平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



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寛和二年(986年)藤原兼家・道兼親子が花山天皇を欺き出家させるという事件を
安倍晴明が、天変によっていち早く察知したという話が「大鏡」に記されています。

元慶寺(花山寺)で剃髪するため内裏を出た花山天皇一行は、
土御門大路を東に進み、晴明の家の前を通りかかると、家の中からパチパチと
手を打つ音とともに、安倍晴明の声がして「帝座の星に異変がある。
どうも天皇が退位されたようだ。直ちに参内し奏上しよう。
先に式神一人様子を見てまいれ」と晴明があわてる様子を天皇は耳にされた。
すると目に見えない者(式神)が戸を押し開け
「今、家の前を帝がお通りになりました。」といった。
安倍晴明が天文道に非常に優れていたことを示す逸話の一つです。



花山天皇は冷泉天皇の第一皇子で、
母は太政大臣藤原伊尹(これただ)の娘であった。
花山天皇が17歳で即位されてからは、外戚にあたる藤原伊尹の一族が
権勢を握り政治を動かしていった。
これに激しく抵抗し対立していたのが、同じ藤原氏の右大臣藤原兼家であった。

最愛の弘徽殿の女御が懐妊中に病没し、花山天皇が悲嘆にくれているのを見て
藤原兼家は道兼に命じて出家をして女御の菩提を弔うよう勧めさせた。
道兼も一緒に出家するというので、天皇は決心され夜更けに内裏を出発、
途中から源満仲と配下の武士が、一行の前後を固め邪魔が入らぬようにした。
道兼は天皇が剃髪されて後、「父に剃髪前の姿でもう一度お目にかかり、
事情を説明して必ずもどってまいります。」と申し逃げ出してしまった。

このようにして19歳の若い天皇は藤原兼家、道兼父子の謀略により
退位させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)の即位が実現した。
一条天皇の即位は、兄二人が相次いで亡くなった後、トップに躍り出た
道長を中心とした藤原氏全盛時代を向かえることになります。
安倍晴明の晩年は、丁度この時期にあたっています。


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藤原道長は法成寺建設の折、毎日現場視察に出かけていた。
ある日寺の門を入ろうとすると、愛犬がしきりに吠え
道長が門に入れないようにした。
不審に思って晴明を呼んで占わせると、「殿を呪詛したものがおり、仕掛けが道に
埋められていて、それを踏み越えると呪詛がかかるようになっている」と占った。
晴明が指すところを掘ると、土器を二つ合わせて黄色のこよりを
十文字に結んだものがはいっていた。
紙を開いてみたが何もなく、ただ土器の底に文字が
一つ朱で書かれているだけであった。
晴明は懐より紙を取り出して、鳥の形に結んで呪文を唱えて空に投げると
白鷺となって南へ飛び、呪いをかけた道摩法師(蘆屋道満)の家に落ちた。
道摩は、道長の政敵堀川左大臣藤原顕光に頼まれて行ったと白状した。
道長は道摩を罰せず故郷の播磨に追い返した。

晴明は法成寺が建立される十数年前に亡くなっているのですが、
道長だったら陰陽師は当然晴明だろうということで結びつけられた話のようです。

『アクセス』
「元慶寺」京都市山科区北花山河原町13 京都市営地下鉄「御陵駅」下車徒歩20分

「法成寺址碑」上京区荒神口通寺町東入北側 市バス「荒神口」下車すぐ
荒神口通の鴨沂高校グランド傍に石碑が立っている。

『参考資料』
「安倍晴明伝説」諏訪春雄 文芸別冊「安倍晴明」河出書房 「天皇たちの孤独」繁田信一 「道長と宮廷生活」大津透



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国道9号線老ノ坂トンネル東口すぐ手前の細い旧山陰道を
南に入ると老ノ坂峠へと続きます。
老ノ坂峠は、古くから交通の要衝とされ山陰地方や丹波の産物、人々が
京へと行き交い賑わいました。
峠には山城国、丹波国の国境を示す石標が立ち、
そこから少し東へ行くと小高い塚上に酒呑童子の首を埋めたと伝えられる
首塚大明神が祀られています。

老ノ坂は古くは大枝(おおい)道とよんだが「おおい」が
つまって「おい」となり「老」の字をあてるようになった。(昭和京都名所図会)


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一条天皇の時代、都の若君、姫君が次々に誘拐され
財宝を盗まれる事件が発生した。陰陽師安倍晴明の占いにより、
大江山の奥に棲む酒呑童子を首領とする鬼たちの仕業と判った。
この鬼を退治するために源頼光と平井保昌が選ばれ、
八幡・日吉・熊野・住吉の神々に加護を祈り山伏姿に身をやつし、
頼光配下の渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武の四天王と共に
都を出発し深山に分け入ります。


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途中川辺で出会った洗濯中の老婆が
「この頃都では安倍晴明が泰山府君祭を行っているので、
式神、護法が都を巡察していて、酒呑童子は都から人を奪って来ることが
できないことが多く機嫌が悪い。」と語ります。
一行はさらに山を登り酒呑童子の館に辿りつき、童子の接待を受けます。
頼光は酒好きの童子に毒酒を勧め、酔った童子を激戦の末退治します。
本殿傍の由緒書きによると
鬼の首を持って都に凱旋する途中ここで休息しますが、
ここまで運んだ首がびくとも動かなくなり、仕方なくここに埋めたといいます。

※「泰山府君祭」
中国の泰山は死霊が集うよみの世界と考えられ、そこの神を府君といい
道教の祭神で閻魔大王と同一視され、死者の生前の善悪を裁判する神といわれた。
道教的な泰山府君祭を賀茂保憲と安倍晴明らが密教経典を参考にして
延命長寿と幸いを祈る日本独自の祭祀につくり変え安倍晴明が得意な祭祀だった。

※「式神」 安倍晴明や陰陽師が駆使したとされる神霊。
※「護法」 密教系の宗教者が用いた神霊で童子姿が多い。

※平安時代、密教と陰陽道が混沌としていて、
安倍晴明は式神と護法の両方を操っていた。(異界と日本人)


◆大江山
酒呑童子の大江山は京都府に二つあり、丹後・丹波の境の大江山は
御伽草子に描かれる酒呑童子や近世以降の酒呑童子説話の舞台です。

古代・中世では大江山といえば老ノ坂峠の大枝山のことをさし、
♪大江山生野 の道の遠ければ まだ文も見ず天橋立(百人一首・60番)
※「生野」 現在の福知山市内

小式部内侍が丹後守だった夫・平井(藤原)保昌とともに任地で暮らす
母・和泉式部を偲んで詠んだ大江山のことです。
謡曲「大江山」では
♪都のあたり程近きこの大江の山に籠居て
とあり、やはり老ノ坂峠の大江山が舞台になっています。

首塚大明神は首から上の病気平癒に効能があるとか。私がお参りした時にも
小雪がちらつく中、初老のご夫婦が杖をつきながら階段を上ってこられました。

『アクセス』
「首塚大明神」阪急桂駅より亀岡行きバス「老ノ坂」下車徒歩10分

国道9号線老ノ坂トンネル東口すぐ手前(京都側からみて左手)の細い旧山陰道を
南に入り、つきあたりを左折する。

『参考資料』
「異界と日本人」小松和彦 「京都魔界案内」小松和彦  高橋昌明「酒呑童子の誕生」もうひとつの日本文化

「京都異界の旅」志村有弘 文芸別冊「安倍晴明」河出書房 「昭和京都名所図会」(洛南)竹村俊則 



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一の鳥居
額に掲げられた社紋「晴明桔梗」は、「五芒星」ともよばれます。



二の鳥居

二の鳥居の傍に千利休屋敷趾の碑



旧・一條戻橋の傍らには、式神の石像が置かれています。
式神は陰陽師が使う精霊で人の目には見えず、
橋を渡る人の
占いをしていたといわれています。
一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、
現在、晴明神社から南へ100メートル辺、一条通りの
堀川に架かっています。



本殿
祭神は平安時代に活躍した安倍晴明と倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祀っています。

屋根瓦、御神燈等についている安倍晴明のゆかりの星形の紋章は、
五芒星(ごぼうせい)と呼ばれ陰陽道で用いる祈祷呪符の一つといわれています。



安倍晴明像



 晴明祭 毎年、秋分の日とその前日。
湯立神楽の奉納や、神輿巡幸などが行われます。

安倍晴明(921~1005)は、大膳大夫安倍益材(ますき)の子で、
右大臣安倍御主人(みうし)の子孫にあたります。

晴明は幼い頃から賀茂忠行・保憲父子に指示し、陰陽道・天文道を学びます。
賀茂忠行は葛城地方を本拠とした賀茂氏の一族で占いに優れ、
息子の保憲は暦博士、陰陽頭、天文博士を歴任し、従四位上にまで出世しています。
保憲は弟子晴明の才能を高く評価し、陰陽道を二派に分け
晴明には「天文道」を授け、息子の光栄(みつよし)には、
「暦道」(れきどう)を伝えます。
以後、賀茂氏が独占していた陰陽道の職は、

二つに分かれ両家によって継承されていくことになります。

安倍晴明は40歳の時、はじめて歴史上に登場します。
天徳4年(960)内裏が炎上し、所蔵されていた節刀がすべて焼失してしまい、
新しく作り直す必要にせまられて、天皇の前に
天文得業生(てんもんとくごうしょう、陰陽寮・天文道の学生)として
修行の身だった晴明がよばれ節刀について言上しています。

出世は遅かったようですが、
天皇の前によばれて節刀について述べたということから、
晴明の学識が宮中や周囲の人に高く評価されていたことが窺えます。
この頃からしだいに時の権力者、花山天皇・一条天皇、藤原道長などの信任を得、
大膳大夫、天文博士、播磨守等を歴任し従四位下に至ります。

賀茂・安倍両家によって受け継がれた陰陽道は晴明以後、
その子孫には優れた才能をもつ者が多く、賀茂氏と立場が逆転し、
安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を継承し、賀茂氏は陰陽助ということが多く
安倍氏(後の土御門家)が陰陽道の主流となっていきます。


「安倍御主人(あべのみうし)」は天武天皇の寵臣で、
「竹取物語」の中で、
かぐや姫に求婚する貴公子の一人、
右大臣安倍の御主人のモデルといわれています。


「節刀」とは、將軍が出征の際天皇から賜った刀のことで、
天皇の権限を代行する意味を持っています。

安倍晴明邸跡
 社伝によると、晴明の邸跡を神社化したとしていますが、
「今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。」で始まる『今昔物語』には、
「忠行は晴明を側から離さず愛弟子として、陰陽道の秘術を残りなく教えこんだ。
そこで晴明は陰陽道によって、公私にわたり重用され、 大そう偉くなって
世間から尊ばれていた。
そのうち忠行が死んで、晴明は土御門大路よりは北、
 西洞院大路よりは東に家をかまえ、そこに住んでいた。云々」と記されています。
(今昔物語・安倍晴明、忠行の弟子になる)

このように『今昔物語集』や『大鏡』巻一の記事によると、
晴明の邸宅は、土御門(現・上長者町通)北、西洞院(現・西洞院)東と記し、
 現在の晴明神社の場所ではないことがわかります。

晴明の 邸宅跡は、続『京都史跡事典』、『昭和京都名所図会(洛中)』によると、
 現在の上京区上長者町通新町西入土御門町、 晴明神社の東南へ約700㍍の地にありました。
晴明神社は明治維新の廃仏毀釈で廃社になるところでしたが、
 斎宮を主神とする神社を作り、晴明社はその傍らに稲荷大明神として、
 やっと残すことができました。
斎稲荷社(いつきいなりしゃ)はその名残の社です。

陰陽道では、古来より桃の木には霊力があるといわれ、
家の鬼門(東北)の方角に植えたり、平安時代に宮中で大晦日に行われた
大儺式(たいなしき)には親王や公家達は桃の木の弓、杖等をもって参列しました。
 

『アクセス』
「晴明神社」京都市上京区堀川通一条上ル806 
JR 京都駅より9 番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分
阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より12 番「一条戻橋・晴明神社前」下車徒歩約2分
京阪 三条駅より12 59 番「堀川今出川」下車 徒歩約2分
地下鉄. 今出川駅より徒歩約12分
『参考資料』
諏訪春雄「安倍晴明伝説」ちくま新書 小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫 
小松和彦「日本の呪い」知恵の森文庫 
文芸別冊「安倍晴明」河出書房新社 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社

梅原猛「京都発見」(4)新潮社 志村有弘「京都異界の旅」勉誠出版 
志村有弘「夢枕獏と安倍晴明」桜桃書房 瀬戸内寂聴「今昔物語」中公文庫
 
「平安時代史事典」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)俊々堂
 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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一条戻り橋は、京都市一条通堀川に架かる橋です。
この橋は平安京の北端、一条大路にあり、鬼が出入りするという
大内裏の
鬼門(北東)にあたります。
 橋は何度も架け替えられていますが、平安遷都以来、同じ位置にあります。

この橋にはさまざまな伝説があり、 橋の下に安倍晴明が
式(織)神を石櫃に隠しておいて
用事がある度に呼んできて、
自由に操って占ったといい、
平安時代後期には、
吉凶を占う橋占の場所として知られていました。
橋占(はしうら)とは、辻占いのひとつで、
橋のほとりや橋の上に立って、通る人の 言葉を聞き、
それによって吉凶を占うことです。


式神とは、一種の精霊で鬼のような恐ろしい顔をしていたため
安倍清明の妻が恐れるあまり、

普段は戻橋の下に封じ込めておいたといわれています。

高倉天皇の中宮建礼門院徳子は、入内7年目で初めて懐妊しました。
もし皇子が生まれれば清盛は天皇の外祖父になります。そこで
皇子誕生を願って清盛は、高僧たちに様々な祈祷を行わせるのでした。
そしてついに徳子が待望の皇子(安徳天皇)を生みましたが、
『源平盛衰記』は、その出産に際して不吉な事態があったと語っています。

『源平盛衰記・巻10・中宮御産の事』は、
治承2年(1178)11月12日、清盛の娘の建礼門院徳子は
お産の気配があり、絶え間なく陣痛が続きますが
 お産になりません。
母の時子(二位尼)はじっとしておれず、
 一条堀川戻橋の東のたもとに牛車を止め橋占をしてもらうと、
14、5歳ばかりの童子が12人、西から手を叩きながら出てきて、
♪榻(しじ)は何榻、国王榻、八重の塩路の波の寄榻」と、
四、五返歌いながら、
橋を渡り飛ぶように去っていきました。

  時子は帰って弟の平時忠にこのことを語ると「国王榻」だから
皇子が生まれるに違いない大変めでたいことだ。と答えましたが、
 生まれた子(安徳天皇)が八歳にて長門国壇ノ浦に沈むという
下の句「八重の塩路の波の寄榻」の意味を
よみとることができなかった。と記しています。
 ちなみに「榻(しじ)」とは、牛車から牛をはずした時、
牛車のながえ を置き、乗降の際には踏台とする机型の台です。


また、藤原頼長の日記『台記』によると、右大臣藤原公能(きみよし)の
娘多子が、
藤原頼長の養女となり近衛天皇に入内する前、
頼長が入内の成否を占ってもらった所でもありました。
外祖父の地位を狙う頼長は、多子が皇后になれるかどうか、
心配のあまり橋占を三回もおこなっています。

このように昔の人々は、迷ったり悩んだ時には、占いをして判断しました。


戻橋は平成7年に架け替えられ、旧戻橋は晴明神社に置かれています。
傍らの石像は式神です。
晴明神社(安倍晴明の邸はどこにあったのか)  
『アクセス』
 「戻橋」京都市上京区一条堀川
JR 京都駅より9 番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分
阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より12 番「一条戻橋・晴明神社前」下車徒歩約2分
京阪 三条駅より12 59 番「堀川今出川」下車 徒歩約2分
地下鉄. 今出川駅より徒歩約12分
『参考資料』
小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫 志村有弘「京都異界の旅」勉誠出版
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書
井上満郎 「平安京の風景」文英堂  新定「源平盛衰記」(2)新人物往来社 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)俊々堂

 

 

 

 



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下界には病気や災いのもととなる疫神や様々な化物である
魑魅魍魎(ちみもうりょう)がはびこっており、
それらが
京へ入るのを防がねばなりませんでした。

四角四境祭(しかくしきょうさい)は、それらを追放するために、
大内裏の四隅と国の四方の境で行った祭祀です。

古来より渡来人によってもたらされていた陰陽道は、古代中国の思想で
我国には中国との交流が盛んになる5C末から6C初仏教と前後して
国家レベルで伝来します。
大宝元年(701)大宝律令が完成し律令国家ができた時、
中国のさまざまな制度を取り入れましたが、その中に陰陽五行をもとにして
天体観察、暦の作成、土地を占う卜筮(ぼくぜい)・相地、方位等の判断を
陰陽師に行わせる「陰陽寮」を設置しました。

陰陽道は道教、密教、神道等の影響を受け我国独自の発展を遂げていきます。
平安時代になると疫病や天変地異は、怨霊のしわざと考える御霊信仰が広まり
陰陽師は呪術的な仕事も引き受けるようになり、
皇族、貴族は陰陽道を生活の指針にするようになりました。

奈良時代、藤原四兄弟が西国から広がった疱瘡で相次いで亡くなったように、
平安京が都となり人口が増え、人や物の流通が盛んになると、
疫病は居住環境・衛生状態の悪い都にたちまち広がり人々を苦しめました。
そうした疫病から都を守るため様々な祭祀が行われました。

都に通じる山崎・逢坂・和迩(龍花)・大江では、陰陽師によって
外部から侵入する悪霊・疫病を祓う四堺(境)祭が行われ、
祭祀には陰陽寮の役人と勅使には滝口があてられました。

陰陽道により東北が鬼門とされてからも、古くから我国では
西北に黄泉の国があるとされ、不吉な方角と恐れられ、
丹波・山城国境の大江が四堺(境)祭の最も重要な祭場でした。
祭は日没から夜にかけて行われ、祭壇に供えられた酒、米、魚、貝、鮑、
塩等が、疫神にふるまわれ陰陽師が災厄を除く儀式を行い、
途中放した鶏の鳴き声で疫神を退散させ、都に入るのを防ぎました。

大内裏(宮城)の四隅で行われる「四角祭」の勅使には
蔵人所の役人があたりましたが、祭祀の進行は
四堺祭と同じようなものだったようです。

老の坂峠の首塚大明神

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山城と摂津の国境に建つ「従是東山城国(これより東山城の国」と刻んだ碑
国境付近に建つ関大明神社
 
◆『大江(枝)』京都市西京区老の坂峠、山城国・丹波国との国境、山陰道へ
◆『山崎』島本町山崎一丁目、山城国・摂津国の国境、山陽道へ
◆『逢坂』大津市大谷町(逢坂の関)山城国・近江国との国境、東山道へ
◆『和迩・龍花(華)関』大津市和迩、山城国・近江国との国境、北陸道へ
龍花(華)関は天安元年(857)に逢坂・大石とともに
近江国三関として新しく設けられた関。

上龍華村の畑山、栗原村(滋賀郡志賀町)の大畑の二ヶ所に関址の伝承がありますが、
交通路からみると上龍華の畑山の地が有力とみられます。





大津市上龍華

 滝口(京都御所清涼殿傍の滝口)

禁中警固や天皇を物の怪から守ることを任務とし、
清涼殿東庭にあった御溝水が落ちる所に詰所があったので滝口と呼ばれました。
淀川河口の渡辺の津を拠点とする渡辺党の武士の多くが
滝口となって
鳴弦にも従事しました。
「平家物語」巻五(文覚の荒行の事)に登場し源頼朝に挙兵を勧めた
文覚上人(遠藤盛遠)も渡辺党の出身で、源姓渡辺氏、
遠藤姓渡辺氏を総称して渡辺党という。
また芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁を祖とする斉藤氏も
滝口を出す氏で、巻十(横笛の事)の斉藤時頼(滝口入道)がいます。
『アクセス』
「大江・国境碑」 阪急桂駅より亀岡行京都バス「老の坂峠」下車徒歩10分
 老の坂トンネルすぐ手前(左)にある細い道を入ります。
「山崎・国境碑」JR「山崎」駅下車徒歩5分 「逢坂の関」京阪電車「大谷」駅下車徒歩5分
『参考資料』
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書 「京都学への招待」角川書店   
「歴史を読みなおす 武士とは何だろうか」朝日新聞社 
「滋賀県の地名」平凡社 井上満朗「平安京の風景」文英堂  「平安時代史事典」角川書店 

 


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