平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




三嶋大社は頼朝旗揚げ祈願の社です。
平治の乱後、蛭ヶ小島に配流の身となった頼朝は、
源氏再興祈願に何度もこの社に参詣したといわれています。

境内には頼朝政子の腰掛石や安達盛長警護の跡があり、

宝物館には
北条政子奉納の梅蒔絵手箱(国宝)、
源頼家筆の般若心経などが納められています。


三嶋(島)大社の祭神は事代主命と大山祇命、創建年代は不詳です。
もともと三宅島や大島に祀られていた社ですが、
賀茂郡白浜(現、下田市)、
さらに現在地に移されたといわれています。
中世には伊豆国一宮として、源頼朝や多くの武将の崇敬を受けました。











二度目に参拝した時はあいにくの空模様

頼朝挙兵
頼朝が決起したのは、治承4年(1180)三嶋大社祭礼の8月17日です。
攻撃目標は伊豆国目代の
山木判官平兼隆、
寅の刻(午前4時)から卯の刻(午前6時)と決定し、
安達藤九郎盛長を使者として、三嶋大社に戦勝祈願をしました。

父佐々木秀義の使いで北条に来ていた佐々木定綱は、
16日には甲冑を着けて
参上するといって帰国しましたが、
15日から降り始めた雨が決行予定前日の
16日になっても
降り止まないまま日が暮れました。
佐々木秀義の世話をしている
渋谷庄司重国は平家方です。
頼朝は佐々木兄弟が到着しないので、
事前に謀反が発覚したのではないかと心配し後悔していたという。

このため予定していた17日早朝の朝駆けはできませんでした。

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月17日条によると、
「三島社の神事があった藤九郎(安達)盛長が奉幣の御使として社参し
間もなく帰参した。神事が行われる以前のことであった。
未の刻(午後2時)に
佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、
同四郎高綱の兄弟4人が参着した。
定綱、経高は疲れた馬に乗っており、
盛綱、高綱は徒歩であった。
頼朝はその様子をご覧になり、
感動の涙をしきりに面に浮かべ
『汝らが遅れたために
今朝の合戦をすることができなかった。この遺恨は大きい』と
仰り、兄弟は
洪水のために心ならずも遅れてしまったと謝罪した。」と記されています。


そして8月17日の深夜、山木判官兼隆の手勢が三嶋大社の祭礼に出かけ、
警備が手薄になった隙をついて山木館を襲撃しました。
北条時政とその息子宗時・義時、佐々木兄弟ら30、40人ほどの軍勢が
途中から二手に分かれ、佐々木兄弟は山木の北方に拠地をもつ
兼隆の後見人堤権守信遠館を、北条一族は山木館を攻撃しました。


信遠邸の前庭へと進んだ佐々木次郎経高はこうこうたる月影のもと
平氏を討伐する源家最初の一矢を放ちました。
山木館は堀をめぐらした堅固な構え、堤信遠を討った佐々木兄弟が
北条勢に加わりましたが、
勝負は中々決しませんでした。
ようやく明け方近くになり、
兼隆を討ちとり山木館に火がかけられました。
この間、頼朝は北条御邸で
失敗すれば
自害する覚悟で戦の結果を待っていたといいます。


安達藤九郎盛長警護の跡



頼朝政子腰掛石







『アクセス』
「三嶋大社」三島市大宮町2-1
JR
東海道本線三島駅徒歩15分伊豆箱根鉄道三島広小路駅徒歩10分
『参考資料』
 「静岡県の歴史散歩」山川出版社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
「平家物語」(下)新潮古典集成 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
「静岡県の地名」平凡社 奥富敬之 「源頼朝のすべて」新人物往来社

 

 
 
 
 





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治承4年(1180)8月17日、蛭ヶ小島(伊豆の国市)に流されていた
源頼朝は、伊豆国目代山木兼隆を最初の攻撃目標として
山木館を襲い、
兼隆を討ちとり源氏再興の狼煙をあげました。
それは兼隆の家来の多くが三嶋大社の祭礼に出かけた時の事でした。

この戦いに頼朝は参加せず、深夜に
北条時政の軍勢が
館を襲いましたが、中々決着がつきませんでした。
そこで頼朝の身辺警護のため北条館に残っていた
加藤次景廉(かげかど)・佐々木盛綱・堀親家らが
頼朝から長刀を賜り、
兼隆の首級をあげるという手柄をたて、
館に火をかけ凱旋したのは明け方のことでした。
こうして頼朝は諸戦で勝利を飾ることができました。


山木(平)判官兼隆は、伊勢平氏の一族・和泉守平信兼の子で、
京で検非違使として活動していました。
理由は不明ですが、
兼隆は父信兼と対立し
伊豆国山木郷に配流されていました。

伊豆の知行国主は源頼政、国守はその嫡男の仲綱でしたが、
頼政・仲綱が以仁王の乱で宇治川で敗死したため、
新たに平時忠(清盛妻時子の兄弟)が国主、その養子の
時兼が国守の地位に就き、時忠は検非違使別当の時に
部下であった兼隆を憐れみ、目代に登用しました。

『吾妻鏡』治承4年(1180)八月四日条には、
「山木(平)兼隆は、父和泉守(平)信兼の訴えによって伊豆国の
山木郷に配流され、
何年か経つうちに、清盛の権威を借りて、
周囲の郡郷に威光を
振りかざすようになっていた。
これはもともと平家の一族だったからである。

そこで、平氏を討つため、そして頼朝自身の思いをとげるため、
まず手はじめに兼隆を攻め滅ぼすこととした。

しかし、兼隆の居所は要害の地であり、行くにも帰るにも、
人や馬の往来が
大変なところなので、その地形を絵に描かせ
実情を探るため、
兼ねてから藤原邦通を密かに派遣してあった。
邦通は京都を離れて遊歴しているものであったが、
縁あって安達盛長の推薦を受け、
頼朝に仕えていた。
邦通はわずかな切っ掛けを得て
兼隆の館へ向かい、
酒を飲み流行り歌をうたった。
兼隆がこれを気に入って邦通は数日間滞在したので、
思い通りに
山川村里に至るまで全てを絵に描くことができた。」と記されています。


下の画像10枚は、江川邸付近から「山木兼隆館跡の碑」までの道順です。















小高い丘の上に残る「山木判官兼隆館跡」の石碑




「山木判官平兼隆」という名前について
「山木」は地名で現韮山町山木にあたり、その地名がやがて名字になります。
名字を名乗るということは名字の地を持っている領主ということになります。
「判官」は役職名「平」は源平藤橘など血統を示す氏名「兼隆」は実名です。
頼朝が挙兵したとき、頼朝の軍勢の主力だった武士たち、
北条・三浦・千葉・土肥・土屋・岡崎などすべて地名です。

お手数をおかけしますが、山木兼隆の墓所香山寺、
兼隆神社を合祀する皇大神社を下記のサイトでご覧ください。

山木兼隆の墓(香山寺・皇大神社)  
『アクセス』
「香山寺」 静岡県伊豆の国市韮山町山木868-1 「韮山駅」下車徒歩約35分
 『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館 「静岡県の地名」平凡社 「平安時代史事典」角川書店
関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社「源義経の時代」日本放送出版協会 「官職要解」講談社学術文庫
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館





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韮山駅
  
韮山駅から西に向かい国道136号線に出て南に500㍍ほど歩きます。
そこから西に少し入ったところに、北条時宗の三男正宗が開いたと伝わる
成福寺(じょうふくじ)
があります。

成福寺(真宗大谷派)
寺伝によると、鎌倉幕府八代執権北条時宗の子北条正宗(幼名満市丸)が、
正応二年(1289)父の死後鎌倉を離れ北条氏の故郷伊豆北条村に戻り、
伊豆の国在庁官人であった北条氏の先祖平時家・時方の庁舎持仏堂跡に
成福寺を建て両親の墓をつくり、歴代北条氏の菩提を弔った。
現在も北条氏の子孫が寺を守っています。伊豆の国市四日町981


本堂


南に進むと伝堀越御所跡(国史跡)があります。
説明板がたち、周辺の史跡や堀越御所について詳しく解説されています。
伝堀越御所跡とは、室町幕府より派遣された堀越公方
足利政知の御所があったと伝えられる場所です。

室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し各地で戦乱が起こりました。
将軍足利義政は、当時対立していた鎌倉公方足利成氏と上杉氏との
合戦の続く関東へ兄政知を還俗させ新たな鎌倉公方として下向させますが、
政知は鎌倉に入ることができず韮山の堀越に屋形を建てとどまりました。
このため政知を堀越公方と呼び、敵対する成氏は古河公方と呼ばれ、
その後、明応二年(1493)政知の子茶々丸は、駿河勢(北条早雲)によって
滅ぼされました。北条氏の氏寺である願成就院には茶々丸が
当寺で自害したという伝承があり、境内には茶々丸の墓があります。


政子の産湯井戸の碑は伝堀越御所跡広場の向かい側にあります。

「北条政子産湯之井戸」の碑

産湯の井戸は民家の前にあります。

狩野川に面する守山の北側には、北条氏邸跡(国史跡)があります。
願成就院・守山八幡宮・北条邸跡  
『アクセス』
「政子産湯の井」
伊豆の国市寺家字守山1216
伊豆箱根鉄道韮山駅徒歩約15分
『参考資料』
「静岡県の歴史散歩」山川出版社 「静岡県の地名」平凡社

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 



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蛭ヶ島公園の西、狩野川に面する守山の北側に北条氏館あとがあります。
平成4年から5年にかけて行われた北条邸跡の発掘調査で、
平安時代~鎌倉時代始にかけての出土遺物や建物跡が見つかり、
北条邸があった場所であることが確認されました。
現在、邸跡は囲われているのでみることができません。

北条氏は水陸交通の要衝に位置する当地を本拠地とする在庁官人で
あったと思われ、
守山の東側には北条氏の氏寺・願成就院があります。

治承4年(1180)、平家追討を命じた以仁王の令旨が頼朝のもとに届いた頃、
頼朝は、願成就院北辺にあった北条御亭(ごてい)に住んでいたという。

伊豆国北条周辺は平家物語図典より引用

頼朝の奥州征伐の戦勝祈願に北条時政が建立した願成就院
鎌倉時代を通じて北条氏の崇拝を受けて繁栄しましたが、
北条氏が滅ぶと願成就院も衰退していきました。


現在の山門、本堂は近年建立されたものです。

◆願成就院 高野山真言宗 
寺伝によれば天平元年(729)行基が建立。

頼朝は当寺に源氏再興を祈願し、鎌倉幕府を創立しました。
この報恩のため、文治2年(1186)奈良から運慶を招き、

阿弥陀如来像、毘沙門天像など、四体の仏像を刻ませ祀ったという。
この仏像は、本堂に安置されいずれも国の重要文化財に指定されています。

大御堂は、文治5年(1189)6月、北条時政が、頼朝の奥州征伐の
戦勝を
祈願して建立し、その後、義時・泰時など北条氏によって、
伽藍が拡大され北条氏の氏寺となりました。

しかし室町時代、北条早雲に攻められた足利茶々丸がこの寺に逃げ込んだ際、
兵火に見舞われ、さらに豊臣秀吉軍による兵火にかかり寺運は衰退しましたが、
江戸時代に北条氏貞が再建、現在の大御堂(本堂)は昭和に再建されました。
境内一帯は「願成就院跡」として国の史跡に指定され、
門前左の広場には「国指定史跡願成就院」の碑が建っています。


願成就院の奥に守山八幡宮があります。


頼朝が戦勝祈願したという守山八幡宮


守山八幡宮(願成就院の鎮守) 
「當社の創建は大化三年(六四七)

御祭神は大山祇神で 延喜式内石徳(いしとくの)高神社です
延喜七年(九〇七)豊前国宇佐宮より八幡神を勧請合祀 

其の後 専ら伊豆国総社八幡と称す 
治承四年(一一八〇)源頼朝此處に源家再興を祈り兵を挙げる
 現在の本殿は寛永九年(一六三二)
久能城主榊原大内記照久の造営である」由緒書より


鳥居のすぐ傍に建つ「史蹟源頼朝挙兵之碑」には
「源頼朝 治承四年(一一八〇)八月十五日守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵 
夜陰 源氏重忠の軍兵数十騎 山木判官平兼隆を襲い討つ 其の間頼朝遥かに

山木館の火煙を望み 悲願の達成を悦ぶ蓋し鎌倉幕府草創の礎は
ここに於て成る故に記して建碑の所以とする 」と刻まれています。

『源平盛衰記』によると、伊東祐親の娘との恋にやぶれた頼朝は、
北条時政が大番役で留守中、
娘政子と恋仲になり、帰国の途中、
このことを聞き驚いた時政は、ちょうど一緒に
下向してきた
伊豆国目代山木兼隆に娘政子を嫁がせる約束をしました。

大番役というのは諸国の武士が三年交替で内裏警固の役に当たることをいいます。
伊豆に戻った時政は、早速嫁入り話をすすめて政子を山木兼隆邸に
送り届けましたが、政子は、ある風雨の夜、隙をみて逃げ出し、
山を越えて伊豆山権現(熱海市)にいた頼朝のもとに走ります。

頼朝は伊豆山権現を厚く信仰して、そこの覚淵(かくえん)は、
頼朝の仏教上の師であり、法音尼(ほういんに)は政子の経の師でした。
当時、伊豆山は修験の霊場で僧兵が多かったので、時政は手出しができず、
二人の仲を認めざるを得なかったという。
二人が結婚したのは、長女大姫(おおひめ)の年齢から推して
頼朝31歳、政子21歳、治承元年(1177)頃であったと思われます。
やがて時政は頼朝を娘婿として認め、何かと援助するようになっていきます。
桓武平氏の流れをくむ北条時政は、直方が上総介となり、時政の祖父時家が
狩野川沿いの伊豆北条に本拠をおいて北条氏と称したという。
ここで少し時代を遡って時政の先祖直方をご紹介します。
万寿4年(1027)上総、下総一帯に勢力をもった平忠常が乱を起こし、
平直方が追討使に任じられるが、直方は戦果をあげることができず、
朝廷は直方を都にかえし、代わって甲斐守源頼信に追討を命じました。

源頼信は忠常の子法師とともに下向し、
地道な折衝を続け戦うことなく乱は終りをつげます。
後に平直方は弓上手な上、豪胆・沈着冷静な頼信の嫡子頼義を見込み、
娘を嫁がせ八幡太郎義家、賀茂二郎義綱、新羅三郎義光が生まれています。
直方は義家が誕生すると、鎌倉を頼義に譲り

それ以来鎌倉は源家相伝の地となりました。
『アクセス』
「願成就院」伊豆の国市韮山町寺家 伊豆箱根鉄道「韮山」駅下車
国道136号線に出て徒歩約20分
『参考資料』
「郷土資料事典」(静岡県)人文社 「静岡県の地名」平凡社 奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館
永原慶二「源頼朝」岩波新書 渡辺保「北条政子」吉川弘文館 「源頼朝七つの謎」新人物往来社 
「静岡県の歴史散歩」山川出版社 竹内理三「日本の歴史」(6)中公文庫
「平家物語図典」小学館

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 



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