。治承4年(1180)、源頼政は
平家と宇治で戦ったが、利あらず自刃した。
そのとき従者に遺言して「我が首を持ち諸国をまわれ、
我れ止まらんと思う時、必ず異変が起きよう。
その時その場所へ埋めよ」といった。
従者は、諸国をめぐって下総国古河まできて休息した。
再び立とうとしたが、その首が急に重くなって持ち上がらなかった。
不思議に思ったが、遺言どおりその地に塚を築いた。
これが頼政郭だという。 この場所は古河城内南端にあたり
竜崎郭(たつざき ぐるわ)ともいったが、
明治時代末に渡良瀬川改修工事のため
削り取られて川底になってしまうことから、
現在の地に移された。その時、神社跡から古墳の副葬品と思われる
金環・管玉(くだたま)・小玉・矢の根・大刀の断片が発掘され、
現在は社宝として保存されている(市指定文化財)。」
(茨城県古河市HPより転写しました。)
『アクセス』
「猪早太供養碑」兵庫県西脇市野村 
JR加古川線の西脇市駅下車約2分
『参考資料』

 富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年 
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
「静岡県の地名」平凡社、2000年「日本人名大事典」平凡社、1990年
「日本人名大辞典」講談社、2001年 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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西脇市の長明寺周辺は「頼政公ゆかりの里」として整備され、
和歌の名手としても知られた頼政を偲ぶ歌碑の路や
頼政が使ったという矢竹が残っています。

源頼政(1104~1180)は歌人としても知られる仲政(正)の子で、
酒呑童子退治で武名を馳せた頼光の流れを汲む摂津源氏の武将です。
保元の乱では、後白河天皇方に与して勝利を得、平治の乱では初め
同族の源義朝の陣営に加わりましたが、機を見て平清盛に味方して
勝利に貢献しました。以後は二条・六条・高倉天皇に仕え、
源氏として唯一人六波羅政権下で生きのびることになります。
武人でありながら、優れた歌人でもあった頼政の和歌は、
『勅撰和歌集』や『源三位頼政集』に多く残っています。

以仁王の平家打倒の挙兵計画は露見し、宇治橋の戦いで
頼政は敗死しましたが、この事件が源平争乱の幕開けとなりました。
以仁王の令旨を受けた源頼朝・木曽義仲は、まもなく伊豆・木曽で挙兵し、
頼朝が鎌倉幕府を開き中世の到来を告げました。
頼政はその口火を切る立役者となったのです。

頼政は77歳で自害し、その介錯を渡辺長七唱(ちょうしちとなう)が務め、
首を石にくくりつけ宇治川の深みに沈めました。
当時、唱は摂津国渡辺(現、大阪市中央区八軒屋付近)を本拠地とした
渡辺党の代表者で、すでに出家した身でした。

渡辺党は平安時代末期より摂津渡辺を本拠地とした武士団で、
渡辺氏(嵯峨源氏系)と遠藤氏(藤原氏系)の2つの家系がありました。
渡辺氏は、渡辺番(つがう)、渡辺緩(ゆるう)などの一字の名を用い
「渡辺一文字の輩(ともがら)」とよばれています。
この一族は源頼光の四天王の一人渡辺綱(つな)を祖とし、
代々摂津源氏に仕え頼政軍の中心的戦力として、保元・平治の乱を戦い、
宇治川合戦にも平氏の大軍に対して頼政以下、
省(はぶく)・授(さずく)・競(きおう)らが勇猛果敢に戦いました。

遠藤氏は渡辺氏と姻戚関係を結びながら渡辺党を構成し、
普通に二字名を名のっています。源頼朝と非常に密接な
関係をもった遠藤盛遠(文覚)が知られています。

源姓渡辺、遠藤姓渡辺両氏は伝統的に弓矢の名手の家柄であったため、
メンバーの多くが渡辺に基盤をもちながら、一方では滝口として
宮中の滝口近くで宿直番(とのいばん)として天皇に仕えました。

本堂の向かって左に建つ「鵺退治の由来」の駒札と歌碑。
♪深山木の その梢とも 見えざりし 
桜は花に あらはれにけり  源三位頼政公
頼政祭第三十回記念 平成二十一年四月吉日
頼政祭実行委員会 重春まちづくり協議会建立
西脇市長 来住壽一書
 
(深山木のなかにあって見えなかった桜の梢であるが、
春がおとずれて花を咲かせ、はじめて桜とわかったことだ。)

近藤師高(もろたか)・師経(もろつね)兄弟
(後白河院の近臣西光の息)は、加賀国(石川県)の国司と目代でした。
この兄弟が延暦寺を総本山とする白山の鵜川(うがわ)寺の
堂宇を焼き討ちしたことをきっかけにして、怒った比叡山の
大衆(だいしゅ)が日吉(ひえ)社の神輿を担いで入京し、
頼政軍と対峙した時、三塔一の口利きとして知られた老僧が進みでました。
頼政卿は「深山木のその梢とも見えざりし… 」の和歌を詠んで
近衛天皇の御感(ぎょかん)にあずかったと承っている。
それほど風雅のたしなみのある人にどうして恥辱を与えられようか。
引き返そう。と提議したところ、大衆はもっともだと賛成した。という
逸話があります。(『平家物語・巻1・神輿振(みこしぶり)』)

本堂裏手の坂を上り、石段を上がったところに頼政の墓所があります。
「源三位頼政公墓所」と刻まれた碑。

石段傍に歌碑が建っています。
源三位頼政公辞世句 ♪埋もれ木の 花さくこともなかりしに
みのなるはてぞ 哀れなりける   榎倉香邨筆
(わが生涯は埋れ木のようで、花の咲くようなこともなかったが、
その最後もまたいたましいものである。)

急所の左の膝頭を射られて平等院に退いた頼政は、
渡辺長七唱(となう)を呼び寄せ「わが首をうて」と命じました。
しかし唱は主の首を生きながらうつことの悲しさに、
「とてもこの身につとまるとも思えません。ご自害なさったなら、
そのあとでお首を頂戴いたしましょう。」 と言うので西に向かって手を合わせ、
声高く十度念仏を唱えて最後の歌を詠みました。(『巻4・頼政最後』)

 墓地前を過ぎて山の方に向かうと、「高松頼政池」と名付けられた溜池があります。









♪花咲かば 告げよと言ひし 山守の
 来る音すなり 馬に鞍おけ  源三位頼政公
頼政祭第二十回記念 平成十一年四月吉日
頼政祭実行委員会建立 西脇市長 内橋直昭書

(桜の花が咲いたら真っ先に知らせよと申しつけておいた
あの山守の馬蹄の音が近づいてくる。
いざ馬に鞍を置いて出で立とう。鞍の用意をいたせ。)
命令形の「馬に鞍おけ」がいかにも武人らしく爽快です。



頼政が播磨地頭として高松町を治めていたころ、矢の材料となる
良質の竹が高松山に群生していました。
頼政はこの矢竹を気に入り、ほとんど自分の矢はそれを使ったという。
頼朝が鎌倉幕府を開いてから、本格的に全国におかれるようになりますが、
平氏が台頭する以前から、地頭という役職はありました。

高松谷川に架かる鵺野橋を渡ります。

頼政が崇拝したという八幡神社



白玉稲荷大明神の裏手の矢竹、昔この辺に矢竹藪があり、
扶竹(ふちく=ふたまた竹)が生えていました。

今はまばらに生えている程度です。
源頼政の墓・鵺退治像(長明寺1)  
『アクセス』
「長明寺」 兵庫県西脇市高松町504-1
 JR加古川線「西脇市」駅で下車、徒歩約20分

 『参考資料』
加地宏江「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年 
多賀宗隼「人物叢書 源頼政」吉川弘文館、平成9年 
上宇都ゆりほ「源平の武将歌人」笠間書院、2012年
 塚本邦雄「王朝百首」講談社文芸文庫、2012年 
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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