頼朝の乳母は、4人まで明らかとなっています。
摩々尼(ままのあま)、寒川尼(さむかわのあま)、比企尼(ひきのあま)
そして山内尼(やまうちのあま)です。
摩々尼は頼朝の父義朝の乳母摩々局の娘と推定されています。(『乳母の力』)
いずれも東国にゆかりの深い女性です。
三善(みよし)康信のおばも乳母であったと思われます。その縁故から
康信は、朝廷の下級官人でしたが、 早くから伊豆の流人頼朝に連絡を取り、
月に三度も京都の情勢を送り続けました。三善氏は都の
下級貴族出身ですから、乳母の中では唯一貴族の娘ということになります。
しかしこの乳母についてこれ以上伝える史料がなく、
あるいは4人の乳母の誰かと同一人物だとも考えられています。
義朝は京都の地で、朝廷に仕えるために必要な貴族的教養を頼朝に
身につけさせようとする一方、武家の棟梁として東国を支配していくために
必要な教養を東国武士出身の女性から学ばせようとしたと思われます。
母親の代わりに貴人の子を養育する女性を乳母といい、
武家の場合、譜代の郎等の同一の家系から出される場合が多く、
女性だけではなく夫婦で養育にあたる例が多く見られます。
乳母の夫は乳父(めのと)、乳母の子は乳母子(めのとご)、
乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、強い絆で結ばれる事が多く、
主従関係としても互いに信頼し合える相手でした。
山内氏は相模国鎌倉郡山内荘を領したとされ、祖先の藤原資清(すけきよ)が
主馬首(しゅめのかみ)であったことから首藤氏と称しました。
山内は現在の鎌倉市と横浜市に跨る広い荘園で、ここに移った首藤家の者が
山内首藤(すどう)と名のるようになったとされています。
山内尼の夫、山内首藤俊通(としみち)は、相模国の武士で源氏譜代の家人として
義朝に仕え、平治の乱では義朝に従い、子の滝口俊綱とともに討死しています。
治承4年(1180)8月、頼朝は源氏累代の御家人に呼びかけて挙兵しましたが、
山内尼の子の経俊(つねとし)は、頼朝と乳兄弟の関係にあるにも関わらず
これに応じなかったばかりか、挙兵への参加を促す
頼朝の密使安達盛長に暴言を吐きました。
その頼朝の軍勢を大庭(おおば)景親が大将となって石橋山で迎え撃った時、
こともあろうに経俊は景親(かげちか)に従い、頼朝に矢を射かけ、その矢が
頼朝の鎧の袖に刺さるという大失態を起こしてしまいました。
なお、経俊は平治の乱には、病気のため参加していません。
経俊の弟の刑部坊(ぎょうぶぼう)俊秀は父亡き後、三井寺(園城寺)の
乗円坊の阿闍梨慶秀(きょうしゅう)に引き取られました。
頼朝挙兵に先立って平家打倒の兵を挙げた高倉宮以仁王ですが、
早々に平家方に知られ三井寺に逃れました。しかし、以仁王が身をよせた
三井寺は必ずしも一枚岩でなく、また頼みとした比叡山延暦寺は
清盛の賄賂工作によって動かず、以仁王と源頼政は、
南都勢力を最後の頼みとして奈良に向かいます。
その時、慶秀は以仁王の御前に参って「俊秀の父山内首藤刑部俊通が
平治の乱で討死したため、幼い俊秀(しゅんしゅう)を引きとり、
懐に抱くようにして育てた」と涙ながらに申しあげ、俊秀を御供につけ、
自らは80歳という年齢を考えて三井寺に残るのでした。
俊秀は南都を目ざす途中で討死しています。
石橋山で惨敗した頼朝は、真鶴岬から安房に脱出し再起をはかると、
治承4年(1180)10月7日、鎌倉に入り、同月23日に論功行賞を行いました。
山内首藤経俊(1137~1225)は、山内庄を取り上げられて頼朝の信頼厚い
土肥実平(遠平の父)に預けられ、断罪に処せられることになりました。
山内尼はこれを聞き、同年11月26日、
息子の命を救うため、頼朝に泣きついてきました。
「山内資通(すけみち)入道が八幡殿(源義家)に仕えて以来、代々源家に
尽してきました。特に夫の山内俊通は平治の乱で屍を六条河原にさらしました。
石橋山合戦で経俊は平家に味方し、その罪は逃れがたいのですが、
これは一旦平家の後聞をはばかるためです。」と経俊の助命を嘆願すると、
頼朝は黙って矢の刺さった鎧を取り出し、尼の前におきました。
その矢には「滝口三郎藤原経俊」と記されていることを読み聞かせると、
尼は涙ながらに退室しました。しかし、尼の悲歎に免じ、
また先祖の功績を考え、経俊を助命することにしました。
山内俊通の戦死の地は、『平治物語』では三条河原、
『山内首藤氏系図』には、四条河原と記され、
死去した場所が尼の発言と少し異なりますが、田端泰子氏は
「死骸が六条河原で晒されたということかも知れない。」と説明されています。
山内氏は平安後期に資清の娘が八幡太郎義家の妻の一人となって以来、
源氏との関係を密にしてきました。資通は11、2歳で後三年合戦に参陣し、
義家の養子となった為義(義親の子)の乳父にもなっています。
系図に見える「正清」は、義朝の乳母の子鎌田正清のことです。
平治の乱後に東国へ敗走の途中、正清は岳父尾張国野間内海荘の領主
長田忠致(おさだただむね)邸に立ち寄り、
忠致の裏切りにあって義朝とともに殺害されています。
尼が頼朝に先祖の功績と述べたのは、このようなことを指していると思われます。
その後、経俊は乳母の子であることから次第に信用を回復し、
義経追討・奥州征伐などに出陣し、忠義をつくして勤めたことが認められ、
元暦元年(1184)頃には、伊勢国の守護に抜擢され、その上
伊賀国の守護も兼ねました。これといった戦功もない経俊に
このような重責が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子だからです。
経俊の嫡子重俊は土肥氏に接近し、遠平(とおひら)の娘との
婚姻が成立し、さらに山内氏の窮地を救うことになりました。
『参考資料』
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年
角田文衛「平家後抄 落日後の平家(下)」講談社学術文庫、2001年
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年
「源頼朝七つの謎」新人物往来社、1990年